ダイヤモンドは0番地? 何のこっちゃ(笑)
石言葉は「愛の予感」「純粋な愛」だそうです。
誕生石がダイヤモンドなら、″D FL 3EX″みたいな人生、送りたかったなぁ(笑)
Sightseeing Express はなあかり / 雨の宮島口にて
宮島口駅で撮るのならば、もうどこでどう撮るかは、私の定番の場所があるので。
行く前から、予定通りのイメージトレーニング(笑)
かつて長大編成の列車が発着していた長いホームに、駅名標は上りと下りに1枚ずつしかありません。
そしてダイヤ改正で、既に通過扱いとなってしまったトワイライトエクスプレス瑞風の、専用ゲートとコラボ。
宮島航路 = 今は″JR宮島フェリー″の、乗り換え案内の表示と。
入線と共に発車した後ろ姿•••••••,と、撮り慣れた駅で、淡々と撮影シーンをこなして終了。
何か淡泊過ぎる撮影と感じられるでしょうけれど、本番は上り列車なので、そこで堪能するんですよ。
「地域の華を列車に集め、お客様と地域の縁を結ぶ列車」~エリアを変えながら西日本各地を運行する観光列車「はなあかり」。
JR西日本の″はなあかり公式サイト″から、紹介文を転載しました。
今春の運行は、広島城や平和記念公園など歴史と文化が息づく広島、世界遺産・嚴島神社を擁する宮島、そして錦帯橋の美しい景観を誇る岩国。
この春は、観光列車「はなあかり」が瀬戸内の名立たる観光地を繋ぎ、特別な旅をお届けします。
として、広島~宮島口~岩国と言った、短距離運転が 3月20日から6月28日まで行われました。
特別な車内の配置から、定員数が少ない仕様となっているので、外から見ていると乗車率が芳しくないように見えて。
1名から利用できるグリーン車は、プラチナチケットと化していたようですが、2名以上、3名以上の車両は、利用率がどうたったのか気になるところでした。
で、広島まで来て、広島ワイドパス、宮島・瀬戸内tabiwaぐるりんパス、宮島満喫パスなど「はなあかり」に乗車できないフリーきっぷとかもあって。
━ Miyajima Station Trains ━
広電 5000形 GREENMOVER / 魔法が発現する聖夜の5008号と5011号
梅雨の晴れ間、綺麗な朝に感謝した
JR貨物の被爆遺産 ついに取り壊しのお知らせ
| ⭐⭐⭐ 郷土史 日本史 私撰集 ⭐⭐⭐ |
核不拡散条約(NPT)は、各国の思惑が優先事項となり、成果文書の採択に至らず、3度目の会議失敗を招いたばかり。
そんな国際情勢の下、とても残念なニュースが届きました。
広島車両所 第1主棟に限らず、被爆建物は一番若い建物でも築100年を超えており、現存させることが難しい状態でありながら。
老朽化と耐震基準の更新がネックになり、いつまで保存が可能なのか先が見えないまま、毎年 月日は経っています。
そんな中、耐震・免震機能の付加など新基準の建築基準法に対応しながら、工場設備も最新の設備を投入しながら、現役で操業し続けているJR貨物 広島車両所は、本当に凄い存在だと感じていました。
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🍁 鉄道から見る郷土史シリーズ 🍁
Twilight Express 瑞風 / 瑞風と特急やくも









まぁ瑞風は、国際列車ではないですけれど。
そんな気分にさせてくれるのは、倉敷駅でのこの風景が、既に過去の記憶に変わってしまっているから。
それが心へのスパイスになっているからなのかも知れません。
Twilight Express Mizukaze | |
Favourite of celebrities, Cruising hotel train | |
広電 宮島線の電車 / 梅雨前線と台風が協調した日
なので、台風7号が「夕方から夜遅くにかけて接近」とする場合、15時頃から24時前の時間帯にと、とてもアバウトな予報だったりします。
警報級の雨……よく降りますわ
梅雨前線と台風をつなぐ線状降水帯。
もう注意報やら警報やらがいっぱい届きます。
1日 曇りマークだった22日、朝から小雨が降り出して、その後は降ったり止んだりの繰り返しでしたが。
まぁ、そこから毎日降るわ降るわ。
