水井さん、心に響くご回答、ありがとうございました。
特に、こちらの部分が印象に残りました。

>>>それは、人生の悲しみや苦しみを受容し、自分自身の力で浄化できるということです。
悲しみや苦しみから目を背け、非現実的なイメージの自己催眠をかけることとは、全く違うことです。<<<

良薬は口に苦し、とはよく言ったものです。
苦いけど、少しずつ慣れて、きちんと飲んでおいた方が後々自分のためになる。
水井さんご自身、そして紹介されている本からのメッセージは、受け取る側にもそれ相応の努力や自己省察が要求されますので、私にとっては「ほろ苦い+痛い薬」です。
書店に平積みされているような口当たり抜群の「即!幸せが」「即!いい気分に」系統の本とは確かに全然違います。

一般的な読者に向けて、口当たりを良くして、なおかつ商業的成功も目論むとすると、もはや自己催眠的な、ある種トリックとも言えるようなアプローチに訴えるのが一番手っ取り早いのでしょうね。

世間にもてはやされている本。
(出版社や著者が)売る気満々で推している本。
そのような本 イコール 良書... とはならないこと、肝に銘じておこうと思います。
甘やかしてくれるような言葉に弱いので。



売れるということを目指すと、どうしても浅いものにならざるを得ないと思います。

難しいものは、世間受けしないですから。

もちろん、売れるものの中には、深いものも稀にはあります。

それは、偶然、その時代のエネルギーにシンクロしたから、世に出たんでしょうね。


僕も企業でマーケティングに携わっていた時期があるので、どういう風にすれば売れるのかというのは、ある程度はわかっています。

時代のエネルギーを読んで、それにシンクロするようにパッケージをしなければなりません。

最近のスピリチュアル業界で言えば、ノンデュアリティ系やマインドフルネス系の本が流行しているので、そういう切り口で、わかりやすく、読みやすい本にすれば、ある程度は売れるでしょう。

マインドフルネスなんて、僕は大学一年生の担任の先生が越川房子教授だったので、一番コアなところにいたんですけどね。

近年の、よくわからないマインドフルネスブームには、正直、うんざりしています。


流行というのは、そもそもがそういうものですから、それはそれでいいのだと思います。

消費され、飽きられて、捨てられる運命にあります。

僕は、そういうものは虚しいと思うのですが、それでも稼げる時に稼げばいいと思う人たちも多いので、ブームに乗って一儲けしようと画策する人たちもいるのでしょう。


逆に言えば、時代とある程度シンクロしながらも、ブームの終了とともに消えていくようなものではない、本質的な力を持つ作品を作ることができたら、理想的ですよね。

音楽であれ、文学であれ、自己啓発であれ、そういう創作ができればいいなと思います。

ただ、世の中には、僕も含めて、大衆的なのが嫌だという人種もいるので、そういう人たちが作る辺境の作品というのも、面白いものがあると思います。


僕がブログに書いているようなことは、一番、世間受けしないような内容です。

つらい現実から逃げないで、自分を深めていくといった内容は、ある意味で、恐ろしい教えではないでしょうか。

多くの人は、いかにして現実の苦しみから目を背けるための甘い言葉を探すかということに、終始していますから。


あるがままに生きるということも、本当は、ものすごく厳しいことだと思います。

ところが、これが流行のスピリチュアルの教えになると、あなたはそのままでいいんだよ、何の努力もしなくていいんだよ、すべてがそのままでいいんだよ、みたいな教えにすり替わってしまいます。

何の努力もしなくていいなんて、本当に都合のいい現実逃避ですね。

まあ逆に言えば、そこまで閉塞的な世の中になってしまったのかとも思いますが。

そこまでの強度のあるお花畑の教えでなければ、このつらい現実を生きていくことができないのかもしれません。



質問なのですが、
人は他人の意識や感情にシンクロするというのは理解できるのですが、そのシンクロのしやすさ、度合というものがあってならない気がするのですが、(体質?)どうでしょうか?



