
宮島の桜 2026 / 神の島に桜精が宿る -①
例年通りなら、今年も宮島の桜をUPするところですが、今年は広島城天守閣が閉城と言うことで。
「惜別の天守閣 / 広島城と桜」のタイトルでの、毎日更新としたいと思います。
と言ってはおりましたが、やはりこのブログから「宮島の桜」が無い訳にはまいりません。
世界遺産の島の春を満喫して頂きたく思います。
広島市内も、ずいぶんと花は散ってしまっていますが、完全な葉桜とはなっていなくて、まだ多少は桜が見られます。
己斐の旭山神社は昨日、桜吹雪に見えたのですが、日曜日はお花見のラストデーでもあったようです。
今年は開花から一気に咲き乱れるまで、1週間ほど時間がかかったので、長く楽しめた年でもありました。
また、一気に花開いた木もあれば、いつまで経っても大きな蕾のままな、個体差も激しかったことも、長く楽しめた要因でした。
さて私ですが、昨年まで例年ならば、一気に2週間ほど毎日更新で突っ走るものの。
今年は疲労と睡魔に勝てず、月曜日の更新を断念してしまいました。
こういう些細なところが、去日に話した生存率の•••••••。
「あぁ、こういうことかぁ~」と、思ったりするシーンだったりします。
桜の花が散るように、誰もがみんな散る時を迎えるのですけれど。
自分がどう散るのかも、気がかりではありませんが、気になるところではあります。
そう言えば昨日、知人と桜と椿の話をしていたのですが、ヒラヒラしながらも一気に終わってしまう桜と。
終焉を迎えたら、首から花ごとドサっと落ちる椿。
どちらも美しく可憐でありながら、最後の迎え方は対照的ですよね。
どちらも人の生涯の終え方に似ているのですが、人それぞれなところと同じように。
花にも生き様というのが、それぞれあるんだなぁと、感慨深く染み入ったところです。
人も、人生の中で花に喩える場面は時折ありますが、花も人と同じく生きていると実感しました。
花も人も、散り方はそれぞれです。
史実ではいろいろ伝わり、それなりによく知っている気になりますけれど。
実際は、どのような気持ちで生きて、何を思いながら散って逝かれたのでしょう。
春の陽気にノンビリしている鹿さんですけれど、この夫婦もこれまでどんな人生を生きてきて、これからどんな一生を過ごすので しょう。
春は新しく命が芽吹き、生命力の息吹を感じる季節だからこそ、そういうところに想いがいってしまう一面もあります。
桜の花の切なさが、そう感じさせるのかも知れません。
そんなこんなで、宮島の桜の毎日更新です。
☆
— 源 真琴 / Makoto Minamoto (@miyashima_0405) April 7, 2026
「宮島の桜 2026 / 神の島に桜精が宿る -①」
神の宿る島 そして 世界遺産の島。
宮島の春です。#宮島 #桜 #cherryblossom
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アメブロアプリからアップロードすると、有料会員でも画質が劣化するので。
広島城の記事では X(Twitter)を貼っていましたが、宮島の桜でも貼っていきます。
16枚中、4枚ですが、クリアな画像をご覧頂けます。
尚、Xは更新が遅くなりますので、そこは御容赦くださいませ。
広電 別れの茶屋踏切 / 雨降り頻る桜と雫
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| ⭐⭐⭐ 郷土史 日本史 私撰集 ⭐⭐⭐ | ||||
昨日の記事「広電 5000形 GREENMOVER / 春と桜花とX’mas?」で、別れの茶屋踏切での写真を。
2枚UPしましたが、今日の写真は昨日の雨の中で撮った、別れの茶屋踏切のソメイヨシノです。
ここは史跡にこそ指定されていませんが、広島城の開城と共に整備された西国街道の。
今でも郷土史ファンには有名なスポットです。
が、この桜は元 街道樹(街路樹)ではなく、個人所有の木です。
付近の某家にお子さんが誕生され、それを記念して植えられた桜だそうです。
草津町は、記紀の時代では神武天皇の仮皇居、熊襲征伐での神功皇后の力剪山、それ以降は草津八幡宮や草津城など。
日本史好きにはそういうイメージが強いようですが、江戸時代から草津は広島でも優良な漁港でした。
今でも草津漁港は稼働しており、広島市中央市場も隣接していますが、江戸時代には草津城下の港から魚の行商さんが活躍していました。
