もとろーむの徒然歳時記

もとろーむの徒然歳時記

山が好き、花が好き、クラッシック音楽や絵画、演劇に歴史好き…気ままに書かせて頂いています。

 

 

京都の東寺を訪れた後、

 

奈良旅は、

 

春日大社に始まり、東大寺、興福寺、

 

そして 唐招提寺(とうしょうだいじ)、薬師寺と歩き、

 

最後の法隆寺となりました。

 

 

当寺に着くころには、

 

降り出した雨も本降りになっていました。

 

ここは斑鳩(いかるが)寺、法隆寺です。

 

 

 

最初にくぐる門、南大門です。

 

法隆寺は金堂や五重塔は創建当時のものとなりますが

 

こちらの南大門は僧侶間の争いで

 

火災にあっており、室町時代の再建になっています。

 

 

 

 

創建から1300年の時を経て

 

立ち並ぶ建造群は圧倒的な存在感です。

 

法隆寺は飛鳥時代、

 

聖徳太子によって創建された寺院で、

 

日本で最初の世界文化遺産に登録されたお寺として知られています。

 

宗派は

 

薬師寺や興福寺と同じ法相宗(ほっそうしゅう)でしたが、

 

現在は聖徳太子の霊をお祀りする

 

聖徳宗(しょうとくしゅう)に変わっています。

 

境内は広く、

 

現存する世界最古の木造建築物群として知られる

 

金堂や五重塔を中心とする西院伽藍(さいいんがらん)と、

 

聖徳太子の死後、

 

その宮跡に建てられた東院伽藍(とういんがらん)とに分かれます。

 

 

 

 

法隆寺は明治時代半ばまで、

 

創建以来一度も火災に遭っていない、

 

建立された当時から、そのまま残っている寺院だと考えられていました。

 

ところが日本書紀に

 

670年に法隆寺が全焼し、一つの建物も残らなかった」

 

という記述が発見されます。

 

しかし、法隆寺の記録には

 

この火災について全く触れていないことから、

 

この日本書紀の記述を疑問視する声もあり、

 

明治以降長い間、再建、非再建論争がありました。

 

この有名な論争を決着させたのが、

 

昭和14年の

 

若草伽藍(わかくさがらん)という創建当時の伽藍の発見でした。

 

発掘調査では、

 

旧法隆寺の塔と金堂の痕跡が発見されています。

 

現代の西院伽藍は、

 

金堂と塔が東西に並列する、法隆寺式伽藍配置ですが、

 

発見された若草伽藍では、

 

更に古い配置の、塔の背後に金堂、講堂が並ぶ

 

四天王寺式伽藍配置が採用されていました。

 

これにより法隆寺は

 

607年の創建、670年に大火で焼失、飛鳥時代、天智天皇の時代に再建された

 

という説が、確かなものになりました。

 

現在、若草伽藍は非公開です。

 

 

 

こちらが中門ですが、

 

ここを抜けると法隆寺、西院伽藍になります。

 

日本最古の金剛力士像です。

 

 

 

 

 

向かって右側が阿形です。

 

こちらは飛鳥、奈良時代の技法、塑像(そぞう)と言う、

 

土で作られた像です。

 

 

 

 

左側が吽形像ですが、

 

残念ながら風雨にさらされていたために、

 

顔以外は

 

16世紀に木造に作り変えられています。

 

それにしても奈良時代に土で作られた像が、

 

今だに残っているという事が信じられません。

 

 

 

 

飛鳥時代の再建とされる金堂は、

 

昭和24年、解体修理中に火災が発生し、

 

国宝の壁画を焼損するという事件が起きています。

 

火災が発生したのは1月26日で、

 

この翌年、昭和25年に文化財保護法が制定され、昭和30年1月26日を、

 

文化財防火dayに制定されています。

 

法隆寺では現在もこの日に

 

防火訓練が行われているそうです。

 

 

 

 

東院伽藍の中心である夢殿は、

 

奈良時代に建てられたお堂で、鎌倉時代に大改修を受けているものの、

 

古材から創建時の姿に復元できるほど

 

奈良時代の様式を残しているそうです。

 

夢殿の造りは珍しい八角円堂です。

 

同じ八角円堂である興福寺の北円堂は、藤原不比等を弔う為に造られていましたが、

 

こちらはご本尊が救世観音(くせかんのん)、

 

聖徳太子の等身像となっていますので、

 

聖徳太子をお祀りしたものでしょうか。

 

この救世観音は秘仏となっていますので

 

春と秋に特別公開されます。

 

ちょうど特別公開されていましたので

 

拝観することが出来ました。

 

 

日本最古である五重塔は、

 

バランスの良さで知られています。

 

理由は逓減率(ていげんりつ)にあると言われています。

 

寺院の塔は上にいくほど屋根が小さくなっています。

 

その小さくなる割合が逓減率ですが、

 

五重塔では一番下の屋根に比べて、上へいくほど小さくなり、

 

最上階の屋根は一番下の屋根に比べてちょうど半分の大きさになっています。

 

その為にバランスがよく安定感のある外観になっています。

 

本当に美しい塔です。

 

 

 

 

法隆寺には三伏蔵(さんふくぞう)と言って3つの伏蔵があるそうです。

 

伏蔵とは地下にある蔵の事で、隠し蔵だそうです。

 

その一つが経蔵の下に。

 

もう一つは金堂内に、もう一つが大湯屋前の三ケ所だそうです。

 

法隆寺に何かあった時には、法隆寺の全てを再興できるお宝が治められているそうです。

 

真意のほどは分かりませんが、

 

凄い話ですよね。

 

 

 

 

 

池のほとりに正岡子規が詠んだ有名な碑があります。

 

「柿食えば 鐘がなるなり 法隆寺」 です。

 

この句の前段に、法隆寺の茶店に憩いてとありました。

 

この碑の傍に、茶店があった事が分かります。

 

雨の中、静かな境内を歩きました。

 

こういうお寺歩きもいいもんです。

 

 

 

宗教評論家のひろ さちやさんは

 

法隆寺について書かれた記事をこう締めくくられています。

 

ともあれ、寺は祈りの場である。

 

われわれが真剣に祈れば、きっと仏はその祈りに応えてくださる。

 

法隆寺で私は聖徳大子の言葉を思い出した。

 

世間虚仮(せけんこけ)、唯仏是真(ゆいぶつぜしん)

 

(この世間は真実にあらず。ただ仏のみが真実である)

 

そうだ、欲望に狂った現代はまちがっている。

 

われわれは、仏教の「少欲」の教えに戻らねばならない。

 

聖徳太子はそう教えておられる。

 

2000年九月中旬、異常に暑い日であった。

 

現代の日本は、

 

気象までもが狂っているのかもしれない。

 

 

 

 

薬師寺の歴史は東大寺よりも古く、

 

680年、

 

天武天皇が皇后の病気快癒を祈願し、建立されたのが始まりです。

 

東大寺や興福寺とともに、世界遺産に登録されています。

 

薬師寺は、もともとは

 

藤原京に建てられ、平城遷都とともに

 

現在の西ノ京の地に移されています。

 

当時は壮大華麗な大伽藍を誇っていたようですが、

 

度重なる戦火や災害でそのほとんどを失っています。

 

東塔のみが奈良時代からもので、国宝です。

 

東西、両塔を配置した薬師寺式伽藍配置と呼ばれ

 

この2つの塔を配置したのは、薬師寺が初めてだそうです。

 

