白鳳期の仏像を一同に集めた展示会が奈良国立博物館で平成29年に開催され、深大寺と龍角寺の仏像も奈良で展示された。開館120年で、白鳳期の仏教美術を集めた歴史的な展示だったと思わます。
以下、深大寺での写真。深大寺の参詣は無料ですが、白鳳仏の拝観には300円の拝観料がありました。
白鳳期の仏像を一同に集めた展示会が奈良国立博物館で平成29年に開催され、深大寺と龍角寺の仏像も奈良で展示された。開館120年で、白鳳期の仏教美術を集めた歴史的な展示だったと思わます。
以下、深大寺での写真。深大寺の参詣は無料ですが、白鳳仏の拝観には300円の拝観料がありました。
産経新聞の記事から転載します。
平成10(1998)年 6月18日 新真柱の中山氏会見 「これまでの路線を継承」 天理教
天理教の新「真柱(しんばしら)」に就任した中山善司氏(三九)=写真=が、奈良県天理市の教団施設でこのほど記者会見を行った。
この中で中山真柱は「真柱という立場が父から私に代わっただけで、これまでの方針、路線が急に変わることはない。おやさまがつけた道をしっかりと継承し、先に延ばしていきたい。天理教の百六十年の歴史は『陽気ぐらし』の教えを信じてきた人たちの積み重ね。それが現代の要求と一致するかどうかは分からないが、同じ道を通っていくことが大切」と抱負を語った。
宗教が問われている課題について質問を受け、臓器移植について「(賛成、反対の)どちらが正しいとはいえない。天理教は人助けの教えを持つが、何をもって助けるということなのか。そこから議論しなければ」と述べた。また、宗教法人法の改正については「必要があれば改正もやむを得ない」との見解を明らかにした。
同氏は第三代真柱の長男として生まれ、昭和五十七年に立命館大学文学部卒業。在学中に真柱継承者となり、天理教少年会長、青年会長を務めている。
この記事で、「陽気くらしが現代の要求と一致するかどうか分からない」とのご発言がある。歴史的教祖の時代は幕末から明治初期であり、平成時代とはもちろん時代も環境も異なる。その中で、教祖の説かれた陽気暮らしが現代にも通用するのか、本人は疑問を持たれたようだ。140年以上前の教祖の発言は今でも妥当性があるのか、教団のリーダーからのこの発言には、理に対する信仰心の薄れを感じる次第である。
陽気暮らしとか甘露台一条の理想の社会の実現が説かれていましたが、今はトップでもそれに対する信ぴょう性が低くなってしまったかも知れません。
あれから20年たって、ご本人は2018年6月7日に脳梗塞か何かで東京・新宿のバーにて容態変化。何ごともなかったかのように、同年6月の月次祭は大亮氏が祭主となったという・・・。
2019年?の正月の天理時報でも、お顔は出ず、発言も全く聞かれなくなり、末端の教会長からはリーダーの不甲斐ない姿に不満が出ているそうだ。
2025年の正月の天理時報では、真柱ご夫婦の写真が出ておりました。2024年の秋の大祭でも短いですが、神殿講話されました。ご本部のおつとめの人衆として参加はできないそうですが、つとめ中は横から拝見しているとのことです。リハビリされて何とか歩けるとのことです。
おやさまがつけた道をしっかり継承するというが、それは歴史上の教祖であり、無形の教祖ではない。 ここに理の源泉を失い、低迷している根本要因があるのではないでしょうか。 高齢化とか人口減という外的要因で済まされる問題ではなく、信仰の根本が問われております。 節とは地場の事情です。100年以上、事情中の地場です。 上田奈良糸様のお運びが出来なくなったという地場の事情が今も続ているのです。 真柱様の身上も天理教の大きな大きな節です。
本席様が存命の教祖の声を代弁されていた史実を振り返り、存命の理を体現した『おさしづ』がなぜ続いたのか、その説かれたこととは何かを調べる必要があると思われます。 100日さしづの意義が問われます。 なぜ10年先の預言が残されたのか。
