「天理教」は宗教か、真実の教えか -15ページ目

「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」に関するまじめな宗教学的、神学的な考察

 悪しき払いのつとめの際、太鼓は右手で3回叩いて、1度休む。3回叩いて、1度休むを繰り返す。

悪しき払いのお歌は21回、同じ歌を繰り返し唱和する。 この連続性の中で、当初だけ2回の連続だが、

2回目以降へ連続する中で、3度叩くことになる。 

すなわち最後の「と」の後に、冒頭の「あ」と「は」に連続して、3度叩くという意味である:

 さらに1度休んで、3度叩くことになる。「た」 「て」 「わう」の3度を叩く。

 

 最後の21回目の時だけ、左手で「こ」を打つ手を入れて、エンディングを印象づける。 

 

 

 

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あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと

 

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あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと

 

 

・・・・・・・・・・・・・・ (中略)・・・・・・

 

 

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あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと

                                                                ●

 

 

冒頭の二回の連続だが、 1度休んで、 3回叩き、 1度休んで 3度叩く。

 

拍子木が全体の指揮をとり、ちゃんぽんが拍子木の裏の音を出すことで、対照性の音質となり、摺り鉦(がね)がリズムを作る。

この中で、太鼓は上記のリズムで一番大きな音響を出す。 拍子木の打つ音の一部に太鼓も同時合わせることとなっている。

 

汚れた人間心の掃除、それが悪しき払いであり、それなしに、人間の救いはもたらされない。これは永遠の作業であることが、21回の連続性の中に込められているように思う。  悪しき払いとは心の汚れを洗うこと、神の詞を心の刻むことである。

 

 住宅街が密集する中にある教会では、天理教の教会で朝夕のつとめ、月次祭の祭典でのおつとめで特に太鼓の音は大音響であり、各所で嫌がれているようだ。 警察に苦情を唱えて、警察が来た時もある。  世間の無知、批判の中で、いかに天理王のつとめで、いい匂いがけができるか、これが各所の教会に問われている。

 

 

 キリスト教の新約聖書の共観福音書はイエスの伝記、イエスが行った多くの奇跡が書かれている。史的イエスの歴史学的な探究あるなかでも、イエスは尋常ならざる人間であり、神の子とされるイエスならではの経歴が伺える。その経歴は磔刑になる前の2,3年の出来事が中心である。

 これに対して、教祖の宗教者としての50年の歴史は長い。

 

 天理教の教祖(教祖)である教祖(おやさま)の神がかり以降の当初の20年余りには、何も奇跡も不思議もなかった。しかし、おびや助けから霊救的な不思議が生まれ、安産の神として世の中に知られるようになった。その噂の影響のなかで、後に有名な高弟たちにも不思議な助けをいただき、信徒となっていく。

 

 「ふしぎなたすけハこのところ おびやはうそのゆるしだす」 (みかぐら歌 五下り目 二ツ)

 (不思議  助け          帯屋 疱瘡  許し出す)

 

  不思議な救いをいただくことと、さらに救われた人が立派な信仰者になることの間には大きな懸隔がある。

  不思議、奇跡で何百人、何千人が実際に教祖によって、救われただろう。しかし、信仰者となる人は、僅かであった。

  またたとえ、信徒数が増えても、信徒の信仰心の霊的次元が上がるか否かが問われる。

  助かりたい人間から、助けたい人間へ。 自己中心から利他的・実在中心へ。心の変容、心の成人を進めることが、信仰者としての課題である。 不足多い人間から喜びの多い人間へ。   

 

 不思議や奇跡はその人にとっての主観的な認識を意味する。 目の見えなかった人が見えるようになる。足が不自由な人が、歩けるようになる。癌が消える。病が根が切れる。・・・天理教以外でもどこの宗教でも、似たような奇跡・不思議があり、それぞれの宗教が存立している要因にもなるだろう。

 

 より普遍的な奇跡とは、人間が存在していること。人間が生きていること。生かされていること。これが最大の不思議であり、奇跡ではないだろうか。自然の偶然が重なり、生命の進化という長い経路の中で、多くの発展経路がある中で、ヒトが誕生した。 自然科学的に考察しても、人間が生まれた理由は分からない。偶然ではなく、意図があったほうが説明しやすい。創造者としての神の意図が、教祖を通じて顕現されたという第二の奇跡・不思議がある。

 

「ふしぎなたすけをしてゐれど あらはれでるのがいまはじめ」 (みかぐら歌十下り 二ツ)

