混乱ありバプテズマ
悔い改めのバプテズマを聖書のいろいろなところで
主イエスのバプテズマと説明しているのだが
使徒行伝19章では悔い改めのバプテズマをヨハネのバプテズマとよんで
主イエスのバプテズマを聖霊のバプタズマとも思える説明をおこなっている。
注意をしないと混乱して間違ってしまいそうだ。
主イエスのバプテズマと説明しているのだが
使徒行伝19章では悔い改めのバプテズマをヨハネのバプテズマとよんで
主イエスのバプテズマを聖霊のバプタズマとも思える説明をおこなっている。
注意をしないと混乱して間違ってしまいそうだ。
イエスキリストの映画1979
The Jesus Movie 1979
33年前のイエスキリストをルカ伝?から忠実に再現したもの。
ヨハネ伝やマルコ伝の記述とは少しばかり異なる。
聖書の文章だけではわからない当時の環境が描かれているので必見。
映画の最後にイエスを受け入れるための
言葉がでてくる。
これであなたは救われると
約束されている。
字幕は英語です。このバージョンは日本語にできないようです。
でも簡単な英語ですので読んでわかります。
33年前のイエスキリストをルカ伝?から忠実に再現したもの。
ヨハネ伝やマルコ伝の記述とは少しばかり異なる。
聖書の文章だけではわからない当時の環境が描かれているので必見。
映画の最後にイエスを受け入れるための
言葉がでてくる。
これであなたは救われると
約束されている。
字幕は英語です。このバージョンは日本語にできないようです。
でも簡単な英語ですので読んでわかります。
ここでも主は介入される 使徒行伝16章
使徒行伝16章14節 パウロの話をきくルデヤに
主は彼女のココロを開いたとある。
これは主の介入とみてとれる。
このように個々人の自由意志に背中をおして介入されることがあることを思えておこう。
主は彼女のココロを開いたとある。
これは主の介入とみてとれる。
このように個々人の自由意志に背中をおして介入されることがあることを思えておこう。
バルナバとパウロ分裂する
パウロを弟子たちにとりなしをしたバルナバであったが
自分たちに仲間を加える際に
意見がことなって、激論を交した後に、
わかれて行動をすることになった。
使徒行伝15章37節から。
二人とも聖霊に満たされていて、聖霊の按手のチカラもあたえられているほどなのに
激論をして意見を一致がみなれなかった。
聖霊に導かれていてもこのような例があることを記憶しておこう。
またこのような場合でも宣教は二人がペアーになっていることに注意しよう。
使徒行伝15章37節から
そこで、バルナバはマルコというヨハネも一緒に連れて行くつもりでいた。しかし、パウロは、前にパンフリヤで一行から離れて、働きを共にしなかったような者は、連れて行かないがよいと考えたこうして激論が起り、その結果ふたりは互に別れ別れになり、バルナバはマルコを連れてクプロに渡って行き、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。そしてパウロは、シリヤ、キリキヤの地方をとおって、諸教会を力づけた。
自分たちに仲間を加える際に
意見がことなって、激論を交した後に、
わかれて行動をすることになった。
使徒行伝15章37節から。
二人とも聖霊に満たされていて、聖霊の按手のチカラもあたえられているほどなのに
激論をして意見を一致がみなれなかった。
聖霊に導かれていてもこのような例があることを記憶しておこう。
またこのような場合でも宣教は二人がペアーになっていることに注意しよう。
使徒行伝15章37節から
そこで、バルナバはマルコというヨハネも一緒に連れて行くつもりでいた。しかし、パウロは、前にパンフリヤで一行から離れて、働きを共にしなかったような者は、連れて行かないがよいと考えたこうして激論が起り、その結果ふたりは互に別れ別れになり、バルナバはマルコを連れてクプロに渡って行き、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。そしてパウロは、シリヤ、キリキヤの地方をとおって、諸教会を力づけた。
断食と祈り
使徒行伝のクリスチャンはかっての予言者と同様に
祈りと断食をセットにしているように見える。
たとえば使徒行伝14章23節。
また教会ごとに彼らのために長老たちを任命し、断食をして祈り、彼らをその信じている主にゆだねた。
現代ではそのようなことは行われていない。
なぜか?
断食は行われるべきではないか?????
ここでおもしろいことに気づく。
宣教に二人がペアになっていることである。
アメリカの刑事のようではないか。
そういえばモルモン教も訪問者はペアになっていたかな。
祈りと断食をセットにしているように見える。
たとえば使徒行伝14章23節。
また教会ごとに彼らのために長老たちを任命し、断食をして祈り、彼らをその信じている主にゆだねた。
現代ではそのようなことは行われていない。
なぜか?
断食は行われるべきではないか?????