西国四十九薬師霊場の第一番札所にもなっています。

 

 

 

 

中門にある阿形に吽形の二天王像です。



 

 

平成になって作られているので色鮮やかです。

 

 

 

 

こちらの二天王像は、東大寺と同じように門の内側を向いています。

 

昭和51年に再建された金堂です。

 

それまでの薬師寺は東塔しかなく、荒れ果てていました。

 

そこで再建に立ち上がったのが

 

昭和42年に管主(かんす)になられた高田好胤(こういん)さんです。

 

檀家を持たない薬師寺にあって、

 

高田好胤さんは全国各地で、百万巻写経勧進を始められます。

 

志のある人に写経をしてもらい、

 

一人千円の浄財をつのられています。

 

昭和51年には百万巻集り、この金堂が再建されます。

 

千円×百万巻、10億円ですね。

 

その後、西塔、中門などが次々に再建され、

 

大講堂の完成で大伽藍がほぼ蘇っています。

 

 

 

 

ご本尊は、

 

お寺の名前通り薬師如来(やくしにょらい)です。

 

薬師寺が藤原京に初めて建立された時からの

 

仏像になるそうです。

 

こちらでは仏像を三体安置する三尊形式がとられており、

 

脇侍(わきじ)は

 

日光菩薩と月光菩薩(がっこうぼさつ)になります。

 

日本仏教彫刻の最高傑作に数えられています。

 

威厳とやさしさに満ちた

 

本当に美しい白鳳時代の迫力ある仏像です。

 

 

 
 

東塔です。

 

こちらは一見すると六重塔に見えますが、

 

実は三重塔です。

 

層の間にある屋根は、

 

裳階(もこし)と呼ばれる雨除けの庇(ひさし)です。

 

龍宮造りとも呼ばれ、

 

全体的にもバランスが良く、非常に美しく、

 

わが国で唯一、

 

白鳳(はくほう)時代の様式を見せる塔です。

 

 

 
 
 

この裳階(もこし)のある、大小の屋根のバランスと、

 

全体のかもしだすリズム感から、

 

アメリカの美術研究家フェノロサが、

 

「凍れる音楽」と形容したと伝えられています。

 

 

東塔は平成21年から約12年間に渡って全面解体修理が行われ、

 

令和2年12月に終了しています。

 
 
 

西棟は

 

昭和56年に450年振りに再建されています。

 

色鮮やかで美しい塔です。

 

東塔も創建当時はこのように色鮮やかだったと考えられています。

 

 

 

復元された西塔には

 

平山郁夫画伯が請来(しょうらい)された

 

仏舎利が奉安されているそうです。

 

 

少し離れた所から

 

東塔と西塔を見比べて見ると、

 

再建された西塔の方が高く見えます。

 

実際に建てられる時、

 

木の乾燥収縮や地盤沈下を考慮して

 

創建時の昭和56年から500年後に、東塔と同じ高さになるように

 

1.1m東塔より高く設計されているそうです。

 

凄い技術ですね。

 

 
 
 

東院堂は鎌倉時代の再建で国宝になっています。

 

ご本尊は

 

聖観音菩薩立像(しょうかんのんぼさつりゅうぞう)で

 

奈良時代のものになります。

 

国宝です。

 

周りを四天王像が取り囲んでいますが

 

全て鎌倉時代のものだそうです。

 

立姿の美しさは白鳳彫刻の代表作として知られていますが、

 

先の薬師三尊像とともに、とにかく美しいお姿です。

 

 

 
 

大講堂は薬師寺最大の建造物です。

 

僧侶が勉強されたり、講和を聞かれたりする場所です。

 

ご本尊は弥勒菩薩(みろくぼさつ)です。

 

ここまでが白鳳伽藍になります。

 

薬師寺にはもう一つ

 

玄奘三蔵院伽藍(げんじょうさんぞういんがらん)があります。

 

薬師寺の宗派は興福寺と同じく法相宗(ほっそうしゅう)です。

 

これは玄奘三蔵が唐の時代に

 

法相宗のもとになる経典をインドから中国へ持ち帰ったそうで、

 

西遊記のモデルになった

 

三蔵法師(さんぞうほうし)の事です。

 

ですが、この三蔵法師はお一人ではなく、

 

当時インドから経典をもたらした仏教に精通した僧侶たちのことを

 

三蔵法師と言ったようです。

 

ですので玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)は

 

沢山いた三蔵法師の一人だったという事になります。

 

 
 

最後にもう一度東塔を見上げてみます。

 

高さ34mに、

 

裳階(もこし)と呼ばれる庇がついた独特な姿は

 

白鳳様式と呼ばれる奈良時代以前からの

 

悠久の美しさです。

 

亀井勝一郎氏は著「大和古寺風物誌」でこう書かれています。

 

東塔は周知のごとく三重の塔ではあるが、

 

各層に裳階(もこし)がついているので

 

六重の塔のようにみえる。

 

そしてこの裳階のひろがりが塔に音調と陰翳(いんえい)を与えている。

 

白鳳の祈念に宿る音楽性は

 

ここにもうかがわるるであろう。 

 

 
 
 

 

 

奈良公園の中にある、世界遺産の興福寺(こうふくじ)です

 

実はこの言い方も

 

正確ではないようです。

 

奈良公園が、興福寺の境内にあったのです。

 

 

 

 

猿沢池を横目に、

 

五十二段と呼ばれる階段を上がっていきます。

 

この五十二という数字には意味があって

 

仏教において、

 

悟りを開くまでの修行の段階を表しているそうです。

 

五十一段目までは修行の段階、

 

五十二段目で初めて悟りを開き、仏様となるそうです。

 

 

 


 

 

興福寺は奈良時代に建てられますが、

 

その歴史の始まりはもっと古く、奈良時代以前から始まります。

 

710年に藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の息子の

 

不比等(ふひと)が

 

平城遷都とともに藤原京にあった厩坂寺(うまやさかでら)を

 

この地に移したのが始まりとされています。

 

この頃の都の繁栄を詠った万葉集に

 

青丹よし、奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今さかりなり

 

という歌が残っています。

 

あをによしは奈良に掛かる枕詞、あとは詠んだそのままの意味です。

 

興福寺は藤原氏の氏寺としてもよく知られています。

 

近くにある春日大社は藤原氏の氏神になります。

 

神仏習合(しゅうごう)の時代は一体化して

 

春日社興福寺と称していたそうです。

 

その力は大和国一国を支配するにおよび、京都比叡山と並び、

 

南都北嶺として

 

朝廷からも恐れられたほどの権勢を持ちました。

 

そう言えば、

 

時代はもっと後になりますが、

 

NHKの大河、光る君への中でも

 

興福寺の僧侶が道長のもとに詰め寄るシーンがありましたね。

 

 

 

 

残念ながら、

 

五重塔は工事中で参拝することは出来ませんでした。

 

この五重塔は、

 

お釈迦様の遺骨である仏舎利(ぶっしゃり)を治める場所で、

 

その為当時の仏教寺院では権威の象徴として、

 

塔の高さも少しづつ高くしていったようです。

 

仏舎利は、お釈迦様の遺骨を小さくして寺に分けられているのですが、

 

その形が米粒みたいな形をしていたそうです。

 

そう言えば、

 

お寿司で酢飯の事を舎利(しゃり)といいますよね。

 

 

こちらの塔は藤原不比等の娘で、

 

聖武天皇のお妃である光明皇后の発願で建立されています。

 