(不思議 助け           現れ出る     今始め) 

 

人間が生きていることの奇跡・不思議を今感じる。その今は永遠の神の思惑に初めて触れる瞬間である。

 

貸しもの・借り物の肉体であり、今日も元気に暮らすことができている。その喜びがあり、日々の仕事も遊びもオリンピックもできている。

 

理の仕込みが永遠につづく中で、今現在の最新の神様のお話から、このように悟らせてもらいます。  合掌  

 

 

 

 

 連日、日本人選手のメダルラッシュで、東京オリンピックの開催の是非や中止の声もトーンダウンしている感じだ。

 

  柔道の4日連続の金メダル。ソフトボール女子の13年ぶり開催の連覇、水泳女子の二冠達成などなど・・・。  

 

 酷暑の中での開催で、外出するにも普通の人でも苦労が多く、熱中症で倒れる人もいる。

生きていくことが苦しいのが、この暑さであり、「かしもの」の肉体をいかに安全に保てられるかが銘々に問われている。

 

生命の危機であるコロナ感染の急拡大であり、その中で、海外から何万人のオリンピック関係者も来訪されてのオリンピック開催には野党や大新聞社からの批判も多い。 

 

 その中でもアスリートたちの活躍ぶりには、人を感動させるものがあり、1年延期ある中での異常事態のもとでの開催は、歴史的偉業として、後世に語られるかもしれない。

日の目の当らないところにも多くのストーリーと偉業があり、人々の心に大きなインパクトを与えている。日本が世界のために多額の財政赤字で開催したこと(無観客試合の実施)に、多くの人たちは感謝するだろう。  

 

 メディア、TV、インターネットを活用したデジタルトランスフォーメーションはさらに加速するだろう。

 

 日本を治める地場の理が奥の理として控えており、神様が許しているからこそできてている開催である。 オリンピック金メダル二連覇の偉業を達成した天理大学出身の柔道家(大野将平さん)の発言にもあるが、「何者かが支えて勝利できた」。 世俗的に言えば、勝利の女神がささやいている。 実際、親神さまもオリンピック精神には賛同するものがあるだろうし、万人平等の平和観や一人も残さず助けたいという教祖の精神に通じる。  

 

 アスリートの偉業に感謝しつつ、その裏にある「かしものかりもの」の理の尊さ、そして森羅万象を支配する神様の広大な御守護の一端を少しでも味わいたいと思う。   合掌

教祖(おやさま)が残された『みかぐら歌』の3下り目4つに以下のお言葉がある。

 

 よう/\こゝまでついてきた  じつのたすけハこれからや

 

天理教のひとならだれでも知っている、『みかぐら歌』の一節だ。この永遠の神の御言葉の現代的意味について、最新の神様のからのお話をもとに、考察したい。

 

『みかぐら歌』は、神様から人間へのそのお気持ちの投げかけがあり、人間がそれに応答して、神人一体の心境になっていくのが、信仰の極意であるが、ここにもその深遠な意味が内蔵されている。

 

 「ついてきた」のは人間であるが、何についてきたのか? それはまさに神様のお詞(ことば)に着いてきた来た人間に諭すという意味が込められている。 存命の月日である、教祖の今なる御用の言葉によくぞ着いて来たという、投げかけの言葉である。

 

 神様についてきているのか、ついていないのか? それは人間側からは分からない。神様から語り掛けられて、初めて分かる真実である。 

 

 存命の教祖(おやさま)は、今のお地場にいません。教祖殿が本部にあっても、教祖の声はない。すわなち、教祖はいないのである。場所を変えて、所を変えて、求める人には存命の理が続く。教祖が顕現されている。

 

 それを教会本部は異端だと断罪するだろう。天理教の人たちが言う教祖の昔の言葉に、我々こそは一番従っているという。 本部の誰が、神様の今のお気持ちをもっともよく知り、発信しているのだろうか。 教祖や本席様がご在世の時は、こうこういわれたことは史実として分かる。それでは、今なるの神様の気持ちは、ご本部の方々でも全く不明である。 天理会本部、それは人間集団なのである。 

 

 教会本部に従う、大教会な部下教会など、教会系統の中に、もろもろの矛盾が起きているらしい。ネット社会の今、外部に我々にも、よく写っている。形骸化した世俗教団の行方は心配である。 信者たちを喜ばす信仰があるのか。      

 

