「天理教」は宗教か、真実の教えか -14ページ目

「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」に関するまじめな宗教学的、神学的な考察

現在の「みかぐら歌」とくらべて、この当時の「みかぐら歌」は今とは異なっていることが分かります。

国会デジタルで以下見られます。

 

 

  昭和14年 4月1日 新修発行

 

 編集兼発行者 天理教教会本部  奈良県丹波市町三島

 右代表者   山澤為次

 

 印刷所  天理教教廰印刷所 奈良県丹波市町河原城

 右代表者 紺谷金彦

 

 これは、明治21年以来、利用されていた「みかぐら歌」が昭和14年に改訂されたことを意味しています。

 

 三座、ちょと話しでの「なむ天理わうのみこと」の文句の削除。

 よろづよ八首、三下り目、五下り目が削除されていました。

 

 おそらく、昭和初期の内務省、文部省の統制から来たもので、軍国化し思想統制を強める中で、各宗教教団の教義の改編が求められた時代です。  天理教ではおそらく、「革新の時代」ともいわれていました。 

 昭和ファシズム期の宗教統制・宗教弾圧の時代でありました。 戦前の民衆宗教の宗教統制について以下の論文がありました。

 

桂島宣弘「民衆宗教の宗教化・神道化の過程」『日本史研究』(日本史研究会) 2004年

 

http://www.ritsumei.ac.jp/~katsura/16.pdf

 

 

 天理教が語る、根源神、創造神、元の地場というような表現が、国粋化する国家神道の教義に抵触したことだと思います。 

 

教祖の教え通りの「おつとめ」が出来なかった時代が、終戦後まで続きました。  

 

 

 

 

 

「みかぐら歌」に以下のお歌があり、病気の意味について分かりやすくも深遠な意味が込められています。

 

 八ッ やむほどつらいことハない わしもこれからひのきしん  三下り八つ

    (病むほど辛いことはない わしもこれからひのきしん)

 

 七ッ なんぎするのもこゝろから わがみうらみであるほどに 十下り七ッ
 八ッ やまひはつらいものなれど もとをしりたるものハない 十下り八ッ
 九ッ このたびまでハいちれつに やまひのもとハしれなんだ 十下り九ッ
 十ド このたびあらはれた やまひのもとハこゝろから 十下り十ド

 

 私も個人的に先日の木曜日、「尿路結石」という厳しいお仕込みを頂きました。病気の一種で、生活習慣病でもあり、現代人の男性の20人に1人はなるという、珍しくはない病気でした。 陣痛のような痛みが、真夜なか、朝の3時半頃に突如としてありました。 就寝前に水を飲まなかったのが直接の原因らしく、深夜にできる結石が腎臓から尿管に落下して、詰まったようです。

 

 CTスキャンという高額の医療機器で、小さなかけらが見つかったようでした。

 「尿管結石」との医師の診断が5時半ころに、救急外来を通じて分かりました。入院の必要はなく、痛み止めの薬、座薬を3日分処方され、水分を取ってください、自然に流してくださいということでした。

 

 ネットで「尿管結石」の原因・処方を詳しく調べると、10ミリ以上の結石だと手術が必要だと分かりました。幸い、4ミリ以下のものらしく、流すのが良いとのことでした。シュウ酸カリウムで石ができるらしく、生活習慣病で、持病の高脂血症であるのも効いていました。

 

 暗黒の木曜日となり、一日何もできず。 痛みが繰り返される。 

 陣痛に比せられ、定期的に右わき腹に差し込む痛みがありました。

 

 金曜日の朝には、不思議と痛みがはれる。 しかし、激甚の痛みの後遺症が残っていて、軽度の痛みが続ていました。尿の中にも小さなかけららしいものが何度も出ました。  金曜日の午後には出かけられるまで回復。子供と仕事場へ。

 

 土曜日、学会のオンラインの仕事も何とかこなす。 夕方、大雨の中、家族のために買い物のドライブもこなす。

 

 日曜日、なんとか、明日から始まる授業の用意も終える。  

 

 一人の人間として、まだまだ汚れはたくさんあり、今一度、 「生かされている喜び」を身近に感じさせて頂きました。

 

神様ありがとうございます。  

 

生きている喜び、生かされている日々の守護をこれから、伝える人間になるよう、心定めをさせてもらいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

