
【被爆2世が語る平和記念日と世界史・さくいん】 [2010-2019]•[2000~2009]
広島電鉄 900形 旧大阪市電 / 広電本社にて
広島電鉄 900形 913号です。
旧 大阪市電 2601形 2638号です。
1969(昭和44)年に広島電鉄へ譲渡され、現在の913号となりました。
広島電鉄は、大阪市交通局から 2601形 14両を購入し、付番を 901~ 914号として、広島の市内線初の本格ワンマン車として導入されました。
この譲渡の経緯には、広島電鉄のワンマン化・輸送力増強の必要性と、大阪市電の廃止という2つのタイミングが重なった歴史があります。
終戦直前の原爆で、壊滅的な被害を受けた広島でしたが、昭和40年代になると街の復興は高度経済成長期の波に包まれていました。
昭和40年代の広島電鉄は、当時まだ戦前に製造された小型の2軸車が大多数を占めており、高度経済成長による利用客の急増に直面していました。
大量の乗客を運びきれなくなっていたのと同時に、人件費の削減も経営体質改善上 必須条件となっていたところへ。
乗務員不足による運行効率化のため、車掌を乗せない″ワンマン運転″の導入も計画していました。
また、大阪市の事情としてちょうど同じ時期、自動車の普及(モータリゼーション)による渋滞悪化を理由に、大阪市電の全面廃止(1969年)が進められていました。
これにより、まだ十分に使える1957(昭和32)年製で、車齢が12年程度の状態が良い車両が大量に余剰になり、用途廃車の憂いに置かれていました。
ワンマン化を進めたい広電にとって、大阪市電が所有していた 2601形のうち、既にワンマンカーへの改造を終えていた14両は、まさに理想的な車両でした。
導入後は広電初の本格的なワンマンカーとして白島線などで運行を開始し、広島の街の近代化と輸送力増強に大きく貢献しました。
14両いた 900形も、気がつけばこの 913号がラスト1両で、もう同じ形式で離合することはありません。
全長:12m42cm・全幅:2m46.9cm・車高:4m2.4cmの車体は、自重:16.5トン、定員は80人(座席数 36)となっています。
1970年代に広島を訪れた元大阪市電の運転士さんは、この電車が現役で活躍しているのを見て涙した•••••••,との逸話も残っています。
大阪市電が廃止された後、その方はどんな人生を歩み、どんな思いで生きて来られたのか、とても気になります。
さて、京都市電は一昨年に2両が引退したものの、45年間に渡りまだ13両が現役で、外様の旧型電車の中では唯一、同じ形式同士での顔合わせが残る形式となっていますが。
バリアフリー社会における超低床車の拡充から、いつまで複数の京都市電が存在できるのかは不透明です。
実際に腰が痛い&膝も痛い年代となった昨今では、電車を待っていて″ぐりーんらいなー″が来ると、落胆する自分がいるのは事実だったりします。
では、今日の写真はループ線外回りの運用に就いていた 913号が、広電本社へ戻って来たシーンです。
広電本社前電停に到着し、お客さんを降ろしたら渡り線を越えて交通信号の位置まで回送します。
次は電車信号の指示に従って渡り線を通り、下り線(内回り線)へ進入し、ポイントが切り替わったら。
電車信号に従って、千田車庫構内へ入庫して行きます。
以前は縁が全く無かった広電バスカラーのGREENMOVER LEX 1001号なんですが、最近ちょくちょく表れてくれます。
なので、913号ともしっかり絡ませて撮りましたけれど、よく見たらその影に同じ 旧大阪市電の 750形 762号の姿が見えます。
バス電 LEXの奥には、旧 神戸市電の 1150形 1156号と、570形 582号の姿も見えます。
そうそう、この電車たちのバックに建つレンガ造りの建物ですが、両方とも被爆建物です。
最近、JR貨物 広島車両所の被爆建物が解体されるニュースがありましたが、広電でも写真左側の白っぽい方が。
解体される予定との情報が飛んでいます。
アメブロでタイムワープを発見!
去年の夏、来年の夏。
それでも人生でたった1度の夏が、終わろうとしています。
今年の夏も暑かったですね。
そして夏が過ぎでもまだまだ暑い日々は続きますね。
早く涼しくなればいいのにと、もううんざりしながら切実に願うものの。
それでも夏が終わっていく季節は、どこか寂しさを感じてしまいます。
来年も夏は訪れるけれど、自分に夏は来るのかな?と、小学生の頃の寂しさとは、少し違う感傷が心に染みます。
さて、昔からランキングにはあまり興味は無いと言い続けていますが。
やはりね、何の記事かにもよるんですよね。
「平和記念日と~」と「郷土史~」の2つのシリーズは、やっぱり1位になると「おっ!」となります。
一桁順位になるのは、まぁ鉄道記事であることが多いのですが、それは私が扱うジャンルの中では、需要の裾野が広いからだと思います。
そこに対して、真摯に訴えたり記録を掘り起こしたりした記事は、全体的には低迷気味に陥ります。
なので「平和記念日と~」と「郷土史~」に関しては、1位の時だけ「取ったどぉ~っ」の記しを入れていたりしています。
「郷土史~」は、上のようなイメージを作って、記事の最下層へはるのですけれど、「平和記念日と~」はちょっとこだわって(笑)
スマホブラウザで、アプリじゃなくPCでもない表示の時に、記事の1番上に出るランキング結果の帯と同じデザインで、イメージを作って最上部へ貼り付けています。
もう26年目ではありますが、1位に輝いたのは2回(平和記念日と~)だけでもあるんですけどね。
「郷土史~」は、まだ新しいくくりなので、これが始めてだったりします。
26年とは言うものの、アメブロになってからは19年目なのですが、それでも今さら気づいたことがあったりします。
でね、ついにその表示の変わる境界線を見つけたのよ。
24時間を迎える直前だと、昨日15:10そして水曜日15:07•••••••,同じ日なのに15時8~9分にアクセスすると、一昨日の15時10分はまだ昨日なんですよねぇ。
今度は反対に、同じ理由で23時55分と0時10分が、日付をまたいで同じ日だったり。
こんなに身近なところで、タイムワープを体感できるなんて、面白いなぁ~と感じたので、ちょっと記事にしてみました。
あぁそうそう、話しが飛んでしまっているのですが、広電旧線の「あれから1年~」の記事は ① と ② に分けてUPしたのですけれど。
2日前にUPした ① に、② が追いついてしばらく″いいね″数が同じだったんてわすよねぇ。
一瞬だけ同数になったりすることはたまにあるのですけれど、しばらく同数で推移したのは始めてだったので、スクリーンショットを撮ってみたのですけれど。
結局、違う話題にしてしまったので、最後に付け加えました。
やっぱり1位記事って少しだけアドバンテージがあって、今は同数ではありませんけど。