今は広島電鉄の宮島線が走り、住宅街が広かった陸内地となっていますが、当時は海岸線の行商道でした。
尚、草津城下とは言いますが、江戸時代には一国一城令によって草津城は廃城となっていましたが、城下町はそのまま残って現在に至っています。
その草津港から行商さんは西へ東へ北へと、鮮魚を担いで売りに歩くのですが、東へのルートがこの行商道でした。
西広島と呼ばれる己斐にも、かつては己斐城がありましたが、これは江戸時代に廃城となったのではなく、織豊時代に広島城へと移転した故に役目を終えた城でした。
仕事を終えた行商さんたちが、帰路へつく際に西国街道と行商道の合流点、帰りは別れの交差点となるここで、一息入れた場所でした。
その呼び名が示す通り、この分岐路にはかつて茶屋(喫茶店のような店)があり、ここでお茶を飲んだり、お餅を食べたりして家路へと向かっていました。
もちろん江戸時代では街道筋ですから、普通に往来する人々や、この先の宮島往還へ向かう旅人でも、賑わっていた場所でした。
江戸幕府260年の時が終わり、明治時代となって、鉄道が敷設されて1897(明治30)年9月25日に己斐駅(西広島駅)が開業した後も、その賑わいは衰えず。
1922(大正11)年8月22日に宮島線が己斐~草津間に開業した折には、茶屋隣にできた踏切に″別れの茶屋″と名前が付きました。
何故、一個人のお店の名称が、鉄道踏切の名称となったのか。
それは己斐にかつて存在した、柴竹庄という茶店を併設した屋敷の伝承地から始まります。
この屋敷へ住んでいたのは、柴竹源左衛門(しばちくげんざえもん)と言う人で、第3代 広島藩主の浅野長晟(あさのながあきら)公の、幼友達であったと伝わります。
「江戸時代の初期、長晟公が通りかかると八幡川が出水して川を渡れず困っていた。近所の柴竹源左衛門が板を持って来て渡してやった」との逸話が伝わります。
広電西広島駅から約100メートルの場所へ、今はコンクリート橋となった、源左衛門橋が架かっています。
そこから更に約200メートル進んだ場所へ茶店があり、長晟公が源左衛門と談笑しながら茶を飲み、しばしの時を共にした後に別れたと記録が残ります。
ちょうどその辺りに柴竹庄と呼ばれる茶店を併設した屋敷がありました。
尚、浅野長晟公が藩主だったのは1619年から1632年の13年間で、別れの茶屋が創業したのはそれから約100年後の、宝暦年間(1751~1763年頃)と伝わります。
そして更に、山陽本線が敷設されて以降は踏切を渡って平坦な旧道が続きますが、それ以前はここから険しい山道へと繋がった古 西国街道でした。
宮島やその先の岩国の方面へ向かう人は、ここから命がけの峠越えを始めることとなり、急激な坂道を登ることとなります。
道は己斐峠へと繋がり、沼田を通って再び海岸線へ向かうのですが、このルートには山賊も棲んでいて、旅人の安全は脅かされていました。
それ故に、旅人を見送る人は市街地からここまで一緒に歩き、旅の安全を祈願しながら見送った場所。
最後に一緒にお茶を飲み、お餅を食べて出立する場所。
街道は時代と共に整備され、 平坦な海岸線ルートがやがてメインルートに遷っていきますが、別れの茶屋の名称は広島の町の歴史そのものでもあった訳です。
茶屋は昭和初~中期に廃業となったようですが、お店としては継続されていて、現在はご子孫(柴竹さん)がパン屋「別れの茶屋」を営んでおられます。
広島の″峠の力餅″である、名物の″よもぎ餅″は現在でも販売されていて、その歴史を味わうことができます。
今日は写真を21枚UPしていますが、せっかくの宮島線沿いなのですから、電車を入れての写真は7枚あったりします。
☆
— 源 真琴 / Makoto Minamoto (@miyashima_0405) April 5, 2026
「広電 別れの茶屋踏切 / 雨降り頻る桜と雫」
線路沿いに咲き誇る個人所有の桜。
広島城天守閣閉城の今、別れの茶屋の広島 郷土史を綴ってみました。#郷土史 #広島 #別れの茶屋
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もみじまんじゅうなら、どっちも好き♪
あんパンはこしあんかな?
でも、アンパンマンはつぶあんならしいよ(笑)
広電 5000形 GREENMOVER / 春と桜花とX’mas?