同調のしやすさというのは、個人差があるでしょうね。

職業的に、同調能力が必要とされるものもありますし。

たとえば、役者や歌手というのは、まさしく同調能力が必須な仕事ですから。

役柄に同調しなければなりませんから。


歌手というのも、本来は、人の物語を歌うことができなければならないんです。

ところが、最近の歌手は、そういう能力が未熟なので、自分で曲を作って歌うしかありません。

その場合は、曲作りの才能が必要とされるので、それはそれで大変でしょうが。


役者の場合は、自分を演じるわけではないですからね。

役柄を演じなければなりません。

いつも同じキャラしか演じられないなら、それは役者としては能力が未熟だということです。


他にも、同調能力が必要な職業はあると思います。

カウンセラーや治療師も、必須かもしれません。

そういう人たちは、あまりに他者に同調してしまうので、いろんなトラブルを抱えてしまいます。


同調し過ぎると、相手が抑圧している部分まで見えてしまうのです。

その場合、本人は自覚が無いですから、それを指摘すると危険なことになります。

肩こりでも、「この筋肉が固くなってますね」と伝えても、「いや全然肩こりなんかありませんよ」と言う人がいますよね。

それは、肩こりが激しすぎて、感覚が麻痺しているのです。

同様に、抑圧が激しいと、自分では自覚できませんから、それを指摘されても、まったく同意できないということになります。


そのような心理的な問題の場合は、抑圧されたものが解放されることに大きなリスクが伴います。

精神科医が患者に暴力を振るわれたりすることも、よく起こるらしいです。

これは、抑圧が解除されることを、患者側が凄まじく抵抗するからです。


ですから、同調能力というのは、諸刃の刃ですね。

見えないほうがいいということもありますよ。

霊能者が、霊が見えて困るというのと同じことです。


それでも、そういう仕事をしたり、同調能力に恵まれて生まれてくるというのは、そこで何らかの修行をしなければならないのかもしれません。

どのような状況でも、心を平安に保つ修行をしなければならないのかもしれないです。



「映像の世紀」旧バージョン、現在放映中の「新・映像の世紀」よりもはるかに見ごたえがあって好きでした。

今朝、「後半生のこころの事典」という本のアマゾンレビューを読みながら、

「悲しみも、苦しみも、絶望も、すべてその萌芽は自分の中に存在するのだ。
人によって、それが顕現するかしないか、意識されるかされないか、程度の差はあるけれど。」
文字にしてしまうと、ごく当たり前のことなのですが。

老化現象は、さまざまなネガティブをもたらします。
「自分は、世界は、こんなはずじゃなかったのに」という失望。
「あまり面倒かけてくれるな」という、若い世代から放たれる無言の圧力。
心通じ合える人々が一人、また一人と消えていく末に味わう、孤独。
衰える容色や身体機能。

そのようなきれいごとでは済まされない、負の側面とうまく付き合いつつ、生を全うできる高齢者こそが、真の生き上手だな...。
老いゆく身内を見ているうちに、少しずつわかってきました。

人生を、人間を、すべてを、そのネガティブな側面も含めてあるがままに見るようにする。
その練習は、どんなに早く始めても決して早すぎるということは無いと思います。



「映像の世紀」(NHKのドキュメンタリー番組)を見ると、人間というのが、どういう存在なのかがよくわかりますね。

ひたすら戦争を繰り返し、人を殺し、大量虐殺し、権力を追求するという人間の業がよくわかります。


それは人ごとではなくて、僕たちの中にも、同じような暴力性や残虐性があるわけです。

僕たちは、善人のように振る舞っていて、自分でも自分がそうだと疑わない部分がありますが、いざ何かが起こって、自分の暴力性が完全に肯定される状況になったら、いくらでも暴力的になるんですよ。