さて、私は行けなかったくま川鉄道の「手を振ろうイベント」の、速報動画がUPされていたので貼らせて頂きました。
日数的にややタイムリーは過ぎてしまっていますけど(爆)
まだまだ平成8年熊本地震は被害が収束へ向かっていませんが、今回の くま鉄全線復興のように、震災のあった町も住民も、早く普段の暮らしへと戻れますように。
もはや戦後ではなくなってから70周年
| 被爆2世が語る平和記念日と世界史シリーズ |
今年は8月6日そして9日、さらには15日に更新する定例記事を見送っています。
その事情については今更記しませんが、それでも終戦記念の日における記事は、簡易的ではありますがUPしておこうと考えました。
その理由は1956(昭和31)年7月に政府が発表した「昭和31年度 年次経済報告(経済白書)」の。
その一節である「もはや戦後ではない」から今年で70周年となる故です。
もはや戦後ではないと宣言されながらも、未だに今の時代を″戦後″と言いたい人々がいる現実。
それは閉ざされた学校教育と、その思想に支えられているマスメディアによる腐報による、日本人への洗脳。
戦前そして戦中における国民のミスリードを反省と言いながら、やはり日本国民を誤った方向へ誘導するその体制と。
外国の資本や人材登用という•••••••やはり誤った宣伝をする反オールドメディア勢力。
ネットの投稿や新聞・テレビの情報に対して、1度みんな冷静になってみる時期のように感じます。
「皆さん‥‥ 日本国民なら、その問題を真剣に考えてみませんか!?」
そんな文章から始まる、ある日本の大学教授の私見は、日本の歴史と伝統を根底から揺るがす内容でした。
人それぞれ考え方や思想はあり、互いに違う価値観を尊重し合おうという時代ですが、この国に生まれ数千年もの間、この国の民族として紡いで来た私と祖先の立場からすれば。
自分たちのアイデンティティを拒否し、否定されるが如くの内容には、やはり尊重する余地などはありません。
何の話しかと言えば「皇室典範」そして「皇位継承」についてです。
そもそも‥‥ 「 男系男子」 へ 拘る から、おかしなことになる!! (「皇室典範」第1条に記載!)
その拠り所は‥‥ 神武天皇来の皇統!!(苦笑)
「男系男子」で繋ぐ‥‥ 「万世一系」の‥‥ 皇紀2686年!!(失笑)
唯もう、 それだけの根拠!!!(笑)
世界中に神話の無い民族は存在しません。
神話と信仰は別物であることは、既に誰もが知っているにもかかわらず、実に気づいていない日本人はとても多いところです。
例えばギリシア。
ギリシャ人はほとんどがキリスト教徒ですが、ギリシャ神話は今も健在で、既に信仰の対象ではないものの、普段の暮らしの風習や文化としてギリシャ人のアイデンティティとなっています。
ヨーロッパとオリエントの中間に位置するトルコでも、 他信仰を認めないイスラム圏文化でありながら、古代ヒッタイト帝国から続く価値観は今も残ります。
最近アニメ化され放送 している「天は赤い河のほとり」で、再び認識が上がっている″女神・イシュタル″も、既に信仰の対象ではないものの、今でもその土地ならでわの文化と風習として生きています。
民族として神話が無い民族は、哀しいですが存在してもいます。
それは、他民族によって征服され植民地とされた地域で、女性は手足を切り落とされて性奴隷にされて、子どもは生きたまま焼き払われて。
男性は強制労働を強いられて、支配された民族には人権だけでなく権利そのものが剥奪されます。
そして全ての文化や技術が破壊されることは、今のウイグルやチベットを見れば明らかで、第二次世界大戦後から21世紀の今を眺めて。
誘拐され内蔵を摘出されるのはよく知られていますが、女性は漢民族の男性との結婚が推奨されています。
人権も文化も技術も剥奪されるということは、その民族の神話も剥奪されるので、そういった文化を未来へ継承しようとすれば、それは極刑が課せられます。
そして汎能な子どもたちには、徹底した洗脳教育が施されてきた歴史の中で、そうやって絶滅する民族がどれほど多いことか。
神話のベースとなっている宗教的な価値観を信仰する人もいますが、神話とは何千年も続いてきた、自分たちの守るべきアイデンティティです。
「神話までも持ち出すという馬鹿さ加減!!(呆) そこに何の意味があると言うのか!?」と自虐的に自己否定をする発言も散見しますが、自分がなぜここへ存在しているのか?を否定する思考には共感できません。
神武天皇から2,686年続く日本と言う国。
仮に神武天皇を存在しない架空の存在だと百歩譲ったとしても、大宝律令が制定された701年が建国として。
それでも1325年の歴史は、世界で1番古い国 = 「世界で1番歴史のある国」であることには変わりません。
隣の大国・中華人民共和国は、中国と国名を略して「中国三千年の歴史」とも「中国四千年の歴史」とも言います。
しかし実際の建国は1949年で、まだ国ができて77年しか経っていません。
そもそも中国四千年と言うキャッチコピーは、清朝末期の思想家・梁啓超らが使い始めたと言われています。
1895年、日清戦争で清国が日本に敗北した際、彼は「我が国四千年の大夢を覚醒する(我が国の4000年の長い眠りを呼び覚ます)」 と表現しています。
当時、欧米日列強に侵略されつつあった中国の人々に「自分たちは長い歴史を持つ一つの偉大な民族なのだ」というナショナリズムを植え付けるため、この「4000年」という数字を定着し始めました。
同じことはエジプトやイスラエル、先出のギリシアなどでも同じで、その地に根ざした民族のアイデンティティとしては、数千年の間も生き続けています。
しかし国が存続して政権が交代して今も存在しているのではなく、国家が滅亡または更新されて今に至るのですから、1000年以上持続している国は世界で日本だけとなっている事実。
なぜ日本が″革命″ではなく″維新″にこだわったのかは、これで分かる通りです。
もし、女性天皇が擁立されて、その次の代 = 128代天皇が女系天皇となった場合、日本がどのように屁理屈を並べようとも。
国際的にはその時点で新興国家の建国扱いとなります。
インフラや文化財そして法律関係は、旧日本から引き続き活用されると言うだけで、政権が倒れていなくとも新日本国の初代政権と見なされます。
それは女系天皇が即位した瞬間、日本は2,686(または1,325)年の歴史が終わるということ。
女系天皇を推進する人たちは、もっともな意見そして正論のように聞こえる、矛盾だらけの論理を展開しますが、この1点だけは忘れてはいけません。
自分たちの過去を自分たちで捨ててしまう国民そして国家を、世界中の誰もがこれまでのような信用・信頼の目で見てくれるでしょうか。
あなたの近所の人や知人が、家族でそうなった場合、これまで通りの交流はできますか?