高さが50.1mあります。

 

京都の東寺に続く、日本で2番目に高い五重塔となっています。

 

因みに奈良では

 

この五重塔より高い建物を建ててはならない事になっているそうす。

 

現在、奈良県で一番高い建物は

 

JR奈良駅前のホテル日航で、約46mだそうです。

 

こちらは現在まで5度焼失、現在の塔は室町時代の再建だそうです。

 

塔のすぐ傍に東金堂があります。

 

こちらは五重塔と同じ室町時代に建てられています。

 

聖武天皇が伯母である元正天皇(げんしょうてんのう)の

 

病気平癒を願って建立されています。

 

その為、ご本尊は薬師三尊像です。

 

また薬師如来(やくしにょらい)を守護する

 

十二神将像(じゅうにしんしょうぞう)らと数々の国宝が

 

見ることが出来ます。

 

もちろん写真は撮れませんが、迫力があって見る価値があります。

 

興福寺の仏像で、

 

なんと言っても有名なのが国宝の阿修羅(あしゅら)像ですね。

 

三面六臂(さんめんろっぴ)という異形ながら均衡のとれた体躯、

 

何より神秘的な表情が多くの参拝者を魅了しています。

 

私もその魅了された一人ですが。国宝館は見どころ満載でした。

 

 

 

 

一つの寺院において、

 

通常ですと金堂(こんどう)が一つ作られるのが一般的なのですが、

 

興福寺では金堂が3つあります。

 

金堂は権威の象徴でもある為、

 

皇室や藤原氏が増やしていった結果、中金堂、東金堂、西金堂が出来たようです。

 

現存するのは室町時代に建てられた東金堂と、

 

2018年に再建された中金堂です。

 

残念ながら西金堂は現在、存在していません。

 

興福寺の本尊は

 

釈迦如来坐像(しゃかにょらいぞう)です。

 

藤原鎌足が

 

蘇我入鹿(そがのいるか)の打倒を

 

祈願して造立したものだと言われているそうです。

 

現在安置される像は五代目。

 

2018年の再建に合わせて修理されたものだそうです。

 

 


 

 

当時の中金堂の落慶法要での

 

管主(かんす)の多川俊映(たがわしゅんえい)さんの話では、

 

興福寺はまさに七転び八起きだと言われていますが、

 

これは中金堂が七回焼失して、

 

八度目の再建となっているところからの表現のようです。

 

興福寺はそれだけ、焼失しては

 

再建するという歴史をくり返してきたのですね。

 

その都度、再建できたのは

 

藤原氏を背景とする経済力が大きかったのでしょう。

 

 

 

 

 

 

中金堂を取り巻くように

 

回廊の遺構の礎石(そせき)が見事でした。

 

管主(かんす)の多川俊映さんは、中金堂の再建にあたり、

 

柱となる木材を探して

 

カナダのバンクーバまで行かれたとか、

 

しかしカナダでは柱と柱をつなぐ横材しか手に入らなく、

 

最終的には

 

アフリカ全土から木材が集まるカメルーンまで行かれて調達されたそうです。

 

日本には、もはや柱となる木がなかったんですね。

 

こちらの再建には60億円が掛かったとか、

 

下世話な話でした。

 

 

 

 

興福寺には

 

北円堂(ほくえんどう)と南円堂(なんえんどう)の

 

二つの八角円堂があります。

 

北円堂には運慶の作品の仏像、

 

南円堂には運慶の父、康慶(こうけい)の作品が安置されています。

 

八角円堂の造りは珍しく、

 

奈良では法隆寺の夢殿が有名ですね。

 

北円堂は藤原不比等の一周忌に追悼のために建てられたそうです。

 

鎌倉初期の再建ですが、

 

興福寺ではもっとも古い建物であり、国宝です。

 

 

 

南円堂は

 

西国三十三所の第九番札所となっています。

 

ご本尊は不空羂索観音(ふくうけんじゃくかんのん)となっています。

 

またかつて

 

南円堂に安置されていた木造の四天王像は国宝です。

 

 

 

パンフレットによると、

 

近年の研究により従来、

 

持国天(じこくてん)と呼んでいた像は増長天(ぞうちょうてん)、

 

増長天は広目天(こうもくてん)、

 

広目天は持国天であることが分かったそうです。

 

作者は運慶の父康慶一門とされています。

 

見事な像です。

 

 

 

 

南円堂の左近は、

 

通常、桜が多いのですが、

 

こちらは藤です。

 

右近は橘です。

 

沢山の実がついていました。

 

 

 

 

南円堂を少し下ると、三重塔があります。

 

再建が鎌倉初期で

 

興福寺では北円堂とともに最も古い建物だそうです。

 

五重塔よりも古く800年前の建物になるそうです。

 

国宝です。

 

こじんまりとした印象ですが、

 

立ち姿は堂々としていて、歴史を感じます。

 

 

 

五重塔は工事中で残念でしたが、

 

この広い興福寺の伽藍は、

 

時の藤原氏の権勢を感じさせてくれるには十分でした。

 

 

 

司馬遼太郎氏は

 

著「街道をゆく」の中で書かれています。

 

興福寺という寺は古い。

 

よく知られているように藤原氏の氏寺として発足し、

 

明治初年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の標的にされて

 

堂塔伽藍のあらかたが破棄されるまでは、

 

規模は東大寺より大きかった。

 

寺領に至っては、中世、大和盆地一円を領し、国持大名というべき存在だった。

 

私どもが、

 

奈良公園とか奈良のまちといっている広大な空間は、

 

あらかた興福寺境内だったといっていい。

 

 

 

大華厳寺(だいけごんじ)とは

 

奈良、東大寺の別名です。

 

東大寺は

 

奈良時代に聖武天皇が建てられた、華厳宗のお寺です。

 

1300年前に

 

平城京という大きな都が作られました。

 

その平城京の東にある、

 

大きな寺と言う事で、東大寺というようです。

 

南大門です。

 

山門に掲げられ扁額(へんがく)には

 

聖武天皇の文字で、大華厳寺とあります。

 

聖武天皇の写経の文字が残されていたそうです。

 

 

 

 

 

 

阿形、吽形の金剛力士像がこの門を護っています。

 

直ぐに気づきますが、

 

この金剛力士像の配置が変わっていて、

 

通常と、左右逆の配置になっています。

 

また、通常、門の外側に睨みをきかす阿吽像ですが、

 

ここでは内側を向いています。

 

この亜吽形像、言うまでもなく、

 

阿吽の呼吸の語源にもなっていますよね。

 

 

門の真ん中に立ちますと、両サイドから睨まれている感じがします。

 

南大門は日本最大の山門で

 

鎌倉時代の再建で重源(ちょうげん)という方が再建しています。

 

ここの巨大な柱は再建時、

 

重源が、現在の山口県まで足を運び、

 

18本の巨大な柱材を調達し、一年かけて山口から運んだそうです。

 

ものすごいマンパワーが必要だったでしょう。

 


 

大仏殿です。

 

東大寺の本堂になります。

 

過去、2回焼失しています。

 

一回目は源平が戦った、平重衡の乱、

 

2回目は三好、松永久秀の戦いで焼き討ちにあっています。

 

この松永久秀、

 

大仏を焼き払った悪者としてあの織田信長が

 

久秀は悪者だと言わしめたとか。

 

何をかいわんや…。

 

現在の大仏殿は3代目になります。

 

世界最大の木造建築は、いつ見ても圧巻です。

 

 