『おさしづ』を研究すれば、理の後継の課題がおのずから浮かびあがります。
「真柱を呼んでこい」というお声を出す方は誰なのか。明治20年の本席定めの際の飯降伊蔵さんの大音声は、誰からの声だったのか。伊蔵さんに肉体を貸している誰か? また誰が飯降伊蔵の肉体を借りて、発話されているのか。飯降伊蔵ではない、飯降伊蔵がかたっている。 無形の理を語る、存命の教祖の声だと分かるな否かが、問われます
今再び、その声があなたに届いたとき、あなたならどうするか? 足元に大きな理をみる。
それが聞けなかったら、寿命を継げるか否か?。 神様のかしもの・かりもの理が今に生きます。
ひとこと話はひのきしん においばかりをかけておく
むりにこいとはいはんでな いづれだんだんつきくるで
むごいことばをだしたるも はやくたすけをいそぐから
Twitterで、盛んに教会本部の体制に体験的な立場から批判されているお方が語っていること https://twitter.com/toku_Music1234
を拝見しました。 なお、2022年3.22. 現在では、この方のツイッターのアカウントは削除されていました。
読んでいて、私も悲しくなってくるような内容でした。本部の史料掛を若い頃はされて、天理教の機関紙・書籍などを発行している道友社にご勤務で、病気から退職された50代から60代くらい、山陽大教会系の用木(ようぼく)の方のようです。 貴重な資料を道友社に送ったのに、邪見な扱いを受けて、これまでたまった憤りが切れてしまって、2020年8月7日から告発を始められたようです。
天理教内での著名な布教師の裏話、殺害事件、本部員の子供の不祥事から、今の真柱様が「おさづけ」を本通り自らされなかった秘話など、生々しい話が多く、嘘ではないと思われました。 10年前の自教会での本人を含めた集団写真もあって、笑えました。そこまで露出されなくても・・・。大変正直なかただと思いました。 「理を立てなくても、生きている。」 その通りです。 2000万円のお供えもされたりっぱな方です。
多くの問題を提議されておりますが、真柱がおさづけを取り次ぐことの正統性に関する疑義が一つの問題として提議されていて、これは天理教の救済の中核を問う、重大な問題だと思われます。
山本利雄先生(医学博士、江戸分教会長、今は故人)に直接質問された答えは、「存命の教祖が真柱様の背後におられることを信じること」という優等生的な答えでした。
歴史的には何度か書かせてもらいましたが、再度繰り返します。
大正7年の茨木父子が本部員を免職の翌日、上田奈良糸様におかれて、おさづけが出来なりました。本部員会議で、中山家の御母堂様が、渡しはじめました。 その当時、この一件に教内から批判はなかったのでしょうか? おそらく疑義はあったと思われますが、かきけされたことでしょう。 こうして、人間一条の体制が築かれてしまったことに、今や多くの方々、特に本当の教祖を求める人たちが疑問をもっても当然のことです。
この方も、教祖の言われたことは正しい、まともな天理教の優しい会長夫婦もいることを認めながら、今の体制が許せないということのようです。 このような方々は決して少数派ではなく、氷山の一角としてマグマのようにたまってきていることが、今のコロナ禍で浮き彫りになってきたようです。
本部は片頼りという、茨木さんのお詞もありました。
私の祖母も大金をお供えして、最後は天理教は辞めろとの遺言を残しました。叔父さんもかなりの大金をお供えして、娘を助けてもらえず、私が参拝した時に、こんな神様の社はいらないと私の目の前で、階段の下に投げ捨てました。 そのおじさんは、すぐになくなることもなく、天寿を全うしました。
天理教の教団体制の維持には高額な資金が財政が必要です。高額な寄付で救済が進展して勢いのあった時代はかつての栄光であり、今では目立ってはいないでしょう。それでも、集金体制は温存されていて、旧統一教会と似た構造があるのではないでしょうか?