特に25日からは雨足も強くてなって、その雨量でずっと降り続けてる。
こんな降り方、平成30年豪雨災害を思い出してしまいます。
メンタルにも悪影響は出るんですよねぇ(困″)
降水量は、24日0時から25日16時までに、岩国市川西 213.0mm、大竹市 187.5mm、広島市中区 158.0mm、呉市宝町 164.0mm。
広島県内は26日未明から昼前にかけて、山口県内は25日夜遅くから26日明け方にかけて、局地的に雷を伴って激しい雨が降る見込みとしています。
26日18時までの24時間の降水量は、広島県南部・山口県中部・東部が 120mm、広島県北部・山口県西部・北部が 100mmを予想していて。
でも私個人的には、この雨音は天の救いだったりします。
メンタルが弱音を吐いた時は、意味不明な不安と絶望で、胸に重たい違和感が生じて。
よく胸が痛いとかって言う人もいますが、確かにことばにするなら1番近い表現かもしれませんけど。
気体の鉄球が心臓の高さの食道に取り憑いて、重い苦しさが襲ってきてるって感じだったりします。
その重さで、眠っていても目が覚めて、意味不明な絶望を味合わせて来る•••••••,何だろうね。
それがね、この大きな雨音が心を癒してくれて、重さで目が覚めないし、目覚めても絶望に包まれないの。
かなり楽な暮らしです。
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今日の9時頃には鹿児島沖通過でも、12時間後の21時には千葉県沖を通過する予想。
なかなか足が速い台風7号ね。
今日も雨が降り続き、広島は朝をピークに大雨になる恐れがあります。
雷雨となる可能性もあるものの、過ごしやすい体感の1日となりそうならしいです。
とは言え、既に雨の影響が出始めているところへ、台風の雨が加わることで災害の発生リスクが高まるようです。
土砂災害や河川の増水・氾濫、低地の浸水などに厳重な警戒が必要ですね。
あぁ、そうそう。
雷は落ちてるところを見たことあるけど、写真に撮ったこともありますよ。
沖縄 慰霊の日 2026 / 鉄の暴風「ぬちどぅたから」
| 被爆2世が語る平和記念日と世界史シリーズ |
平和をどう守り継承するか
6月23日は沖縄 慰霊の日です。
1945(昭和20)年、第二次世界大戦下において、アメリカ軍を主体とする連合国と日本は、 沖縄で激しい地上戦を行いました。
沖縄戦は、太平洋戦域での最大規模の陸戦であり、最激戦の一つと言われています。
沖縄戦終結から16年が経った1961(昭和36)、琉球政府立法院は、「住民の祝祭日に関する立法」(1961年立法第85号)において、沖縄の戦没者の霊を慰め平和を祈る日として6月23日を「慰霊の日」に制定しました。
復帰後は、沖縄県が「沖縄県慰霊の日を定める条例 (昭和49年10月21日条例第42号)」を制定し、現在に至ります。
1945(昭和20)年6月23日、太平洋戦争末期の沖縄で一般市民を巻き込んだ苛烈な地上戦の末、日本の組織的な戦闘が終わりました。
日本と連合軍の双方の犠牲者が約20万人にのぼり、県民の4人に1人が命を失いました。
広島そして長崎で当時の体験を証言できる人が少なくなる中、沖縄でも同様に沖縄戦を自らの″ことば″として語れる人が風前の灯火です。
6月22日の朝日新聞から引用します。
沖縄県豊見城市の豊崎中学校。6月の社会科の授業で、池間大輔教諭(45)はまず、生徒たちに目を閉じるように言い、艦砲射撃の爆音を教室に流した。
目をあけさせると、砲弾が炸裂した跡がすきまなく地上に広がる映像を見せ、実物の砲弾の破片を手渡した。ずしりと重い。
15~19歳で動員されたひめゆり学徒隊の解散命令の話に進む。
壕を出てそれぞれ行動するよう命じられ、多くが命を落とした。
その場に自分がいたら、解散命令に賛成か、反対か。逃げるならどの方向か。生徒たちは地図を囲み、それぞれ答えを探る。
「最後までみんなと一緒にいたい」「一人は怖いけど、みんなでいると狙われやすくなる」。破片を見つめ、「こんなものが飛んでくる中で、本当に逃げられるのか」とつぶやく生徒もいた。
迷いを言葉にすることで、沖縄戦を自分に引き寄せる。
池間教諭は、もともと戦争の悲惨さを伝える授業をしていたという。だが、それだけでは「知った」で終わりかねない。