厳しく辛い極寒な季節に、心から待ち望んだ春でしたが。
桜の季節も、もう過ぎ去ろうとしています。
冒頭と2枚目は、別れの茶屋踏切近くの、ソメイヨシノです。
これね、長い年月、ヤマザクラだと思っていたのですけれど、実はソメイヨシノのようです。
春を謳歌して咲き乱れると、電車と合わせて撮れづらくなるので、3分咲きの頃に撮りました。
そう、広島城よりも前なんですよね。
この日に撮ったのが、5000形 GREENMOVER だったので、今日は初代グリーンムーバーの写真をUPします。
広島電鉄の5000形 電車は、フラットフロアの超低床車の先駆けで、日本で初めて営業運転を始めたバリアフリー車両でした。
5両編成なのに、台車を3つしか履いていない魔法のような構造は、ドイツのシーメンス社による設計。
今でこそ、全国に超低床電車は当たり前のように走っていますが、当時は超低床のバスも存在していませんでした。
1号編成は、話題作りのためにわざわざ飛行機で納品され、広島空港で電車が降ろされました。
残りは普通に船便で輸送され、1999(平成11)年から2002(平成14)年にかけて12編成が輸入されましたが。
今はもう2編成しか走っていません。
ところで広島城の桜と言えば、昨日の記事で最終回でしたけれど、その最後の記事がね。
基本的に歴史系の内容を書く時には、一旦、箇条書きを羅列して、そこへ書籍やネットからの必要な資料を羅列。
そこから文章へと構築していくのですけれど、これを毎日更新でやろうとしてら、とても大変で(笑)
朝7時の公開に間に合わなかった日が、4回中3記事(爆)
執筆途中の状態を、1番手グループでお越し頂いた方々へは、見られてしまいました(照)
が、最後の昨日の記事はね、編集しても更新内容が反映されず、または同一文章が2つ入っていたり、見知らぬ文章が混入していたり。
8時前まで、悪戦苦闘な戦闘状態図でした。
7時過ぎの数分間、昨日の記事はアクセス不能になっていたのは、私のせいではないのですけれど。
それでも1日で1番多い訪問時間帯なので、多くの方々へご迷惑かけてしまいました。
もう、いみ解んない。
でも、ごめんなさい。
もうこれはね、今日は絶対に謝っておこうと、ここへ記しました。
さてグリーンムーバーですが、ラスト4枚の夜間の写真は、クリスマスイブ = 12月24日の西広島駅でした。
他の写真は、桜の写真以外は全部、高須駅付近です。
惜別の天守閣 -④ / 広島城と桜 2026
「惜別の天守閣 / 広島城と桜 2026」の最終回です。
この広島から、お城が無くなる。
そんな現実が、未だに信じられませんが、広島城へ行ってみると、中へ入ることはできません、
毛利家から福島氏へ、そして浅野家へと城主の変遷があった広島城ですが、廃藩置県後は浅野氏は侯爵家となります。
華族だった浅野長武(あさのながたけ)公は第29代当主で、日本国の美術史家、政治家であり、貴族院侯爵議員、東京国立博物館長を歴任しました。
祖父の名前は″武″で、父の名前は″武治″ですが、両名とも″長武″公から1字を頂いたものです。
長武公は1895(明治28)年生まれ、祖父 武は1912(大正1)年の生まれ、父 武治は1938(昭和13)年の生まれです。
祖父 武が亡くなった後、祖母 花子の名義で、日本刀や頼山陽著の絵画や屏風などの他、浅野家ゆかりの品を、広島城へ寄贈しました。
天守閣は資料館そして美術館として建てられた再建模擬天守でしたが、三の丸へ整備中の「広島城三の丸歴史館」へ。
天守閣の収蔵品を展示・保管するとのことで、2026年度中の開館予定となっています。
さて、広島城の略歴をこれまで3回に分けて記しましたが、今日はその4となります。
1894(明治27)年に開戦した日清戦争では、当時の山陽本線の終点であり、陸軍専用線の宇品線の起点でもあった広島へ、大本営が設置されました。
大本営の建物は石造りの白亜な洋風建築で、広島城の本丸へ建築され、城内の第五師団司令部へ仮皇居も造営されました。
明治天皇は広島城へ1894(明治27)年9月〜1895(明治28)年4月の約7ヶ月間常駐され、この間、臨時帝国議会が開催されるなど、広島は事実上の日本の首都として機能しました。
1895(明治28)年2月に、広島で最初の日清講和交渉が行われましたが、清国側の使節団に条約を締結するための十分な権限(全権)が記されていなかったことから。
条約締結後の法的根拠が担保されない故に、天皇陛下御臨席で、伊藤博文(いとうひろふみ)内閣総理大臣・陸奥宗光(むつむねみつ)外務大臣と。
張蔭桓(ちょういんかん)全権大使、邵友濂(しょうゆんれん)全権大使との交渉は、わずか数日で打ち切られ、使節団は2月4日に宇品港から帰国しました。
