教祖の直弟子である桝井伊三郎(1850-1910)さんは、教理に明るい人で、本席様の刻限の御用に側でも務めた人で有名です。明治43年6月に61歳で出直されています。 この方の四男?に桝井孝四郎(1894-1968)さんがいて、「おさしづ」の編集に関わった方がいます。「おさしづ」の研究家でもあります。この方の父母の時代が教祖の肉声にふれた世代で、教祖と対面された方々の話をたくさん集めていました。
その桝井孝四郎著『みちの秋』(道友社、1937年)でおさしづの編集出版に関わる思い出を書いている。この書籍の中で、教祖のことも実は書かれていて、あまり知られていない史実も記載されているので、紹介します。
桝井孝四郎 著『みちの秋』,天理教道友社,1937.11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1873645 (参照 2026-02-17)
教祖の肉体を利用して、神様が話をされる現象があり、これは刻限と言われている。天保9年から、亡くなるまで何度も繰り返しあった神秘的な現象である。神がかりの時は、普通に話しているときとは明らかに異なる音量、音質で、中山みきとは別の人格の者が語っていることを周囲に納得させるための現象であった。
本席様の時代は、筆取りの制度があり、筆記されたものが「おさしづ」と呼ばれて膨大に残された啓示録であり、分量的には、教祖時代よりはるかに多い。 教祖の音声による刻限話は、ほとんど筆記もされず、周囲の人たちの記憶に残されるだけで、どこまで正確に記憶されれているかは実は曖昧であり、口伝とかで言い伝えられている。
孝四郎が母から聞いた話として、以下のものを紹介する。
「御教祖様は上段の間で御休みになって居られる。皆の者はその下の方で、寝まして貰ってゐる。
静かにしてゐないといけないと云ふので、恐れ言ったことであるが、中には寝てゐながら、聴かして貰ってゐるものもあった」(p.38-39)
このように聞き流しのままで勿体ないことだが、教祖が寝ている最中に刻限話があったということである。熱心な信徒たちは、教祖の近くで寝ていたこともリアルに伝わってくる話である。
また天啓があったのは教祖や本席様だけでなく、教祖の末女の小寒様も同様な状態だったという。古い高弟たちの間では、「若い神様」「若神様」と呼ばれていたという(p.39)。
また長男の秀司が亡くった通夜の晩に、教祖の肉体を通じて、秀司先生とさらにそれ以前に亡くなった三女のお春様が、語ったこともあったという(p.40-41)。 これは教祖の肉体を神様が借りて、秀司さんや、お春さんが話したという霊媒的な現象である。 お二人の語った内容は以下である。
お春さん「子供がみな帰ってゐるよって、ちょっと私も帰って来ました。」
秀司さん「私は今でも上を思ひ、世界を思ひ村方を思ひして神様の仰る事を止めて来た。どうぞこれから、之を雛型として神様の云う事を守ってくれ。私はこんなになりました。」
秀司さんは、教祖の云うことをもっとも一番聞いて従わねばならなかった人だが、その神様に素直になれず、出直されたことを教訓として欲しいと。秀司さんはまさに真柱的な役割を担った方です。 これは、今の真柱様にも同様に相当する教訓ではないでしょうか。教祖のの周りには多くのマイナスの雛型もあり、それは教訓的に今にも生きる史実です。これらも神様の周到な運びの中から生まれた教訓です。
ご参考までに書いておきます。
今ではデジタルでも見れます。