【論説】ネットで世界は広がったのか?――SNS時代の「村社会」と、自分の見ている世界を疑うこと。
最近、私はテレビもインターネットもあまり見なくなりました。情報を遮断しているわけではありませんが、かつてのようにSNSのタイムラインを眺めたり、ニュースサイトを巡回したりすることはほとんどなくなりました。そんな生活をしていると、不思議な体験をすることがあります。友人が「今、ネットで大炎上している」と私に教えてくれること――誰かの失言や誰かの不祥事について。その界隈では、多くの人が怒り、批判し、拡散し、まるで社会全体を揺るがす大事件であるかのような熱量で語られているらしい出来事……。しかし、その話を聞かされる私には、その出来事そのものを全く知らない。誰が炎上しているのか、なぜ問題になっているのか、そもそも、その人物そのものを私は知らないのです。その界隈の人たちにとっては重大事件であるはずなのに、その世界の外にいる私には、それがまるで存在しない出来事のように見える。この非対称性に驚くと同時に、ここに現代のネット社会の本質的な問題が潜んでいると感じています。インターネットは世界を広げるはずだったインターネットには、希望がありました。世界中の知識にアクセスできる、国境を越えて人と繋がれる、既存メディアが独占していた情報が民主化される……。多くの人は、インターネットによって人類の視野が飛躍的に広がると信じていました。それは、半分だけ正しかった。私たちは確かに、歴史上かつてないほど膨大な情報へアクセスできるようになった。しかし皮肉なことに、その結果として起きたのは視野の拡大ではなかったと私は思います。問題は情報の量ではなく、情報の流通構造にあります。SNSプラットフォームのアルゴリズムは、ユーザーが長くプラットフォームに滞在するように設計されています。そのために最も有効な手段が、「ユーザーの感情を刺激する情報を優先的に表示する」という仕組みです。自分が共感する意見、自分が怒りを感じる対象、自分が不安になる情報……そうしたものばかりがタイムラインに流れてくる。私たちは世界を見ているつもりで、実際には「自分自身の感情が反射した鏡」を見ているのかもしれません。これは、「フィルターバブル」と呼ばれます。イーライ・パリサーが2011年に提唱したこの概念は、アルゴリズムによって各ユーザーが自分好みの情報のみに包まれた「泡(バブル)」の中に閉じ込められていく現象を指します。さらに、その泡の中で同じ意見ばかりが反響し合う「エコーチェンバー」が形成されると、人は自分の認識が世界の標準だと無意識に思い込むようになります。SNSは村社会の復活かこの構造が生み出しているのは、一つの逆説的な事態です。インターネットは世界を一つにする技術だと思われていた。しかし実際に起きたのは、無数の小さな村への分裂でした。政治の村、投資の村、ゲームの村、アイドルの村、陰謀論の村、フェミニズムの村……それぞれが独自の価値観を持ち、独自の常識を持ち、独自の敵を持っています。村の中では、それが世界の常識です。しかし村の外に出ると、その常識はほとんど通用しない。それどころか、その炎上そのものを誰も知らない。かつては、NHKのニュース、全国紙、民放のワイドショーといったマスメディアが、ある程度の「共通の現実」を社会に提供していました。情報の均質化には問題もありますが、少なくとも「同じニュースを見ている」という意識が、社会的な議論の前提を形成していました。それが今や、ほとんど失われています。ネットで大炎上が起きても、テレビしか見ない層はその炎上を知らない。テレビで大きく報じられても、ネットの特定界隈しか見ない層は、その報道に触れない。そして同じネットユーザーの中でも、政治系の村に住む人とアニメ系の村に住む人とでは、全く別の「世界」を生きています。現代人は巨大な世界に生きているようでいて、実際には極めて小さな共同体の中で生きているのです。インターネットによって私たちはグローバル化したのではなく、高度に細分化された村社会へと回帰した、と言えるかもしれません。なぜ炎上は巨大に見えるのか村に分裂したこと自体は、ある意味で、人間社会の本来の姿への回帰とも言えます。人類の大半の歴史において、人間は数十人から数百人規模の共同体で生きてきたのであり、その中で共有された価値観と敵を持つことは、集団の結束に不可欠でした。しかし現代の村社会には、かつての村社会にはなかった特性があります。それが「スケール感覚の崩壊」です。ある界隈で炎上が発生すると、その話題は、関連する人々のタイムラインを埋め尽くします。誰もが同じ話をし、同じ怒りを共有し、同じ敵を批判する。この状態に置かれると、人は「世界中がこの問題に注目している」という強烈な錯覚を抱きます。しかし実際には、その「世界」は自分の村の内側に過ぎない。当事者たちは巨大な嵐の中心にいると感じているが、外から見ればコップの中の嵐です。重要なのは、この錯覚が、アルゴリズムと人間の認知が組み合わさって生じる構造的な現象だという点です。タイムラインに同じ話題しか流れてこない状態は、「その話題が世界を席巻している」という認知と区別がつきません。かつての村社会では、隣村に行けばその問題を誰も知らないことが分かりました。しかし、現代の村社会では、その検証をアルゴリズムが妨げます。ドラマ『3年A組』が描いていたもの、そして描けなかったもの2019年に放送された学園ドラマ『3年A組』は、ネット上の誹謗中傷によって追い詰められた女子生徒の死を巡り、一人の教師が生徒たちと向き合う物語でした。