今の天理教の信徒にとって、真柱(しんばしら)様こそは教団のトップであり、大教会に真柱様がお入込みになることは最高の栄誉である。

その奥様の中山はるえ様が東京教区でお話されることも最高の栄誉であった。

https://tenrikyo.tokyo/pdf/%E6%95%99%E5%8F%8B689%E5%8F%B7.pdf

 

ただ、天理教の歴史、その始まりの由来を辿ると、真柱様を至高のワントップとする体制は大正期に意図的に作られたことが分かる。

 

それも教祖(おやさま)の遺徳を継承する中山家を中心とする組織体制であり、神様が本来構想した天の組織とはかなり異なることが分かる。  

 

明治20年から40年までは、飯降伊蔵さんが、本席様として、天啓の御用をされていた。その当時の飯降家は三軒三棟も準備され、天啓の家柄がその後も継続的に生まれる体制が用意されていた。

 

これに異を唱えたのが、中山家の御母堂様であろう。 教祖の孫であり、生まれる前からその魂がつとめの完成の一環として預言されるほど、尊い魂の方である。 

 

ご母堂様こそは、教祖の唯一の内孫であり、主人となる梶本真之亮(初代真柱)は実は養子として、後から中山家に来た人である。

 

教祖の直系の子孫は中山たまへ様だけであった。教祖から絶大な期待をかけられた「たまへ」様であるが、飯降伊蔵様が本席の御用をされていた時期は、教祖からではなく、本席様から神の命令を受け取っていた。教祖に直々に仕込まれ、そして本席時代にもさらに多くの神の詞をうけとっていたのは、中山たまへ様であった。

 

天直接に神の詞(ことば)が下されることは、刻限話であり、神様からの主体的な働きで、神様の諭し、刻限話があった。これは人間の伺いによるものでもなく、人間の願いによるものでもなく、神様側からの都合から真夜中で早朝でもあった。  

 

明治40年に本席様が出直す直前の100日さしづの時期は、本部員たちもその対応でヘトヘトとなったほどである。まさに神様の詞が下ろされ、その受け手たちは、その対応、心定め、決心の中で、新たな段階へと進むことができた。

 

 神の詞を受け取る最高責任者こそは、真柱である。明治期には教長と呼ばれていた。 

 

神の詞が続き、神屋敷の実体がそこにあった。

 

だが本席様が明治40年6月の御出直しとなり、地場における神霊的な要素は消え、緊張感は無くなった。

 

神の詞はないが、100日さしづが残された。 むこう10年さき、神の天啓はないが、本席からの遺言が残されたのである。その神の詞を頼りとして10年は過ごせるということであった。

 

「未だ/\語りたい事ある 言いたい事ある」(『おさしづ』 明治40年5月31日)

 

明治40年(1907)から10年後の明治50年は、大正6年(1917)である。

 

この間の本部事情が、天理教の将来を定める重要な期間であったことは、間違いない。

 

大正2年に真柱の中山新治郎が出直す。

 

大正7年に上田奈良糸様のおさづけの運びは停止。

 

中山たまへ様による、おさづけの運びが本部員会議で決定する。 本部重役筆頭の松村吉太郎が決めたことかもしれないが、その決定に従ったのは、若き将来の真柱となる中山正善の母である御母堂様である。 松村家も小東家を通じて、中山家の親戚である。

 

 神の屋敷から、中山家中心の屋敷になることが、その当時、決定されたのであった。

 

天啓はいらない。本席様の御用で、天理教の天啓は終わった。そうした重大な意思決定がその当時、決められた。

 

天啓的な神の御用となる「さづけを渡す役割」を中山家がもぎ取ったことになる。  中山家ワントップ体制が方向づけられた。 

 

世俗化した教団体制、普通の宗教教団としての道筋がそこから始まった。  東大の宗教学科との幸福なコラボ体制が始まる。

 

 中山正善による教祖の神格化の教義が構築される。 「おさしづ」も原典の割には、貶められる体制が築かれた。

 

私たちが知る、真柱様が一番偉いという、天理教の今の姿が決定された。  

 

「未だ/\語りたい事ある 言いたい事ある」(『おさしづ』 明治40年5月31日)

 

 

 

昭和16年(1941)年11月21日に眠るがごとく、出直された高井直吉本部員は、恐らく教祖(おやさま)の側に勤めた高弟の最後の一人だと言われていることで有名である。

 