 

 

正式名称は廬舎那仏(るしゃなぶつ)、

 

お座りになっていますが、高さ14m98㎝あります。

 

背中の光背や化仏(けぶつ)が本当に輝いて見えるようです。

 

 

 

 

大仏様の両脇には

 

脇侍(わきじ)と言われる仏像が置かれています。

 

三尊形式と呼ばれますが、

 

向かって右側には

 

如意輪観音(にょいりんかんのん)、

 

 

 

 

 

左には

 

虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)が置かれています。

 

 

 

 

 

大仏殿の四隅には

 

方角を守る四天王像が置かれています。

 

西を守る広目天(こうもくてん)です。

 

写真には写っていませんが、

 

邪気(じゃき)を踏みつけて立っておられます。

 

四天王像はみな、

 

邪気を踏みつけて立っておられます。

 

 

 

 

 

北を守る多聞天(たもんてん)です。

 

多聞天は、

 

単体で祀られると毘沙門天(びしゃもんてん)と名前を変えます。

 

そしてこの多聞天が踏みつけられている邪気を

 

天邪鬼(あまのじゃく)といいます。

 

あまのじゃくの語源でしょうね。

 

四体置かれる四天王ですが。

 

東大寺では南を護る増長天と、東を護る持国天はお顔だけでした

 

 

 

 

 

創建当時の東大寺の模型です。

 

今と大きく違うのは、左右に立派な七重塔があります。

 

 

 

 

最近の調査では

 

この塔は100mの高さを誇っていた事が分かっているようです。

 

現存する一番高い古塔が京都、東寺の五重塔で

 

54.8mですので

 

その高さに驚かされます。

 

また、

 

大仏殿は現在の1.5倍の大きさだったと言いますから、

 

創建当時の東大寺は

 

圧倒的な迫力だったでしょうね。

 

 

 

 

 

こちらは

 

金銅八角燈籠(こんどうはっかくどうろう)と言います。

 

東大寺は2度の戦乱で焼失していますが、

 

こちらはその戦乱の中残った、

 

貴重な創建当時からの遺構です。

 

 

 

 

二月堂です。京都の清水寺と同じ

 

懸崖造りの建物です。

 

3月1日から2週間に渡って修二会(しゅにえ)が行われます。

 

この行中の3月12日の深夜から、

 

二月堂の下にある、

 

若狭井の井戸から独鈷水(おこうずい)をくみ上げて

 

観音様にお供えする儀式をお水取りといい、

 

その際、お坊さんのみち明かりとして、

 

大きな松明に火を灯して振りかざします。

 

この大松明が圧巻で

 

この火の粉をかぶると、縁起が良いという言い伝えがあって、

 

一般の人たちはこの火の粉を求めて

 

この2月堂の下に集まります。

 

よくニュースなどで報道されますよね。

 

 

ここからは生駒(いこま)山を背景に

 

開山堂、四月堂に三月堂、大仏殿がよく見えます。


 

東大寺の修二会の正式名称は十一面悔過(げか)と言い、

 

そして

 

十一面観音に独鈷水(おこうずい)をお供えするのがお水取りです。

 

二月堂のご本尊は

 

大観音と小観音の二体の十一面観音だそうですが、

 

こちらは絶対秘仏と言って

 

東大寺のお坊さんでも見ることが出来ない秘仏だそうです。

 

東大寺には二月堂、三月堂、四月堂とありますが、

 

一月堂はというと、

 

三重県の伊賀市に

 

正月堂と言って東大寺の別院があるそうです。

 

 

 

ここからは興福寺を目指して歩きました…。

 

 

三か月振りの投稿です。

 

これからもマイペースですが、投稿したいと思っています。

 

またよろしくお願い致します。

 

 

 

 

 

道の辺の くさぶかゆりの 花笑みに 笑みしがからに 妻と言ふべしや

                        (万葉集 巻第七 一二五七)

 

「道のほとりに咲く、くさぶかゆりの花のように、

 

ちょっと微笑みかけたからと言って、

 

妻ときめてかからないでください。」

 

馴れ馴れしく振る舞う男性に

 

女性が詠んだ歌です。

 

ユリの花咲く姿が、人間の笑顔に例えられる、

 

花笑みとは、

 

なんとも美しい表現だと思います。

 

 

ユリはユリ科ユリ属の総称です。

 

花は容姿の気高さ、芳香で愛されています。

 

名の由来については

 

「大きな花がゆり動くから」「花が美しく栄えるから」などさまざまです。

 

ユリはラテン語でリリウム(lilium)と言いますが、

 

これはli(白)とlium(花)の組み合わさった言葉で

 

白い花を意味します。

 

 

 

 

 

ユリは世界中に分布する中で、

 

ヤマユリは日本の特産です。

 

花が大輪で先が反り返り、白い花の内側に赤い斑点と、

 

黄色の線があって豪華です。

 

そしてむせかえる程の強い芳香を放ちます。

 

山路を歩く道すがら、

 

香り高い花を開くヤマユリは、

 

草むらの中で、自分の花を持て余しているかのように

 

ゆらゆら揺れて咲いています。

 

ヤマユリの学名を

 

Lilium auratum(リリウム・アウラートム)といいます。

 

示種名のauratumは黄色のという意味です。

 

花被片の真ん中にある黄色の縦筋を表現したものと言われています。

 

このヤマユリの鱗茎は園芸用として、

 

横浜港から海外に輸出されていました。

 

そんな理由でヤマユリは、神奈川県の県花になっています。

 

ヤマユリは東北地方から関西地方の間の山野に自生しており、

 

花の大きさではユリ属最大と言われ、

 

ユリの女王とも言われています。

 

香りも強烈で、活花としては時に香りが強すぎて

 

敬遠される事もあるようです。

 

似たような花にカサブランカという人気のユリがあります。

 

真っ白で大輪の花を咲かせますが、

 

一般的なユリたちに比べて、蕾は茎に対してやや下向きに付きます。

 

そして強い甘い香りがあります。

 

カサブランカはオリエンタル・ハイブリット

 

という園芸種で

 

最近では

 

花の色がピンクや黄色もあるようです。

 

 

 

 

 

ユリの宝庫と言われるのが日本です。

 

ヤマユリ、オニユリ、ササユリ、ヒメユリ、ヒメサユリ、

 

スカシユリ、カノコユリ、テッポウユリなどが自生し、

 

夏の野山を美しく飾ります。

 

この自生のユリを切り花として観賞されるようになったのは、

 

室町時代からと言われています。

 

さらに園芸栽培によって

 

品種改良が行われるようになったのは

 

江戸時代の終わり頃から盛んになったようです。

 

 

中国には「百合」というユリの一種があって、

 

白い花を咲かせるそうです。

 

日本では中国の「百合」は見ることができません。

 

ですので、

 

「百合」は中国特産のユリの名前ということになります。

 

牧野富太郎博士の著によると、

 

日本の学者は誰でも「百合」はササユリ、(学名はLilium Makinoi Koidz.