 さて、コロナ禍の中、まさに神様は「じつのたすけ」はこれから始まるとの仰せである。コロナ禍はこれまでにない空前絶後の世界の大掃除であり、神様が形の世界を支配しながら、巨大な思惑がかかっている。 

 

 これから神様が用意する「新しい時代」が始まるという。コロナ禍の行方に人類は絶望し、感染者の再拡大に一喜一憂している。しかし、形の世界は神様のされること、心づくりは人間の仕事である。神様のなさりようを、その働きを見るのは人間の仕事である。人間の心次第に応じて、新しい形、新しい時代が作られてゆく。 

 

人間の心通りに形の世界が守護されるという真理のもと、神と人との共同で新しい時代は作られていく。新しい発明もあるだろうし、技術革新とその急速な普及もあるだろう。

 

 人間が自分で通る道ではないという。神と共に、神の詞をもとに通る道とされる。  それが末代永遠の道である。 教会本部に従って、末代永遠の展望があるのかないのか。   

 

 この道は、教祖・本席様と天直接の指導の下に展開した史実がある。 そのもとで、まがりなりにも確かな発展と展開と展望もあった。

 

 地場で天啓者(存命の理を体現する人、機械)が追放され、スペイン風邪が世界的大流行となる。 あれから100年。 歴史は繰り返す。今のコロナ禍は、100年前の天啓者の追放事件を回顧すべき時である。誠に大きな時代の転換点を迎えている。

 

 ついてこれない人たちは、限界を自ら作っている。末代の道についていきたいという気持ちがないと、それが限界を作る。何度生まれ変わっても、神様の話についていけるか、ついてこれないか。  

 

 神様の理は永遠であり、「をや」の思惑がいつまでの変わらないこと、そのことが最新の神様のお話を通じて、確信されました。 

 かしものかりもの理のもと、人間は生かされている。生きている。 人間には生きる希望があり、喜びがある。

 

 合掌

 

 

 

 

 

 

 

 

 私のブログにスピリチュアル系の方がファロワーになることがたまにある。そのようなサイトをのぞいてみると、宇宙との通信や、守護霊や何らかの霊との通信ができる方々が想像以上に多く、そして自ら発信して、スピリチュアル・ガイドとしてビジネス化もしている状況が感じられる。誰でも人は幸せになりたい、想い、悩み、誰かに頼りたくなる。その中で、相談・助言のできる多くの救済の道が広がっているようで、頼もしい限りである。

 とはいえ、中山みきや本席様を通じて顕現された元なる神、創造神と、各種の各様に想像された(?)神々との間には、決定的な違いがあると、信じる立場からは言えます。  

 以下、啓示された神様の詞(ことば) の研究からくる幸せの原理について簡単に考察します。

 

  第1の真理:肉体は貸しもの・借り物の理。 この土台の上にたって、あらゆる目に見えるできごと、自然現象、社会現象、宇宙の出来事が成立している。 モネの世界のように、海と山と空があって、風の動きがある。この自然界の恵みの中で誰もが生きている。生かされている。  どの宗教・信条に関わていても、マルクス主義でも中国人でも北欧の人でも、自然環境の恵みなしに生きていけない。  

  ただ、貸しているのは神であり、実は人間の自由にならないのが本来の真理である。 

 政治を動かす、会社を動かす立場がある人でも、神様の守護する中で何事もできている。自分でやっていると思っていると、いつしか足元を必ず掬われる時が来るし、返しが来る。 おごれるもの久からず。立場がある人ほど、己のよって立つあふれる守護、諸関係の恵みを認識すべきなのである。  有形の世界は神が支配しているという真理。 この支配とは人間の支配を超えた、支配という意味で、信じないと見えてこない、神の支配観である。  また信じている人間にとっては、究極の安心感の元である。 人類滅亡は決してない。

 

 第2の真理:人間の心通りに神様が守護されるという真理。 神が形の世界を支配するといっても、人間は神の奴隷ではなく、神の慈悲は無限であり、人間が思うこと、夢にみることを何事も実現させてあげたい。そして神の心は広大無辺であり、これをしろあれをしろとは言わない。人間の主体性に期待が寄せられている。 では人間が思うことは何事も実現しているかというと、そこに一つの巨大な志向性がある。善なる志向性である。一人も残さずに救けたいとの大きな御心である。  スポーツで優勝したい、ビジネスで成功したい、趣味の世界を極めたい、旅行をしたい・・・。各自が各様に心の自由の中で、もろもろのことが希求され、それがビジネス化し、生きる糧が与えられて、人間の相互関係が深まっていく。