第2回の講和会議は下関で行われ、広島大本営は解散となりましたが、建物はこの後に史跡となりました。
大本営解散の後は「史蹟明治二十七八年戦役広島大本営」として保存されており、当時、従軍記者として訪れた正岡子規が1句残しています。
広島へ大本営が設置された事実は、近隣都市の呉には海軍鎮守府が整備されたこともあり、この後、軍都として発展を続けることになります。
現在の相生通りは広島城の外堀だった位置で、紙屋町交差点は大手御門がありましたが、都市整備の過程で1909(明治42)年に、埋め立てが始まります。
お堀の埋め立ては中堀も同時に行われ、1911(明治44)年に完了した後は路面電車の軌道が敷設されました。
路面電車の開業は1912(大正1)年11月で、現在の本川町~稲荷町の区間であり、この線路は開業以来変わっていません。
1915(大正4)年にはコンベンションセンター「広島県物産陳列館(現 原爆ドーム)」が櫓下門前にオープンし、日本有数の都市として栄華を誇りましたが。
1945(昭和20)年8月6日、人類史上初の核攻撃を広島は受けて、都市が消失します。
☆
— 源 真琴 / Makoto Minamoto (@miyashima_0405) April 2, 2026
「惜別の天守閣 -④ / 広島城と桜 2026」
今回は夕暮れから夜景の13枚です。
そして、広島城の略歴をこれまで3回に分けて記しましたが、今日はその4。
最終回です。#桜 #桜名所 #cherryblossom
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正岡子規は1895(明治28)年春、日清戦争の従軍記者として広島に約1ヶ月滞在し、比治山や呉で多くの句を詠みました。
「鶯の口のさきなり三萬戸(鶯の鳴き声の先には、3万戸の広島市街地が見える)」は、比治山から見下ろした当時の広島市街を詠ん だ句。
「呉かあらぬ 春の裾山 灯をともす(呉の山裾に明かりが灯る、春の穏やかな夕景)」は呉の街を詠んだ句です。
-追記-
-安芸もみじ ・原点回帰のリンク-
長く広島の地へ住んでいると
平和公園や周辺の慰霊碑に
必ず父•母•親戚の誰かが収まっています
広島城閉城
迷いましたがやはり
最後はこれで締めくくらなければ終われません
-注釈-
インスタ内の日本語訳は間違っています。
実際の英文は、以下のように記されています。
「広島への原爆投下。
1945年8月6日、第二次世界大戦末期に発生しました。アメリカ合衆国は、ボーイングB-29スーパーフォートレス爆撃機「エノラ・ゲイ」から「リトルボーイ」と呼ばれる原子爆弾を投下しました。
爆発により広島市の大部分が瞬時に破壊され、約7万~8万人が即死、さらに数万人が火傷や放射線被曝により後遺症で亡くなりました。この原爆投下は甚大な破壊と長期にわたる健康被害をもたらし、その3日後には長崎にも原爆が投下されました。
これらの出来事の後、日本は降伏し、事実上第二次世界大戦は終結しました。」
翻訳・安芸もみじ
惜別の天守閣 -③ / 広島城と桜 2026
あれだけ天気が好かったものの。
翌日•••••••,そう、昨日はまた雨な日となりました。
降り頻る雨の中で、満開を誇る桜は。
その寒さと雨に散り始めてしまいました。
春は暖かい南からの空気に、北からの冷たい空気が流れ込んで来るので、どうしても飽和状態を超えてしまい。
雨となって湿気が地上へ落ちて来てしまいます。
そのタイミングが、桜の満開の時と重なってしまうと、少し物哀しく感じてしまう春となってしまいます。
今年は開花宣言から実際に咲き誇り始めるまで、日数がかかり過ぎたことが残念に感じます。
さて、1871(明治4)年7月14日、明治新政府による改革で廃藩置県が実施されました。
各藩の領主・大名による藩政体制は終りを告げることとなり、各県が発足して広島藩は広島県へと移行しました。
初代広島県知事は幕末に坂本龍馬(さかもとりょうま)公と親交の深かった、河野敏鎌(こうのとがま)大参事で、広島城 本丸には広島県庁が設置されました。
知事が伊達宗興(だてむねおき)参事へ代わると、広島県内を17大区・158小区に区画されましたが。
その渦中にて本丸へ陸軍駐屯地となる鎮西鎮台(後の熊本鎮台)、第一分営が置かれ、県庁舎は三の丸に移転しました。
1873(明治6)年1月になると、広島鎮台が正式に発足し、以降広島城には大日本帝国陸軍の施設が拡充されるようになります。
2ヶ月後の3月には、三の丸に兵営が置かれることになったことから、県庁舎は国泰寺へ移転します。
1887(明治20)年、広島の開基地ということから、旧城廓内である丸の内を正式に「基町」と名付けられています。