 

であると言っているが、

 

ササユリは日本の特産で、

 

中国には産しないので、このササユリの中国名があるはずもなく、

 

そして日本ではなお、

 

ユリをユリ属の総称のように思っており、

 

ユリと言えば、よく「百合」と書いているが、

 

それは全く間違っている。

 

日本産のユリは、一つも「百合」にあたるものはない。

 

なので「百合」を、

 

日本のユリのいずれにも用いてはならない。

 

と釘をさしています。

 

一方、本田正次博士の著によれば、

 

ユリは漢字で書けば百合であるが、

 

これは地下にある鱗茎が百枚もの沢山の鱗片葉が

 

重なり合って出来ていることから、

 

百合と書くようになったと書かれています。

 

学問上では

 

こういう話になるんですね。

 

 

 

ユリ属は96種あって

 

アジアを中心に北アメリカ、ヨーロッパの北半球に自生していますが、

 

南半球には自生していません。

 

日本には15種のユリが自生しています。

 

このうち、オニユリは

 

長崎県北部、壱岐に自生するもの以外は結実しない為、

 

人家の近くに栽培されていたのが

 

野生化したと考えられているようです。

 

 

 

 

 

ユリの花は清楚で美しいので、

 

女性の名前にも見ることが出来ます。

 

日本での百合、百合子はもとより、

 

ヘブライ語でユリの事をスザンナ(Susannah)といい、

 

これからスーザン(Susan) 、スージー(Susy)などの名前が出ています。

 

英名ではリリアン(Lilian)などがそうです。

 

 

日本には昔から妖艶な美女を形容する言葉として

 

「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿はユリの花」

 

という、都々逸(どどいつ)がありますが、

 

ユリの花が、

 

何というユリであるかは明示されていません。

 

しかし草の丈がすらりと高いこと、上品で美しいこと、

 

花がなよなよと揺れ動くことなどから

 

ヤマユリの花ではないかと言われていますが、

 

真意の程はわかりません。

 

 

 

 

 

万葉集には

 

ヒメユリを詠んだ歌があります。

 

夏の野の 繁みに咲ける ひめゆりの 知らえぬ恋は 苦しきものそ

                  (万葉集 巻第八 一五〇〇)

 

夏草の生い茂る中に混じって咲いているヒメユリは、

 

なかなか気付かないものです

 

相手に知ってもらえない恋は、つらくて苦しく、募る思いが増すばかりです。

 

万葉人はユリに多くの感情を寄せています。

 

この花は古くから人を寄せ付ける魅力のある

 

花なのでしょうね。

 

 

私はユリの中でもヒメサユリというユリが好きです。

 

以前、

 

新潟、福島の山をテント縦走しました。

 

目的はもちろん、新潟、福島の山に自生する、

 

ヒメサユリでした。

 

そして、

 

まだまだ雪渓の残る守門(すもん)岳で、

 

風にゆれながら、うつむき加減に咲く、

 

ピンクの美しいヒメサユリに出逢えました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

唐突ですが、

 

このブログ、3ヵ月程お休みさせて頂きます。

 

皆さまのところには

 

出来るだけお邪魔させて頂きます。

 

また復帰の際には

 

どうぞよろしくお願い致します。

 

暑さ厳しい折、皆さまご自愛ください。

 


もとろーむ


 

 

 

昼は咲き、夜は恋ひ寝る、合歓木(ねぶ)の花、

 

君のみ見めや、戯奴(わけ)さへに見よ

 

(万葉集 巻八 一四六一)

 

昼に咲いて、

 

夜には

 

恋しい想いを抱いて寝る

 

という合歓の花を、

 

私だけに見させないでください。

 

さあ、あなたもここに来て見てください。

 

紀女郎(きのいらつめ)が、

 

大伴家持(おおとものやかもち)に贈った歌です。

 

紀女郎は、年上の人妻です。

 

戯奴(わけ)、というのは目下の人を呼びかける言葉です。

 

若い大伴家持を

 

ちょっとからかっているようにも読めます。

 

それに対して

 

我妹子(わがもこ)が 形見の合歓木(ねむ)は 花のみに 

 

咲きてけだしく 実にならじかも

 

(万葉集 巻八 一四六三)

 

「あなたの形見のねぶの木は、

 

花だけ咲いて、

 

ひょっとすると実を結ばないのではないでしょうか。」

 

つまり、

 

あなたは口ばかりではありませんか、

 

と大伴家持は、

 

紀女郎から贈られた恋歌への返事をこう詠んでいます。

 

万葉集に合歓の木は、

 

この他の一首をあわせて、三首詠まれています。

 

 

 

 

 

合歓の木は学名を

 

Albizzia julibrissin 

 

(アルビジア ジュリブリシングラズ)

 

と言い、

 

マメ科ネムノキ亜科ネムノキ属になります。

 

 

「合歓(ねぶ)」はねむり木や

 

合歓木(ごうかんぼく)・合歓(ねむ)などとも言われ、

 

夜になるとゆっくり自分で葉を閉じます

 

それがまるで眠るようなので「眠りの木」、

 

それが次第に「ねむの木」に変化し、

 

木の名前になったと言われています。

 

漢名の合歓もまた同じ意味でコウカ、コウカノキと

 

古書にあるのは、この漢名の音よみです。

 

 

ネムノキは朝鮮半島や中国にも自生します。

 

葉は薄曇りの日や、暑さが厳しい時にも閉じますが

 

オジギソウのように

 

手で触れると閉じるような性質はありません。

 

 

 

 

 

夏、

 

紅の付いた牡丹刷毛のような花が、

 

小枝の先にいっぱいに咲きます。

 

長く伸びる多数の糸状のものは

 

雄しべで、

 

根もとは白いですが、先にいくほど紅色が鮮やかで、

 

絹糸のような輝きが感じられます。

 

また、

 

うっそうと茂る葉は全て夕方からは閉じ始めます。

 

反対に花は日没前頃から咲き始めます。

 

毎日新しい花が一つ、

 

また一つと順に咲きます。

 

そして花の咲いた後は大きなサヤになり、豆果ができます。

 

やはりマメ科の特徴ですね。

 

この夏に咲く赤い花が美しいので、

 

古くから人々に知られており、

 

先ほどの万葉集にも風情のあるものとして詠まれ、

 

庭などにも植えられています。

 

 

 

 

 

昔は

 

この樹皮のタンニンを利用して染料として使われ、

 

また漢方では「合歓花」と言って

 

打撲、うがい薬に用い、

 

民間では

 

リューマチや害虫駆除に用いられてきました。

 

また、この合歓の木材も屋根板や箱類に利用され、

 

海岸の暴風林としても植えられてきたようです。

 

中国の楊貴妃と並ぶ美女の代表、

 

春秋時代の「西施(せいし)」は

 

この合歓の花のように美しかったと称えられています。

 

伝説があります。

 

ネムノキという名が、眠るという事の意味付けて、

 

昔、中国に杠羔というものがいて、

 

その妻である趙子は、

 

端午の節句に、

 

この花を枕の中にいれておきます。

 

そして良人が不機嫌になると、その少量を酒にいれて飲ませました。

 

すると良人はすっかり機嫌を良くし、

 

悦に入ったといいます。

 

つまり一家和合の薬だというわけです。

 

合歓の木は重なり合う葉の様子から

 

中国では

 

家庭円満、夫婦円満の象徴として庭に植える風習があるそうです

 

初夏の頃に花を咲かす合歓の木、

 

特徴的な花あかりに思わず足を止めてしまいます。

 

 

 

 

 

 

この花の学名を

 

Carthamus tinctorius L.(カルサムス ティンクトリアス)、

 

分類はキク科アザミ亜科ベニバナ属と言います。

 

属名はアラビア語のQuartom(染める)または、

 

ヘブライ語のKartami(染める)からきたもので、

 

花からとれる顔料からつけられたものです。

 

種名のtinctoriusも(染料用の)という意味で、

 

