「魂の中では聞いておりながら
答えが出せぬ 神の残念」
「魂の答えを隠す人間の
心があれば どうもならんで」 (平成二年十二月三日)
19歳の少女に起きた、4度目の神様のメッセージは、上記の2首の和歌体のお歌でした。
目に見えない神様を信じる強い信心が、末端の天理教の布教師の元で育てられながら、自然とはぐくまれきました。
普通の女の子ですが、決しても表立っていう事はないですが、強く秘めた決心をもっていたと思います。
その彼女に、神様からある重大な魂への問いかけがありました。
天理教は心の教えで、心という用語は啓示言語でよく使われてきました。しかし、「魂」と言う用語は『こうき話』以外には『おふでさき』にも、『おさしづ』でも余り類例のない使用言語です。
とはいっても、魂に関する教えが、平成時代の教祖の啓示の中には、これから頻出するのが大きな特色です。時代時代に応じて説き分けていることは確かですが、聞く人間の側にきちんと響かなければ、神様のメッセージも軽く扱われる危険性があります。
この2首は当初は一般的な意味でしか私は理解しておらず、聞く人が聞くと、ギクっとする大変恐ろしいメッセージが含まれていました。
人間の魂は神様からの分けみ魂、ご分霊であることが教えられていました。その人間の魂は元の親である神様(おや)の声を聞けば、それが親の声に違いないことが分かる性質をアプリオリ(先天的)に持っているのです。
天啓を通じて神の詞(ことば)があるとして、それを神の声とみなすのか、人間が創作したものとみなすのか?
教祖(おやさま)に天保九(1838)年に神がかりがあった時、誰もそれが、天の神の声だとは信じなかったのでした。
大音声の啓示が繰り返されるなか、2,3日飲まず食わずで教祖の体が危険な状況となり、やむなく、月日の社(やしろ)として
夫の善兵衛さんが受け入れた史実があります。
教祖ご自身は内面に聞こえてくる神の声を自らの魂で受け止め、真実の神、元の神だとご自覚になったことだと思われます。
19才の娘さんは魂の中で、神の声を確かに認識したのでした。しかし、「魂の答え」が出せなかったという・・・。
それは何を意味するのか? 「魂の答え」とは、神と人との魂の応答関係において、
神の呼びかけに人間が応じるか否かということに関わり、その答えが出せなかったことが含意されています。
人間の魂は自由の心使いができる主体です。そのため神様に反対する自由な心使いもできるのです。神からの逃亡、我が道を歩むことが人間にはできるのです。
これは今世(今生)の話ではなく、前世(前生)においての彼女の魂の遍歴の中でおきたことに対する、「神の残念」でした。
「神の残念」は『おふでさき』にもよく出て来る用語で、天理教の人は良く知っています。
概ね神様の意図が否定されること、甘露台が取りはらわれたことが残念という言辞があったと思います。
2首目も同じことが別の表現で言い替えられているだけです。魂の答えが出せない=魂の答えを隠す。
残念である=どうもならない。
「どうもならんで」という表現はいかにも大和の方言っぽいです。現代の奈良方言でも、こうなのかわかりませんが、東京に暮らしていた少女のボキャブラリーではないことは確かです。
神の詞が聞けないとうことは、人間の魂が汚れるということです。神の詞は人間の魂を呼び起こし、魂を掃除するために不可欠なメッセージです。 そのメッセージを第一に受け止めるべき大切な魂の持ち主であるこが、実は含意されていました。
今世の彼女は素直に信じる素養が十分にあり、若くして神の機械となりました。 教祖の三女である、こかん様以来の若き神の誕生です。
直接のご啓示をうけた本人は、ただちに自分の前生の罪を自覚しました。 当時私は軽くしか受け取っていなかったですが、彼女は100倍受けて取り方が違っていたはずです。
神の話を素直に受け取るか。 軽く受け流すか。 信じないか。
魂の答えはいろいろあります。
しかし、受け取らないことで、人類の救済が大変遅れてしまったという禍根が残されました。
前世の過ちを糧として、今世の生き方を決める。 それが人類の未来を創造する種となるのです。
なおこのご啓示があった時、下痢が止まらないという身上(みじょう)のお仕込みを受けている最中でした。
まさに悪因縁を身体的に掃除するなかでの絶妙なタイミングでの神様からの重大発言でした。
(つづく)