  しかし自己利益ばかりだとか、その場限りという狭量な心は、神様は好きではない心である。そのような汚れた心、「我さえよければ、今さえよければ」の心使いだと実現できることが段々狭まってくる。そして必ず行き詰るという真理が天の理であり、各自にかかってくる。  広く大きな神様の心になることが人間にとっての真の幸せの元になるということが、段々と一人一人に仕込まれてきている。  

 神は人間がどんな心を使うか、楽しみにしている。第二の真理は、有形の世界と人間の心がいかに有機的につながっているのかという、天理教の独自の真理観を伝えている。

 心通りに、形が守護されているという真理。これが第二の真理である。  食べたいものが食べられて、思ったように体を動かせ、働けて、遊べる。こうした当たり前のようで、人間の最も根本的なこと自体が、心通りに守護されている姿の原初形態である。

 そして、長く時間をかけて、体験して、経験を積む中で、達人のレベルでの活動が守護される。  これも心通りの守護の頼もしい有形の姿である。  どのような楽しい、愉快で、優しい社会を創るかも、人間の心にかかっているのである。

 

第3の真理:心の自由用の理。 人間の魂には自由の理が与えらている。 神を嫌う自由もある、人を殺す殺意をもつ自由もある。 神は人間に最大の贈り物を与えた。それは神でも自由にできない、人間の心の自由である。 民主主義の自由社会の自由は個人の自由を尊重する方向性からできた政治思想である。他方で、覇権国家が台頭するなかで、個人よりも国家の全体主義がより優先される政治思想も強まっている。 個人主義と全体主義の対立はますます先鋭化する。 真なる自由がいつまでも自由として持続できるには、神様が守護されるような心(広く優しい親心)へと立て替わっていくしかない。

 

 以上のような3つの真理観にたって天理教の教えは広がって今に至る。  スピリチュアル系の人たちもこれらの真理観から何かを拾って、自説を有利に広められると思います。 多くの人が少しでも幸せな気持ちになりますように。 まずは目前の今の出来事が最高の神の与えであると自己変容することが、幸せの第一歩だと思います。  

 

 数多くの宗教や信条がある中で、天保9年(1838年)に大和の寒村における農家の主婦から始まった天啓の言葉が人類で最初の神による発言だという独立した信仰の伝統ができて、今年で184年。教祖(おやさま)、本席と神の詞、天啓が70年間継続した。その後、教会本部からは啓示者はいなくなったとしても、神の詞は連綿として続いて今に至る。神様には伝えたいことがあり、神様のあることを知ってほしい。これが全人類に掛けられた思いであるが、受け取る側の人間には心の自由があり、直ちに天啓の言葉を信じる人は皆無である。 目に見ない神様を誰も信じない。 幻想・空想としての神、宗教はアヘンだという有名な言葉もある。 神様はそのことも良くご存知であり、分かったもの少数の人間たちにその声を発信し続ける。

 今あるコロナ感染の世界的な苦境も神様による巨大な仕込みで、掃除の理がかかっている。神様が望む新しい世界へと切り替えるための巨大な仕込みである。目に見える世界は苦境に溢れている。身近な感染者の拡大、変異種の増加、オリンピック開催の中止論の高まり。海外ではパレスチナ問題の悪化、ミャンマーの弾圧、アフリカ・中近東での紛争と飢餓、温暖化などの環境問題、米中対立の深刻化など日々のニュースでは明るい話は少ない。 各宗教団体でもソーシャル・ディスタンスをとるため、蜜を避けるため、ミサも行事も中止、教会にくることが禁止されたりと。 自殺者は増えており、格差も拡大している。セーフティ・ネットから漏れ堕ちている人への救いが社会問題化している。

 このような中でも日々に私たちは生きている。生かされている。貸しもの・借り物の肉体を結構に使わせて頂ているという根源的事実に目がいかないといけない。困難であるときと程、真実とは何かが啓示の言葉から照らし出される。

 

「みかぐら歌」二下り目に

 

「九ツ こゝろをさだめゐやうなら

十デ ところのをさまりや」

 

 どこの天理教の教会でも毎日勤めている「おつとめ」の地歌の一節である。

 