たとえば、昨今の炎上などは、暴力性が肯定される場ですよね。

悪いことをした人間たちを口汚い言葉で罵っても、それは正義なんだから許されるという論理です。

でも、戦争だって、ほとんどの人は正義のために人を殺していたのですから、同じレベルなのです。


大切なことは、自分の中にそういう暴力性があるということを自覚することでしょう。

自覚することによって、少なくともそれを制御できる余地が生まれますから。

そしていずれは、人類もそういう暴力性を浄化していくことができると思っています。


自覚というのは、ものすごく重要なんです。

歌の練習でも、自分の音程が狂っているということを自覚できなければ、正確な音程で歌うことはできません。

歌の場合、楽器とは違って、周波数レベルの小さな音程の狂いが、よく生じます。

ピッチが、フラット(♭)しているとか、シャープ(♯)しているとか言います。


歌手として活動している人でも、音程が微妙にずれている人が、結構いるのです。

フラットしていることが多いんです。

その場合、自分の声がフラットしているということに気づかないと、絶対に修正できません。

それは、耳の良さでもあります。


こういう微妙な音程の違いは、アカペラ合唱の場合、重要な要素になります。

アカペラでは、平均律ではなく、純正律で音程を合わせていくので、周波数レベルの微妙な音程の違いを、意図的に聞き分け、歌い分ける技術が必要になります。

このような微妙な周波数のズレに関する聴覚の鋭敏さが重要なんですね。


同様に、自分の心に対する自覚の深さというのが、その人の人間性の深みでもあります。

老化に関しても、その悲しみというのは、若さに対する執着ですよね。

女性の場合、美しさが重要な問題になりますから、特に、そこに対する執着は強いと思います。

その若さや美しさに対する執着を解除していくというのは、全てのものが生々流転し、移り変わり、老いていくということを受容するということだと思います。

この受容というのは、その人の深みを生み出すわけです。

そういう意味で、老いてもなお美しい人は、外面的な美しさに対する執着を捨てて、老いていくことを受容するがゆえに、心の美しさが現れてきた人なのではないでしょうか。

そして、人間にとって一番重要なのは、外面的な美しさではなく、心の美しさだと僕は思います。



水井さん、ありがとうございます。
自分もいつか、水井さんの様な覚悟で地球のありのままを見つめる事ができるだろうか、と思います。
あらゆる苦しみを見つめて、それでもただ風の心地良さを木々の美しさを感じ続ける事ができるだろうか。
もし使命というのが、幼い頃から「やらざるを得ない」ものなのだとしたら、自分は自分の心を見つめ続けることだな、と思っています。
自分の中の闇はどう世界に繋がっていて、世界の苦しみの元になっているのか、それらを見ていく事です。
でも分かりません。それを使命と思う事自体がエゴなのかも知れませんし(実際、私の場合は役には立ってないですし)
それでも、生まれてきてしまった以上やらずにいられない、という思いです。