1888(明治21)年5月、広島鎮台は第五師団に改編されると本格的に軍としての機能を拡大させます。
広島市は軍都として近代都市へと発展し始めて、現代に繋がる広島旧市内の基盤が完成しました。
1894(明治27)年)6月10日に山陽鉄道(現 JR山陽本線)が広島まで開通すると、7月には日清戦争が開戦され、城内に広島大本営が設置されます。
8月20日には、陸軍専用線として宇品線が広島〜宇品間で開通。
9月15日から1895(明治28)年4月27日まで、明治天皇は広島に行幸し常駐されたことから、第7回帝国議会も広島で召集され、短期間ながら臨時首都として機能します。
☆
— 源 真琴 / Makoto Minamoto (@miyashima_0405) April 2, 2026
「惜別の天守閣 -③ / 広島城と桜」
本丸から内堀を抜けて、お堀沿いを歩きます。
もう夕暮れも深くなって、せつなさがマシマシです。#桜 #桜名所 #cherryblossom
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惜別の天守閣 -② / 広島城と桜 2026
日ごとに春爛漫化が進む今日このごろですが。
昨日は前夜から続いた大雨の影響で、少し肌寒さを感じたものの、陽が顔を出し始めると気温は一気に上がりました。
しかし夕方にさしかかり始めたころ、強い北風が吹きさらして、陽の傾きが大きくなるほど、寒さを感じるように。
しかし突然、風は反転して南風となり、一時的に寒さが緩みます。
しかし完全に日没を過ぎて帳が降りてしまったころから、再び北風が吹き荒み気温を一気に下げました。
もう暦の上では春なものの、北風にも最後の意地があって、このまま南風の勢力に押し流される訳には、いかなかったのでしょう。
北風には北風のプライドがあるのかも知れませんけど、既に太陽黄度は立夏に向かっていて、どんなにあがいてもムダなんですよね。

春の陽気に対して冬将軍も、最後の存在感を示したかったのでしょうね。
プライドは大切ですが、行き過ぎると迷惑でしかありませんよね。
さて、広島城ですが、福島正則(ふくしままさのり)公の時代には、海抜0m地域であるが故に、大規模都市開発の土木工事が行われて。
幕府から謹慎と改易を申し渡されながら、浅野長晃(あさのながあきら)公の時代には、同等以上の干拓工事が実施されています。
これは単純に、豊臣縁故の大名 = 外様大名か、徳川勢傘下の大名か、単純にそのように捉えられます。
とにかく昭和の戦後時代でも、豪雨や台風で洪水災害が多発していた広島は、江戸時代においても都市整備が急務でした。
武家諸法度の縛りがあるため容易に城の改修や、城下町の整備ができない時代でしたが、広島に関しては浅野氏時代に構築された石垣などが現存しています。
↓↓ ステレオグラフ 交差法 ↓↓

また、大規模な都市整備事業は引き続き行われ、約250年間で当初の区域より5~6倍規模にまで市街地は広がりました。
それによりたびたび悩まされていた洪水被害や、それを修復した記録が多数残っている上に、地震の被害にも記録に残っています。
1624(寛永1)年、安芸国を震源地とした地震では石垣や多門・櫓・塀などが崩壊したことを最初に、以降数度地震災害の記録が綴られています。
広島の都市開発が急務であることは、幕府も理解していたことから、毛利・福島と連なる外様領地であることで問題解決ができずにいたため。
福島氏を改易して徳川方大名を配置して、幕府転覆の危惧を無くした上で、都市開発事業を推進させたと、考える方が自然です。
1864(元治1)年の第一次長州征討の際には、広島城は徳川慶勝を総督とする幕府軍の大本営となります。
☆
— 源 真琴 / Makoto Minamoto (@miyashima_0405) April 1, 2026
「惜別の天守閣 -② / 広島城と桜」
広島城の天守から離れつつ、散策しながら撮っています。
広島城天守閣にとって最後の春来春かも知れない٠٠٠٠٠٠をイメージして13枚です。#広島城 #桜 #cheriblossom
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惜別の天守閣 -① / 広島城と桜 2026
例年通りなら、今年も宮島の桜をUPするところですが、今年は広島城天守閣が閉城と言うことで。
「惜別の天守閣 / 広島城と桜」のタイトルでの、毎日更新としたいと思います。
ところで、写真だけ7時に公開して、本文はやり投げな状態でしたが、実は始発電車に乗って職場へ行き。
用事を済ませて帰宅してから•••••••,と言うウルトラCの下で、こんな状況になっています。