先人の足跡3  【高井直吉 】 そのまま今に伝える

 明治12(1879)年から信仰をはじめて、教祖の人格にほれ込んで信仰一筋の人生を歩んだ方である。文久3(1861)年に河内の田舎で生まれたので、この時いまだ18歳であった。 信徒のために宿屋兼蒸し風呂を秀司さんが営業していて、その手伝いから始めた。宮森与三郎とともに、教祖のご側のお屋敷に住み込み青年第一号ともいわれている。

 教祖に命令された遠州への布教では、多くのおたすけが上がったことを喜んだ。

 明治17年3月2日には龍が太陽を目がけた夢のなかで、其のしっぽを捕まえて、天を上がった。その夢の内容を教祖に伝えると、教祖から「息のさづけ」を渡された。救済の技法であった。亡くなる前日まで、息を紙に吹きかける奉仕をされた。また教祖からは、おひさ様を通じて教祖の赤衣をいただき、おたすけの際は、月日の名代として赤衣を着てお助けをしなさいと言われた。

 字が書けなかったことも有名で、その代わり、何度でも聞いて納得するまで尋ねたので、レンコン掘りとも呼ばれた。

 教祖から言われことを、そのまま教祖の語り口のまま記憶し、何度でも、教祖と同じ話ができるようになったという。

 警察の弾圧でお屋敷に入れないようなこともあったし、雨ごいづとめをして、科料を支払わされたことも何度もあった。そのような道を超えて、明治20年正月26日では、命かけてのおつとめにも参加した一人である。

 高井猶吉(直吉)先生には逸話が多く残されていて、以下の高岡大教会のサイトに詳しい。

 戸籍では、猶吉で、通称名は直吉と書かれたそうだ。その孫は高井猶久本部員である。おじいさんことをよく覚えていて、教祖の事を思い出して、泣いている祖父の姿を語っている。

 

 

 

 

 明治14、5年頃に教祖は山澤良助、仲田儀三郎と高井直吉の3名に、「こうき」を作れとの命令を与えた。その「こうき」を書いて差し出しても、教祖はどれも諾としなかったとされる。高井は書くことができなかったので、書いて提出することが出来なかったが、渡辺優は、そのことを不思議に思っている(渡辺優(2021)22頁)。

https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/4685/GKH025603.pdf

 

  「こうき」を作ることは、教祖から与えられた道人への最大の課題である。字の書けなかった高井には、生まれ変わって次の肉体を借りた時には、W大学を出て、ひのきんクラブをつくって、しっかりと道の研究してほしいという期待があっただろう。

 教祖のぬくもりは、高井先生の事績から類推できる。しかし、存命の教祖を動かす、天の理、法則的なものへの理解には、不十分さがあった。 教祖の肉声の丸写しではなく、自己の魂に刻んで、理としての理の道の探究はまだまだである。 

 

  本席様のさしづをいただいた高井猶吉先生はどのように受け取っていたのだろうか? 本席様のそば、筆取りの仕事はできなかっただろうが、本部の重責を歩まれたので、刻限話については何度も聞かされたはずである。明治41年にようやく本部員とはなったが、それ以前は使い走りだけではなかっただろう。  

 本席時代の本部員への仕込みが何であったのかが、研究されてないといけない。

 

  永遠に語り伝えるべき何か、それが「こうき」ではないだろうか。各時代ごとに最先端の理にもとづき、体系的に理を世界に広めることが求められる。理の視点にたった教祖伝、元の理を通じた世界と人間の根源と未来の道、世界のあらゆる宗教、民間信仰、裏守護の世界とこの道と関係、肉体と心と神との関係性・・・これらが「こうき」の主題となるだろう。  

 

 人類が共通して共有すべき物語、ナラティブ、それが「こうき」である。

 

 人類の社会的課題の共有のためには、それを背後から支える、世界と人類の根源である神の物語を共有しなくてならない。    

 天理教は新興の宗教として、特に伝統仏教、真宗教団から目の敵にされた時代があった。

 

 明治27年には以下の批判書が出てている。教祖亡き後、6年の間に200万人も信徒が増えた。位牌を捨てたり、檀家の突然の改宗が大量につづき、他の教団には大変な脅威だった。  

 

 同じ明治27年には天理教も含めて、十一個の淫祠宗教を批判した以下の書籍も出ている。 

伊東洋二郎『淫祠拾壱教会』其中堂、明治27年9月

 