安倍首相の暗殺の背後にある宗教教団への敵意という報道があった時、奈良県でしたので、かなりの人が、天理教ではないかと危惧したものです。 (2022年8月22日 補筆)
亡き父も若い頃、今から70年以上まえ、どこかの教会をまかされそうになったようですが、本部の体制を見て、辞めました。そして、その決断は良かったと言っています。30年たって、その当時の知り合いの若者が本部で暗そうに仕事をしているのを見て、行かなく良かったと・・・・。彼に声掛けはしかなったようです。
天理教の中にある家柄主義から、古い信仰の家柄が優先される、中山家の血筋が優遇されていることは外部からよく見えます。 経営学的にはダメなファミリービジネス(同族企業)と似ています。
また30年ほどまえ、英語の達者な本部の先生がT大学の先生に天理教団を盛り上げる方法はございませんかと尋ねている光景を見たことがあります。その先生は天理教の研究で学会賞もとられた有名な先生ですが、信仰者ではなく、道徳やゆるい神観念には惹かれるような観念の持ち主でした。
彼に聞いても、何のいいアイデアがいただけるわけではありません。世の普通の学者先生には謝礼が行くだけで、来てもらったことで教会本部に権威が少しつくだけです。
カメラでこっそり、「かぐらづとめ」の写真を撮ろうと失敗したと反省したこともある素直な先生です。
S先生には第一、神様への、理の信仰も全くない方です。そのような方にアドバイスを求める教団幹部に私はその時、失望しました。
そのご本部の幹部のI先生も今は、御身上で動けなくなっておられるようです。
私は、幸い、60歳近い年齢ですが、今もこうして入力をさせてもらっています。 いつまでも元気かは、肉体はかりものなので分かりません。ただ元気なうちに、理とは何か、教祖のメッセージは何かを求めて参りたいと思います。
借りている肉体を真から喜ぶこと、これが第一で、神様を直接感じれる日々です。
無理なお供えはしませんし、自分のできる範囲でさせてもらっています。
形の天理教では教えが形骸化して、教えを食い物にして、本当に宗教教団に成り下がっていていたり、世間の常識以下のことが起きているとしたら、それは許されません。
『高安大教会史:上巻』(昭和2年)に沿って、松村家の信仰について整理してみよう。
明治2年 さく子の妹、小東松枝子、中山秀司へ嫁ぐ。 さく子お地場へ。 栄治郎の次男、亀次郎が出生。
明治3年 秋頃、 さく子、「たちやまい」、医師5名から死の宣告。
明治4年 正月二日 さく子、平等寺村の小東家に引き籠り療養。
正月十日 お地場へ。教組より頭の虱(しらみ)などを取ってもらい、入浴。教組よりの御話。お願い勤めする。3日目に霊救あり。松村一家の信仰の始め。
栄治郎は、淀県庁第15区の連合戸長を拝命。
明治5年 さく子、盆の藪入りに地場に参拝、帰路平等寺村に立ち寄り、「おこり」を病む。神の霊救で全快。
教祖が、松尾市兵衛の長男の病気で来訪、平等寺村の小東家にて3日間滞在。
明治6年 さく子の父、小東政吉氏が出直す。
10月21日 中山松枝子、松村家へ来る。
明治7年 9月4日 栄治郎、地場へ参詣、平等寺村に立ち寄り、7日に帰宅。三男、五三郎の出生。
明治8年 4月25日 中山秀司、来宅し、翌日、大阪へ出発。
明治9年 4月21日 さく子、地場へ参詣、
6月9日 中山秀司ほか1名、来宅、翌日に帰宅。
11月23日 次女のすて子出生。
明治10年
・・・・・・(作業中)・・・・