ネガティブを見つめるというのは、ある意味では、ポジティブな行為なのだと思います。

苦しみや悲しみを見つめている時には、そこに巻き込まれていないという意味で、ニュートラルな意識状態ですから。

僕たちがネガティブなものに巻き込まれている時には、ネガティブと一体化しているので、それを見つめることができないんです。


苦しみや悲しみを見つめるというのは、人生のあるがままを受容しているということですよね。

それは、人生に対して、Noを言わないということです。

別の言い方をすれば、人生を無条件に愛しているということです。


これは、よほどの苦しみや悲しみを乗り越えて、それでも自分の人生を肯定しようと思った人でしか、味わえない境地だと僕は思います。

そういう意味で、覚悟というものが必要なのだと思います。


僕たちは、自分を知ることを恐れるわけです。

自分の中の闇を見るのが、怖いんです。

なぜかというと、闇を見ると、闇を浄化する可能性が生じるからです。

そういう意味では、僕たちは、自分を浄化することを恐れるんですね。


わかりやすい例で言えば、ずっと掃除をしていない部屋があったとして、その部屋に入るのを恐れるようなものです。

見るのが怖いんです。

とりあえず、その部屋のことは、なかったことにしようと思ってしまうわけです。

そうやって、僕たちは自分の心の闇をなかったことにして、ごまかしながら生きてきました。


そうすると、やはり僕たちの本質は、闇を浄化したいと望むわけです。

僕たちの顕在意識は、浄化を恐れるのですが、本質の魂は、浄化を求めるんですね。

この葛藤が生じるのです。


そこで魂は、自分の心の闇に気づいてください、というメッセージを送ってきます。

そのメッセージが、トラブルという現象なのです。

あなたには、こういう側面がありますよ、こういう穢れがありますよ、という風にメッセージを送ってきます。

自分の心の闇が他者に投影されて、その他者に対する感情的な反応が起こるのです。


その時に、自分の中に、抑圧されていた心の闇があるのだと気づいて、分離し、見ないことにしていた自分を受け入れ、統合することができたら、その統合が浄化をもたらすのです。