 
伊東はしつこく、『淫祠天理教』其中堂、昭和28年(重版 42p)をさらに出している。 古書店では、24500円もする。さすがに買う気にはなれない。これは昭和28年ではなく、おそらく明治28年の入力ミスかもしれない。  

また明治29年には教祖十年祭が施行され、多くの信徒が奈良県の三島村の天理教教会本部の祭典に集まった。その数は以下の書籍によれば、25万人だという。また当時は天理駅は無かったが、法隆寺駅から利用者が19,822人もいたことが驚異的に書かれていた。

 

天理教大断案 : 公平評論

安藤正純 (鉄腸) 

 

 

 

 本書はかなり公平な立場から天理教を宗教として認めながらも、愚民を惑わす野蛮宗教だと断罪して、国民を啓蒙することを目的としている。仏教やキリスト教など伝統的に歴史ある宗教からすれば、新しい新興宗教に対する警戒感と脅威からこのような天理教批判があり、反対討論会なども開催されていた。 法蔵館から出版であり、今でも存続する出版社だ。  

 

 教祖が明治20年に「御身を隠されて」から数えで10年目であるが、この間、急速に信徒が増加していた。明治29年の信徒数は、辻井正和先生の統計資料などによる以下の研究によれば、313万人である。

 

https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3647/OYS000106.pdf

 

 この統計によれば、最大で800万人の信徒がいた時代もあった。 明治21年4月に神道事務局から教派神道の一つとして認可され、天理教は公然と明治政府の管理下の中で、公認宗教となった。 

 とは言え、新興の教団には問題が山積している。

 外部者からは客観公正に批評していると思われる本書は、今の時代において、よく読むと多くの誤解と間違った情報に基づいて書かれていることがわかった。 

 修験者や山伏を集めて教師として、布教を広げたことが書かれていた。これは史実なのか? 普通の教会の大教会史を見ても、初代の苦労が書いてあっても、山伏に布教を依頼したことは書かれているのを見たことがない。

 また教祖の人格も最低なことが書かれていた。三島の古老からの伝聞と書かれていたが、その古老の言い伝えもひどいものであった。

 

 十柱の神による人間世界創造の説話の「こうき話」と八つの埃の教説が天理教の教理の根幹で、これらも批判されていた。「天理教退治」でも十柱の神への信仰がもっとも批判されている。 たとえば、古事記にない神として、くもよみの命、たいしょく天の命がいるからである。教団も明治21年の認可の際には、これらの神々の名称を修正して認可をもらっている。  

 

 「泥海古記」については、渡辺優先生(東大准教授)の優れた最新の論考(2021年3月)も発見した。

https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/4685/GKH025603.pdf

 こうき話の歴史的解釈を概観し、二代真柱の教学を批判的にとらえながら、民間信仰と天理教の教理を架橋する物語として、裏守護の意味を再考すべき論旨であった。優れた論考である。  高い求道心と学知を備えた新進気鋭の天理教学者である。  

 

 仏教と天理教の関係に関する教祖のお歌の実在は、すでに以下で論じた。 渡辺先生は山田伊八郎文書に「半牧のお筆先」に関連したことを教祖が説かれたこと興奮気味に紹介しているが、高安大教会史にも掲載がありますの、ぜひご覧ください。  

 

 

 

 

 

 

 

 

  知人をご案内するために、久しぶりに東本大教会を参拝させて頂きました。 東京都墨田区本所1丁目13番17号にある大きな教会で、天理教の中では、その規模の大きさから有名です。

  ことに東本大教会の初代会長の「中川よし」様が第二に教祖と言われるほど、大きな救済をされた方で、伝記もあります。 

  

 

 

 

  もともとは、京都の赤熊で布教をされていて、おたすけのお願いとお礼のために、お地場まで徒歩で100キロの道を歩まれたことが有名です。 東京に明治29年単独布教で来られ、住むところも、金銭もない中で、乳飲み子を背負いながら、布教をされました。その中なから、不思議な助けがあり、寄付する支援者、信徒が形成されて、涙でつけた東本の道が形成されたことが知られています。

 

  明治31年10月1日 高安 東本布教所設置願

  「さあさあ 尋ねる事情事情 さあ事情は願通り願通り許し置こう許し置こう」

 

 との鮮やかな布教所設置のお許しが本席様からありました。  

 

 また、

 

 明治39年2月24日 東本出張所支教会に昇格願

  「さあさあ尋ねる事情事情、尋ねる事情は前々事情、又一時事情を以てこうと言う一つ、

   皆心どうでも是は皆進む事情、願通り願通り許そ許そ、 さあ許し置こう。」

 

