「悟りたらすぐに心を改めよ
それが末代の種になるぞや」(平成二年十二月八日 午後十一時三十分)
これは第5回目のご啓示で、第4回目に連続した内容として理解すべき内容のお歌です。
5日前の第4回目のお歌を繰り返すと、以下のものでした。
「魂の中では聞いておりながら
答えが出せぬ 神の残念」
「魂の答えを隠す人間の
心があれば どうもならんで」 (平成二年十二月三日)
魂の中で神様のお言葉に違いないと分かっていながら、その魂の答えを隠してしまった。
それは過去のことですが、過去性の悪因縁が魂の汚れてとして、残っています。
しかしどんな罪悪人でも反省することはできます。
反省して回心することが求められています。
そこに宗教の可能性があります。 宗教の存在価値があります。
誰でも、真実の神様に目覚めるまでは、大きな過ちを犯しています。汚れた人間心、「今さえよければ、我さえよければ」という心使いを誰もしています。持続可能ではない、こうした心使いは将来に禍根を残します。
短期志向で近視眼的に目先のことにとらわれる。
利己的に己の利得ばかり考える。
自分の会社だけ、偏狭な愛国心など、それも我さえにはいるでしょう。
魂の答えを隠したことで、魂は大変汚れてしまいました。
それを真から反省し、罪を深く自覚されたことでしょう。
そのような悟りを神様はお受けになって、「悟りたらすぐに心を改めよ」という確証のお詞を与えたのだと思います。
確かに反省し、さんげが出来たことに対する神様のお褒めの言葉です。
その決心は「それが末代の種になるぞや」という未来永遠に希望を与える大望の保証がなされたのです。
以下のようにキリスト教の『聖書』の中に、永遠に関わる言葉が沢山あるようですが、天理教では「末代」という言葉で、永遠性を伝えています。
種というのは、いずれ芽がでるということです。どんな芽がでるのか?
種とは比喩的な言葉で、人間の心こそが種だと明かされています。
人のこころが創造原理となるのです。 人間の心を受け取って、有形の世界が創造されます。
人の神との協創によって、世界が作られていきます。
いろいろな心がありますが、悟った心=神の心にこそ、末代の種になる原因があるのです。
19歳の少女が何を悟ったのかは、今では分かりません。 たださんげし反省し、神様の大きな心に目覚めたことは確かだと思います。
なおこの詞は、お風呂の中にいた時に映った詞だそうです。その他にも神様から映ったものがあったそうです。
魂の中で、神様のお考えとは何かを自問自答する中で、神様が確かな言語でもって、教えて下さるのが神の詞です。
自問自答する中で、分かりにくいことは、神様は言葉を言い替えて教えて下さるそうです。それが言語化された神の詞だということです。
魂の中でいろいろ観念(イデア)が思い浮かび、論理的、理性的にも考えることができるでしょう。
これはどういう事か? 神様とは何か? 不幸な人がいる原因は何か?
なぜ自分にこのような神の詞が映ってくるのか?
考えたら、わからないことばかりです。
このような魂の求めに、神の詞がその魂に返ってくるのです。
神様の思惑は普遍的な真理の言語化となって、「神の詞」として今では、誰でもいつでも触れることができます。
明治時代に『おふでさき』を通じて神様は、教祖(おやさま)を通じて最初にその思惑を残されました。
平成の御代になって、今度は一人の少女を使って、『神(をや)の詞(うた)綴り』として、再度、その神の思惑を説きなおされたのでした。
(つづく)