国家は民族が1つに集まってできている組織です。
自分たちの理論を、そのままに回りの国の人々が、額面のまま受け入れてくれることは、絶対にないのです。
しかし、物は考えようでもあります。
国名も体制もそのままに、新興国家になる訳ですから、永遠の敗戦国の汚名もかなぐり捨てることができます。
しかしそんな民族を、世界中の人々はどう見るでしょう。
責任放棄は、人として1番信用も信頼も失います。
日本という国家そして民族の根源を破壊しようと画策している人たちの、ことばをそのまま鵜呑みにしてはいけません。
それはあくまでも″改革″ではなく″破壊″であるからであり、反社反日思想による国家乗っ取りだからです。
2026年 とうに戦後ではない
「もはや戦後ではない」とは、1956(昭和31)年7月に政府が発表した昭和31年度 年次経済報告(経済白書)の一節で、その時代を象徴する有名な言葉です。
日本が単なる「戦災からの復興期」を終え、本格的な近代化と高度経済成長の時代へ移行したことを宣言した歴史的フレーズです。
前年の1955(昭和30)年に、日本のGDPや生産水準がようやく戦前の最高水準へ回復。
ただ「元の状態に戻る(回復)」だけの成長は終わり、今後は新しい「近代化や技術革新」による成長期へ突入したと宣言されました。
実はこのフレーズは、当時英文学者・中野好夫が雑誌に発表したエッセーのタイトルから、白書の執筆者(後藤譽之助ら)が借用して結語に使ったものです。
当時の状況経済の好転は、朝鮮特需などを背景に「神武景気」と呼ばれる、戦後最大の好景気が到来します。
白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫などの新しい家電が登場し、生活水準が先進国の標準へと追いつきました。
この年の12月には国際連合(国連)への加盟を果たし、名実ともに国際社会へ復帰した日本。
1957(昭和32)年には、現代のGT-Rへとつながる初代スカイラインが誕生し、日本の自動車産業が隆盛の兆しを見せ始めて。
電車特急の″こだま″が東京~大阪間の日帰りを可能とし、日本初の冷暖房完備の客車を使用したブルートレイン″あさかぜ″がデビューしたのは1958(昭和33)年。
特急あさかぜは東京~博多を結び、その誕生は大都市圏以外の地方都市の、戦後復興を加速させる力の要因となりました。
1964(昭和39)年、東京~新大阪間に世界最速の鉄道″新幹線″が開業し、戦争により1度開催権を返上した東京オリンピックが、国立競技場で開催。
日本は 戦後を脱却し、戦前のような国際社会での1等国として世界から認められました。
しかし2026(令和8)年の今、とうの昔に戦後ではなくなっているにもかかわらず、未だに謎の自虐思想を根底に埋め込んでいる日本人が多いことはなぜだろう?
終戦を記念した日
20世紀は戦争の世紀と言われた。
かつては一時ではあるけれど、そう謳われた時節がありました。
しかしやっぱり、21世紀も戦争の世紀と言わざるを得ません。
◎ 1867年11月(慶応3年10月):
大政奉還
(徳川慶喜が政権を朝廷に返上)
◎ 1867年12月(慶応3年12月):
王政復古の大号令
(天皇中心の新政府樹立を宣言)
◎ 1868年1月(慶応4年1月):
明治政府の本格的な始動
日本が戦争を放棄したのは 1947(昭和22)年5月3日に、日本国憲法が施行されたことによります。
明治新政府が樹立して、日本が戦争放棄するまでの間は79年間です。
日本が戦争に負けて今年で何ですか?
近年の私は、もうそろそろ辞めましょうと主張してきました。
昭和100年を昨年迎えたことから、この先の終戦100年を目途に、もういつまでも負けたことにヘソを曲げた態度を改めましょう。
山上信吾(やまがみしんご)大使の語る、戦後日本と世界からの目線を、貼らせて頂きました。
終戦記念日はこれからも残すべきであるし、日本が紛争解決に軍事力を行使しないことは、やはり日本の国家としての指針として、堅持し続けなければならないと思います。
そう、それはこれまでもずっとそう言ってきましたし、これからもそうあるべきだと訴えます。
だからと言って、外国からの圧力に屈しなければならないこととは違います。
今の時代、平和を勝ち取る手段が戦争である必要はありませんが、外国からの武力侵攻には″それを思いとどまらせる″または″それを撃ち払う″力を、国は保持する責任があります。
しかし日本には洗脳による誤解が根強くあります。
日本が軍事力を保持することが、なぜ外国へ侵略・侵攻することになるのか?明確に答えられますか?
そもそも思考の根底にそんな間違ったデータがあるから、おかしな思考の誤作動が起きている人が多いのです。
終戦記念の日は、これまでの戦いで命を賭した英霊そして先人の、魂を慰霊するための日。
現職大臣が参拝するのは当然であり、総理大臣が参拝するのは本来義務ですらあります。
が、中華人民共和国・朝鮮民主主義人民共和国・大韓民国の3ヶ国との関係もありますし、その辺りの勘案は時代によって必要なのでしょう。
しかしそれは大臣職の責務と外交のバランスの問題です。
それよりも、今、この世界に生きていられる私たちが、靖国神社へ参拝することこそが、1番大切なことです。
東京まで行けないのなら、近くの護国神社や鎮魂社でも構いません。
まだこの国があることに感謝し、自分が生まれて来られたことに感謝し、ちゃんと人間として未来があることに感謝することが、大切なことです。
まさか自分が「生きていて当たり前」だとでも、思い上がっている訳ではないですよね?
仏教の法話に•••••••。
「私たちは、朝起きたら心臓が動いていた。でも、心臓を動かそうと思って寝た人は一人もいない」
または。
「目が覚めてみたら 生きていた。死なずに 生きていた。生きるための 一切の努力をなげすてて眠りこけていた私であったが、目が覚めてみたら 生きていた」
私たちが自分の意思や努力で生きていると思っている命も、実は自分のコントロールを超えたところで「生かされている」ものであるという、人間の傲慢さに気づかせてくれる言葉です。
人の命は誰も平等にあるように、明日の命の約束も平等であるからこそ、明日が訪れない可能性も平等であります。
あなたはなぜ生まれて来ることができたの?