まぁ、最近は文章を中途半端で公開していたり、誤字脱字がそのままだったりと、何かと完璧性を欠落させていますが。
1589(天正17)年2月、毛利元就(もうりもとなり)公の孫である輝元(てるもと)公は、広島の地に近代政庁としての城を築くため。
現地調査をするべく吉田郡山を出発し、明星院山(現 東区二葉山)・新山(現 東区牛田)・己斐松山(現 西区己斐)の3箇所より。
太田川下流域を検地した結果「最も広い島地」である現在地 = 五箇村へ築城することにしました。
1589(天正17)年4月15日、起工式である鍬入れを催し、閣内配置は大坂城を参考として、縄張は聚楽第に範を取って設計されました。
1590(天正18)年末に堀と城塁が竣工したことから、1591(天正19)年1月9日に輝元公は入城します。
1592(文禄1)年4月、文禄の役を指揮するため福岡 名護屋城へ向かう途中の豊臣秀吉(とよとみひでよし)公が、広島城へ立ち寄って城内を見物しています。
1593(文禄2)年に石垣が完成し、1599(慶長4)年に落成•••••••,「広島」という名はこの頃に付けられたと言われています。
完成当初は、堀は三重に巡らされ馬出を多数備える実戦的な城構えで、当時の大坂城に匹敵する規模の城でした。
徳川政権下となる1600(慶長5)年に、毛利家に代わって城主となった福島正則(ふくしままさのり)公によって、広島城は改築されます。
改築は大規模土木工事が実施され、洪水対策など毛利氏時代に不十分だった、城の整備および城下町づくりが本格的に行われました。
21世紀の現代でも広島は海抜0m地帯の土地であり、当時としては一からの都市整備が必要で、内堀・中堀・外堀のある約1k㎡四方の広大な城へ変貌。
また、西国街道を城下の南側を通るように付け替え、雲石街道をして町人町が拡大させました。
ところがこの大規模な都市整備は徳川家康(とくがわいえやす)公を怒らせ、1609(慶長14)年に正則公は謹慎を言い渡され、1619(元和5)年に信濃国川中島へ転封されました。
同年8月8日、浅野長晟(あさのながあきら)公が、福島氏に代わって入城し明治時代に至るまで12代約250年間、浅野家の領地となります。
しかし浅野氏時代においても、一部の櫓台石垣が構築されたり、城下町の大規模な干拓事業は引き続き行われています。
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— 源 真琴 / Makoto Minamoto (@miyashima_0405) March 31, 2026
「惜別の天守閣 -① / 広島城と桜 2026」
広島城の天守閣 近くから撮っています。
来春には解体済みかも知れない٠٠٠٠٠٠を前提に天守メインで13枚。#広島城 #桜 #Cheriblossom
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明日からは″よりぬき4枚″を、XへはUPしようと考えています。
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桜 2026 ……平和公園から広島城へ
今はソメイヨシノも真っ盛りに咲いているようですが、私が行った時にはまだ五分咲きな感じでした。
開花宣言が出されてから、もう1週間は経っていたのに、ちょっと開花がもたついているようです。
と言うことで久しぶりに、平和公園で桜の写真を撮ってみました。
もう夕方で、花によっては陽が当たっていなかったり。
午前中にお出かけしたかったのですが、睡魔が体にのしかかっていて、とにかく動くことが重かったんですよねぇ。
自分の体重 + 睡魔の重量で、いったい私の体に何トンの自重があったのでしょう。
行く時に乗った″ぐりーんらいなー″は、重さが38トンもあるのに、あんなに軽やかに走っていて。
恐るべしVVVFインバータ。
そうそう、杉花粉のシーズンが終わって、クシャミ・鼻水・目のかゆみとは、おさらばしていたはずだったのに。
最近また、ぶり返してきました。
違う樹木のアレルギー症状が、始まったのかなぁと、憂鬱になりそうなものの。
憂鬱 へ陥るよりも、この独得な刺激にイラってくる、感情の方が圧倒的パワーで勝っていたりして。
「そろそろえぇ加減にせぇよ、クソぼけナスがっ!」
と、鼻の粘膜へ向けて、怒りを爆発させそうになります。
「蜘蛛の糸」を登って、天界の床へ指がかかったら、突然フロアごと地獄へ崩れ落ちた気分です。
さて、平和公園の桜ですが、実はあくまでも寄り道だったりします。
今年の本命は、広島城。
来年の春、天守閣があるのかどうかは不明です。
もう閉城しているので中へは入れませんが、こちらも久しぶりに撮ってみることにしました。
さて、春の風物詩?