 と一同の心を神様は頼もしく思って、昇格も許されたのでした。 そうした想い、伝統と歴史のある教会です。

 

 なおこの2月24日の「おさしづ」をみると、合計40件の教会関連の「願い」が出され、それに対しる許しがあった。本席さまによる、大変な御用があったことになる。 中には許されなかった「願い」もあったはずだが、それは歴史的に検証しないといけない。

  

 また東京における布教経路について、早田先生の以下の研究があります。 

GT天理-154 (tenri-u.ac.jp)

 

 ただ部内教会が沢山ありましたが、最近、多くの事情教会が整理・統合されたようです。

 

 東本から分かれた大教会として、本芝大教会(東京都港区高輪1丁目22−17)があり、

 そこから本理世大教会( 入江和徳会長、東京都新宿区西落合1丁目9−1)が平成になって分離しました。

 その他、東本の流れとして本保大教会(明治36年設立、東京都八王子市暁町1-37-11)がある。

 

 佐津川先生は令和5年には創立120周年。5代会長の報告祭があるという。

 

 東本大教会の中でも大きな分教会があり、以下が有名です。

 

   本坂分教会 ( 大阪府大阪市生野区林寺4-2-25

 

 

本月分教会 ( 東京都世田谷区代田1-26-9)

本月分教会 - ホームページ

  

 草梁分教会 ( 京都府京都市東山区今熊野剣宮町24 )  

      初代会長 高橋兵輔 『中川与志』の著者

      2代会長 高橋定嗣 『大いなる慈母』の著作

      3代会長 高橋聡一  早稲田大学出身、 月刊『陽気』昭和63年4月号、懸賞小説佳作入選 「道を求めて」

 

 

 

 8月末の日曜日の昼下がり、2人で参拝させてもらいました。 お賽銭箱には、紙幣をいれさせてもらいました。

 東中央大教会も大きいですが、こちはさらに大きく、奥行きもありました。 神殿内の右手の上には修養科生00名などの目標、初代会長追慕00周年などの大きな横断幕が掲げてありました。

 

 見ず知らずに私たちに、住み込みの老婦人(S埼様)が親切に対応してくださり、お茶と煎餅をいただきました。

 その老先生からは、いろいろな話をいただき、大変勉強になりました。 コロナは世界の掃除であること、神がめどうか人がめどうか。神様は目には見えないが、働きとして見える。 修理人の山名大教会長の話として、その母は諸井ろくさんで、生まれる前からおさづけをいただいた魂の方で、その母から仕込まれた話として、親心の尊さが感じられる逸話をいただきました。  

  住み込み人が80名いるそうで、午後の神殿ひのきしんも行われていました。 

 神殿の横の信徒会館は25年以上まえに建てられたものです。 私も初めて見ました。 

 

 

 

 
 
「みちのとも」に掲載された逸話を以下に。出典は、国会図書館デジタル資料より。
天理大学宗教文化研究所 編 『真実の道 : 信仰例話集』 天理教道友社、1952年、371頁
 
https://dl.ndl.go.jp/pid/2976617
 
 

 

 

  「平成の時代に、存命の教祖のお詞がありました」と言えば、今の天理教の本部からみたら、即刻に異端審問に掛けられ、関係者は免職処分になるだろう。

 

 実際に、長野県のある熱心な教会の娘さんに、天啓があったとされ、その教会は資格をはく奪されたらしい。

 

 さて、本ブログは天理教では異端とされる茨木事件以降の、裏の道として100年近い代々の天啓の流れを知悉する者として、20歳のある娘さんが残された平成時代の神の詞を此処で勉強したい。その女性はすでに出直され、それも大きな役割を果たすために早世された。しかし、多くの人に読んで欲しかったというメッセージだけは私の中に大きく残っている。 以下引用します。

 

 なお、これは本席様のような音声の御用で筆取り体制があったわけではなく、本人の魂に映った神のメッセージを本人が書きとったものである。 

 

 「平成3年8月16日 午前5時30分より

 

 世の中に不自由な者が どんなにか多くいるやら知れん

 その者たちを 皆 自由にしてやりたいと 神は願うているのや

 神の思惑を よう聞き分け この世の人間 ただ一人として 不自由なままには しておけん

 

 不自由というは それ 苦しいものや 今も苦しんでおるのが 映ってくるで

 