体験者の直接の語りに触れにくくなる時代に入り、知識を教え込むのではなく、自ら感じ、どう考えるかを問う授業へと軸足を移した。
先の戦争の体験者はいずれいなくなります。
学校や家庭・社会において、大切な記憶や教訓が継承できない時代が訪れると言う、直面した問題にどう向き合うのか。
現在、国防のあり方や憲法改正の動きに対して、多くの賛否両論な意見が舞う中、正論とはほど遠い意見が飛び交う現状。
もっとちゃんと向上性のある意見が、賛否両方から出ないものかと、もっとまともな事が言えないのかと、ユーチューブやSNSを見ていてイライラが募ります。
平和教育•••••••,子どもたちが、若者たちが、自ら考え、迷い、言葉を探し、それを支える学びの場をどう守り広げるか。
それは決して沖縄そして広島・長崎だけの問題ではありません。
鉄の暴風とは
「鉄の暴風」とは、第二次世界大戦末期の1945(昭和20)年、沖縄戦において米軍艦隊から浴びせられた凄まじい艦砲射撃や空襲などの、無差別砲爆撃を指す言葉です。
地形が変わるほどの猛攻撃を暴風に例えたもので、戦後の沖縄戦を記録した書籍「沖縄戦記 鉄の暴風」のタイトルとして使われたことから、全国的に認知されました。
しかし時代が流れ「鉄の暴風」も知らない人が増える中で、今年はどれほどのものだったのかを、数字で表してみたいと思います。
攻撃の規模としては、連合軍の物量作戦により当時の沖縄の総人口(約40万〜50万人)に対して、約270万発以上の砲弾が撃ち込まれました。
上陸前の事前攻撃を含め、1945(昭和20)年3月末から約3ヶ月間にわたり続き、軍人だけでなく多くの一般住民が巻き込まれ、合わせて20万人以上の尊い命が犠牲となっています。
沖縄県は大小の島々からなる構成ですが、今回は頭の混乱を最小限に抑えたいので、沖縄本島に絞って数字のお話しを進めます。
沖縄本島の面積は、約1,206.98 km²で、日本の島の中では、本州、北海道、九州、四国、択捉島、国後島に次いで、7番目の大きさを誇ります。
南北の長さは約106.6km、最大幅は約31.2kmと、細長い形をしており、北海道の札幌市(約1,121 km²)より少し大きく、香川県の面積の約3分の2に相当します。
長さを例えると、東京駅からだと伊東市 や箱根町、宇都宮市や水戸市の手前あたり。
大阪駅からでは敦賀市、豊岡市、津市、広島駅からだと新山口駅西側、出雲大社、津山市と言った距離です。
ここにアメリカ艦隊1,500隻が包囲し、艦砲射撃をしているのですから、艦船1隻あたり、沖縄本島の陸地約0.8 km²の空間を割り当てられる計算になります。
沖縄本島の海岸線の総距離は476kmなので、海岸線1kmあたり3.15隻の艦船が停泊している計算となるため、当時は317mごとに停泊していたことになります。
これは、水平線がすべて軍艦で埋め尽くされたと言われる視覚的圧倒(「海が真っ黒に見えた」という証言)の数学的裏付けと言えます。
そして敵性国家による艦船ですから、ただ遠巻きに停泊している訳ではなく、相手は砲撃して来るのですから、砲弾密度が重要となります。
沖縄公式サイトによれば、4月1日の戦艦・巡洋艦からの艦砲射撃発数は4万5千発となっており、1日で1 K㎡あたり37発が撃ち込まれた計算になります。
尚、この数字は艦砲射撃の密度であって、空爆・空襲による攻撃は含まれていません。
沖縄戦全体で米軍が投入した爆弾・砲弾の総重量は、約20万トンと推定されています。
この莫大なトン数を面積あたりの空間密度に均等で落ちたと仮定すると。
沖縄本島の陸地1 k㎡ あたり、約166トンの鉄が降り注いだ計算になり、1㎡あたり約166グラムとなります。
これは、本島全土のどこに立っていても「缶コーヒー1本分ほどの重さの鉄の破片」が、頭上から均等に落ちてきたという、極めて異常な高密度です。
が、実際の戦闘ではもっと合理的な物量攻撃が行われるのは、今も昔も同様で、これはあくまでも数学的なデータ。
実際には南部や中部の海岸線に艦隊は集合し、集中を浴びせるため「1㎡に1発」の砲弾が炸裂し、極限の密度に達していました。
そう、缶コーヒー1本分どころか、砲弾そのものが降って来ています。