あなたのご両親はなぜ生まれて来ることができたの?
ご両親のご両親はなぜ、生まれて来ることができたの?
そしてあなたは、明日の朝も迎えられる保障は•••••••,どこにあるの?
生まれて来れたこと、そして今 生きられていることに、感謝しましょう。
誰に?
ご先祖さまと、生きられる環境を守ってくれた英霊や先人たちへですよ。
だってお盆だし、まだ夏ですもの。
☆被爆2世が語る平和記念日と世界史☆
May the world be filled with peace and happiness.
(世界が平和と幸福で満たされますように)
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1周年記念電車 / 広島駅前ルート開業1周年
2026(令和8)年8月3日で、開業1周年を迎えた広島駅前ルートとミナモア2階ホーム。
それを記念して、花電車が8月1日から9日までの期間を走りました。
花電車のデザインコンセプトは、「未来への芽吹き」をテーマに、枝や切り花、工事で移植した楠の木の苗木などで装飾され、久しぶりの貨51号が市内線を走行。
8月3日当日は、JR広島駅2階にて、JR西日本・広島市・広電の合同による記念コンサートを開催。
他にも「Fresh!My Routeキャンペーン」と銘打って、多彩な記念企画が開業1周年を盛大に祝福しました。
私が花電車を撮影したのは、運行最終日の8月9日。
他のイベント関連の写真はありません。
が、花電車と呼ぶには、華やかさがやや薄い、グリーン一色の不思議な装飾。
これは広島のイメージカラーのグリーンと、広島電鉄のコーポレートカラーのグリーン•••••••,と言う訳ではなく。
1年前の開業イベントでのポスター「新線。芽吹く」を、イメージしてデザインされたもの。
なので、私もそれにあやかって?平和大通りの小網町交差点で撮りました。
私の立ち位置が小網町で、線路を挟んで反対側は土橋、小網町の平和大通りを挟んで反対側は舟入で、その線路を挟んで私から対角線は河原町(笑)
4つの町の境界線にある交差点ですが、画面左へ行くと直ぐに、西平和大橋が架かっていて、渡れば平和記念公園です。
そして走り去る後ろ姿の花電車がいる場所は、十日市電停のある十日市交差点で、直進すれば寺町そして横川駅です。
花電車のコンセプトにあやかったおかげで?か、平和大通りの街路樹が更に盛ってくれて、走る森林みたいに撮れました(笑)
さて、後続電車で花電車を追いかけましょう。
途中、紙屋町(西)電停で花電車に追いついて、ずっとテールツーノーズで走っていたのですけれど、稲荷町電停までは前に姿があったのに。
信号の関係で置いてきぼりとなって、姿は消えてしまいました。
とは言え、稲荷町交差点を左折したら、距離はあるもののもう広島駅です。
私が到着したのはCホームでしたが、花電車はAホームに停車中で、日曜日だし広電ホームは大混雑だったものの。
花電車を撮る人たちも多くて、そこに紛れて一緒に撮りました。
電停を装飾している木々と花々は全て生木と生花で、初日の出発式では江波車庫にて、JR西日本、広島市、広電の関係者で生花を活けて、発車を見送ったようです。
ただ、真ん中の幹だけは、天然木を利用したモニュメントですが、それでも樹木が立っているかのような、ステキなデコレーションとなっていて。
思わず車内もカメラを向けて、たくさん撮ってしまいました(笑)
運転日は8月1日~3日と、8月6日~9日の計7間。
公式なダイヤは公表されていないものの、10時台に江波車庫を発車して11時ころ広島駅着、14時台に江波車庫を発車して15時ころ広島駅着。
上り電車は江波から広島駅へ直行で、下りは比治山下と広電本社前を経由して江波車庫に帰着するコースでした。
尚、平和記念日はループ線経由で運転もされたようです。
生木と生花でデコしているので、この酷暑の中で維持管理は大変だったでしょうけれど、運行に携わられた皆さまには、ご苦労が絶えなかったのだろうなぁと想像してしまいます。
あれから1年 / 駅前乗降場と猿猴橋町ルート -②
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| ⭐⭐⭐ 郷土史 日本史 私撰集 ⭐⭐⭐ | ||||
「あれから1年 / 駅前乗降場と猿猴橋町ルート」その②です。
2回に分けての掲載で、前回は広島駅前ホーム跡から荒神三差路交差点までの区間をUPしました。
1枚目は猿猴橋町からカーブを曲がって、荒神橋へと進入して行く1000形 1001号 バス電LEXです。
2枚目は猿猴橋から撮った、荒神橋を行く観光バスと単コロ 700形 701号。
続いては的場町電停から真っ直ぐ荒神橋へ進入する、5200形 5202号 GREENMOVER APEXですが、もうこの豪快なシーンは見られません。
被爆橋梁と被爆電車•••••••,荒神橋の親柱と650形 653号です。
そして荒神橋は電車のために架けられた橋なので、本線と比治山下線を分岐するポイント装置が、ここにありました。
そして6枚目は、右手からカーブして来る線路が比治山下線で、左側の直線線路が八丁堀からの本線でした。
前回では「文章少なめ写真多め」と言っていましたが、実際にあんなに語るつもりは無かったんですけれど。
気がつくと、そんなに語ることがあったんだぁと、驚くばかりでした。
さて、1年前の写真に続いて、ここからは今の線路跡地の写真になります。
まずは荒神橋の親柱の位置から、荒神三差路交差点を荒神陸橋方向に撮っています。
1年前の705号と似た位置で、同じ方向を向いているのですが、線路は既に剥がされていて、新しいアスファルトで覆われています。
が、橋の上はまだ作業中で、線路は完全に無いものの、車道としての拡幅は現在進行形のようです。
石の欄干は、赤茶色いのが被爆している物で、白い欄干は復元・復旧した物です。
橋の上も部分的に舗装が施されていて、少しずつですが自動車と歩行者用の橋梁へと、姿を変えつつあります。
橋が完成したら、横断側が青信号でも左折車が来るので、こうして写真を撮るのは難しくなります。
そして荒神橋の親柱ですが、653号と同じ的場町側の上流側の親柱です。
そしてその裏には、かつてあったポイント装置 = 自動転轍機が撤去されていました。
これね、橋の上にポイントがあったので、もの凄い工夫でポイント装置を設置していたのですが、産業遺産級だったので撤去は残念に感じます。
キューブのあったヶ所は、欄干が途切れていて危険なので、現代的な柵が設置されていました。