古くから染料として用いられたものと分かります。

 

 

 

 

 

ベニバナが日本に入ったのは大変古く、

 

推古天皇の時代と言われていますから、

 

1400年以上前の

 

飛鳥時代の事になります。

 

 

日本でのベニバナの産地はおもに山形県です。

 

種子の胚芽に植物油脂が豊富なので、

 

ベニバナ油(Safflower Oil)を採るためや、

 

切り花として古くから栽培されています。

 

また、染料やルージュにも使われ、花に含まれる色素には、

 

黄色素のサフロールイエロー(safflor yellow)と

 

紅色素のカルタミン(carthamin)の2種類があり、

 

黄色がかった薄い赤色、朱華(はねず)や、

 

鮮明な赤色の紅(くれない)、

 

あざやかな赤みの橙色、黄丹(おうに)等の色が作られています。

 

さらに、生薬や、若い芽と葉は野菜として使われるそうです。

 

山形県の県花は、もちろんベニバナです。

 

 

 

 

万葉集の、巻十一 二六二四に

 

紅の 深染めの衣 色深く 染みにしかば 忘れかねつる

             

と言う歌があります。

 

紅(くれない)の染料が衣にしみ込んで

 

濃い色に染まるように、あなたのことが

 

私の心にもしみ込んでしまったせいか、忘れられないのです。

 

こんな恋の歌が万葉集に詠まれています。

 

 

 

 

 

「紅」は中国の呉の国から伝わった

 

「呉の藍」(くれのあい)の意味で、

 

今ではベニバナと呼ばれています。

 

ベニバナは葉に刺があり、花の形がアザミ亜科を裏付けるよう

 

そっくりです。

 

花は初夏に咲き、

 

鮮やかな黄色ですが、時間が経つにつれて朱色に変わります。

 

 

先に書いた通り、

 

この花が淡い黄色に、あるいは鮮やかな紅色の染料になり、

 

口紅などの化粧料にもなります。

 

漢方でも使われており、婦人病薬に利用されているようです。

 

紅花は早朝に収穫することが知られています。

 

これは

 

ベニバナ摘みでは、刺が皮膚を刺すので、

 

早朝、

 

朝露で、刺が柔らかくなっている間に摘むそうです。

 

また茎の末の方から咲き始めるものを摘み取る事から

 

「末摘花(すえつむばな)」

 

とも言われています。

 

 

 

 

 

 「末摘花」は源氏物語にも登場します。

 

夕顔を亡くした光源氏は、

 

常陸親王の娘を、

 

正妻である葵上の兄の頭中将(とうのちゅうじょう)と競います。

 

その争いに勝った、光源氏は

 

夜な夜な床に通い、逢瀬を繰り返します。

 

その後、はじめて朝になり姫の顔を見た時、

 

大変な醜女に驚き、彼女の「鼻が赤い」ことを、

 

紅いベニバナに掛けて、

 

末摘花とあだ名をつける話です。

 

その後、光源氏は若紫との間で

 

末摘花の醜い顔を思い出しては、赤鼻の絵を描いたり、

 

自分の鼻を赤く塗ったりして

 

末摘花をいじっています。

 

また、葵上(あおいのうえ)の段では、

 

亡くなった光源氏の正妻、葵上を弔う喪服に、

 

光源氏は、濃い灰色、鈍色(にびいろ)に

 

ベニバナで染めた単衣を重ねていました。

 

こうした喪服姿がきわめて艶である。とあります。

 

続ければ、

 

 見し人の 雨となりにし 雲井さへ いとど時雨に かき暮らすころ

 

「(妻が)雲となり雨となってしまった空までが、

 

ますます時雨で暗く泣き暮らしている今日この頃だ」だと、

 

さすがの光源氏も

 

意気消沈するいう場面が書かれています。 

 

 

 

 

 

芭蕉は奥の細道の、旅の途中に

 

山形県の尾花沢の地で、

 

「眉掃(まゆはき)を 俤(おもかげ)にして 紅の花」

 

と詠んでいます。

 

女性の化粧の紅になるというベニバナ、

 

この花の形は、女性が化粧に使う眉掃きに似ているではないか。

 

と詠んでいます。

 

 

 

 

 

このベニバナはエジプトが原産で、

 

シルクロードを経て中国から日本へ渡ってきたとされています。

 

古代エジプトのミイラにまとっている布が

 

ベニバナ染めだそうです。

 

日本でも

 

藤ノ木古墳から出土した絹製品が約一千点、

 

石棺内の水に浮いていたそうです。

 

ここでも二人の被葬者が誰なのかは話題の的ですが、

 

二人を覆っていた布は

 

ベニバナ染めだったと言われています。

 

 

 

 

 

万葉植物約160種のほとんどが、衣・食・住・医といった

 

実生活に即した植物です。

 

万葉人の繊細な感覚は、

 

それをふまえているのであってこそのもので、

 

後代の、いわゆる観賞的な感覚より、

 

ずっと深く生活に浸透しており、

 

日本人の生活と文化を豊かに支えてきた花たちです。

 

飛鳥、奈良、

 

そして国風文化栄える平安時代にも、

 

ベニバナは

 

万葉人にはかかせない花だったようです。

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

今年もラベンダーが見事に咲いています。

 

ここは作付け面積が4.7ヘクタールあり、

 

東京ドームと同じくらいの広さに、2万株のラベンダーが咲き誇っています。


フレンチラベンダーなど品種によっては既に見頃です。

 

 

 

 

 

 

梅雨入り直前の蒸し暑さも感じさせず、

 

思いのほか爽やかな風がながれてきます。

 

青空のもと

 

沢山のミツバチたちが忙しそうに飛び回っています。

 

このミツバチたちが集めるラベンダーのはちみつは

 

採取量が少なく

 

ほとんど流通していないそうです。

 

クセが無く、穏やかな酸味とコクのある甘さで、

 

苦味はなく、ほのかな酸味とフルーティーさもあり、

 

さっぱりとした後味のバランスが良い、

 

そんなはちみつだそうです。

 

香りは、

 

桜の葉を思わせる上品な香りが魅力で、

 

ほんのり桜餅を思わせる風味が楽しめるそうです。

 

きっと美味しいのでしょうね。

 

 

 

 

 

 

あたり一面、

 

ラベンダーの爽やかで、落ち着いた香が漂っています。

 

ラベンダーの香には癒されます。

 

ラベンダーの学名は

 

Lavandula officinalis(ラヴァンデュラ・オフィシナリス)と言います。

 

シソ科ラヴァンデュラ属です。

 

和名では、薫衣草(くんいそう)と言います。

 

 

 

 

 

属名のLavandulaは

 

ラテン語のLavo(洗う)という意味で、

 

種名のofficinalisは

 

(薬用になる)という意味があります。

 

ローマ時代に

 

浴用に使われてきたことから来ているようですが、

 

鎮痛、鎮静などの優れた作用は、

 

フランス人医師であるジャン・バルネ博士が

 

戦いなどで負傷した兵士の

 

怪我や火傷などの消毒、鎮静剤、

 

手当に使用した芳香療法で知られています。

 

 

 

 

 

この属の仲間は約20種、

 

栽培種も含めると100品種を超えます。

 

カナリア諸島からインドまで広く分布していて、

 

花や茎葉から黄色の精油を取って香水等にします

 

ラベンダーはこの属の代表的な種で、

 

古くから有名な香料作物として栽培されています。

 

含まれているラベンダー油は

 