砲弾の高密度地域は、首里(当時の日本軍司令部)や南部戦線、上陸海岸などに集中しました。
特に激戦地となった南部地域などでは、1㎡あたり数キログラム〜十数キログラムに達した場所もあり、まさに「地形が変わり、山の形が崩れる(鉄の暴風)」と言われる通りの悪魔的破壊力でした。
更に、現代に残る「不発弾」は、戦後80年以上が経過した現代にも、莫大な影響を与え続けています。
当時の不発弾は全体の推定5%と見積もられており約1万トンで、戦後〜現代までに処理された量は約8,150トン。
今なお地中に埋もれている量は約1,850トンと推定されており、 沖縄本島の面積1k㎡に対して あたり約1.5トンが地中に埋もれている計算になり、完全な処理にはさらに100年近くかかると試算されています。
他の大空襲との対比
この20万トンという規模を、東京・大阪・岩国への空襲と比べて、どれほど桁違いだったか、物量比較」をしてみます。
三都市への「空襲(数時間の爆撃)」と、数ヶ月に及ぶ「陸上戦(艦砲射撃+空襲)」の違いはありますが、数字で見ると沖縄戦の物量がどれほど突出していたかを知ることができます。
◎ 沖縄戦(全体) 3月末〜6月の約3ヶ月。総重量 = 約200,000トン。 艦砲弾、通常爆弾。犠牲者 = 約200,000人。
◎ 東京大空襲 3月10日 未明に約2時間半。総重量 = 約1,700トン。集束焼夷弾。犠牲者 = 約 100,000人。
◎ 大阪大空襲 3月13日〜14日に深夜波状攻撃。総重量 = 約1,700トン。 集束焼夷弾。犠牲者 = 約 4,000人。
◎ 岩国大空襲 8月14日 昼間に約30分。総重量 = 約700トン。500ポンド通常爆弾。犠牲者 = 1,000人。
事実上の第二次世界大戦で史上最大だったのは、東京大空襲である事実は変わりませんが、焼夷弾ではなく実弾使用による空襲として、岩国も史上最大の空襲と呼ばれています。
東京と大阪への空襲は都市の焼き討ちが目的だったのに対して、岩国は殺戮が目的だったことから実弾使用となりましたが、航空機への搭載量も焼夷弾の方が多く積載できました。
また都市の大きさや、人口密度、空襲のタイミング、攻撃時間、それまでの被害の大きさなどで、各都市のデータは違っています。
それらを前提に数学的な視点から見る3つの特徴を見ていきます。
①「総物量」の桁違いな差(沖縄 vs 都市空襲)
沖縄戦で撃ち込まれた20万トンという総重量は、史上最大規模の都市空襲である東京大空襲の約117倍に達します。
都市空襲はB-29爆撃機が運べる重量(1機あたり約6トン)に制限されるのに対し、沖縄戦では「巨大な弾薬庫」である軍艦1,500隻が海上に張り付き、数ヶ月にわたって毎日大砲を撃ち込み続けたため、このような圧倒的な差が生まれました。
②「目的」の違いによる爆弾の種類の差
東京・大阪(都市空襲)
木造家屋を効率よく焼き払うための「焼夷弾(火を放つ爆弾)」が中心でした。
重さよりも「数と燃焼力」を重視したため、1,700トンという重量以上の広範囲が焼け野原となりました。
岩国大空襲(駅前空襲)
山陽本線という物流の大動脈や軍事拠点を物理的に破壊し、最後に多くの命を奪うため、重い「500ポンド通常爆弾(破壊用爆弾)」が約700トン集中的に投下されました。
終戦前日のわずか30分ほどの間に108機のB-29が一斉に爆撃したため、攻撃密度は大戦中随一となり、駅前はクレーター(爆弾穴)だらけの廃墟と化しました。
沖縄戦
地下の陣地や洞窟(ガマ)に立てこもる日本兵を爆破するため、地表を削り取るほどの重量級の艦砲弾や対地爆弾が使われました。
③「面積あたりの密度」で見る過酷さ
東京大空襲は、東京の「下町地域(約 41 km²)」に集中的に1,700トンが落とされたため、局所的な密度は 1 km² あたり約 41 トン でした。
一方の沖縄戦は、沖縄本島全土(1,207 km²)という広大な面積に対して平均しても 1 km² あたり約 166 トン であり、局所的な爆撃をはるかに凌駕する濃度の破壊が、全県規模で、しかも長期間にわたって維持されたことが分かります。
都市空襲が「一瞬で都市を焼き尽くす一撃」だったとすれば、沖縄戦の「鉄の暴風」は「東京大空襲クラスの破壊力を100回分以上、数ヶ月にわたって島全体にすり潰すように浴びせ続けた戦闘」という数学的関係になります。