毎日更新の始まりです。
☆
— 源 真琴 / Makoto Minamoto (@miyashima_0405) March 30, 2026
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X(Twitter)を貼ってみました。
尚、Xを追い貼りするのは、桜の写真のみの予定です。
それと、、Xの更新はアメブロよりも遅くなりますので、ご了承くださいませ。
Twilight Express 瑞風 / ダイヤ改正後の初列車
ウエストエクスプレス銀河、はなあかり に続いての3日目 第三弾は、トワイライトエクスプレス瑞風です。
元々は、毎月最終日曜日の瑞風に合わせて、銀河とはなあかりをUPしているので、今日の記事は定期便でもあります。
さて、写真的には先月の瑞風と被るのですが、広電高須駅の宮島方面 下りホームからの写真です。
しかし大きく違うのは、私が幼少の頃•••••••,いえ、それ以前から町のシンボルだった、巨大ソテツの木が。
ありません。
大きく時代が移り変わった時とは、実は身近なこういった風景の、些細な変化なのかも知れません。
瑞風のダイヤについても、既に軽く昨日触れていますが、もう広島市内で•••••••。
先月の記事でも、ダイヤ改正以降の運転詳細が判らないと記して終わりましたが、これによって広島市内で瑞風の写真を撮れなくなるのではないの?と。
ある程度、覚悟を決めていたものの、下りは立ち寄り観光地が岩国のままなので、新たに全部新しいダイヤとはせず。
そのスジへ接続するように、琵琶湖周遊のダイヤを設定した方が、効率的との判断があったのでしょう。
実は、2月の記事をUPした後、比較的早期に広島以西のダイヤは変更されないことを、知ってしまっていたのですが。
と、言うのも、琵琶湖周遊の通し試運転が発車したと、 Xの投稿で見つけたその翌日。
いつもの時間に瑞風サウンドが聞こえてきて、あぁなるほどと、安堵していたところでした。
その後、瑞風運転時刻の公式を見て、立ち寄り観光地が岩国から移るまではまだ•••••••。
運転日の朝には、自宅のすぐ近くから、瑞風の姿を見ることができるんだなぁと。
これね、心筋梗塞になってからもうすぐ丸3年を迎えますが、5年生存率90%と言うものの。
やはり10%の人は力尽きる訳で。
3年を迎えるにあたって、10%の側になる人は、タバコとか食事とか、健康管理に無頓着な人だと思っていたところもあったのですが。
最近は、あぁこーゆーことかぁと、体調の変化とともに解ってきたりするんですよねぇ。
明日は迎えないかも知れないとは思えませんが、半年後は自分はいないかも知れない。
そんな風には、思えるようになりました。
広島城も閉城し、天守閣はやがては解体が始まり、解体されてから再建するにしても23年かかるそうで。
新しい天守は見られそうにないかなぁと思いつつ、こんな気の弱いこと言っておきながら、10年20年も生きているかも知れませんけど(笑)
少なくとも、仕事よりも瑞風の方が、健康管理をする上での、心の拠り所であることは、間違いのないところだったりします。
ストック いっぱいあるから、全部出し切るまでは亡くなれないな(爆)とか、次の運転日はどうしよっかな?とか(笑)
そんな暮らしを、もう少し続けられそうです。
ちょっと戯れが行き過ぎて、重く暗い話題となってしまいましたが、春ですからね。
春は出会いと別れの季節です。
と、最後にオマケ写真を貼りましたが、2021(令和3)年4月の記事からの転載です。
1975(昭和50)年の581系 特急夕月と、2019(平成31)年9月のトワイライトエクスプレス瑞風の、定点撮影です。
この写真は高須駅のある高須踏切ではなく、近くの小新開踏切です。
順番的には高須踏切 → 古江踏切 → 小新開踏切 → 草津踏切 → 力剪第1踏切 → 力剪第2踏切 → 仙洞第1踏切の順で、まぁたまに出てきたり、稀に出てきたりする踏切名です(笑)
住宅街なのでこまめに踏切がありますけれど、直線の高速区間とM字カーブの連なる、平地の難所と呼ばれた区間でもあります。
尚、力剪第1踏切は北条氏直や山中鹿之助の墓所として知られる海蔵寺への参道で、仙洞第1踏切は広島草津八幡宮への参道です。
そして草津踏切は、旧山陽道(西国街道)で、明治初期までは国道にも指定されていて、平成初期まで国道2号表示以外の標識が、残っていました。
Twilight Express Mizukaze | |
Favourite of celebrities, Cruising hotel train | |
Sightseeing Express はなあかり / 高須駅にて
2026年3月〜6月の土日祝日を中心に、JR西日本は観光列車″はなあかり″を、広島〜宮島口〜岩国間で運行しています。