ドラマの最終回で教師は、画面の向こう側のSNSユーザーたちに向けて、根拠のない情報を拡散し他者の人生を破壊することへの警鐘を発し続けました。しかし、その熱弁の最中にも、画面上には冷やかしや嘲笑のコメントが流れ続けるという演出がありました。今振り返ると、この演出こそが、このドラマの最も誠実な部分だったように思います。どれほど強いメッセージを発しても、ネットの前では空回りしてしまうという現代社会のリアルを、制作者たちは正直に描いていた。しかし当時と現在では、ネット社会の構造そのものが変質しています。このドラマが描いたのは、ある程度共通の現実を共有した社会の中で、不特定多数の「マス(大衆)」が一人の個人を叩くという構図でした。そこには一つの「巨大な広場」があり、その広場で石が投げられていた。ところが、現在の炎上は、それとも異なります。一つの巨大な広場ではなく、無数の密室で、それぞれの村が、それぞれの敵を叩いています。政治村には政治村の敵がいて、フェミニズム村にはフェミニズム村の敵がいる。そして私の興味は、そこに見ることができる人間心理の共通の構造です。正義は、なぜ快感になるのかこのドラマ『3年A組』が最も深く描いていたのは、実はネット社会の問題ではなく、人間の心理の暗部でした。なぜ人は他人を攻撃するのか。ドラマが提示した答えは、「弱さから逃げるため」でした。傷ついた自尊心、劣等感、嫉妬、不安、孤独……。そのような感情を直視する代わりに、人は外部に敵を作り出し、その敵を攻撃することで自分を守ろうとします。自分のプライドが傷ついたとき、地道に自分の価値を高めていくことは苦痛を伴います。しかし、相手を引きずり落とすことで相対的に自分の位置を上げることは、はるかに手っ取り早い。ドラマの登場人物の一人は、自分を振った女子生徒のドーピング疑惑を捏造してネットに流すという行為に走りましたが、それはこの心理の典型的な表れでした。この心理は、現代のネット炎上においても変わりません。そしてここに、一つの重要な問いが生じます。なぜ人々は、その閉鎖的な村の中で、これほどまでに熱狂して他者を叩き続けるのか。その答えの一つが「正義の快感」です。人は、単なる悪意だけでは長くは戦えません。しかし、正義を手に入れると無限に戦える。自分は正しく、相手は悪であるという確信は、人を無力感や劣等感から一時的に解放する強力な麻薬として機能するのです。しかもその正義が、同じ価値観を共有する閉鎖空間の中だけで循環し始めると、それは絶対化されます。村の中では誰も反対しない、誰も疑問を持たない、全員が同じ方向を向いている。その状態で、人は最も確信に満ちた顔をして、最も残酷な行動を取ります。歴史上のあらゆる集団暴力もまた、「正義」の名のもとに行われてきたことを、私たちは知っています。現代の村社会が特に危険なのは、かつての村社会ならば隣村との接触によって相対化されていた「自分たちの正義」が、アルゴリズムによって、ほぼ永続的に強化され続ける点です。問題は技術ではなく、人間そのものである多くの論者は、SNSのアルゴリズムを問題にします。それは重要な指摘ではありますが、私はそれ以上に本質的なことがあると考えます。アルゴリズムは人間の弱さを利用しているにすぎません。その弱さそのものは、インターネット以前から存在していた。村社会の噂話、魔女狩り、異端審問、集団リンチ……。人類はそららを繰り返し、閉鎖的な共同体の中で、「正義」の名のもとに他者を排除してきた。SNSによって突然人間が、そのようになったのではないのです。もともと存在していたものが、可視化され、加速され、地理的制約を超えて拡散されるようになっただけです。そして、この問題を「技術の問題」として外部化することは、ある意味で、私たち自身も同じ罠に陥ることを意味します。「アルゴリズムが悪い」「プラットフォームが悪い」という言説は正しい面を含んでいますが、それだけでは自分自身の認知の問題を外部の原因に帰着させる、一種の責任回避になりかねないのです。自分の見ている世界を疑うということでは、この時代に私たちはどう生きればいいのでしょうか。たった一つの解決法しか存在しません。それは、自分の見ている世界を疑うということです。今、自分が怒っていることは、本当に重要な問題なのか。今、自分が見ている情報は、この世界そのものなのか、それとも自分の村だけの常識なのか。自分の正義は本当に正義なのか、それとも自分の弱さを守るための物語に過ぎないのか。これは決して、簡単な問いではありません。自分の正義を疑い、自分の弱さに向き合い、自分の村の外に出ることは、痛みを伴います。しかしそれこそが、閉鎖空間の呪縛から自由になるための、唯一の道だと私は思います。現代人に足りないのは、情報ではありません。情報はあり余るほどある。足りないのは、その情報が、自分のどのような感情や弱さに向けてキュレーションされているかを問い掛ける習慣です。SNSは、世界への窓ではなく、自分自身を映す鏡です。アルゴリズムが見せているのは世界ではなく、自分が怒るもの、恐れるもの、憎むもの、そして信じたいものです。その鏡に映る像を世界そのものだと信じた瞬間に、人は事実を見失い始めます。何が事実なのか。アルゴリズムが示す情報の渦から抜け出し、事実を絶えず問い続ける姿勢こそが、今、私たちに最も求められているのです。日本のドラマ 3年A組 -今から皆さんは、人質です全10話 完整版 出演:菅田将暉/永野芽郁,DVDディスク再生に対応Amazon(アマゾン)