沖縄戦、改竄された辞世の句
太平洋戦争末期の沖縄戦で、防衛に当たった日本陸軍第32軍の牛島満司令官が自決前に打電した辞世の句は、本人が書いたものではないことが判明。
誰かによって、本土決戦へ向けて戦意高揚を図る内容に書き換えられた上で、当時の新聞各紙に掲載されていたようです。
確認した沖縄国際大の吉川由紀非常勤講師(沖縄戦研究)は「句を受け取った軍中央部が改変した可能性がある」との見方を示しています。
国立公文書館アジア歴史資料センターが公開している電報の資料や、沖縄県が編さんした県史の資料編によると。
「秋ヲモ待タデ 枯レ行ク島ノ田草ハ 帰ル御国ノ春ヲ念ジツツ」
との原文が記されていました。
送信は1945(昭和20)年6月18日。
しかし、沖縄での日本軍の組織的戦闘が終わった後、26日以降の新聞には•••••••。
「秋を待たで 枯れゆく島の青草は 皇国の春に甦らなむ」との句が掲載されています。
吉川氏によると、元の句は「田草のような私は死んでいくが、日本が戦争に勝ち、安泰となることを願う」との意味。
一方、新聞の句は臣民(青草)が「再び立ち上がってほしい」(皇国の春に甦らなむ)という内容になっています。
当人の名前で、辞世の句が2つある以上、本土で新聞に発表したものは、軍上層部の誰かによって捏造されたもの。
誰か•••••••。
1945(昭和20)年4月に、鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣に就任し、戦争末期に降伏への賛否を巡り混乱する政府で、本土決戦への強硬派の代表者だった人物。
戦争継続を強引に主張する彼の名は阿南惟幾(あなみこれちか)陸軍大将 正三位勲一等功三級。
恐らく彼自身と言うよりは、彼の側近(信奉者)たちによる犯行と見るのが正しいような気がします。
最終的に、昭和天皇の聖断によるポツダム宣言受諾が決定され、同年8月15日に割腹自決しましたが。
沖縄、導く者たちの反目
まずは余談ですが、中国の複数の旅行会社が日本への団体旅行の募集を再開した一方、中国国内で再開の報道が広まった後、一部の会社が募集を停止したそうです。
中国共産党は国内の大手旅行各社に対し、日本行きビザ申請数を減らして訪日旅行客を従来の6割まで減少させるよう指示していましたが。
クルーズ船の寄港先を、日本から韓国や東南アジアに変更すると発表した中国のクルーズ船運営会社「アドラ・クルーズ」は、長崎県や沖縄県へ寄港するプランの募集を開始。
中国の旅行会社関係者は「日本は中国人に人気の国で、旅行会社も日本ツアーをやらないと持たない」と本音を話す一方、中国の国有企業で観光大手の「中国旅遊集団」の関連会社は。
19日昼の段階で夏休みシーズンに向けた6泊7日の団体旅行プランを募集開始しつつも、問い合わせにも直近では8月1日出発の日程があると回答していたが、日本のメディアの報道が中国国内で拡散された後、このツアーは募集停止状態になったそうです。
寄港地、沖縄かぁ。
沖縄はサマーバカンスのシーズンが長く、海が荒れていなければ冬でも泳げる環境と言います。
しかし、体制と言うか、制度的に問題は解決できているのか?と言う疑問は拭えません。
無許可の船舶運輸のことです。
中道改革連合の泉健太(いずみけんた)衆院議員は、衆院文部科学委員会で、沖縄県名護市辺野古沖で船2隻が転覆し、平和学習中の同志社国際高(京都府)2年の女子生徒と船長が死亡した事故を巡り。
「当事者が全て善人かどうか分からない」として「厳しく真実を明らかにしてほしい」と文部科学省と国土交通省に徹底調査を求めていました。
泉議員は「文科省、京都府、当事者である学校法人同志社、国際高、東武トップツアーズ、ヘリ基地反対協議会、こういったところが包み隠さず真実を述べて、ご遺族と事故に向き合って、真相を明らかにするべき」「どこかに過去のいきさつを閉じ込めたり、明かさなかったりする可能性もある」と隠蔽を懸念。
また、公立学校に比べ私立学校の運営が「ブラックボックス化している」との指摘を紹介し、子供の安全については行政がチェックすべきだと求めたのに対して。