親柱を背に交差点を見ると、 手前から左へ延びていた線路と、直進して行く線路は共に無く、稲荷町からS字を描いて比治山方面へ伸びる線路が、新しい景色を作っていました。
次は的場町電停に沿った歩道からの写真で、新しく敷設された線路と、廃線となった軌道敷跡の合流地点。
続いても同じ場所を的場町電停外側ホームから撮ったのですが、左へ弧を描く新線と右側へ弧を描く廃線跡です。
そして的場町電停内側ホームから撮った新線ですが、かつては荒神橋へ直進していた線路も、今はその姿を見ることはできません。
舗装はやり直される予定なので、線路跡を感じられるのは、今だけの限定期間です。
そしてかつての本線と今のループ線の接続点ですが、コンクリート道床と石畳道床の兼ね合いが、どうなるのかは気になるところです。
稲荷町電停方面から的場町電停と350形 352号を撮ってみましたが、線路はS字を描いて 比治山方面へ伸びて行きます。
これが2026(令和8)年の今、広島の新しい風景です。
-了-
↓↓↓ブログ内リンク↓↓↓
⭐⭐⭐ 郷土史 日本史 私撰集 ⭐⭐⭐
🍁 鉄道から見る郷土史シリーズ 🍁
あれから1年 / 駅前乗降場と猿猴橋町ルート -①
2025(令和7)年8月3日、新 広島駅ビル ″Minamoa″ 2階へ広島電鉄が乗り入れることとなり、新線と新ホームが営業開始しました。
その前日、広島に路面電車が開業して以来、ずっとそこにあり続けた猿猴橋町ルートが廃線となりました。
広島電鉄の前身事業者 = 広島電気軌道は1910(明治43)年6月18日に設立され、1912(大正1)年11月23日に広島市内で初めての路面電車を開業させました。
広島駅前ホームと猿猴橋町ルートの線路、そして荒神橋を渡る路面電車の風景は、100年以上に渡り広島の原風景でした。
昨年8月2日を以て廃線となり、112年8ヶ月と9日間、広島の運輸を支えた歴史に終止符を打ちました。
2026(令和8)年8月3日、広島駅前ルートが開業1周年を迎えたことから、現在の様子を写真に収めてみたので。
今日は文章少なめ・写真多めとなる記事をUPしました。
1枚目は広島駅前(東)交差点の、安全地帯の島からミナモアをバックに撮りました。
次はカープロードの地下道入口付近から、到着ホームへ停まる5101号 RedWingと、発車ホームで停まる1001号 バス電 LEXです。
続いては、よくこんな位置から撮ったよねぇと自分を褒めたい、ビッグカメラのサインをバックに、3907号 HIRODEN ettoを撮っています。
4枚目は被爆ポンプと被爆電車 653号。
5枚目は、猿猴橋町から荒神橋へと曲がるカーブを行く、5104号 HIROSHIMA CARP。
6枚目は8月2日、最後の営業電車が走った後、団体臨時として走ったラストラン列車を、猿猴橋町の電停名を入れて撮りました。
まだ猿猴橋界隈へ赴くと、あの風景の中を電車が走っているかのような錯覚があるものの、イザ行ってみるとそこには何も無い空き地が広がっています。
かつての広島駅前ホームが広がっていた跡地は、線路も建物群も既に撤去されていて、そこには虚無感が漂っているように感じます。
このエリアは広場的な空間に整備され、噴水が整備される予定とも言われていますが。
何もかもが移り変わって行く街の風景に、誰もが思い出を持つあの噴水が戻って来るのなら、何か少し安心感を覚えるのですけれど。
あの噴水•••••••。
1989(平成1)年に設置され、工事のために2020(令和2)年に撤去された、クラゲ形(お尻形とも言われる)の噴水。
広島駅と言えばなデザインで、待ち合わせの定番スポットでした。
広島駅の1番ホームにあったかつての改札口を、真っ直ぐ歩いて地下道へ降りる階段には、リニューアル後も変わらずなデザインのモザイク画が。
そのまま残されたのは嬉しい限りなのですが、その階段を降り始める一画に、かつては路面電車がここへあったと伝える、軌道敷の石畳が設置されています。
わずか10枚ですけれど、広島駅前ホームの石畳がこうして、モニュメントのように設置されているのは、何かホッとする気持ちです。
広島駅前と交差点では既に線路は剥がされていますが、猿猴橋町電停付近から荒神三差路交差点の間には、まだ線路が残っていました。
1年間、電車が走っていないので赤く錆びたレールではありますが、石畳の軌道敷が今も健在でした。
この猿猴橋町の交差点は線路が剥がされていませんが、ここも車と人が共存する道路へと再整備が決まっています。
狭い電停ホームは既に撤去されていますが、この付近の軌道敷は一部保存され残るようです。
猿猴橋町界隈は、路面電車の線路跡地を活用し、車道を中央に寄せて両側の歩道を大幅に広げた「人が主役の憩いの空間(ウォーカブルな空間)」へ生まれ変わる計画が進められています。
どのような形になるかは、まだ検討の段階で何も決まっていませんが。
地元住民からは、113年続いた路面電車の歴史を残すために「レールの一部やモニュメントを歩道に活かしてほしい」といった要望も出ています。
そして被爆ポンプですが。
「ウォーカブルな空間」のデザインにおいて、これらは「街の歴史を伝えるシンボル」として、新しい歩道空間の中に組み込まれる計画となりました。
既に老朽化が進行して壊れてはいるものの、被爆遺産として守られ存続させる方向で、話しは進んでいます。
そして今後どのように活用されるかまだ未決定の軌道敷ですが、線路は荒神橋三差路交差点の手前で、プツンと切れています。
荒神橋は最初、電車専用橋として架橋されましたが、併用軌道橋となって今は線路が既に剥がし終わっています。
では、次回に 続きます。
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115系 N-20・N-01編成 / 岩国駅にて
2025(令和7)年9月14日に、岩国駅で撮影した115系電車 2本です。
奥の留置線へいるのがN-20編成で、旧117系の電動車を編成中間へ挟み込んでいる組成となっています。
現在は、山口エリアには227系 KIZASHI が既にデビューしており、115系の余剰車が発生している状況です。
115系3000番台は1982(昭和57)年に新製配備され、その当時は編成№は振られていなかったものの、1984(昭和59)年にCから始まる番号が振られました。
2003(平成15)年からN編成となりN-01~N-21の21本によって運用に就いていたものの、老朽車の組み換えによってN-13とN-15が欠番となりました。
2022(令和4)年3月ダイヤ改正で岩国~下関間の運転本数の見直しが行われ、運用減によりN-12が8月12日付けで用途廃車に。