 こころとは、人間の自由な心のことである。喜ぶ心、悲しむ心、焦る心、不安になる心・・・・人間の数だけ心の習慣も違う。親子でも、文化の違いでも心の在り方は幾千と違う。 その中で、心を神様の心に合わせる。神様の心に定める。 これが信仰心の核心的なところで、神様を知った心とそうでない心の分水嶺となる。  自由な人間の心が、ある方向に決断する、決定する。 

 神様の心は、万人の陽気暮らしの実現であり、そのために人間世界を創造し続けている。肉体は神の貸しもの、借り物であることを根本的に諭されている。 すなわち有形の世界、形の世界はすべて神が支配しているという真理が最初に来る。  形の世界を神様が見せている。その形の世界は「これでよいか」と神様は常に人間に問うている。 この形の世界は神様が一方向的に支配しているのではない。

 心通りに守護されている。 これが根源的な第二の真理である。  人間の心に合わせて、現実の世界が起きている。人と人が出会い、結婚し、子供を作ってと人間が望むように神様は守護されている。 しかし人間が望む形がすべて与えられているのではない。それが、貸しものの真理である。形の世界は神様の支配下にあり、神様が治めている。

 そこで人間はもっとよりよい形を望む。そこに神様の心に自らの心を定める必然性が出てくる。 人間の心が神様の心に沿ったなら、即、その形が与えられる。これが「ところの治まり」である。過去の形も、今の形も、未来の形も神様が与える。それが「ところのおさまり」だという。 最新の神様の御啓示からの私なりのつたない解釈である。  

 コロナ禍はなおもやみそうにない。これは神様からの大きな仕込みであり、神様がされることに不足はいらない。なってくる形の世界に心を合わせ、大きく深く形の世界の奥にある神様の心を信じていきたい。  

  人間は生きている。生かされている。このことを信じて、絶対的自由の道へ。人間に与えられた自由の心を存分に使っていきたいと思います。     合掌  

 

 

  

 多くの知人から、この知らせを聞かせてもらい、感慨無量です。 2021年(令和3年)4月13日に逝去。 

1936年 奈良県天理市生まれ。 教会長の長男だったが、弟が教会を後継し、本人は京都大学、バンダービルト大学と世界最高の研究を進める。遺伝子のレニンのDNAの解読に世界で最初に成功し、高血圧対策の患者への有効な治療薬の開発に貢献。牛の脳を何十万頭集めた、ものすごい研究で世界から称賛された。 筑波大学の10周年が、教祖100年祭と一致して、世界が喜ぶ研究を指導した。

1996年には日本学士院賞を授与され、研究業績は高く評価され、後進の指導も熱心だったと思います。 筑波大学の副学長として、同大学の世界的地位高めたことでしょう。

http://www.owaki.info/shiryo/murakami/tsuito.html

私の父の世代で、天理の国際シンポなどにも良く来られ、天理教外では「サムシング・グレート」という親神様の暗喩をつかって、生命の世界、遺伝子をオンにできるかというテーマで世間を魅了してこられました。 最後の講演は2012年の経営者向けの講演会でした。

 

人間の肉体、生命はすべて遺伝子の命令で新しい細胞が生まれ、古い細胞がどんどん死んでいく。人間の遺伝子は2003年にすべて解読され、英米の大統領、首相が共同会見して栄誉を讃えた。借り物の肉体の設計図はDNAで、微細のDNAに生命のカギがあるわけで、活動している遺伝子もあれば、眠っている遺伝子もある。人間の細胞は60兆個あるが、誰も数えた人はいない。遺伝子がどのように協働して働いて、生命活動が維持されているのか? ある遺伝子の働きで心臓ができ、肝臓ができ、目ができ・・・。 人間は大腸菌すら作ることはできない。  ゲノムの解析が進み、生命の神秘が解明されているようでも、実は何もわかっていないことが多い。誰が、設計図を書き込んだのか? 子供は両親の遺伝子を受けついで生まれる。人間の遺伝子はどこから来たのか、両親、祖父母を永遠にたどると、親なる神にたどり着くしかない。それをサムシング・グレートと呼んだ。

 信仰者の信じる真理からは、肉体は借り物であり、神様から肉体をお借りしている。日々生かされいてる。有難い。ありえないことが起きている、生かされいる尊い肉体である。 この単純ながら深遠な真理を目に見える科学者の立場から追求され、一般の人にも分かりやすく伝えた晩年でした。  ご冥福をお祈りします。

 

心と遺伝子研究会がその活動の舞台として発信されていました。「笑いが遺伝子を活性化させる」ことが吉本興業との共同研究で分かってきたらしい。心と肉体の関係について、さらなる研究が望まれます。

