今の天理教の信徒にとって、真柱(しんばしら)様こそは教団のトップであり、大教会に真柱様がお入込みになることは最高の栄誉である。
その奥様の中山はるえ様が東京教区でお話されることも最高の栄誉であった。
https://tenrikyo.tokyo/pdf/%E6%95%99%E5%8F%8B689%E5%8F%B7.pdf
ただ、天理教の歴史、その始まりの由来を辿ると、真柱様を至高のワントップとする体制は大正期に意図的に作られたことが分かる。
それも教祖(おやさま)の遺徳を継承する中山家を中心とする組織体制であり、神様が本来構想した天の組織とはかなり異なることが分かる。
明治20年から40年までは、飯降伊蔵さんが、本席様として、天啓の御用をされていた。その当時の飯降家は三軒三棟も準備され、天啓の家柄がその後も継続的に生まれる体制が用意されていた。
これに異を唱えたのが、中山家の御母堂様であろう。 教祖の孫であり、生まれる前からその魂がつとめの完成の一環として預言されるほど、尊い魂の方である。
ご母堂様こそは、教祖の唯一の内孫であり、主人となる梶本真之亮(初代真柱)は実は養子として、後から中山家に来た人である。
教祖の直系の子孫は中山たまへ様だけであった。教祖から絶大な期待をかけられた「たまへ」様であるが、飯降伊蔵様が本席の御用をされていた時期は、教祖からではなく、本席様から神の命令を受け取っていた。教祖に直々に仕込まれ、そして本席時代にもさらに多くの神の詞をうけとっていたのは、中山たまへ様であった。
天直接に神の詞(ことば)が下されることは、刻限話であり、神様からの主体的な働きで、神様の諭し、刻限話があった。これは人間の伺いによるものでもなく、人間の願いによるものでもなく、神様側からの都合から真夜中で早朝でもあった。
明治40年に本席様が出直す直前の100日さしづの時期は、本部員たちもその対応でヘトヘトとなったほどである。まさに神様の詞が下ろされ、その受け手たちは、その対応、心定め、決心の中で、新たな段階へと進むことができた。
神の詞を受け取る最高責任者こそは、真柱である。明治期には教長と呼ばれていた。
神の詞が続き、神屋敷の実体がそこにあった。
だが本席様が明治40年6月の御出直しとなり、地場における神霊的な要素は消え、緊張感は無くなった。
神の詞はないが、100日さしづが残された。 むこう10年さき、神の天啓はないが、本席からの遺言が残されたのである。その神の詞を頼りとして10年は過ごせるということであった。
「未だ/\語りたい事ある 言いたい事ある」(『おさしづ』 明治40年5月31日)
明治40年(1907)から10年後の明治50年は、大正6年(1917)である。
この間の本部事情が、天理教の将来を定める重要な期間であったことは、間違いない。
大正2年に真柱の中山新治郎が出直す。
大正7年に上田奈良糸様のおさづけの運びは停止。
中山たまへ様による、おさづけの運びが本部員会議で決定する。 本部重役筆頭の松村吉太郎が決めたことかもしれないが、その決定に従ったのは、若き将来の真柱となる中山正善の母である御母堂様である。 松村家も小東家を通じて、中山家の親戚である。
神の屋敷から、中山家中心の屋敷になることが、その当時、決定されたのであった。
天啓はいらない。本席様の御用で、天理教の天啓は終わった。そうした重大な意思決定がその当時、決められた。
天啓的な神の御用となる「さづけを渡す役割」を中山家がもぎ取ったことになる。 中山家ワントップ体制が方向づけられた。
世俗化した教団体制、普通の宗教教団としての道筋がそこから始まった。 東大の宗教学科との幸福なコラボ体制が始まる。
中山正善による教祖の神格化の教義が構築される。 「おさしづ」も原典の割には、貶められる体制が築かれた。
私たちが知る、真柱様が一番偉いという、天理教の今の姿が決定された。
「未だ/\語りたい事ある 言いたい事ある」(『おさしづ』 明治40年5月31日)