ところが、ほとんどの人は、そういう作業はしません。

投影された闇を攻撃し、排除しようとします。

私だったらそんなことは絶対にしない、と主張します。

これによって、統合のチャンスを失い、さらに強く闇を抑圧することになるのです。


ですから、自分を見つめるというのは、痛みを伴うわけですよね。

見たくない自分を見るのですから。

でも、それはネガティブなことではなく、自分を統合し、浄化していくためのポジティブな行為なのです。



芸能というのは、元々、興行によって成り立っていました。

興行というのは、様々な地方で、コンサートなどのイベントを開催することです。


興行では、地方でイベントをする時に、その地域で力を持っている人たちの協力が不可欠でした。

なぜなら、地元で観客を集めなければならないからです。


僕は昔、XJAPANのToshiさんと交流があった頃、Toshiさんの岡山コンサートを主催しました。

その時も、僕は、岡山で力を持っている企業の社長さんや、行政の方々に、協力を仰ぎました。

チケットを購入してもらったり、宣伝をしてもらうためです。

現代ですら、そのような協力をしてもらわなければ、コンサートができないのです。


ですから、初期の芸能興行では、地元で力を持っている人との繋がりが、ものすごく重要だったのです。

地元で力を持っているとは、どういうことでしょうか。

それは、政治的な力、経済的な力、そして興行を邪魔する人々を抑える力です。


イベントをしている時に、邪魔者が現れたり、騒ぎが起こったりすることは避けなければなりません。

「誰の許可で、ここで歌謡ショーをしとるんじゃ!」と、ならず者たちがいちゃもんをつけてきた時に、それを抑える力が必要になります。

それらの力を持っている組織というのは、当然、その地域を支配している非合法組織にならざるを得ません。

ですから、地方で安全に興行をするためには、地元の非合法組織との付き合いが不可欠だったのです。


それが初期の芸能興行でしたが、その後、芸能事務所が、芸能人たちをマネージメントし、興行を仕切るようになります。

芸能事務所が、地元の非合法組織と渡り合っていくためには、当然、協力関係を築く必要があります。

というより、芸能事務所の中には、非合法組織が運営しているものもあり、芸能事務所と非合法組織は、最初から密接な関係にあったのです。


まずは、この点を理解する必要があります。

芸能界というのは、非合法組織に非常に近い場所にある世界だということです。


それから、芸能人やスポーツ選手は、大金を持っています。

少し歌ったり、芸をしたりするだけで、信じられないような額のギャラが入ってきます。

あぶく銭です。

美味しいものを食べ、美味しいお酒を飲み、セックスをし、高級外車に乗り、高級なマンションに住む…

それでも、お金が余ります。

あらゆる快楽を味わい尽くした時に、彼らは、どうするでしょうか。


若くして大金を手に入れ、わがまま放題で、何でも思い通りになる世界。

お金で手に入るような快楽は、すべて味わい尽くしたのです。


そんな時、芸能界のすぐ近くに、危険な誘惑があるのです。

覚せい剤を使ってセックスをしたら、その快楽が何十倍にもなる…

人生に一度くらい、その快楽を味わってみないか…


覚せい剤というのは、セックスや自慰をするときに、極限の快楽をもたらしてくれるそうです。

あらゆる快楽を味わい尽くして、飽きてしまった芸能人たちにとって、未知の快楽を味わえることは、大きな誘惑になります。


非合法組織にとって、大金を持っていながら、誘惑に弱い芸能人たちは、格好のターゲットになります。

上顧客になるのです。


上顧客というのは、ふたつの意味があります。

ひとつは、高額な覚せい剤を売り続けることができる

もうひとつは、芸能人の弱みを握って、生涯、支配し続けることができる。


酒井法子さんは、セックスの時に覚せい剤を使ったせいで、覚せい剤に依存するようになったそうです。

これを逆に考えてみてください。

特定の女優や歌手を支配しようと思ったら、覚せい剤を使ったセックスに溺れさせればいいのです。

支配する側は、同時に、弱みを握ることができます。

「もし言うことを聞かなければ、覚せい剤を使ったことをリークするぞ」と脅すことができるのです。

これが、非合法組織に関わっている芸能事務所が、芸能人を裏で支配する手段のひとつになっているというのを、僕は聞いたことがあるのです。


こんな恐ろしいことは、嘘だと思いたいです。

芸能界はクリーンで、覚せい剤など、ごくごく一部の弱い人間しか、手を出さないものだと思いたいのです。


もちろん、非合法組織とは何の繋がりもない芸能事務所も、沢山あるでしょう。

ドラッグには、一切関わらない芸能人も、沢山いるでしょう。


僕が聞いた噂は、レアケースが誇張されたものかもしれません。

ただ、僕たちが考えている以上に、芸能界と非合法組織には、深い繋がりがあるのです。


大金があり、より大きな快楽を求めている芸能人たちの目の前に、覚せい剤が出されたら、誘惑に負ける人もいるのではないでしょうか。

覚せい剤というのは、使ったら元気になるとか、そんな目的で使うのではないのです。

覚せい剤を使ったセックスが、ものすごい快感だから、やめられなくなるのだそうです。


お金があって、お金で買える快楽を味わい尽くした芸能人たちが、ドラッグによって、より大きな快楽を求めることは、僕たちが思っているほど、異常なことではないのかもしれません。

ホイットニー・ヒューストンさんは、コカインの常用で亡くなりました。


芸能人や芸術家というのは、至高体験を求めます。

しかし、それが間違った方向に行ってしまうと、ドラッグによって、特殊な快感を味わいたいという衝動に駆られるのでしょう。


それはスポーツ選手も同じなのかもしれません。

若い頃、スタジアムで大声援を浴びて、ホームランを量産していた快感というのは、至高体験に近いと思います。


その快感への欲求を、別の仕事や趣味などに切り替えることができていたなら、清原選手も、このようなことにはならなかったのかもしれません。

そのような新たな道を見つけることができなかったのが、清原選手の不運だったのかもしれません。

しかし、今回の経験を乗り越えて、覚せい剤が与える幻想の快楽ではなく、真の喜びを感じられるような仕事や生き方を、清原選手が見出していければいいと思います。


僕たちも、いつ自分の弱い心によって、つまづき、転倒し、あるいは転落してしまうかもしれません。

他人事ではないと思うのです。

僕たちの心も弱いのです。

寂しいのです。

だから僕たちは、ささやかでも、真の喜びや幸せを感じられるような日々を、自分の力で、見出していく必要があると思います。



水井様、こんばんは。

お金があってもなくても、名声があってもなくても、幸せを感じることが可能だと思うのですが、いかがでしょう?