 早う 自由(じゅうよう)の理教えたい 自由(じゅうよう)の理 どこにあるかというたら

 銘々の胸の内 心の中にあるものよ

 

 ただ 心に磨きを かけんことには 自由(じゅうよう)の理は 見えてこぬもの

 

 神(をや)の詞(ことば)は 心に 磨きをかけるもの 磨き かけんと 何も見えんで

 

 神の詞により 一つ一つ 心の汚れを ぬぐいさり

 

 きれいな 自由(じゅうよう)の理 見えかけたことなら もう苦しむこといらん

 

 磨きを かけるというは 神の詞 一つ一つを 自分の胸に 刻み込んでいくもの

 

 しっかり 刻み込んだ ことなら 消えることはない

 

 心の汚れは ぬぐえば 落ちもしようが

 

 心に刻んだ 神の詞は 末代ものや

 

 しっかり深く 心に 残してくれよ

 

 午後5時50分終了 歯の痛みより 〇〇 拝す合掌  」

 

 現代の奈良の方言らしいが、平成時代の存命の教祖(おやさま)の詞(ことば)である。

 

SDGsにもある一人も残さず助けたいという文言は2030年を目指すが、これは永遠の神(をや)の気持ちを表している。  

 

アフガニスタンでのことも、格差が広がる日本国内、また世界でも、神様の気持ちは、まさに一人一人の人類におよんでいる。 

 

人間が陽気暮らしするには、人間の主体的な精神によって絶対的自由の理を獲得しなければならない。

 

コロナ感染はまさに不自由の世界であり、人類はコロナ後を切望しているが、「心の磨き」をしない限り、感染は終息しない。

 

 汚れた不自由な心の蓄積が不自由な境遇を生んでいる。その汚れを主体的に洗うこと、神の詞を心に刻むことで、自由の理をいただける。 

 不平や不満、不足の心は汚れた心で、誰もが使っている汚れである。ただその汚れは洗うことができる。ここに信仰心が必要で、日々の信心による心磨きが求められる。  

 

 今日も広大な守護の中に生かされいることを大きく、深く受け取りたいと思います。 合掌。  

 

すでに、この事件について以前、以下にも書きました。

 

 

新しい資料が見つかり、改めて再考したく存じます。

 

『山田倉之助文書 天理教敷島大教会』(天理教敷島大教会史料集成部編、平成13年)

 

この資料は、敷島大教会三代会長の手記を復刻したもので、伝道史が専門の天理大学の元助教授の金子圭助先生が判読を支援したという優れた書籍です。 道友社でもよく販売したことは偉いです。  

 

 

山田倉之助の母の「こいそ」さんは、山中忠七の娘で、教祖の傍で仕込まれた女性として著名な人だ。その「こいそ」さんから倉之助さんが聞き取った、教祖の事績として、以下を引用します。

 

「・・・なれど御教祖様におかれても 同じ人間の身のこころのせつなみハおなじ事、わがみさへなくバ夫にもこのくろふをかける事のなきものをと ふかくかくごをあそばされ 石をひろふて袖に入れ 池のつつみまで御越しなされしに どふしてもゆかれず

 それゆゑ一度御帰りになり二度目にまた裏門までゆかれしに 火の玉がとんできてどふしてもゆかれず 

 それがため 井戸へ身をしづめよふとおもひ 井戸がわをもたれしに 是もどふしてもはまることできす

 三度目にまたまたおもひきって井戸へゆこふをおもひお立ちなされしに このたびハ からだしびれて一足も行く事ができなかったとの事であります云々

 

 右は元治元年八月十九日御教祖様大豆越の山中宅へ(母ノ出里、山中忠七)御越し下されし時教祖様より直接母が承りし由ニ聞く」

(同書、413頁より引用)

 

これは、一言で言って、教祖が夫に対して申し訳なく、自殺を何度も試みたが、どうしても体が動かなったという不思議な話です。よく読むと、三度でなく、四度自殺を試したことが分かります。宮池だけでなく、井戸も利用されました。 これは『稿本 天理教教祖伝』では扱ってない史実のようです。

 

また下記のサイトでは、身投げ事件は、梅谷四郎兵衛だけが聞いたストーリーという根拠にもとに議論していますが、これも誤まった典拠にあるようです。

 

 

 

 