はなあかりは、播但線経由で大阪~姫路~鳥取・浜坂(香住)間を結ぶ特急はまかぜ用の、キハ189系を改装して誕生した列車です。
特急はまかぜは全車指定席で、1日3往復運行され、城崎温泉や山陰エリアへのアクセスを担い、冬は「かにカニはまかぜ」も運行されています。
キハ189系の車内そして外装も新規に洗礼して、3両全てがグリーン車以上の豪華仕様となっています。
昨2025年4~5月には、大阪~尾道間で運転され、その他にもJR西日本管内で運転されて好評を得ています。
広島~宮島~岩国で運転される今回は短距離ですが、瀬戸内の景色や沿線の食・文化を楽しみながら旅できる特別列車となっています。
乗車券は駅の指定券売場ではなく、tabiwa Travelからネット予約をするようになっています。
ダイヤ改正以降はもう広島市内で、写真は撮れなくなるのでは?と危惧していましたが。
琵琶湖周遊コース試運転の際に、いつもの時間に瑞風サウンドが響いていたことから、もうしばらくは西広島折り返しがあることが判明。
となると、はなあかりとの西広島駅でのバッティングが発生してしまうので、これはどうなるのだろう?と、興味津々でした。
数字の上だけでいくと、瑞風の発車が10時11分、はなあかりの通過が10時12分30秒、キハ40系回送が10時14分で。
そんなことはJRは絶対に避けるので、ではどう走らせるのだろう?と、思っていました。
すると、キハ40系の下関回送か、9時49分に高須駅付近を通過して行くのを目撃。
これは瑞風の西広島行きを撮ろうと家を出たところで、DMH17エンジンのサウンドが轟いていて、建物の隙間から撮ってみた2枚。
瑞風の写真は明日UPしますが、正面連結器のところへBOXが被ってしまった失敗写真は、こちらへ貼りました。
予定通りの定刻通関でしたが、その後が。
はなあかりが現れない。
はなあかりの運転予定時刻を見れば、宮島口まで20分ほど余分に所要時間があって、どこでその時間を潰すのだろう?と、気にはなっていたのですが。
本当は、西広島行きの瑞風を撮ったら、西広島駅へ赴くつもりだったのですけれど、宮島線電車に乗り遅れて。
結局、折り返しも高須駅で撮ることになってしまったのですけれど、そのお陰でダイヤのやりくりが不明なまま。
JR西日本のアプリで走行位置を参照してみれば、どうも西広島駅へ停車している様子。
瑞風が発車して、入れ違いで はなあかりが入線したのか、横川駅と西広島駅でそれぞれ停車したのかは判りません。
まぁ6月まで運転予定なので、またお目にかかれることはあると思いますけれど。
レッドウイングと、貨物列車2本を先行させて、はなあかりが高須踏切へ姿を現したのは、10時34分でした。
キハ40系や瑞風とはまた一味違うエンジン音を響かせて、比較的ゆっくりと登場してくれました。
ひょっとしたら西広島駅で、はなあかりが瑞風を追い抜くのでは?とも期待したのですけれど、ホームで撮り鉄さんがパニックになられても困りますからね。
やはりそういう演出は、JR西日本は行いません。
さて、はなあかりですが、撮影したのは初日ではなく3日目でした。
復路の列車は、天気予報の大当たりで、かなり激しい雨となりましたが、そのお陰で写真の通り真っ暗です(笑)
住んでいる町へ、珍しい列車が走っている記録でもあるので、これはこれで好い写真なんですけれどね。
梅雨入りまでにはまた、良い感じで撮れる日もあるかも知れません。
ただ、3連休ではあったものはの、乗車率はイマイチな感じに見えるのですが、あまり告知されていなかったような。
だからかも知れませんが、認知されれば予約は取り辛くなるのは、間違いのないところでしょう。
写真も撮りたいけれど、乗ってもみたい、はなあかりですが、うまくお休みとタイミングが会うと、嬉しいですね。
そして4月は毎週土日の、4・5・11・12・18・19・25・26日 そして、5月はゴールデンウィーク中は運休•••••••,って、なぜ?
と言うことで、土日となる9・10・16・17・23・24・30日の運転で、月末の日曜日となる31日には走りません。
最終月の6月は、7・13・14・20・21・27・28日の運転で、最初の土曜日6日の運転はありません。
前述の通り3両編集で、コンセプトの違うグリーン車で構成されているのと、あくまで特急列車なので料金は。
JR西日本の″おでかけネット・はなあかり特設サイト″から、″tabiwaTravel″の予約ページへ。
4月以降は、なかなか競争率が高そうになっているみたいですよ。
↓↓はなあかり:JRおでかけネット↓↓




























