そうですね、内面的な幸せというのは、お金や名声といった外界に関わる刺激からしか得られないものではないですよね。

僕たちは、自分の幸福感を外界に依存させているから、外界のものが欲しくなるわけです。

それは端的に言えば、自分で自分の心を満たすことができない、ということです。


外界からの幸せだけに依存すると、それを失う恐怖に苛まれます。

それはコインの裏表であり、セットになってやってくるのです。

お金を獲れば、お金を失う恐怖が同時にやってきます。

名声を得れば、人気が落ちていく恐怖に苛まれます。

得ることと失うことがセットでやってくるわけです。


その恐怖心を紛らわすために、もっと多くのお金が欲しくなります。

もっと名声や権力が欲しくなります。

そうやって、もっともっとと求めていくことで、あらゆる争いが起こるのです。


物質は限られたものですよね。

誰かが富めば、必ず、誰かが貧しくなります。

誰かが名声を得れば、必ず、誰かが夢破れます。

芸能界を見れば、それが露骨に現れているでしょう。

スキャンダルでポジションを失えば、すぐに新しい人が、そのポジションを奪います。

人気を失った芸能人は、仕事がなくなります。

みんなお金と名声を失う恐怖の中で仕事をしているのです。


ハリウッドの役者であるトム・ハンクスさんは、あれだけのポジションを得ていながら、次の作品が決まるまで、ものすごい恐怖に苛まれると言っていました。

特にアメリカは、芸能事務所が終身雇用で生活を守ってくれるわけではないので、仕事を失う恐怖は、計り知れないものがあるのでしょう。


僕たちが、自分の幸福感を、外界の要素に依存させている限り、本質的な幸せを味わうことはできないです。

失う恐怖がある幸せは、本質的な幸せではないですよね。

宗教やスピリチュアルの世界では、そのような世俗的ではない幸せを、多くの修行者たちが追求してきました。

そういう本質的な幸せは、サマーディとか至福と言われています。


しかし、修行者ではなくても、そのような内面的な幸せを見出していくことはできるはずです。

ある人は仕事を愛することを通して、ある人は家族を愛することを通して、見返りのない愛を見出して行くことができるかもしれません。

そのような見返りのない愛には、失う恐怖が内在していませんから、至福の状態なのだと思います。


そうやって、僕たちは人生を通して、本質的な幸せを確立していくことを学ぶのだと思います。

それができれば、外界の幸せは外界の幸せとして、内面の幸せは内面の幸せとして、その幸せを享受することができるはずです。

 

時すでに早春であり、グルジェフがアメリカから帰る直前だったので、私は彼女の言葉がある程度は気にかかった。

養鶏場を掃除し、私の仕事のほとんど全部について、少なくとも若干の改善を加えたが、私は相変わらずある種の空想の世界に暮らしていたので、できるだけ多くのことを延期した。

 

グルジェフが到着する日を知ったとき―彼がプリオーレに帰還する日の朝発表された―私に与えられたさまざまな仕事の状態を調べてみて、私は動揺した。

彼が到着する前にすべてを整頓するのは不可能であることに気がつき、仕事の中でいちばん「目立つ」プロジェクトである、グルジェフの部屋を徹底的に掃除することと、中庭を掃くことに集中した。

そして、やましさでいっぱいとなり、彼が到着したのを知っても仕事から手を離さず、中庭を掃き続け、みなのように出迎えには行かなかった。

 

恐ろしくも、彼が呼んだ。

私は、懲罰を予期して、おずおずと出迎えの人の群れに加わったが、彼は私を温かく抱擁するだけで、旅行中に私がいなくて寂しかったと言い、彼の部屋へ手荷物を運ぶのを手伝い、コーヒーを持って来るようにと言った。

私にとって一時の猶予ではあったが、来たるべきことか恐ろしかった。

 

 

グルジェフがアメリカから帰ってきたのですが、著者は、ラフミルヴィッチの一件の首謀者だとミス・マジソンに思われていたので、そのことをグルジェフに報告されるのを恐れていたようです。

 

グルジェフからどんな懲罰が与えられるかと不安だったようですね。

 

 

(出典:「魁偉の残像」フリッツ・ピータース著 めるくまーる社刊)