松本洋平(まつもとようへい)文科相は「実際どういうことが起きたのか、どこに問題があるのかを検証した上で、仕組みを変えていくことが必要と判断されれば変えることも検討したい」と答弁していましたが。
国土交通省は事業登録をせずに運航したとして死亡した船長を、海上運送法違反容疑で刑事告発するも、故人のため被疑者死亡のまま書類送検・告発扱いとなっています。
辺野古沖の抗議船転覆事故で生きている関係者が逮捕・起訴といった刑事責任を、まだ問われていない理由は•••••••。
事故の直接的な責任者である船長の金井創(かないはじめ)牧師は、事故当時に自身も死亡しています。
国土交通省は2026(令和8)年5月、無登録で生徒らを運航したとして金井牧師を海上運送法違反容疑で刑事告発しました。
しかし、被疑者が死亡しているため、逮捕や裁判で実刑を科すことは法律上できず、最終的には「被疑者死亡のまま書類送検」という形式的な手続きになってしまっています。
海上保安庁は業務上過失致死傷容疑でも捜査を続けています。
もう1隻の生存している船長の責任や、当時の気象条件、船の性能、乗船していた生徒に一時ハンドルを持たせていたとされる経緯などを慎重に照らし合わせています。
刑事責任を確定させるには「事故が予測できたか(予見可能性)」「回避できたか(回避可能性)」を厳密に証明する必要があり、解析に時間がかかっています。
船を運航していた市民団体「ヘリ基地反対協議会」は、海上行動チームが独立した状態だったとして、船長の金井牧師と学校側の詳細なやり取りを把握していなかったと主張しています。
生存しているもう1隻の船長や関係者が、刑事捜査中であることを理由に国交省の任意調査(聞き取り)に応じておらず、全容解明が海保の強制捜査に委ねられている状態です。
「亡くなった船長だけに責任を押し付けているから問題が解決しない、前に進まないのではないか」という指摘は、まさにこの事故の捜査や議論が長期化している本質的な問題を突いています。
船を運航していた「ヘリ基地反対協議会」は、組織としての指揮命令関係がない「緩やかな市民の集まり」であると主張しています。
そのため、出航判断や安全管理は「あくまで各船長の自己責任」というスタンスを取っており、これが世間から「亡くなった船長への責任転嫁(死人に口なし)」だと厳しく批判されています。
知床の観光船事故などでは「運航会社(社長)」という陸上の安全責任者が明確だったため、組織の責任をすぐ追及できました。
しかし今回は、無登録で違法に運航されていたため「陸上で誰が安全を管理すべきだったのか」の特定から始めなければならず、捜査の大きなハードルになっています。
法律の専門家や海上保安庁は、船長の操縦ミスだけでなく、「過失の競合(複数の責任が重なり合って起きた事故)」として捜査を進めています。
波浪注意報が出る荒れた海で、下見もせず、救命胴衣の着用確認や危険性の判断をすべて運航団体に「丸投げ」していた学校側の責任点。
資格(特定操縦免許)のない業者や、旅客運輸の安全性が担保されていない抗議用のボートに、未成年の生徒を大量に乗せる計画を漫然と認めていた点など。
船長以外の「予見可能性」「回避可能性」を法的に厳密に立証する必要があり、誰か一人に責任を絞れないことが、逆に捜査の長期化を招いています。
生存しているもう1隻の船長や団体の関係者は、国の立ち入り調査や聞き取りに対して「刑事捜査中であること」や「政治的な意図を感じる」などの理由で、 子どもが命を失った事故に対して、積極的な任意の協力を拒否しています。
このように、現場で亡くなった船長の金井牧師一人の責任に帰結させようとする団体の姿勢や、学校・教員側の安全配慮義務の欠如など、「関係者全員の責任の押し付け合い」が起きていることこそが、真相解明と責任追及を阻む最大の要因となっています。
現在は、zakⅡ運航団体(ヘリ基地反対協議会)は「船長らの民事賠償責任を団体側が引き受ける」との方針も示しています。
しかし子どもを死なせたことに関する運航団体や関係者の「追悼の意」や「謝罪」は、事故直後の極めて不十分な対応に対する強い批判を受け、後から追悼式や公式な謝罪文の公表へと動いたという経緯があります。
