私が参加した原理本体論修練会では、原罪の清算について、講師が次のように説明していました。
「神様と文先生とサタンの三者協議により、『聖酒を飲んだものは原罪が清算され、サタンの血統から神様の血統に移る』という取り決めが成された。それを可能にしたのは、真のご父母様の勝利圏である。」
血統的つながりとは、協議(話し合いによる取り決め)によって、
「いままでの血統はこれで清算されました。きょうからは新しくこちらの血統につながります」
と言えるようなものなのでしょうか?
血統が協議を超えることはあるとしても、協議が血統を超えることが可能なのでしょうか?
「それを可能にしたから偉大なんだ」
とも言えるでしょう。
ですが、いくら文先生が多大な蕩減条件を払ったとはいっても、三者協議によって、血統の切り替えが可能になったと信じるのは、どうも力技のような印象が残ります。戸籍を移しても、あくまでも養子は養子のままだからです。
そのあたり、ここは「信仰的」にというよりも、いい意味で客観的に、これまで統一教会が持ってきた救済観が今後も世界のどこに行っても通用するだけの普遍的な論理性を有しているかどうかという観点から考えてみる必要があると思います。そのような整備の仕事が残っていると思います。
この件に関して、私はここ数年考えを巡らしてきました。そして、あるとき、ふと思ったのは、もしかしたら、もともと、原罪には「実体」といえるようなものがなかったのではないかというものでした(「とんでもないことを言い出した! けしからん!」)。
もともと、原罪には「実体」といえるようなものがないとしたら、その場合は、手続き上の問題で、それに縛られてきた人間を解放することができるのかもしれません。
キリスト教が、何かつかみ切れない人間の不義なる性質の原因を「原罪」という言葉にまとめ、その結果、その信徒を信仰に縛り付けることに成功したとしたら‥‥‥。
その解決は、2000年のキリスト教の蕩減条件を払った上で、そのキリスト教人口に匹敵する数的な祝福を勝利することをもって、「全人類に原罪なし」とすることのできる可能性があったのかもしれません。
そのために、2001年までの数年間、激しい祝福伝道のプッシュがあり、最後は、「聖酒キャンディーで」という摂理があったのではないかと考えることができます。
だとしたら、この解決した原罪問題にとらわれてはいけないのかもしれません。
「はじめに祝福家庭はなぜ尊いのかと尋ねましたが、なぜだか分かりましたか? 原罪ではありません。原罪は堕落以後のものです。堕落以前の神様との関係があるのであって、原罪とは関係ありません。そう言う人は、原理を知らないからであり、原理が分かれば、祝福家庭は神様と直接の関係なのです。」 (ファミリー93/9 30p 日本人特別修練会における御言 1993年 4月16日 ベルベディア)
「本来、原罪には直接解決すべき実体はなかった。キリスト教徒が信じている『原罪観』に、文先生は、再臨主として歴史的決着をつけた」
というのは、とんでもない考えなのでしょうか。
「罪がどこから現れたか。聖書に書いてあるのは、善悪を知る木の果を食べたから生じたと。そういう問題じゃない。それは心情問題が問題となった。心情問題で堕落した。この血とこの身が骨が出発点になっておる。」 (御言葉集2 P188 我々は何も言えません)
上の御言の
「聖書に書いてあるのは、善悪を知る木の果を食べたから生じたと。そういう問題じゃない。」
の部分ですが、「そういう問題じゃない」
の後に来るべき言葉は、原理講論的には
「不倫なる血縁関係で堕落した」
のはずです。ところが、そこが、この御言では
「それは心情問題が問題となった。心情問題で堕落した。」
となっています。堕落に対する原理講論的な説明をしておれれるわけではないようです。
「堕落論」について、その意味するところの本質を、改めて考えてみる必要があるかもしれません。
さて、仮に、「原罪には実体はない」ということが正しいとしても、それで人間に関する問題が解決するわけではありません。大きな課題が残されています。
それは、
人間には血気・怒気をはじめとする堕落性が厳然として残っている。
それが、祝福家庭を見るかぎり、祝福以後、解決されてはいない。
さらには、理想を完成したと言える個人・家庭がいまだに現われていない。
ということです。
「縦的神の愛と横的父母の愛。縦的な真の愛と横的な真の愛が一つになって、世界の血統的内容を抱擁した上に立つ愛を、真の愛というのです。そこが私たちの生命の元になります。」(祝福 63 P159)
以前の記事でも提示したみ言の一部ですが、この御言の通りの「真の愛」を完成した家庭があるのでしょうか?
堕落性がしみついた人間。
堕落性とともに繁殖。
どこにも人格完成・家庭完成した実体はない。
そもそも理想の個人・家庭の完成について何を目指せばいいのか、いまだにはっきりと知らない。
ここに、「原罪」の本質があるように思えます。私達を完成に至らせない原因という観点で。
そこで、必要になってくるのが、まずは「モデル理想家庭」なのではないかと思われます。この言葉自体は文先生が使っておられた言葉でもあります。そして、それは
「後継者」
「直系を受け継ぐ一中心」
「第4次アダムの中心」
「氏族メシアの中心」
「コーチする主人」
(以前の記事から)
として現われるのだと思います。
また、このことは、文先生がどんなに言いたくても明言するわけにはいかなかった内容だったのだと思います。人間に付与された責任分担に抵触するからです。
そして、まだ存在していないとしたら、それは、必ず現われなければなりません。
また、晩年、文先生は、「原罪」という言葉よりも「血統」と言う言葉をよく使っておられました。例えば、『平和神経』には「血統」という言葉が何度も出てきます。この言葉を探すのはたやすいのですが、「原罪」という言葉を探すのは大変です。私の記憶(不確かではありますが)では「原罪」という言葉は、ほんの2~3回程度しか使われていないと思います。
『平和神経』にある「平和メッセージ」が訓読されるようになった2005年以降は、すでに「原罪」という言葉より「血統」という言葉を使うべき時代圏になっていたのかもしれません。
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