 しかし、かしものかりものの肉体であること、その肉体を自分がおもう通りに動かない。これは、神様が教祖に自殺しないように、とどめた不思議な実話だと思われます。教祖も同じ人間として、心が自由であり、その自由な心で、夫のために自殺しようとしたのは史実のようです。

 

 教祖は月日の社となって、即、神心、完全無欠の心に変身したという、二代真柱の説く神学的解釈には、無理があるのではないでしょうか。 

 

 50年のひな型を通じて、40代のアラフォーの主婦から老婆へとなる中で、艱難辛苦の中で、自らの魂が錬磨され、だれもが慕う神格者へと成人されたことが、ひな型の意義だと思われます。   

 

  コロナで注射を打つつもりが、医師の都合と打てなかった。 その後,より優れた薬をあたわった。  何かができないことが、神様のなさる不思議な世界ではよくあります。  

 

 上記の引用の省略した箇所には夫の善兵衛さんが、刀を抜いて教祖を説き伏せようとした場面が書かれいました。教祖伝にも書かれた有名な史実です。中山家が没落することを村人に批判されて、妻に騙されているぞと言われて、夫の善兵衛さんは普通の人間として、憤ることは当然です。 

 

 人間としてプライドも誇りも傷ついて黙っている人はいないでしょう。  

 

 パラリンピックのアスリートたちの誇り高いプライドの精神に皆感動しています。  

 

 さて、不思議な助けが全くなく、中山家が貧のドン底へ零落する中で、「並ぶものがいな屋敷」にしてやろうという教祖を通じた神様の話は全く信じられなかったことでしょう。  

 

 不思議な奇跡も救いもない中で、教祖の肉体を通じた不思議な現象がありました。夫の無理解や世間の嘲笑の中で、信仰を貫くことは至難なことではないでしょうか。  教祖は目に見えない神、しかし、心のうちに映じてくる神の言葉を頼りとして、信仰を貫く精神を示しました。それが人類への垂訓となる「ひながた」となりました。

 

他方で、善兵衛さんは、本当に苦労し、中山家が隆盛になるのを見ずに、出直されました。  

 

道具主の一人であるギ様の魂をもった善兵衛さん、生まれ変わって、地場にまた戻って、かぐらづとめの人衆として中山家の栄光を感じるときが、この道が永遠につづく中で、かならず実現することでしょう。 

 

善兵衛さんの魂の行方は、今の本部の体制では、全く未知数です。  

 

 この道の「元の理」の実現には、教祖の含め、8人の道具の魂をもった人達が再生して「かぐらづとめ」が厳修されねばなりません。

 

 この道は天直々の指導をうけねばならないことは明々白々ではないでしょうか。

 

人がめどうか、神がめどうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

天理教には、いわゆる三原典があり、それは啓典宗教における聖書と同様に、信仰の源泉となる書物である。

 

天理教の三原典とは、「みかぐら歌」「おふでさき」「おさしづ」の3つの書物であり、日本語で誰でも読めるものである。言語化された言葉であり、お言葉、さらに、その後、100年以上連綿と続いている詞も入れて、広くお詞(ことば)、または神の詞(ことば)と言い換えられている。

 

みかぐら歌は、日々のつとめの地歌でもあり、大変親しまれている原典である。最新の神の詞によって、その意味世界がより深まり、豊穣となっていく。  みかぐた歌を唱えるなかで、神人一体的になる祈りの言語である。   

 

みかぐら歌の第一節、第二節、第三節は、地場の甘露台の周りでつとめるかぐらづとめの地歌であり、

 かぐらづとめこそは、天理教の最高儀礼である。 世界救済の秘儀としての思惑がある。 

 かぐらづとめは地場でだけ許されたつとめであることが、「おさしづ」でも説かれている。

 

みかぐた歌の第四節の「よろづよ」、第五節「十二下り」は手踊りの地歌であり、地場でも各教会でも立って踊られる。

 

「おふでさき」は教祖が直筆の原典であり、1711首の和歌からなる。  教義の根幹となる教え、時事的問題への対処、側近者への仕込みが中心となっている。

 

「おさしづ」は、教祖の言葉もわずかにあるが、大半は啓示者、飯降伊蔵の音声言語の筆記録であり、分量的には原典の中で最も多い。

 

 啓示者の飯降伊蔵は天職名として「本席」という言葉が神様から与えれ、本席様と周囲から呼ばれた。

 

しかし、これは一般の人には公刊されていない。教会の会長など関係者にしか配布されていない。「おさしづ」の抄録は道友社でも買えるらしい。

 