更に、遺族への「直接の謝罪」は実現しておらず、遺族側の不信感は解消されていません。
船を運航していた「ヘリ基地反対協議会」のメンバーらは、事故から四十九日(5月参考日)や3か月(6月16日)の節目に、事故現場に近い名護市瀬嵩の浜に花を手向け、黙とうを捧げる慰霊を行っています。
代表者は「未来ある若い生徒さんが命を失い、本当にどうお詫びしていいかいたたまれない」と述べています。
事故から約2週間後の4月2日、団体はHP上に初めての謝罪文を掲載し、「命の尊さを知るための活動の場で、尊い命を守りきれなかった」と責任を認めました。
しかし事故直後に、遺族へ直接的な弔意や謝罪を届けていなかったことに対し、世論や遺族から猛烈な批判が起きました。
これを受け、団体は5月1日に改めて謝罪文を掲載し、「直接の謝罪や弔意を届けなかったのは不十分で不適切であり、弁解の余地はない」「ご遺族にさらなる深い傷を負わせた」と深く陳謝しました。
それと同時に「自然の影響を大きく受ける海上での活動に、未成年者を受け入れる判断自体に重大な誤りがあった」と、安全管理の不備を全面的に認めています。
運航団体の構成メンバーには日本共産党の地区委員会も含まれており、5月中旬には共産党の田村智子(たむらともこ)委員長や小池晃(こいけあきら)書記局長が「高校生を船に乗せたことは重大な誤りだった」と公に陳謝。
団体側は「引き続き遺族や学校に面談を求めていく」としていますが、遺族側は「いまだに直接の謝罪は受けていない」としており、文字やセレモニーだけの追悼・謝罪にとどまっている現状が厳しく問われています。
沖縄県の玉城デニー(たまきでにー)知事は、亡くなった女生徒の父親がインターネットの投稿プラットフォーム「note」で玉城氏に対し投げかけた質問について「見てはいないけども、そういうようなお話がある、質問があるとは聞いている」と述べました。
父親は5月31日、玉城知事に対し、「もし沖縄県が辺野古への基地移設問題を高校生向けの平和教育の題材とするならば、玉城デニー知事としては、どのような取り上げ方とコース設計を推奨するか」とただす内容でした。
産経新聞の記者がこの文面を読み上げたうえで改めて見解を問うと、玉城氏は「この内容がいいとか、この内容が良くないという表現は控えたいが、幅広く子供たちが学び、考え、いろいろと話し合いをしながら、教育の本質的な部分をしっかりと自分たちで学ぶことができる、そういうプログラムを検討されるのが望ましい」と答えていました。
玉城知事は5月25日、同校の学習内容が政治的中立性を定めた教育基本法に違反するとした文部科学省の判断に対し「踏み込みすぎた」と批判し、「沖縄県における平和教育全般が偏向しているというようなことはない」との見解を示しています。
父親はnoteで、同校の沖縄研修旅行で過去実施されていた沖縄県立普天間高校生徒との交流プログラムを紹介し、文集には「基地の近くで暮らす同世代から、挙げきれないほどのさまざまな意見を聞いたことが残っている」と紹介。
その後、プログラムが縮小、廃止された経緯を振り返り、「基地反対とは異なる視点を生徒に提供しない内容に変遷したことは確かだ」と指摘しました。
今回事故を基に、さまざまな場所へと体制の歪みが露顕してしまっていますが、こうした混乱で影を落とす動きもあります。
玉城知事の文科省への苦言は、同校の平和学習が政治的中立を定めた″教育基本法14条2項″に違反すると認定したことに対するもの。
重大事故を招いた学校と市民団体の責任は極めて重いものの、国と県と市という行政は同じ方向を見て、教育という子どもたちの未来を牽引するもの。
政治的信条と言うよりは、個人的な価値観を混同して国に対峙する姿勢は、沖縄での平和教育は難しくなるとの懸念が広がっています。
沖縄では今の国と県の関係に、沖縄の苦難の歴史を顧みる姿勢を求めても、現状では返ってくるものは無いと言わざるを得ません。
Sightseeing Express はなあかり / 高須駅付近にて
↓↓はなあかり:JRおでかけネット↓↓




































































