 

 

前回の本席様の御啓示である刻限のさしづに続いて、同じ夜に引き続き、以下のようなおさしづがありました。どちらも刻限話なので、神様の方から、積極的に理の仕込みがあったことがわかります。

 長い、ご啓示ですが、全文を以下に引用しました。

 

明治二十四年一月二十八日 夜九時
 刻限
さあ/\口説き掛ける/\。残念口説き/\、残念々々の中から道が付く。樂しんで聞いてくれ。口説き掛けたら、どういう事口説くやら分からん。さあ/\苦労の中でかくれたものを連れて出るで。細かに書き取れ。中にも話を聞いた者少ないから、一寸皆聞いてくれ。口説き掛けたら分かる。一寸聞いてくれ。
さあ/\残念で/\/\ならなんだ。神様が出さしゃった。苦労艱難で、退くに退かれん。何處へ出ようとて出られんから、放って置いてもと思うて、道の間はあちらへ出歩き、身代も無くし、どうしようにもこうしようにも、その時の残念、その理が残ってある。何處へどうしても頼み甲斐も無し。そこで先祖より傳わってある道具を賣り拂うた。それだけの事情今日だけ些かなもので。些かのものもならん日があった。その時そんな残念悔し、それ/\聞いてくれ。残念であった。これは一つ。今しんばしら、鍛冶屋々々々、七八年というはいつも/\厄介になった。その嬉しさは、どうでもこうでも忘れられん/\。よう/\の處、一寸隠れて居る。一つ残念々々、一つの品も植えを持って行かねばいかなんだ。その残念というは、残念々々々々々々々々、ウワ/\/\/\。年限経つは早いもの。程無うあちらへ隠れ、一代も過ぎ又一代、今は我が代、これだけ十分に成った。一つには切るに切られん残念の中、残念々々々々の理があった。残念の理程怖わいものは無いで。残念の理一代で行かにゃ二代、二代で行かにゃ三代、切るに切られんいんねん付けてある。これは退くに退かれん理によって。なれど神に切る神は無い。なれど切られる心はどうもならん。仇言にも捨言葉神は大嫌い。いんねん付き、身の處なってこそ。澄んで/\/\澄み切った理が世上の理、當然の理。仇言はすっきり嫌い。すっきり立て替え。神の事情年取れたもの、暑い寒いの事情要らん。よう/\の事情出しただけや。たゞ一人いんねんの事情から理を引いて生まれ出したる。それからようよう聞き取って貰いたい。すっきり誰どうしたと言うでない。めん/\も覚え無く、大患いしたというではない。不足重々、疑いたら/\、あれは心にしとるのやと言うて尋ねんから諭されん。なれど一人のいんねんを以て、大切の事情あるなれど、どうもならん。残念話、口説き話、今日はどうなりと出来る、どうなりと成る。又又の事情、それ/\の事情、そこまでは届こまい。よう事情聞き取って諭してくれるよう。

 

【釈義】 この「おさしづ」は初代真柱である中山新治郎(中山真之亮)の実家である梶本家を台にして、神様が見込んだ魂の因縁に関する普遍的な教示となっている。 梶本家は鍛冶屋をされていて、梶本惣治郎は教祖の娘である「おはる」さんと結婚され、その子供が中山家の跡を継ぐことになった。 惣治郎は仏の惣治郎と呼ばれて、心のきれいな人で、その魂の見込まれて、教祖は娘と惣治郎との縁談を許したといわれる(1853年、22歳で結婚)。 その惣治郎さんが、妻の「おはる」さんに何かのことで、切り口上、捨て言葉的な発言(仇言葉にも捨て言葉)をされた。そして、その言葉が災いして、なんと「おはる」さんは、夫の心通りに、明治5(1872)年に出直してしまう。

 そのあと添えとして、教祖の末女のこかんさんが、梶本家へ子供の面倒で行ってしまわれた。こかんさんは3年だけだと言われたが、長くいてしまい、妊娠もする中で、出直す。

 なお、妻に先立たれた惣治郎さんは、教祖が亡くなってまもない、明治20年5月には出直した。 

 