『おさしづ索引』3巻が天理教教義及史料集成部で教祖百年祭を記念して出版された。

 

『おさしづ索引 一 あーこ』の「はしがき」に以下のような文言がある。

 

「おさしづは、教祖のお口を通して伝えられた親神様のお言葉を、取次が筆に執って筆録したものである。

 

 教祖がやしろの扉を開き給うてから後は、本席の口を通して伝えられた御存命の教祖のお言葉である。

 

 約二十年間にわたって集積されたものであるから、・・・・」

 

ここで、おさしづは「本席の口を通して伝えられた御存命の教祖のお言葉である」と明言されている。

 

存命の教祖の言葉がさしづであり、それを筆録しているのが取次(人)である。 取次人から真柱、本部員、教会長へと神様の思惑が伝達される。

 

「この索引を通じて、全よふぼくの心がいっそう明るくなり、たすけ一条の活動がいっそう活発となり、ふしぎなたすけを続々とお見せいただくように願ってやまない」と編者は書かれている。 昭和57年10月26日に集成部の主任が書かれたものだろう。

 

今から40年前のこの編集者の願いは、今でも生きているものである。  「おさしづ」の研究こそ、天理教に残された最後の遺言として、しっかりその神意を読み解かねばならない。

 

次回は、「秋を合図」を一人の取次人の責任として読み解いてみたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 不思議や奇跡で助かった、それで終わりという神ではない。助かった意味、そのもと、根源的な理の諭しをしたいのが神様の本音である。

 

しかし、人間から求めて、本真実を知りたいという意欲がなければ、神様は無理に人間に教えを開示されない。

 

 真柱様は、おさづけを渡すことはできても、存命の教祖(おやさま)の思惑を明かすことはもちろんできない。今の本部の集団指導体制の中では、声の大きな人の発言がそのまま通ってしまうだろう。 そこには幾重の人間心が入り込む余地があり、縮小均衡していき、高齢化が進む教団、若者離れが止まらない教団の行く末は、そのまま温存されるだろう。  

 

「きゝたくバたつねくるならいうてきかす よろづいさいのもとなるを」 (みかぐら歌、よろづよ八首)

 

 聞きたいとは、人間が神様に聞きたいと思うことであり、その答えをするのが教会長の仕事である。その教会長が無理なら、上級の会長さん、上へ上へといって、最終的には教団の表統領が答えるのか、本部員の重鎮が答えるのか。  

 

 よろづ委細を答えることが出来るのは、教祖や本席様のような方である。  そのような理を説く方を、本ブログでは、「神の機械」と呼称している。 機械とは、明らかに真柱様とは明らかに異なる役割である。 

 

 神様の思惑は、天保9年から顕現し、それは永遠に不変で変わらない「をや」の思惑である。 本来的には、片だよりでなく、神様と共に歩む道である。

 

 人間が限界を敷いて、神様についてこれないなら、それ以上の展開は人間の心で模索するしかない。  

 

 聖なる存在(機械)がなくなり、世俗化した今の教団として100年近くたった。  100年前のスペイン風邪の世界的流行は、御母堂様(教祖のお孫の中山たまへ様)がおさづけの理を渡し始めた時期と符号する。 

 

 100年たって、真柱様が脳こうそくか何かで倒れられ、おさづけ停止という事情が同様に発生した。 幸い出直されることはなく、御不自由な身上の中、命がけで、おさづけの運びを再開されていると伺う。 腹も座って、大教団のトップとしての風格も備わったという。

 

 100年たって、グローバル化がさらに進む中でのコロナ感染の拡大である。

 

 東京の感染者も5000人を超えて(2021年8月5日)、感染爆発の異常局面を迎えている。 目に見える神様のお仕込みにとしての世界的コロナ感染は変異種が次々に出て、完全終息までに何年もかかるかもしれない。 世界の助けを急くために、神様の並々ならぬ事情の与えである。世界は不安に思っても、理の信仰者は成ってくる理を大きく、深く悟っていかねばならない。 

 

 何事も神様が支配している世界での事情であるから。  目先の事情に一喜一憂していては、いつまでも心は澄まない。

 

  神様のことばを通じた理の仕込みがないことが100年も続いて、その理の仕込みがないことに自覚そのものすらない世俗化した教団の今。 天の声を求める末端の人たちの声なき誠の声が広がることに期待したい。    合掌