2023(令和5)年10月14日からN-04が瀬戸内色に復活塗装され、懐鉄イベントとして運用に入りました。




2025(令和7)年11月15日、N-04の瀬戸内色ラストランが徳山~下関間で実施されました。
2026(令和8)年4月の検査で、N-20編成の側面行先表示がフルカラーLED式の表示器に換装されました。
2026(令和8)年7月9日、227系の運用投入によってN-02が用途廃車となり、N-05が運用離脱中となっています。
結果として今現在、山口エリアの115系N編成の運用は、全16本が稼動中となっています。
さて写真は前述の通り昨年の9月なので、N-20のその姿はまだ方向幕となっています。
N-20は、両端の先頭車が2ドアの3000番台、中間車2両が元117系の3500番台という、下関特有の「新旧混在・凸凹編成」のかつての系譜を継ぐ構成になっています。
組成内容は下関方先頭車 クハ115-3020 + モハ115-3508+ モハ114-3508 + クハ115-3120。




車内設備は再延命工事により、照明のLED化やモケット交換が実施され、良好な車内環境を維持しています。
そして営業列車が下関から到着しました。
編成№はN-01で、115系3000番台のトップナンバー編成です。
N編成は、中間車構成の違いにより大きく2つのグループに分類されます。
N-01〜N-11の6本は、新製時より全車が3000番台で構成される、2ドア 転換クロスシートの原形をとどめたオリジナルグループです。
N-12〜N-21は、地方都市で国電ダイヤでの運転をテスト的に実施するにあたり、 6両組成を4両組成に短縮して、列車本数を増やす施策が採られました。
当初はファウンダー111系の中間車ユニットを挟んで運用に就きましたが、111系の老朽化による廃車の後は、115系の初期形を編成に入れました。



すなわちN-12以降の編成は、中間電動車を稼動させるためのコントローラーとして、製造されたグループと言えます。
115系も初期形は非冷房な上に、冷房化改造が行えない車両もあり、新快速運用から外れた117系を駆動させるための編成となります。
111系はそのまま115系と混結できますが、117系はジャンパ栓など配管工事が必要なため、それを施した故に115系3500番台へと改番されました。
N-20での写真で、モハ114とモハ115の3508番を4枚貼っていますが、外観上はパッと見では115系の3000番台と、あまり違いはありません。
ただ改造されたのは配管回りのみなので、外観上は117系そのものなところは、少し嬉しい車両でもあります。
元 新快速の117系ですから、115系になったとは言え、そのエアサスの快適性はそのままです。
それ故ですが115系グループにおいて唯一のエアサス車となっていますが、111系・113系でエアサスを履いていたのはグリーン車。
グリーン車の製造が見送られた115系では、普通車でエアサスを履いていることに、巡り合わせの妙が心に刺さります。
7100形 7105号 義経 -① / 京都鉄道博物館
京都鉄道博物館にて動態保存されている、7100形 7105号 ″義経″です。
京都鉄博は2016(平成28)年の開館から10周年を迎えて、その記念イベントとして構内を走りました。
普段は扇形車庫に静態展示されていることが多いのですが、イベントの目玉として久方ぶりに自走する姿を、来館者にお披露目しました。
イベント日は7月18日で、11時30分~11時50分の間、扇形車庫から出庫後に構内運転が行われました。
去日の日記で、朝起きたら8時半だったので、到着は12時ジャスト。
走っている姿は、京都駅へ入線する時に新幹線の車内から見えましたが、写真はありません。
スワローエンゼルは車窓から撮れたのですけれど。
が、その分、悔しさから写真は枚数が多いので、数回に分けてUPします。
試走の写真はありませんが、入庫の時に走っている姿は撮りましたよ。
さてこの機関車、1880(明治13)年にアメリカのH.K.ポーター社で製造された、テンダー式蒸気機関車です。
北海道開拓のために敷設された鉄道で、初の官営幌内鉄道などで活躍した、京都鉄博で1番古い機関車です。
あまりにも昔の機関車なので、ブレーキシステムなど、その後の機関車とは異なるので、動態保存でもなかなか動かせない機体でも有ります。
イベントで一般公開する前には、各装置や機関が正常に作動するかを確認するため、館内スタッフによる入念なテストが行われます。
明治時代の面影を今に伝える貴重な姿が元気に動く瞬間は、鉄道ファンや来館者にとって非常に貴重な機会なんですよ。
140年以上前に作られた非常に古い車体であるため、メカニズムのサビつきを防ぎ、いつでも自走できる状態(動態)をキープするには、定期的に火を入れて実際に線路上を走らせる試運転(動態維持作業)が不可欠です。
なので、こういった特別な日には、走っている姿を見ることが叶う訳なんですけれど。
まぁ、遅刻しちゃダメですよねぇ~(爆)
この京都鉄博最古参の義経ですが、実は鉄道記念物でもあります。
鉄道記念物とは、国鉄時代に制定された鉄道記念物保護規程に基づき、歴史的文化価値の高いものや。
鉄道の歴史を理解することに不可欠なものを大切に末永く保存するために指定したものです。
だからといって、保存されることが担保されている訳でもありません。
JR貨物 広島車両所で静態保存されていた、D52-1号機は今年3月に解体されています。
引退した車両の保存を望む声は多いですが、維持管理の莫大な経費は鉄道会社任せなので、結果的にこういう末路を辿ります。
遺すならどう維持費を賄うのか?も、声を上げる人は提案する責任があります。
と、話しは逸れましたが、試走の後はSLスチーム号横の線路で展示されたのですけど、その日の担当機は日本最大最速の機関車でした。
小柄な明治時代の機関車と、戦後に造られた特急機の並びは、その大きさの違いに息を呑みます。
アメリカから輸入されたそのスタイルは、アメリカンスタイルと呼ぶに、 そのままなデザインですが。
古い西部劇の映画に登場するその機関車が、今こうして歴史の街・千年の都 京都の地へ存在していることが、まるで奇跡のように感じます。
ちなみに H.K.ポーターは創業者のヘンリー・カーク・ポーターの名前からとられたものですが、登記上の正式なものはH.K.ポーター株式会社となっています。
ポーター社は1866(慶応2)年に創業し、約8,000両に及ぶ産業用の小型機関車を製造しました。