ここでおもしろいことに気づく。
宣教に二人がペアになっていることである。
アメリカの刑事のようではないか。
そういえばモルモン教も訪問者はペアになっていたかな。
ペテロへの主の介入
聖霊が下る前はあれほどおバカさんだったペテロだが
聖霊がくだったあとは死人を蘇らせるほどになった。
そして
ペテロがヘロデ王にとらえられると
主はこの世に介入されてペテロを牢獄から脱獄させ
さらにヘロデ王を虫にさされさせ殺している。
(使徒行伝12章23節)
ステパノの場合は殺害を許されたがこのように主が直接介入されることもあるのだ。
このヘロデ王は時の権威であり、
パウロの
”すべての権威は神から与えられている”という
ステートメントはそのままとらえられるべきではないことが
わかる。
とすると聖書の読み方がひどく限定されることになる。
ここが聖書読解のむつかしいところだ。
あるいは聖書が改竄されているのか、
パウロが間違えているのか。わからない。
聖霊がくだったあとは死人を蘇らせるほどになった。
そして
ペテロがヘロデ王にとらえられると
主はこの世に介入されてペテロを牢獄から脱獄させ
さらにヘロデ王を虫にさされさせ殺している。
(使徒行伝12章23節)
ステパノの場合は殺害を許されたがこのように主が直接介入されることもあるのだ。
このヘロデ王は時の権威であり、
パウロの
”すべての権威は神から与えられている”という
ステートメントはそのままとらえられるべきではないことが
わかる。
とすると聖書の読み方がひどく限定されることになる。
ここが聖書読解のむつかしいところだ。
あるいは聖書が改竄されているのか、
パウロが間違えているのか。わからない。
ペテロは死人をも蘇らせている
聖霊のパプテズマをうけたペテロは死人をも蘇らせている。
使徒行伝9章41節。
そんな使徒行伝の記述は牧師といえども信じる者はほとんどいないだろう。
そんなことを信者に指摘されたら困ってしまうからだ。
信じれば山をも動かせるという
イエスの言葉もそのまま信じてる牧師はいないだろう。
また、だれもそんなことを試した者はいないだろう。
わたしたちのだれもが
信仰の薄いものということになる。
使徒行伝9章41節。
そんな使徒行伝の記述は牧師といえども信じる者はほとんどいないだろう。
そんなことを信者に指摘されたら困ってしまうからだ。
信じれば山をも動かせるという
イエスの言葉もそのまま信じてる牧師はいないだろう。
また、だれもそんなことを試した者はいないだろう。
わたしたちのだれもが
信仰の薄いものということになる。
パウロ 使徒と共闘をはじめる
パウロは生身のイエス本人をしらず
イエスの教えは聖霊から学んだはずである。
(按手によってアナニヤから聖霊の洗礼をうけている)
このことは同じく生身のイエスをしることができない
その後のクリスチャンについても当てはまりうる。
さて、パウロとイエスの弟子たちとの共闘はどのようにして
開始されたか、興味深い。
間にバルナバという弟子側のヒトがいたからである:
イエスの教えは聖霊から学んだはずである。
(按手によってアナニヤから聖霊の洗礼をうけている)
このことは同じく生身のイエスをしることができない
その後のクリスチャンについても当てはまりうる。
さて、パウロとイエスの弟子たちとの共闘はどのようにして
開始されたか、興味深い。
間にバルナバという弟子側のヒトがいたからである:
生身のイエスをしらないパウロはどのようにして使徒たちとともに共闘するようになったのだろう。どうも使徒たちのほうから探し出したようだ(使徒業伝11章)
使徒からアンテオケにつかわされたバルナバがパウロを探しにいったと11章25節にある。そして二人で教会を始めたとある(26節)
パウロはエレサレムにいき弟子たちの仲間に加わろうとしたが、弟子たちはパウロのいうことを信じなかった。
このときに弟子たちはすでに聖霊の洗礼をうけていたはずなのにパウロのいうことを信じなかった。
弟子たちの仲間であるバルナバの仲介で、なんと、パウロの説明で弟子たちは納得したのだった。聖霊の助けにて納得したのではなかった(9章27節)。
これは別の箇所でパウロがいっていることと矛盾しているようにみえる:
1A 神の力として 1-5 さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。
そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。
二つの洗礼の順序
聖書のなかに規則を探そうと注意しながらよんでも
肩すかしにあうことが少なくない。
聖霊の洗礼について聖書にはどのようにかかれているかを調べ
パウロはアナニヤから洗礼をつける必要があった、なるほど
そうしないといけないのかと
おもっていると、
使徒行伝10章にあるように、
ペテロコルネリアたちにイエスについて語ったいるその
ただ中に、会衆に聖霊がくだった。
そして通常とは逆に悔い改めのイエスキリストの名による洗礼(水の洗礼)を受ける事になった。
このように順序が逆になることもあるのだ。
肩すかしにあうことが少なくない。
聖霊の洗礼について聖書にはどのようにかかれているかを調べ
パウロはアナニヤから洗礼をつける必要があった、なるほど
そうしないといけないのかと
おもっていると、
使徒行伝10章にあるように、
ペテロコルネリアたちにイエスについて語ったいるその
ただ中に、会衆に聖霊がくだった。
そして通常とは逆に悔い改めのイエスキリストの名による洗礼(水の洗礼)を受ける事になった。
このように順序が逆になることもあるのだ。