 初代真柱の実家の梶本家は、中山家の親族でその貧乏の中を支えたことは大きな功績である。「おはる」様の魂の洗い替えの事情が、上記のさしづの中にリアルに浮かびあがっている。それでも魂を洗い替えて、次にまた引き寄せて、神様の仕込みが続く。苦労の中で亡くなっても、それで終わりではない。また神様のもとに引き連れて、魂の掃除、魂の錬磨を続ける。すべてつとめの人衆を育ているための神様の遠大の計画の中になる。世界救済の道具として、魂の洗い替えは続くのである。 

 

  教祖が生きていた時代、周囲の方々のちょっとして埃の心使いが、とんでもないことになる現象が多発した。捨て言葉で人が死んだり、夫に不足して目が見えなくなるなどである。 地場屋敷が神屋敷へと変わり、人間心が許されない不思議な場所になっていたと思われる。これも生身の教祖がなす不思議な世界がそこにはあった。   

 

 村上道昭先生は、魂の生まれ変わりに関する解説をしながら、この苦労の中で隠れた者は秀司さんだと解釈している。以下を参照

 

 

またお春様の出直し、このおさしづを引用された研究として、以下を参照した。中田善亮表統領の馬鹿さ加減について最後のブログを残してから、投稿がなくっており、さらなる教理の学びに期待します。  

 

 

本席様の御啓示からの引用をします。

 

明治二十四年一月二十八日 夜八時半


 刻限(前おさしづに基づき中山會長へ御願い致しました處、會長は前川方は中山のある限りは粗末にはせんと仰せ下されました、前川方へ行き御話傳えました。)


  さあよく/\聞き分けるなら、一つの話をしよう。分かりてあるやろう。分かりてあるだけでは運ばん。前々以て一つ尋ね出る處、中山家のある間、一つも粗末にはせんというは、どういう處より出るか。この理を聞こう。神の方より聞こう。


 押して願
さあ/\洗い替えて速やか。日々の處からどういう理が出るとも分からん。 さあさあ直ぐと/\話して、親族の理を以て放って置けんというは、どれから出たか。このやしきでは親族の理では、世上救ける事が出来ん。苦労艱難の道を通り来て理を聞くなら、一つの道も通そう。限り無き處まで盡そうというは、どういう理であるか。中山家の續くまで救けるというは、親族の理であろう。三十年以前の理を聞き分けるなら、何も分からんやない。残念の道も通りて来たわい。何でも彼でも足場が無くば付けられん。 ・・・・」

 

 当時の真柱(中山会長)が、「前川家は中山家がある限り、助けていく」というお話を申し上げたところ、逆に神様から中山家とか「親族の理」そのものを否定する問いかけがありました。 「神より聞こう」というように、神様がかなり厳しく、問い返している珍しい言葉です。 

 

  神様は一列に人間の魂を守っていて、特定の家に依怙贔屓することはないです。 ただ、救済の道具として、その土台に引き寄せる人たちが最初にいることも事実です。   

  教祖は中山家の人であり、教祖のご実家は前川家である。 その教祖は家という集まりをどのように考えておられたのか? 中山家には家柄として、一家断絶の悪因縁があり、信仰をしないといずれ、中山家は子孫が続かないという末路を迎えることが教えられた。

 夫の善兵衛さんも庄屋の名主であり、財産も地位もあったが、中山家はいずれ滅びると妻から言われて、何をバカなことをと思っただろう。  

 その中山家を救うというより、己の足元を掃除するために、中山家のためだけではなく、人類が続くモデルの家柄つくりを実践した。 それが、逆説としての貧のどん底へ道であり、中山家の先祖伝来の財産が売却されていった。  

  中山家を神の屋敷として建て替えることが、教祖の目的であり、人間心の掃除が是非とも必要であった。  どうしても仕込まねばならない魂の人たちがいて、神様の元に呼び寄せられ、魂の錬磨がかかってくる。 苦労としての身上・事情の仕込みが幾重にもかかる。そうして魂を磨いた人間を集めて、つとめをする。そのつとめが世界を助けるつとめとなる。  

 当時の真柱も元々は梶本家の人であり、婿養子の形で、中山家の人となった。 真柱の妻は、教祖の唯一の孫である「たまへ」様であり、つとめの急き込みと関係の深い魂であった。 教祖が期待したこかんさん、秀司さん、その妻のまつえさんも教祖より先に出直す。教祖のもとには、直系の親族は、たまへさんだけであった。