薬用としてはリウマチ、神経痛に用いられます。

 

ラベンダーの香には

 

「酢酸リナリル」と「リナロール」という

 

香気成分が多く含まれます。

 

これらは精神を安定させる働きを持つ

 

神経伝達物質「セロトニン」の分泌を誘発する効果があると考えられ、

 

リラックスしたい時は

 

アロマポットやディフューザーなどで精油をたくのがおすすめだそうです。

 

私の家でも

 

ディフューザーを使ってラベンダーオイルなどを楽しんでいます。

 

 

 

 

 

ラベンダーは地中海沿岸の原産ですが、

 

日本には江戸時代、

 

文化年間(1804年~1818年)に渡来したようです。

 

欧米では花壇に普通に使われる植物ですが、

 

日本では主に香料、薬用として栽培されてきました.。

 

しかし最近では、

 

芝桜やネモフィラ同様、観光目的などでも栽培されています。

 

 

 

 

 

 

ラベンダーの花は近くで見るより、

 

やはり遠くで見るまとまりが、

 

美しいと思います。

 

花は小さく、

 

一本一本の花穂もさほどでもありませんが、

 

群生すると

 

一面、紫の海になります。

 

これは壮観で見ごたえがあります。

 

ラベンダーは一斉には咲かず、

 

茎の下の方の両脇に更に花穂が付いて、

 

咲くと花自体のボリュームがでます。

 

早く咲いた花は、

 

終わると茶色くなってしまいます。

 

こちらで咲いているのは、

 

ラバンディン系と言われるグロッソミスドニングトン

 

イングリッシュ系の

 

ヒドコート、おかむらさき、フラノブルー、美郷雪華、アルバ

 

そして、

 

ウサギの耳のような形の花を咲かせるのが特徴で

 

フレンチラベンダーと呼ばれる

 

ストエカス系の

 

オーシャンブルー、バルセロナローズ、ティアラサファイアです。

 

 

 

 

 

北海道の富良野でもラベンダー畑を見ましたが、

 

その美しさには圧倒されました。

 

群生したこの花の強烈な個性は、

 

他に代わるものがありません。

 

ハーブの女王と言われるラベンダー

 

梅雨入り前の晴れ間に、


清々しい香りを漂わせていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ハナショウブは江戸の花。

 

ハナショウブの学名は

 

Iris kaempferi(イーリス・カエムプフェリイ)といい

 

アヤメ科アヤメ属になります。

 

ハナショウブの名前はこの花が、

 

端午の節句に用いるショウブ(菖蒲・サトイモ科)の葉に似ていて、

 

美しい花をつけるというので

 

この名がついています。

 

 

 

 

 

ハナショウブは、

 

原種のノハナショウブを改良したもので、

 

日本の園芸種として世界に知られた花です。

 

花も優雅で、その色彩にも変化があるので、

 

アイリス属の中でも最も優雅な花として、ジャパニーズ・アイリスと

 

呼ばれています。

 

因みに原種のノハナショウブは

 

牧野富太郎博士が発見、命名されています。

 

 

この花がいつ頃から観賞用にされていたのか

 

資料がみつかりません。

 

平安時代までは文学にも現れませんが、

 

室町中期の生け花の古書、「仙伝抄」には

 

当時すでにこの花が栽培されていたことが知られています。

 

 

 

 

 

この花が一般化されて、

 

広く栽培されるようになったのは江戸時代になってからですが、

 

この花は大きく分けて、

 

江戸系、伊勢系、肥後系の

 

三大別に分けられています。

 

 

 

 

 

江戸の堀切に

 

日本で最初のハナショウブ園である小高園が開設され、

 

武士階級から

 

一般庶民の間にも広く観賞されるようになったようです。

 

当時、小高園は江戸名所の一つに数えられ、

 

品種の数も数百に達していました。

 

現在の堀切菖蒲園です。

 

ここに集められた一群の園芸種を江戸ハナショウブといいます。

 

 

 

 

 

そして、松坂を中心に作られたのが、

 

伊勢ハナショウブ群です。

 

江戸末期から明治にかけて独特の品種が輩出されます。

 

伊勢では長く垂れる花弁が好まれ、

 

外花被の三弁が大きくて長く垂れ、しわがよるのが特徴になっています。

 

三重県ではこのハナショウブを県の花、

 

県花とされています。

 

 

 

 

 

 

熊本のハナショウブは

 

肥後の藩主、細川公の所望で数種のハナショウブをもらい受け、

 

熊本の愛好家たちによって盛んに品種改良がなされ、

 

一段と大輪で豪華な品種に改良されていきます。

 

この品種群を肥後ハナショウブと称します。

 

このように、

 

ハナショウブには三つの品種群が成立して現在に至っています。

 

 

 

 

 

ところで

 

「いずれアヤメかカキツバタ」

 

という慣用句があります。

 

これは甲乙つけがたい美人を形容する表現で、

 

太平記巻二十一に見える

 

「いづれあやめと」に端を発しているようです。

 

 

 

 

 

その前に

 

アヤメは山間、草地に生える多年草です。

 

一方カキツバタは水湿地に生える多年草です。

 

ハナショウブは水湿原を好んで生育しますが、

 

カキツバタと異なって

 

水中で育てるのが良いわけでなく、

 

水分さえ十分なら畑地でも栽培できる事で種類を特定できます。

 

 

 

 

 

太平記巻二十一では、

 

鵺(ぬえ)を退治した源頼政が、

 

鳥羽院から褒美として

 

菖蒲前(あやめのまえ)という美女を賜わる際、

 

ずらりと並んだ美女の中から菖蒲前を特定することできず、

 

困り果てていた時に、

 

詠じた歌の中に使われている表現です。

 

 

 

 

 

五月雨に 沢辺のまこも 水越えて いづれあやめと 引きぞわずらふ

 

五月雨(さみだれ)が降り続いて、

 

沢辺の水かさが増したため、

 

まこももアヤメも水中に隠れて、どれがアヤメかわからず、

 

引き抜くのをためらっている。

 

と詠んでいます。

 

この句を詠んだところ

 

菖蒲前」の反応があったので、めでたく結ばれます。

 

それほど区別がつきにくかったといういう

 

故事に基づきます。

 

 

 

 

 

しかし、

 

まこも(イネ科まこも属)が生えるのは、もともと水のある水辺です。

 

そこに陸棲のアヤメが咲くはずもなく、

 

これはアヤメではなく、カキツバタでしょう。

 

植生からするとそう思えますが、


真意の程は分かりません。

 

 

 

 

 

これから梅雨の時季を迎えると、

 

鬱陶しい雨空に清涼感のある、すっとした立ち姿で咲く、

 

ハナショウブは、

 

上品で清々しさを感じさせてくれます。

 

 

 

 

 

以下太平記巻二十一の原文訳よりの抜粋です。

 