・小東家と中山家をつないだのは、小東政吉の内室のとみ女。とみ女は、龍田村の勘兵衛の奥さんは「言上の伺い」を許されていて、龍田は信仰の拠点となっていた。とみ女は、勘兵衛宅に伺い、救われた。松枝は縁談を断ると身上となった、何回と繰り返されて婚姻となった。 小東家は平群地方の一流の旧家、資産家だった。 小東政吉は法隆寺斑鳩御所の名目金を地方人に貸し付けていた。取り立ても厳しく、巨利をおさめた。3人の男児はいずれも身持ちが悪かった。
「小東の家は無理がしてあるから、何度改革をしても家が潰れる」との教祖の仰せ[p.34]
小東家没落の予言が、おふでさきの最後「びよさま、びよさま、このはなしあいづたてあい」
小東政太郎の長女小玉。前川菊太郎に嫁したが不縁となり、大県大教会長の幾太郎氏に再嫁し、6人の子女、小玉女は教祖の母親の因縁である。
さく子は、教祖四代前の母の生まれ替わり、栄治郎は四代前の叔父である[p.36]
<中山家と松村家、小東家などの系図>
関東地方にひろがった天理教の教会について、研究のために掲載します。 大教会はあまりHPを持っておらず、デジタル化の遅れはどうしてなのでしょうか。
高野友治『天理教伝道史 : 一調査資料として 7 (関東地方篇)』天理教道友社, 1968年
目次―関東地方篇―
一、序―関東における道のはじまり/p3
二、東京真明組(東系)の伝道/p10
1 東大教会/p10 台東区東上野5丁目3番14号
2 浅草大教会/p32 足立区梅田6丁目2番28号
3 日本橋大教会/p46 品川区東五反田5丁目25番1号
4 牛込大教会/p53 新宿区高田馬場4丁目4番32号
5 深川大教会/p63 葛飾区四つ木5丁目2番5号
6 立野堀大教会/p71 埼玉県草加市稲荷2-29-23
7 阪東大教会/p76 群馬県前橋市表町2-23-11
三、遠江真明組(山名系)の伝道/p84
1 埼玉分教会/p84
2 夷隅分教会/p89
3 八王子分教会/p92
四、天竜講(郡山系)の伝道/p94
1 高座分教会、御所見分教会/p95
2 座間、木水、桑都、銚子港各分教会/p98
3 水戸分教会/p102
4 中央大教会/p104
5 南総分教会/p109
五、斯道会(河原町系)の発展/p112
1 岳東系
A 小田原分教会/p112
B その他の岳東系/p115
2 秦野大教会/p116 神奈川県秦野市文京町5-16
3 秩父大教会/p122 埼玉県秩父市野坂町1丁目2番26号
4 日光大教会/p125 栃木県日光市御幸町523
5 都賀大教会/p132 栃木県小山市大字間々田792-10
6 中根大教会/p142 栃木県小山市城山町1丁目6-3
7 那美岐大教会/p150 栃木県佐野市堀米町1645
8 東中央大教会/p154 東京都渋谷区神宮前 5-14-2
六、天地組(北系)の伝道/p158
1 麹町大教会/p158 北区滝野川1丁目86番1号
2 綿江大教会/p164 千代田区神田錦町1丁目11番地
3 大森町大教会/p169 大田区大森西4丁目4番10号
七、高安大教会系の伝道/p173
1 東本大教会/p173 墨田区本所1丁目13番17号
2 本保大教会/p179 八王子市暁町1丁目37番11号
3 本芝大教会/p184 東京都港区高輪1丁目22−17
高野著にない大教会。
本理世大教会 新宿区西落合1丁目9番1号
本荏大教会(ほんえ) 品川区大井2丁目5番17号
4 本愛大教会/p189 名古屋市中村区大宮町1-60 なぜか名古屋?