  中山家が大切であっても、中山家中心の親族体制でこの道を広げるという理はどこにもない。 あくまでも、つとめの人衆となる魂に縁のある人間を寄せて、仕込みたいというところに焦点がある。 そこには中山家だけではなく、飯降家、山澤家、山中家、増野家、清水家、・・・などいろいろな人たち、魂が見込まれた人たちに期待がかかるのである。  「洗い替えて」という言葉の中に魂をきれいにさせて、道具として使いたい神様の思惑がにじみでています。    

 

  数多くの宗教や信条、思想がある中で、なぜ天理教という1つの独自な教えが生まれたのか。それはすべて、天理教とよばれる宗教の教祖である中山みき様における天啓・啓示があり、神様の教えを自ら宗教者として実践した50年間の歩みが残されたことに由来する。その人生は人類が生きるべき大きな指針を50年間のモデルとして残されたことである。その教えは人類の救済を求めたものであり、一戸の中山家の繁栄を求めたものではなかった。

 救済の真理は、端的に「かしもの・かりものの理」という第一の教理である。人間は自分の力で生きていると思い込んでいるが、そうなのではなく、人間の肉体は神様が与えて下さっている。その肉体を人間はお借りしているという根源的な教示である。死んだ人のこと、病気になった時のこと、今のコロナ禍でもそうだが、何か身体の不自由を感じること、これらすべて、肉体は自分の思い通りにはならないことを明かしている。健康で、衣食住に満ち足りて、頭がよくて、明るく、健康でいられるなら、別に神様など知らなくても、無神論でも生きていけるのが世の常である。しかし、そのような人間でも、いついかなることがあるか知れない。一夜の間にも事態が急変することは、世の中によくあることで、津波や巨大地震などの激甚災害が頻発する日本の大地は安定したものではないことは誰でも知っている。

  かしもの・かりもの理を治めることが信仰の第一である。 これは人の強要できない教えであり、自覚して自分でそうだと思った時に神様とその人との間に信頼関係が生まれる。  いずれ全人類がしらねばならない究極の真理である。  

 

  まずは、生きていること、生かされていることの尊さ、神恩感謝の念が信仰心の根源に来る。 仏教や神道でも同じことを教えている。

 健康な生きていることがどれほど、ありがたく、もったいないことか。かしもの・かりもの理を土台として日々の心使い中で治めることが第一であることを、教祖(おやさま)が教えられた。

 「かしもの・かりもの理」を教えるために、教祖は自ら体験して、神様からの直接啓示を受けて、当初の前半生を生きた。かしもの・かりものの理のありがたさを自ら体験し、実践した。貧のドン底の中で、財産や地位などの外見に幸福の元があるのではなく、最低限の資源の中でも健康で生きていけること自体が、神様からの与えてであり、ありがたいことだと自ら実践して生きた。

  「水を飲めば水の味がする」と。  

 不思議な助け、奇跡、目覚ましい対外的な救済活動やそれに伴う迫害弾圧が後半の人生で起きるが、前半生は貧のどん底に向かい、ただただ生きていくことの有難さを実践した日々であった。それは内面的、魂の次元では、魂の磨き、魂の錬磨の時代である。中山家に伝わる悪因縁(一家断絶の因縁)の掃除をされた。まずは足元の掃除、屋敷の掃除をされたのである。 救済の土台つくりの時代であり、外からは見たら貧乏神に取りつかれたとか、気違いの行いに見えた時代である。 親戚一同からも見離された時代である。   

 夫の善兵衛さんは、その貧のどん底の中で嘉永6年(1953)年に亡くなった。また貧しい家計を何とか工面した息子の秀司さんも、明治14年(1881)に出直す。

 教祖の心は、低い優しい素直な心、誠の心。いかなる困難の中でもくじけない強い心。もともと人類の母親の魂の持ち主であり、人類救済の強い信仰信念で生きられたことは確かである。

 

 信徒ができるようになった時のお話は以下である。 我さえよければ、今さえよけれの心使いを戒められた。 かりものの理をわきまえず、あらゆる人間心を使う癖の心を直すことを信仰の眼目としていつも教えられた。 癖の心が人を苦しめ、己の罪つくりを生む。  時間に間に合わないと、人の自由を縛るとして、時間を守ることを教えられた。 コミュニケーションでも、人から問われたすぐに「ハイ」と答えなさいと。人にいやな印象を与えてはいけないと。 自分を立てずに、人を立てなさいと。  これらかんたんなようで、実践することは大変難しい。そこで、日々の信心の錬磨が必要となる。   

 

  そして、人類が目的とすべき甘露台世界の在り方が理想として示された。これについては、また次回に。