私は私でいられる | これって闘病!?

これって闘病!?

子宮頸癌Ⅰb2でした


みなさま。
お久しぶりです。

と言っても、そうでもないかしら?(・∀・)アレ?

ひっそりと皆様のトコへ訪問して、堂々と読む専門に徹しておりました。
ゴメンネ。


久々のブログ。

以下の記事は、以前に書いていたものの、とりとめのないダラダラした呟き(毎度)で全然まとまりなくて、途中で放置してたものです。

ぐだぐだ。


GWのさなか、このダラダラにお付き合いできる奇特な方がいらっしゃったら、お礼申し上げます。(´∀`)←言うだけ



◆◇

さて、タイトルの言葉は、2013年がん発覚当時の手帳に私が書いていた言葉です。



「病気だけど病気に自分を乗っ取られない。
私は私でいられる。」




手帳のフリースペースに書いてありました。
これを書いたときの自分の気持ちが蘇ります。



癌という病に体を蝕まれていく恐怖心。

それと同時に、体のみならず心まで蝕まれ、生きる気力を失ってしまうのではないかという不安感。

自分の意思とは無関係に、ブラックホールに巻き込まれていくような絶望感。

先の見えない暗闇で、どうしたらいいのかも解らなくなりそうでした。

だけど同時に、この先どんなことが待ち受けていても、自分の意思や希望は伝えていきたいと考えていました。

ここぞとばかりに、大いなるジコチューな人間になろうと。
そう、究極の自己中心的な人間に。
(もともとジコチューで勝手な人間ですが)


なぜなら

治療するのも、自分。
後遺症と付き合っていくのも、自分。
生きて生活するのも、自分。
いつか死ぬのも、自分。

でも、だからといって、誰かを無駄に悲しませたくはない。
そのためにはやはり、自分主体でいたい。

うまく伝わらないかもしれませんが。


物事全般に言えることだけれど、他力本願はいいことなし。
誰かの意見や、誰かの生き方に乗っかるだけなんてまっぴらごめんです。
そりゃあ、楽といえば楽ですけれど。

でも、そんな生き方では、何かあったとき、自分以外の人間に対して、その人の良心と責任感につけ込むようなものになってしまうし、後悔という苦しみを生ませてしまう。
同時に、自分だって「でも」「だって」と、相手に責任転嫁して、結局、後悔して、更には憎しみさえ覚えるかもしれないし、苦しむだけ。



だから、私自身の選択肢や希望、気持ちをきちんと意思表示して、理解を得る。

もちろん、「全ては自分」といえども、必ず何かしら家族や誰かの手を借りることになるので、負担や迷惑をかけてしまいます。

なので、私自身の意思を伝えることと同じく、周囲の人の意思や考えを聞きます。
それは、理解してもらおうとするのと同じ比重で大切なことだと思っています。

たくさんたくさん話し合い、折り合いをつける。
そして、最終的には自分が決める。
だから、例え後悔することになったとしても、その後悔は自分だけで済む。
この「自分だけで済んで良かった」という思いは、本当にジコチューな感情だと思います。
「良かった」って安心するのです。
私は、安心したいのです。
自分が安心するために、そうするのです。

もちろん、何かあった場合、それが私自身の選択の結果だとしても、家族や周囲は必ず、何らかの後悔をすると思います。
でも、最終的に「自分で選んだ道で、自分の望むように生きていた」と思ってもらえるでしょう。
そして罪悪感から解放されてもらえればありがたいと思っています。


なんてことを思っていても、癌発覚から治療に至るまで、自分(や周囲含め)にとって、何がベストなのか、さっぱり解らないくらいアレヨアレヨとコトが進んでしまったり、考える余裕が無かったり、考えることを放棄してしまったり、でした。

だからこそ、いつでも目にとまるであろう手帳に記したのかもしれません。

究極のジコチューになるために課した己へのプレッシャー。

「しっかりしろよ、自分」って。

手術前、治療方針に悩んだとき。
入院中や、抗癌剤の副作用で動くことが困難だったとき。
言い様のない不安に頭がいっぱいになったとき。
この手帳のページを開きました。

そして「病気のことばかりに囚われている自分」に気づいて、「おっと、いけねぇ」と思う。

悩んだとき、まず一旦、自分以外の人や諸々の環境等の余計なことは排除して、自分自身の心の奥底の望みや、欲求はどうなのか、とシンプルに考えるようにしました。

心と体の声を聞く、とか、よく耳にしますが、そんな感じでしょうか。

例えば、周囲に気を遣い、あれこれ考えすぎて、はなから「だめだ」「できない」と否定していたことが、本当はやりたい。そんな時、恐る恐る周囲に伝えてみたら何の問題もなく解決してしまったりすることがあります。

すると、「病気」という壁は、私という人間にとっては、自分が思っているよりも、それほど大きな壁ではないのだと後々気づいたり。


◆◇


と、ここまで書いてた。( ̄ー ̄;




今の私は、この記事を書いたときと同じ心境だろうか。

うーむ。やっぱり、基本は同じですね。



「私が私でいられる」こと。
自分のしたいこと、これからのこと、いざというときのこと、何でも。

常に病気のことは頭にありながらも、普通に生活することや、やりたいことにチャレンジすること。

でも、毎日一生懸命生きる、というのは理想だけど、そこまでアクティブになれないし、それはそれでOKだと思っています。

穏やかに呼吸をして、ご飯食べて、なんだか笑える時間が持てたら満足。

能動的に、前のめりになりながら突き進むべき時が来たら、そうする。


こうやって、決定権は自分、ジコチューでいようと思えるのも周囲のおかげ。
私という人間を大切にしてくれているからだと思っています。だから私は私のことを考えて、自分を大切にできるのですから、とても幸せです。
別に、いい人になろうとか偽善でもなくて、幸せ。

日常では「けっ。バカヤロウ」(`ε´)と嫌になることもありますが。


きっと、同じように感じている人はいるのではないかな、と思います。



ただし、今の私はまだまだ。
やはり遠慮や後ろめたさ、迷いや優柔不断さが先立ってしまい、私の思う「究極のジコチュー」にはなれていません。

というか、普段はあまりこんなこと考え込んだりしていないし。お気楽か。





まあ、たまにこうやって原点回帰するのも悪くないですね。

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こんな風に


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道路脇、コンクリートの隙間から


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太陽に向かって顔を上げているタンポポって、すごいと思う。




ニホンタンポポって最近
あまり見かけなくなりました。
(^O^)雑草魂

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それではまたそのうちに~。