1950(昭和25)年に機関車の製造を終了しましたが、会社は現在でも産業機械の製造を続けている、アメリカの建設と土木を支える企業です。
ポーター社は小型機関車のメーカーでしたが、その中には無火機関車(圧縮空気駆動)も製造していました。
ポーター社は小型機関車のメーカーでしたが、その中には無火機関車(圧縮空気駆動)も製造していました。
これは鉱山の坑内でボイラー内で燃える石炭の煤煙も、高圧蒸気の危険も伴わない機関車の運転を可能にしました。
新潟の直江津D51レールパーク、栃木のSLキューロク館、和歌山の有田川鉄道公園では、D51の保存機を、圧縮空気で動かしていますが。
現役機をコンプレッサーで走らせていたのは、何かステキに感じます•••••••,戦前にねぇ。
さて義経ですが、次は8月25日(火)に、走るようです。
広島平和記念日2026 だったのですが。
今日は、広島平和記念日です。
が。
アメーバアプリにしてやられました。
1週間かけて作成した、6万文字ギリギリの文章が、下書き保存をタップした瞬間に8割以上が消えてしまいました。
残った文章中からさらに一部のみ、公開します。
なので、今年の平和記事はありません。
もうこの2~3年は安定動作していたのに。
油断していました。
あの4,000℃の気温と放射能の雨の夏から81年を迎えた8月6日です。
2026(令和8)年は、広島県物産陳列館が開業して111年を迎え、原爆ドームとして世界文化遺産登録30周年となります。
1915(大正4)年4月5日、建物が完成し第1回共進会(広島物産品評会)が催され、1915(大正4)年8月1日に「広島県物産陳列館」として正式に開館しました。
私の誕生日も4月5日なので、原爆ドームとはちょうど49歳の年の差となります。
共に生誕した日が同じではあるのですが、実は原爆ドームに深く携わった方の、4月5日は命日でもあります。
8月6日の今日は、高市早苗総理大臣が広島市原爆死没者慰霊式・平和記念式に参列されます。
8月9日には長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典にも参列する予定だと発表がありました。
「原子爆弾の犠牲になられた方々に対し哀悼の誠をささげ、唯一の戦争被爆国として広島と長崎の悲劇を2度繰り返させてはならないという決意、核兵器のない世界の実現に向けた決意を表明する」
式典での首相あいさつは、そういった趣旨を踏まえたものになるそうです。
今年の8月6日の「被爆2世が語る平和記念日と世界史」は、私と原爆ドームが誕生した4月5日に16歳で亡くなった、楮山ヒロ子(かじやま ひろこ)さんについて、僭越ながら語ります。
原爆ドームの保存に決定的な影響を与え、解体の危機から救ったのは、1歳で被爆し16歳で急性白血病のため亡くなった少女でした。
原爆ドームは解体されるべき物
戦後の広島では、悲惨な記憶を呼び起こすとして原爆ドーム(広島県物産陳列館 → 広島県産業奨励館)の早期な取り壊しを望む声が根強くありました。
なぜ当時の広島で「原爆ドーム取り壊し論」が多かったのか?
現在でこそ世界遺産として守られている原爆ドームですが、1950〜60年代当時は「見るのも辛いから解体してほしい」という意見は至極当然でした。
生き残った人々の記憶の中には、一瞬で都市が消滅し、そして火が付いて燃えながら歩く大勢の人たち。
黒焦げになっていながらも、ことばにならない声を出しながら口をパクパクさせている人たちや、顔や腕などズルリと剥けた皮膚を垂れ下げて避難する人たち。
割れたガラスが肌や目へ大量に刺さった状態で病院に向かって歩く人たちや、爆風や衝撃波で眼球が飛び出し、垂れ下げて歩く人たち。
体を透過した中性子や放射線の影響で急速に細胞が死滅していくため、歩いていて突然亡くなって倒れる人たち。
翌日または数日経って自宅のあった場所へ戻る道中で見かけた、炎に包まれて苦しんだ人や、子どもを守ろうとした姿で•••••••。
大人から生後間もない赤ちゃんまで、遺体と言うよりも完全な炭になって、足の踏み場もないほど道路のあちこちに転がっている風景。
地獄と言うことばがこれほど軽く思える現実を体験し、生き残っても明日は自分は存在していないかもという不安。
さらに、原爆炸裂の影響が微小だった地域の人々からの忌避と差別。
多くの人がそんな形で家族や友人を亡くしており、無残に破壊されたドームを見るたびに当時の光景や悲しみが呼び起こされ、PTSDなど精神的な苦痛は尋常ではありませんでした。
残骸と化した産業奨励館は、広島市民にとって解体されるべき忌まわしい物だったのは自然なことだったのです。
ましてや1950年代当時の広島は「軍都」から「平和都市」として新しく生まれ変わろうと必死でした。
前を向いて近代的な街づくりを進める中で、中心部に残る巨大な廃墟は「復興の邪魔」「お荷物だ」と感じる人が少なくありませんでした。
そして被爆によってボロボロに朽ちた建物は、いつ崩落・倒壊してもおかしくない危険な状態で、「危ないから早く壊すしかない」という現実的な判断もありました。
当然、困窮している人々や市・県・国には文化財という価値観も持っていませんでした。
「過去を忘れたい」「未来へ向いて歩きたい」という市民の切実な感情から、当時は解体へのカウントダウンが進んでいました。
以上です。
ヒロ子さんが平塚で生まれ、1歳で被爆し、16歳の時に白血病で亡くなったのですが。
日記に記した″思い″から、解体されようとしていた旧 産業奨励館 = 原爆ドームが保存されることになり。
やがて世界文化遺産に登録されるまでを綴りました。
今は8月6日の午前1時17分です。
もうね、同じ文章は書けません。
最後の発病してから亡くなるまでの文章は、渾身でした。
世界文化遺産登録時の、アメリカと中国の反対など、政治的圧力にも面白くできていたと思います。
さて、と言うことで、いろいろな資料を参考に書いたのですが、やはり特に物語の中核を形成してくれたのは、以下の書籍です。
ヒロ子さんの同級生たちが自費出版した本があります。
「原爆ドームと楮山ヒロ子:ヒロ子の日記と原爆ドームの保存」というタイトルの書籍です。
府中町立府中中学校でヒロ子さんと3年間同じクラスだった寺田正弘さん、中村秀次さん、吉村勝文さんの3名が中心となり、2019年12月に発行されました。
この本が作られた背景や内容には、同級生たちの深い思いが込められています。
ヒロ子さんの日記は原爆ドーム保存の決定的な引き金となりましたが、全国的に有名な「原爆の子の像」の佐々木禎子さんに比べ、ヒロ子さんの存在は地元広島でもあまり知られていません。