5 都大教会/p192 東京都練馬区大泉学園町6-18-26
6 東竜、東明、東日各分教会/p196
八、その他の系統の伝道/p200
1 兵神系―神本分教会/p200
2 南海系/p201
3 敷島系/p203
4 江戸分教会/p203
5 平安系/p204
6 八木系/p206
<分析> 東京都内には天理教の大教会が多くあり、東京真明組(東系)の東大教会(あずまだいきょうかい)系統、天地組(北系)、高安大教会系がその大半であることがわかります。北の系統として、3つの大教会があることは注目に値します。 茨城県・千葉県には大教会がない。 東京の伝道に関しては、早田一郎(天理教文献室)さんが詳しいです。
また、都内の大教会について、婦人会総会の行事案内が役立ちました。
【東京教区】 会員決起の集い会場一覧 | 天理教婦人会 (tenrikyo-fujinkai.org)
中山家と親せきであり、教会本部の政治面、庶務面で多大な功績を残された松村吉太郎さん。1867-1952の在世で、85歳の長命をいただいている。本人はその自伝で、自分の親族がみな短命だったことを告白している。弟や妹たち、自分の子供たちにも先立たれた。 吉太郎は長男で、次弟は亀次郎、妹のすて、三男は五三郎、四男は隆一郎。『道の八十年』によれば、以下のように出直されている。
アイ子:長女、明治5年出生、明治7年6月4日に出直し [高安大教会史:上巻の年表より]
亀次郎:郡山大教会の増田家に養子。明治38年1月に出直し。
すて:芦田家へ。明治39年1月出直し。
五三郎:芦津大教会の井筒家へ養子。大正8年11月8日に出直し。
隆一郎:大正4年から高安大教会の第四代会長、大正6年9月2日に出直し。
本人はそのことを少しも不満に思うこともなく、中山家も同様であったことを語る。教組(おやさま)も秀司さん、こかんさんといったもっとも頼りにした子供たちが先に亡くなった。唯一孫の、たまへさんが残ったということである。
松村吉太郎の父は、松村栄治郎さんであるが、その父もかなり早く、吉太郎が23歳の時に出直された。松村栄治郎さんは、明治22年11月6日に48歳で出直された。 その出直す直前に、本席様から「おさしづ」をいただている。亡くなる5日前に神様からいただいたことばである。これはどういうことなのか、疑問に思い、その理を探求してみたい。
明治22年11月1日(陰暦10月9日) 松村榮治郎身上伺
「・・・細い道は通りよい、往還は通り難(に)くい。細道は心に掛けて通るから通れる。往還の道は通り難(に)くい。世上では往還の道という。・・・」
天理教が社会的に布教をしやすいように、国家から公認の認可が必要で、そこに奔走した松村吉太郎氏であった。その父も同様に、教祖時代から世間的に批判をあびている信仰集団を何とかしようと思っていたことだろう。 だが天理教の歴史は、迫害弾圧があった時ほど、逆に進展しているのである。社会との軋轢を乗り越えながら、その存在感を世界に示して広がっていった。
往還道とは広い道であり、多くの人が利用できる。地方のスーパーならレーンが広く、ゆったりと商品を見れる。しかし都内のスーパーはレーンが狭く、渋滞しがちで、通過するにもストレスがかかる。これが細道のことである。 細い道は、注意して通らないとほかの人に迷惑になるので、より意識して通らねばならない。
大正期には監獄にも入った松村氏であり、娑婆に戻ってさらにその地位を上げた人物である。 広い道をつくることに貢献した人生であったが、細い道が本当は良いというのが神様が思惑である。 よりつらい困難な道でこそ、魂は磨かれて、将来への土台が築ける。
出直す直前に、松村榮治郎の大きな功績を認めつつ、神様はこの道の根本的な在り方をここに諭されている。 形が大きくなってくると、そこに安住してしまい、恵まれた環境に心がウカウカしてまう。そこに神様からのかしものかりもの守護を忘れて、何でも人間の力でやってきたと勘違いを起こしてしまう。 形や数字に目が奪われ、形の奥にある神様の心が見えなくなる。 感謝や喜びの心がだんだん薄くなり、道を知らない以前へと後退した境涯へと落ちていく。