 

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声がはっきりしたふたつの声区(「ファルセット」と「胸声区」)に分裂することについて述べ,このような終末端における声の崩壊は,喉頭懸垂機構の故障がその原因であるということを述べた。


このことに関連して,同じ原因でありながら,まったく異なった経過をとる2,3の例をあげてみよう。

発声にさいして喉頭が正しい位置に懸垂されていないとき,喉頭を引き下げる筋肉が役に立だないとすると,(恒常的に生きているあいだじゅう使うことによって,いつも完全に神経支配の行き届いている) 舌-舌根筋や嘸下筋が,喉頭引下げ筋の力の脱落の穴埋めを引き受けることになる。

もし舌-舌根-嘸下筋に対して,下からそれに対抗する抵抗がなければ,喉頭は舌骨上部の筋肉によって後上方へ引きあげられ,強直的に固く保持される。

舌はよけいなことをそれにつけ加えて,同時に後下方へ押しつける。

かくしておよそ,いわゆる「だんご声」ができ上がるのである。

 

 

喉頭を引っ張る筋肉が機能していないと、舌骨筋などの筋肉がその穴埋めをしなくてはいけなくなり、余計な緊張を生み出すということです。

 

そのせいで、不自然な癖のある声になるということですね。

 

ボイストレーニングというのは、このような不自然な癖を取り除いて、本来の合理的な発声を身につけていくプロセスでもあります。

 

 

(出典:「うたうこと」フレデリック・フースラー著 音楽之友社刊)

 

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叙事詩「マハーバーラタ」では、アガスティヤにまつわる物語がさらに詳しく述べられており、彼と南インドとの結びつきが明らかにされている。

こうした物語の中にはヴィダルバ国の王女、ローパームドラーとの結婚の話があり、アガスティヤはこの王女から、もし彼女との結婚を望むのであれば、彼の禁欲的な生活をまったく変えることなく、彼女が父である王の許で親しんだ高価な宝石や贅沢品を用意することを求められる。

アガスティヤが王女の要求に応えるためには、莫大な富をどこからか贈与されることを期待するしかなかった。

こうして彼は3人のアーリア人の王たちに次々に接近したが、彼らから富を得ることはできなかった。

 

アガスティヤは王たちと共にマニマティ(Manimati)のダイティヤ(daitya:鬼神)の王であるイルヴァラ(Ilvala)に会いに行った。

しかしイルヴァラは、あるバラモン(司祭)がインドラのような息子を彼に授けることを拒否したためにバラモンたちを嫌っていた。

イルヴァラはバラモンたちに対して奇怪な復讐を企てた。

それは自分の弟であるヴァーターピを雄山羊に変えて、その肉をバラモンたちの食べ物として差し出すというものだった。

バラモンたちがこの肉を食べた後に、イルヴァラはヴァーターピを蘇らせるのだった。

こうしてヴァーターピは笑いながら、バラモンたちの脇腹を切り裂いて蘇るのである。

2人の兄弟はこの方法で数多くのバラモンを殺していた。

 

アガスティヤと3人の王が訪れたときも、イルヴァラはこれと同じことを企てた。

イルヴァラが彼らをもてなすためにヴァーターピの肉を用意したところ、王たちは不快感を示したが、アガスティヤは出された肉をすべて平らげてしまった。

イルヴァラはいつものようにヴァーターピに蘇るように命じたが、アガスティヤの胃からは、ただげっぷだけが出てきた。

ヴァーターピはアガスティヤの胃の中で消化されてしまったのである。

 

イルヴァラはこれを不快に思ったが、もし彼の富の内容を当てることができたら、それをアガスティヤに与えることを約束した。

アガスティヤはイルヴァラの心を読むことができたので、王たちと共に求める富を持ち帰ることができたのであった。
ヴァーターピ(Vatapi)はチャールキヤ朝初期の首都であり、デカン地方の西部にある有名な要塞都市の名である。