原爆ドームが世界遺産になった今、彼女の功績と生涯を国内外に正しく伝えなければならない」と一念発起し、約6年をかけて取材や資料集めを行ったそうです。
本の内容は明るかった少女の素顔と闘病の記録で、約170ページのこの冊子には、公的な記録だけでは分からない、ヒロ子さんの生きた証が細かく記録されています。
いつも元気で健康そのものに見えたため、同級生たちも彼女が被爆者だとは知らなかったそうです。
彼女が亡くなって始めて、被爆者であったことを知り、友人だったのに知らなかったことが悔しかったと、後年に語られていました。
お母さまの手記や、最初に保存運動を立ち上げた「広島折鶴の会」の主宰者・河本一郎さんの活動についても詳しく紹介されており、少女の言葉がどのように大人や政治を動かしたのかが克明に描かれています。
同級生の寺田さんは、「なぜ16歳の若さで彼女が死ななければならなかったのか。原爆ドームを訪れる人たちに、彼女の生涯を通してそれを考えてほしい」と語っています。
この自費出版の本は、広島平和記念資料館の平和データベースなどにも資料として収蔵されています。
もし彼女の日記がなければ、原爆ドームは今この世に残っていなかったかもしれません。
彼女の言葉通り、原爆ドームは現在も世界の平和を訴え続ける象徴となっています。
毎度のことですが、1記事6万文字の制約の中で、今回もずいぶんと端折った記事となっています。
今日の記事を書くにあたり、参考とさせて頂きました。
もっと詳細をお読みになりたい方は、どうぞ手に取って頂ければ幸いです。
この記事の写真も一部は過去の記事からの再掲載があり、それらは記事が消えてそのままにしました。
1枚だけ、被爆直後の原爆ドームの写真も再掲載なのですが、HTML文章が消失しなかったので、貼ったまま残っています。
他は新たにUPしたものですが、写真はマイページから再貼付できるので、また貼り直しました。
原爆ドームの屋根部分と女の子を合成した写真は、記事内容に合わせたイメージです。
次のセーラー服の少女は、楮山ヒロ子さん本人です。
白黒の古い写真を、AIで復元生成しています。
AIでの蘇生なので、ご遺族や友人の方々から見ると、少し似ていないかも分かりません。
さて、本文を保存した時には、ちゃんと全文あったんですよ。
この下のブログ内の関連リンクを貼った時に、消えたものと思われます。
気づかずに保存して、全てが消失しました。
なので今年は8月9日も15日もやりません。
よろしくお願いいたします。
↓↓↓ブログ内の関連リンク↓↓↓
-お知らせ-
この失われたデータは再執筆します。
原爆ドームの開業111周年と世界文化遺産登録30周年の記事なので、世界遺産登録記念日までに。
この記事はこのままですが、冬に新たに公開しますので、それまでお待ち下さい。
☆被爆2世が語る平和記念日と世界史☆
May the world be filled with peace and happiness.
(世界が平和と幸福で満たされますように)
ー世界史•平和教育•教養関連記事一覧ー
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命を脅かす暑さ……天は赤いヒョンの孫?
晴れ 時々 曇りとかだと普通なんですけれど。
酷暑 時々 曇り。
それは?
酷暑って気温だよね。
え? 酷暑だけど曇ったら猛暑まで気温が下がるってこと?
時々だけど曇るのなら、絶対に気温下がらないもんね。
ということで、グーグルAIに質問してみたら、天気と気温を別々に記すと、天気だけ見て気温を蔑ろにする人が多くて。
曇ったら涼しくなるのね、と、勝手に妄想して命にかかわってしまうのを防ぐため、こんな表現になっているんだとか。
近年の気象では「最高気温が27.1℃を超えた時点から、熱中症の死亡リスクが急上昇する」ことが判明しています。だそう。
8月6日の朝は少し気温が低いようですが、今のところの予想では、式典が始まる前は27℃ぐらいらしくて。
でもその最中に30℃まで上がるようで、湿度が高いそうなので、参列には体調管理をしっかりしないとヤバいらしいです。
今の日本、30℃という環境は、十分に「命の危険」があるレベルだそうです。
まぁ確かに、かなり危険を感じることは増えましたよね。
油断していないのに、リスクにケアが追いついていないこともあるし。
去日の熱中症かも?と、京都鉄道博物館での体験を記しましたが、毎月の定期健診で先生へ質問してみました。
視界が白飛びを始めてコントラストを失い始めて、次にだんだん視界が暗くなっていく現象なんですけれど。
目まいを伴っているだけで、発熱が起きていないのなら、それは体内の塩分が失われ過ぎているから•••••••,だ、そうです。
熱中症にはかかっていないけれど、脱水症ではあるので、水分だけじゃなくて、しっかり塩分もとって下さいね。と、言われました。
塩分は1日10gを守ってると言ったら、あぁ、死にますよ。と。
しっかり水分をとっていれば、オーバーしても大丈夫なので、遠慮せずとって下さい。
とのことでした。
また秋になって、暑さが落ち着きはじめたら、それに合わせて減らしていけばいいのだそうです。
さて、視界から光を失っていく症状を、先日は夜雀状態と記しましたが、ぬらりひょんの孫に出てくる夜雀。
彼女に術をかけられた時の、視界の失われ方と同じだったので、私はあの症状を夜雀と呼んでいます。
ぬらりひょんの孫をアニメで見た人なら、一発で症状が伝わります(笑)
と言うことで、AIで夜雀のフィギュアを描いてみました。
経文が書かれた和紙を纏っているのですが、余計なことに宝石まで散りばめてくれましたわ(爆)
まぁ似合ってるので、そのまま使ったんですけどね。
え? 今さらなの?
原作は1995年~2002年の作品ですが、コミックスは第1巻から初版本で持っているものの、全28巻そろってはいないんですよ。
途中から買ってないの。
篠原千絵さんの作品では、陵子の心霊事件簿、闇のパープル アイ、海の闇 月の影は、今でも全巻手元にあるんですけどね。
もうね、見逃し配信で見ましたよ(爆)
知った時にはまだ2話しか放送されていなかったんで、間に合いました。
ヒッタイト帝国の第3皇子 カイルのセリフですが、当時は合理的な考え方だと感じる程度だったものの。
今の時代は、やはり危機感を持って心に刺さるセリフです。
何かね、楽しみができましたよ( 喜)














































