仏法的いえば、この道は形を支配する神への絶対他力の信心が趣旨である。また同時に心自由であるなかで、己の心の在り方で、心の決断と創造性で、心通りに守護され、自他の世界が変わるという意味で自力の面が本当は強いのである。
表題のテーマ「本部員に方針の違っている事を深く深く戒められる」の刻限話が大正11年12月14日にありました。 その刻限話をもとに、私なりに現代において必要な理の教えを考察します。
天理教の中枢から「すてものほかし者」にされた茨木基敬さんは、お地場の三島詰所から富雄の地に移った。啓示は引き続きあり、筆にとられ、膨大に残されている。 追い出された立場から、ひがんだ視座で本部を眺めているのかといえば、そうでもない。神の残念な気持ちがもちろん語られる。そして本部が勝手な人間心の方針でものごとを決めていることに厳しく戒めの警告を与えている。そうした人間心はいつまでも続くものではことを諭している。茨木さんが生きていた時代に、本部に戻ることに期待がかけらていた。 だがそれは成就せず、100年たつ。
中山家は理を立てて来たので、立てられる家柄となった。神様も中山家を立てたい。しかし、中山家が理をたてなくなったら、どうなるか。神様も中山家を立てることができなくなる。真柱はそれで、倒れたのである。 理を立てることが出来ていない証拠は、理の思案から誰にでもわかる事実である。
神様は部内の者を憐れみ、また本部重役の責任の重さを逆に問うている。そして一番の仕込みのかなめは、神の詞を聞いている当屋敷の者たちへの、魂の仕込みである。この道はどこまでも、魂の磨きをする道である。形を大きくしたり、世間から注目を集め、伽藍を立てたりということに主眼があるのではない。最も大切なことは、かしものかりものの守護、絶大な神様の守護に真から目覚めて、幾重の事情や艱難な中でも、魂を錬磨する人間になることである。ただ成人におうじて、それなりの形を与えるという言葉もあった。 今は成人もしていなのに、外面ばかり取り繕うことで、おかしなことになっているのである。
地場の責任ある人達の成人の遅れがあろうと、神の詞に縁ある人達はどこまでもどこまでも魂を磨いていくことが肝心である。
30年祭で、神のさしづから北礼拝殿が出来て、その威容から天理教はたいしたものだと世間から認知されるようになった。それまで世間から笑われ、そしられてきた天理教がようやく世間的に地位をつけたのが大正期である。 教祖や本席様に従ってきた初代の方々は、みな辛酸をなめながら、信仰を貫いたたつわものたちである。だが理を知っているつもりになっていて、人間思案の汚れを払しょくして、真から魂の次元で目覚めた人は皆無であっただろう。
その中で、茨木さんの神がかりに対して、大半の本部員たちは、よく調べもせずに、茨木さんは高慢だとみなして、最終的には罪人扱いとなった。
神のさしづがない教会本部は、ある程度大きくなったお屋敷において、みずからの考えで、物事を決めていくようになった。 40年祭にむけて、無理なことを信徒に強要するようになる。 この中で乱立した教会が倍加運動という無理無理な中で生まれた教会で、今その淘汰を見ている。 修理肥が十分でないから、消えていく教会が増える。修理肥も嫌われる今の体制である。
理の親、理だて、事情働きなど、・・本部に都合の良い専門用語が作られる。
信徒は本部のいう事は、神の言うことだと信じてきた。ここに信徒たちがバカを見る構造的な問題を内蔵させて、100年もたった。そうした本部から聖なる水が流れなくなり、泥水が溢れていることに多くの人々たちが批判の声をネットで発信するようになった。今こそ、茨木氏の啓示は、リアルさをもって神様の理の所在を明かしている。
