ハナショウブは江戸の花。
ハナショウブの学名は
Iris kaempferi(イーリス・カエムプフェリイ)といい
アヤメ科アヤメ属になります。
ハナショウブの名前はこの花が、
端午の節句に用いるショウブ(菖蒲・サトイモ科)の葉に似ていて、
美しい花をつけるところから
この名がついています。
ハナショウブは、
原種のノハナショウブを改良したもので、
日本の園芸種として世界に知られた花で、
花も優雅で、
その色彩にも変化があるので、
アイリス属の中でも最も優雅な花として、
ジャパニーズ・アイリスと呼ばれています。
因みに原種のノハナショウブは、
牧野富太郎博士が発見、命名されています。
この花が
いつ頃から観賞用にされていたのか
資料がみつかりません。
平安時代までは文学にも現れませんが、
室町中期の生け花の古書、
「仙伝抄」には当時すでにこの花が栽培されていたことが
知られています。
この花が一般化されて、
広く栽培されるようになったのは
江戸時代になってからですが、
この花は大きく分けて、
江戸系、伊勢系、肥後系の
三大別に分けられています。
江戸の堀切に
日本で最初のハナショウブ園である
小高園が開設され、
武士階級から
一般庶民の間にも広く観賞されるようになったようです。
当時、小高園は江戸名所の一つに数えられ、
品種の数も数百に達していました。
現在の堀切菖蒲園です。
ここに集められた一群の園芸種を
江戸ハナショウブといいます。
そして、
松坂を中心に作られたのが、伊勢ハナショウブ群です。
江戸末期から明治にかけて
独特の品種が輩出されます。
伊勢では長く垂れる花弁が好まれ、
外花被の三弁が大きくて長く垂れ、しわがよるのが特徴になっています。
現代、三重県では
このハナショウブを県の花、県花とされています。
熊本のハナショウブは肥後の藩主、細川公の所望で
数種のハナショウブをもらい受け、
熊本の愛好家たちによって
盛んに品種改良がなされ、
一段と大輪で、豪華な品種に改良されていきます。
この品種群を肥後ハナショウブと称します。
このように、
ハナショウブには三つの品種群が成立して
現在に至っています。
ところで、
「いずれアヤメかカキツバタ」
という慣用句があります。
これは甲乙つけがたい美人を形容する表現で、
太平記巻二十一に見える
「いづれあやめと」に端を発しているようです。
その前に
アヤメは山間、草地に生える多年草です。
一方カキツバタは
水湿地に生える多年草です。
ハナショウブは水湿原を好んで生育しますが、
カキツバタと異なって水中で育てるのが良いわけでなく、
水分さえ十分なら畑地でも栽培できる事で
種類を特定できます。
太平記巻二十一では、
鵺(ぬえ)を退治した源頼政が、
鳥羽院から褒美として
菖蒲前(あやめのまえ)という美女を賜わる際、
ずらりと並んだ美女の中から菖蒲前を特定することできず、
困り果てていた時に、
詠じた歌の中に使われている表現です。
その時の和歌が
五月雨に 沢辺のまこも 水越えて いづれあやめと 引きぞわずらふ
五月雨(さみだれ)が降り続いて、
沢辺の水かさが増したため、
まこももアヤメも水中に隠れて、どれがアヤメかわからず、
引き抜くのをためらっている。
と詠んでいます。
この句を詠んだところ「菖蒲前」の反応があったので、
めでたく結ばれます。
それほど区別がつきにくかった。
という
故事に基づきます。
しかし、
まこも(イネ科まこも属)が生えるのは、
もともと水のある水辺です。
そこに陸棲のアヤメが咲くはずもなく、
これはアヤメではなく、カキツバタでしょう。
植生からするとそう思えますが、
真意の程は分かりません。
これから梅雨の時季を迎えると、
鬱陶しい雨空に清涼感のある、凛とした立ち姿で咲く、
ハナショウブは、
上品で清々しさを感じさせてくれます。
以下太平記巻二十一の原文訳よりの抜粋です。
「近衛院の御時、紫宸殿の上に、鵺と云怪鳥飛来て夜な夜な鳴けるを、源三位頼政勅を承て射て落したりければ、上皇限なく叡感有て、紅の御衣を当座に肩に懸らる。「此勧賞に、官位も闕国も猶充に不足。誠やらん頼政は、藤壷の菖蒲に心を懸て堪ぬ思に臥沈むなる。今夜の勧賞には、此あやめを下さるべし。但し此女を頼政音にのみ聞て、未目には見ざんなれば、同様なる女房をあまた出して、引煩はゞ、あやめも知ぬ恋をする哉と笑んずるぞ。」と仰られて、後宮三千人の侍女の中より、花を猜み月を妬む程の女房達を、十二人同様に装束せさせて、中々ほのかなる気色もなく、金沙の羅の中にぞ置れける。さて頼政を清涼殿の孫廂へ召れ、更衣を勅使にて、「今夜の抽賞には、浅香の沼のあやめを下さるべし。其手は緩とも、自ら引て我宿の妻と成。」とぞ仰下されける。頼政勅に随て、清涼殿の大床に手をうち懸て候けるが、何も齢二八計なる女房の、みめ貌絵に書共筆も難及程なるが、金翠の装を餝り、桃顔の媚を含で並居たれば、頼政心弥迷ひ目うつろいて、何を菖蒲と可引心地も無りけり。更衣打笑て、「水のまさらば浅香の沼さへまぎるゝ事もこそあれ。」と申されければ、頼政、五月雨に沢辺の真薦水越て何菖蒲と引ぞ煩ふとぞ読たりける。時に近衛関白殿、余の感に堪かねて、自ら立て菖蒲の前の袖を引、「是こそ汝が宿の妻よ。」とて、頼政にこそ下されけれ。頼政鵺を射て、弓箭の名を揚たるのみならず、一首の歌の御感に依て、年月久恋忍つる菖蒲の前を給つる数奇の程こそ面目なれ。」と、真都三重の甲を上れば、覚一初重の乙に収て歌ひすましたりければ、師直も枕をゝしのけ、耳をそばだて聞に、簾中庭上諸共に、声を上てぞ感じける。