 「近衛院の御時、紫宸殿の上に、鵺と云怪鳥飛来て夜な夜な鳴けるを、源三位頼政勅を承て射て落したりければ、上皇限なく叡感有て、紅の御衣を当座に肩に懸らる。「此勧賞に、官位も闕国も猶充に不足。誠やらん頼政は、藤壷の菖蒲に心を懸て堪ぬ思に臥沈むなる。今夜の勧賞には、此あやめを下さるべし。但し此女を頼政音にのみ聞て、未目には見ざんなれば、同様なる女房をあまた出して、引煩はゞ、あやめも知ぬ恋をする哉と笑んずるぞ。」と仰られて、後宮三千人の侍女の中より、花を猜み月を妬む程の女房達を、十二人同様に装束せさせて、中々ほのかなる気色もなく、金沙の羅の中にぞ置れける。さて頼政を清涼殿の孫廂へ召れ、更衣を勅使にて、「今夜の抽賞には、浅香の沼のあやめを下さるべし。其手は緩とも、自ら引て我宿の妻と成。」とぞ仰下されける。頼政勅に随て、清涼殿の大床に手をうち懸て候けるが、何も齢二八計なる女房の、みめ貌絵に書共筆も難及程なるが、金翠の装を餝り、桃顔の媚を含で並居たれば、頼政心弥迷ひ目うつろいて、何を菖蒲と可引心地も無りけり。更衣打笑て、「水のまさらば浅香の沼さへまぎるゝ事もこそあれ。」と申されければ、頼政、五月雨に沢辺の真薦水越て何菖蒲と引ぞ煩ふとぞ読たりける。時に近衛関白殿、余の感に堪かねて、自ら立て菖蒲の前の袖を引、「是こそ汝が宿の妻よ。」とて、頼政にこそ下されけれ。頼政鵺を射て、弓箭の名を揚たるのみならず、一首の歌の御感に依て、年月久恋忍つる菖蒲の前を給つる数奇の程こそ面目なれ。」と、真都三重の甲を上れば、覚一初重の乙に収て歌ひすましたりければ、師直も枕をゝしのけ、耳をそばだて聞に、簾中庭上諸共に、声を上てぞ感じける。

 

 

 

 

 

 

 

そろそろ、雨の季節を迎えます。

 

雨の恵に感謝も忘れ、

 

鬱陶しさが勝るのは自然への不敬でしょうか。

 

そんな中で

 

静かにたたずむアジサイの花には癒されます。

 

アジサイは雨が似合う花ですね。

 

庭の片隅で静かに花を咲かせています。

 

 

 

 

 

アジサイは日陰や半日陰を好みます。

 

原種の生育地は意外にも南関東、伊豆半島の海辺の低木林です。

 

紫陽花の字をあてたのは、

 

平安時代の学者で源順(みなもとのしたごう)で

 

倭名類聚鈔(わみょうるいじゅうしょう)に載っています。

 

平安時代には既に栽培されていたのでしょう。

 

漢名は綉球(しゅうきゅう)といいます。

 

 

 

 

 

 

この紫陽花は唐詩人、白楽天が命名したとあります。

 

そして

 

「陽を好み気香(か)ばし」と表しています。

 

しかし

 

一部を除き、アジサイには匂いもなく、

 

日向を好むとは言い切れません。

 

中国にはアジサイの自生地もないことから、

 

アジサイとは全く別の花のようです。

 

 

 

 

 

ヤマアジサイは繊細な感じのアジサイで、

 

葉は細く、あまり光沢がありません。

 

山の沢を好み、サワアジサイと呼ばれることもあります。

 

万葉集、巻二十 四四四八に

 

橘諸兄(たちばなのもろえ)が詠んだ歌があります。

 

あぢさゐの 八重咲くごとく 八つ代にを いませ我が背子 見つつ偲はむ

 

(あじさいの花が幾重にもかさなりあって咲くようにいつまでも栄えて下さい。

 

花を見るたびに

 

あなたを懐かしくおもいましょう。)

 

 

 

 

 

橘諸兄(たちばなのもろえ)が詠んだあじさいは、

 

分布からしてヤマアジサイでしょう。

 

 

最近のセイヨウアジサイですが

 

セイヨウと冠が付くため、ヨーロッパ原産のようですが

 

セイヨウアジサイも元は日本産です。

 

その母種となるのは

 

関東地方や伊豆半島に自生するガクアジサイです。

 

この花をもとにして園芸的につくられたものです。

 

もともとヨーロッパにはアジサイはありません。

 

日本のガクアジサイが中国を経て、

 

ヨーロッパに渡ったものが、盛んに品種改良され、

 

多くの品種が作り出されました。

 

その色もピンクから

 

藤色、紅色、白色、青紫色など数多くあります。


それらが逆に日本に

 

セイヨウアジサイとして入ってきたものです。

 

 

 

 

 

 

アジサイ属は北米から南米にも分布します。

 

その一つがカシワバアジサイです。

 

花が円錐状に盛り上がり

 

ノリウツギのような咲き方ですが、

 

カシワバアジサイはなんといっても葉が切れ込むのが珍しいです。

 

最近はよく見かけるようになりました。

 

 


 

 

アジサイの属名Hydrangeaハイドレンジアは

 

ギリシャ語の

 

hydro (水)とangeion(容器)との組み合わせから出来たもので、

 

水を多く吸入する植物というところから、

 

つけられたとか。

 

この属の植物は全体で35種あり

 

日本にも変種としてエゾアジサイ、ガクアジサイ、

 

ヤマアジサイ、アマチャ、アマギアマチャなどがあります。

 

種としては

 

ヤクシマアジサイ、コアジサイ、タマアジサイ、

 

コガクウツギ、ノリウツギ、ゴトウズル、ガクウツギ、

 

ヤハズアジサイがあります。

 

 

 

 

 

アジサイの学名はいろいろと書かれていますが、

 

ハイドレンジア・アジサイもその一つです。

 

示種名に和名をそのまま採用した形です。

 

しかしこの学名は、今日は用いられていません。

 

命名者はシーボルトです。

 

シーボルトはこの後に

 

ハイドレンジア・オタクサ シーボルト(Hydrangea Otaxa Siebold)と

 

命名しています。

 

 


 

 

このシーボルトが選んだ示種名オタクサの意味は久しい間、

 

日本の植物界でも誰もわからなかったそうです。

 

後に、

 

彼が長崎滞留中の愛妻、

 

楠本お滝さんの、おたきさんであることが分かり、

 

日本の植物学者達を

 

アッと言わせたというエピソードが残っています。

 

最初オタクサとは草の名前か何かと思った植物学者こそ、

 

唖然としたことでしょう。

 

 

 

 

 

これを知った牧野富太郎博士は

 

痛烈にシーボルトを批判していますが、

 

牧野富太郎博士は昭和2年に宮城県仙台市で新種の笹を発見し、

 

亡き妻の名にちなんでスエコザザ(Sasaella ramosa var. suwekoana)と

 

名付けたことは良く知られています。

 

明らかな矛盾です。

 

博士もスエコザサの和名と学名をつけていますので、

 

シーボルトを批判することは出来ないでしょう。

 

 

 

 

 

こういう経緯で

 

アジサイは広く世界に紹介されたのですが、

 

その学名の発祥の地は、長崎であるのは間違いなさそうです。

 

長崎市の花にアジサイが選ばれたのも

 

このためだったかもしれません。

 

学名ですが、今日ではオタクサではなく、

 

Hydrangea macrophylla Seringe

 

(ハイドレンジア・マクロフィラ)が使われています。

 

学問の掟はやはり厳しかったのでしょう。

 

 

 

 

 

 

長崎ではアジサイの事を

 

「お滝さん花」や「おたくさ」と呼ぶことがあります。

 

それはこのシーボルトとお滝さんの、

 

はかない話が

 

200年を経た、現在も語り継がれ、

 

二人の愛慕に

 

敬愛と親しみをこめてそう呼ばれているのでしょう。

 

そんな話を

 

知ってか知らでか、


今年もアジサイは美しく花を開きました。