本部が神様の教えを都合よく改ざんして、教えたらどうなるだろうか。教えそのものより、人集めに重きをおく。行事的になる、より金銭を求めるようになる。これを「本部は商売的になっている」という神の詞でも警告を与えている。人が人を支配することを神様はもっともきらわれる。神様は一れつ平等の精神である。
大教会長が偉い、本部員が偉いとして、その方々が次に生まれ変わって、末端の教会でまた一からどん底の暮らしから始めるかも知れません。これは自分の前生からもいえることです。
教祖や本席という一人の誠で成り立った天理教である。 その土台にのっている天理教である。 千人よりも一人という信仰の質がむしろ神様の望みである。 たった一人でも真に命がけで神様の教えを実践する者が欲しいのである。 私一人だけでもそのような人間になりたいと思います。遅れている理の研究を続け、己の汚れた魂の錬磨を喜んで通ります。
永遠につづく理の道からは、その土台形成に必要な現在の天理教の不甲斐ない事情だと思案します。
ネットで誰もが自由に発言できる中、天理教の現在の教団体制へのかなりの批判が内部者と思われる人からも噴出するようになってきました。今回は、以下から学ばせてもらいました。
https://twitter.com/ichiro0026
批判のタイプにも多様にあり、百家争鳴の如きです。今後、さらに内部暴露の告発があるかもしれません。これもすべて神様が許されていることだと思わます。形の世界はすべて神様が守護されていますので。 形の世界を支配する神様は、何も天理教の人たちだけを守護されているわけではなく、人類一列を守護されています。どんな宗教や信条の人でも、宗教をアヘンだとみなすマルクス主義者といえども神様が等しく守護されているはずです。
どんな人間の肉体も神様が守護されている。
大阪のある学者が教祖(おやさま)にお会いして、学者の質問に教祖はこのように語った。
「まま食うも月日 もの言うも月日 これが分からんなァ 残念、残念、残念」
その後、この学者は病にかかり、言葉が言えなくなり、食事でもとれなくなり、体力も衰えて、死にかけた。その時、その学者は教祖の言葉を思い出した。それで不思議に「水」という言葉が出て、周囲の者が水を与えると、やがて回復して健康になったという。
これは、高野友治氏(天理時報の記者から天理大学教授になった先生)が小松駒吉先生から聞いた話だそうだ、小松先生はこの話はしていないと否定されている。教祖はそんな分かるようなお話はしていないとのことだ。・・・
また、高野氏が奥野通三郎氏から聞いた話として次のものがある。
十 教祖、あるとき、仰せには 「神が働けば、世界一夜の間にも なむ天理王命にしてみせる」と。
信者たちは喜んで、「どうぞ、そのようにしていただきとうございます」と。
教祖の仰せには、「世界一夜の間になむ天理王命にしたところが、誰が修理肥に行ってくれますか」と。
教祖の仰せには、「修理肥に行ってくれる人がなくては、どもならん、やめとこう」と。
ここには天理教が一挙に広がらない大きな理由が明々白々に明かされている。信徒の心の成人ができる体制がない限り、信徒を増やすことはできないということである。形を動かす神様は、世界中の人を一夜に信仰者にすることもできるという。これが貸しもの・借り物の理を明かす、親神様の究極の実力を明かしている。かしものかりもののありがたさを分からない人間が無理やり、天理王命のつとめをしても、それは単なる欲交じりのおつとめでしかない。心清めることもせずして、真の救いなどありえない。そして真実の救済は、「いつでも喜べる、満足できる人間」へと人の心が進化することである。これは言うに易く、行うに極めて困難な難事業である。 陽気暮らし実現のために、人間精神の絶対的自由の道を作ること。これが教祖が求める信仰の普遍的な真理である。