現在、この都市はバーダーミと呼ばれる。

ここで述べた物語は、アガスティヤと南インドとのつながりの発端を示すものとして理解されるべきであろう。


また「マハーバーラタ」には、善なる神々が海に隠れている敵を退治できるように、アガスティヤが海水を飲み干す話と、同じくアガスティヤが、ある目的で南インドへ赴いたときに、ヴィンディヤー山脈に対して、自分が戻るまでは、さらに高くなることを止めるように言い聞かせたものの、ついに彼はそこに戻ることがなかったという話がある。
アガスティヤとヴィンディヤー山脈との約束や彼が海水を飲み干した話は、アーリア文明がヴィンディヤー山脈以南の地域に初めて伝播したことや、同文明が海を越えた島々やインドシナ地方にまで広まったことの寓話的な表現であると一般には理解されている。

アガスティヤの生涯に関する他の記述もこのことを裏づけている。

 

 

マハーバーラタというインドに神話に、アガスティヤに関する寓話があるようですね。

 

アガスティヤは実在の人物だったそうですから、当時、相当に卓越した能力を発揮していたため、このような神話ができあがったのかもしれません。

 

 

(出典:「ババジと18人のシッダ」マーシャル ゴーヴィンダン著 ネオデルフィ刊)

 

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他我を認める場合、「親(他者)」が「自分」を恫喝なり暴行する際にはどのような感情、感覚が沸き起こっていると考えたら良いでしょうか?
また、それは抗いがたいものになりますか?



親が子供を暴行するんですか。

世の中には、いろんな人間がいるので、そういうニュースもよく聞きますが、狂っているとしか思えません。

ただ、その親の精神状態が、よほど追い詰められている状態であることは確かでしょう。


かなり昔のことなので、書いてもいいと思いますが、子供を虐待してしまうという母親からの相談を受けていたことがあります。

虐待といっても、言うことを聞かないと叩いてしまう、といったことだったんですが。


僕がアドバイスしたのは、激昂したとしても、絶対に叩くといった行為だけはしないようにしてほしい、ということでした。

心をコントロールするのは難しくても、少なくとも僕に相談するくらい、その行為を問題視しているのなら、行為を思いとどまることはできるはずだと。

そういうアドバイスで、実際その方は、子供を叩くといったことをきっぱりとやめたそうです。


こういうケースの場合は、意図的に子供を傷つけようとしているわけではなく、自分の感情をコントロールできなくなって、そうしてしまうのです。

そういう場合はまだ、自分の行為をコントロールすることが出来る余地があるのだと思います。

ですから、まずは行動を抑制するということが必要でしょう。


そして、精神状態に関しては、親そのものが、抱えきれない恐怖心を持っているということだと思います。

何か、強い恐怖心があるから、子供が自分の言うことを聞かないだけで、キレてしまうわけですよね。

その自分の心の問題を、時間をかけて解決していくしかないでしょう。


人間が衝動的な怒りによって行動するときには、大抵その背後に、ものすごい恐怖心があるものです。

恐怖心というのは、外界の現象が自分の期待通りにならないことに対して、パニックを起こすということです。

子供が言うことを聞かないとか、そんなことでパニックを起こして、叩いてしまうわけですよね。

ですから、状況をコントロールしたいという異常な思い込みや信念が、背後にあるのではないでしょうか。


その心理の一番根底にあるものは、僕は、自己無価値観だと思います。

自分に価値がないという思い込みがあるから、外界の現象によって、自分の存在意義が揺らいで、ものすごい恐怖が湧いてくるのです。

その結果、その恐怖が、暴力になるわけです。

これが、瞬間的に生じるので、自分でも一体なぜ子供を叩いているのか、わからなくなるのだと思います。

自分は、そのままで価値がある、自分の存在そのものが大切なものであるという感覚があれば、そのような過剰な恐怖は湧いてこないはずなんです。

ですから、自分には価値がないという思い込みを解除する必要があると思います。