修理(しゅうり)や肥のために上級から役員が来ると、多額のお供え(献金)が求められるので、本当は来てほしくないとネットに書かれていました。これが本当なら、修理肥が形骸化しているとしか言いようがありません。 教会本部にすべての権限が集中する本部―大教会ー分教会ー講社祭りというヒエラルキーがある中で、上級の教会と末端の教会において貧富の格差が生まれているらしい。貧しい教会が上級の教会を支えるという。天理貴族などもと書かれていた。こうした本末転倒の事態が今の天理教の教団体制に生まれいるらしいのです。
本来なら喜ばれる修理や肥が出来なくなった上級教会・・・。 救済を忘れて、巨大な伽藍を維持するための単なる集金ビジネスをしている体制になっているなら、それは世間並以下の惨憺たる宗教集団です。神様は依怙贔屓はしないので、どうなるかは明白です。 むしろ、厳しい仕込みが、かかってくるはずです。 理の光に照らせば、今の真柱様の御身上もそした文脈だと理解が可能です。
成人する方法を忘れてしまった教団体制が持続するなら、衰退することは必然であります。教祖が始めた道にあぐらをかいて、食い物にして良い訳がありません。 永遠の実在としての教祖(おやさま)が何を求められたのか? 真実の声を求める誠の心が今こそ求められます。 コロナ禍で苦しんている信徒を食いものにしたり、さらに献金圧力を強めるなら、これは本当にひどいことです。 若き真柱後継者の若者は、こうした無理なお供え(献金)を辞めさせたと聞きます。彼には期待大です。
だれからも慕われる地場屋敷の姿はどこに行ってしまったのか?
存命の月日を本部が地場から追放して100年たちました。
「本部は暗闇」という茨木さんのお詞をいつか、紹介したく存じます。
天理教幡多分教会の起源は、おそらく、明治26年3月22日に設置が許された出張所だと思われます。その時、本席様から下された、「おさしづ」を以下に引用します。
明治26年3月22日 幡多出張所設置願
「さあさあ尋ねる事情事情、所という、事情という、さあ治まりかた無くばならんならん。」
「さあさあ事情事情許し置こう、さあ許し置こう。」 【『おさしづ 三』 p.2562ロ】
柿谷さんが四万十川流域で布教する中で、信徒集団が形成されてきた。日本全国で教会設置が増大するなかで、明治26年2月20日のおさしづでの伺いから、教会の等級として分教会、支教会、出張所、布教事務取扱所などの等級が定められた。おそらく規定の信徒数を超えた数が集まり、出張所の設置を願い出た。そして神様からも積極的に、この信徒集団の結成に対するお許しが出たのである。
信徒の集まりの最大の目的は、おつとめをすることである。皆で心を合わせて、おつとめをする。信徒の集団化は教祖の時代から講を結べということで、促進されていた。
この時代は教会設置が広がり、天理教が大変勢いのあった時代だと思われます。「かしものかりもの理」のありがたさに目覚め、報恩感謝の方法として、おつとめへの参加が促される。それが国々ところどころの教会設置の起源である。皆喜んで、勇んで教会設置を目指して、許された。その喜びの続くところに、教会の盛大を見るわけである。 初志貫徹の精神が持続性のカギである。
ただ今、多くの事情教会の整理が進むと聞かせていただきます。 本席様時代の設置か、上田奈良糸様が許した設置か、御母堂様がゆるされた設置か・・・・。
事情教会の設置年に関する統計的な研究、事情教会の誕生する理由に関する研究はどのようになっているのだろうか。『道の友』で特集してみたらどうだろうか?
天理教には多くの教会があります。高知県の高知大教会の部内、現在の幡多(はた)分教会のおそらく初代会長に与えられた本席様の「おさしづがあります。Googlmapを見ると、現在の住所は、四万十市中村上小姓町11に所在していて、中堅どころのかなり大きな教会だと分かりました。四万十川からも近い高台にある教会でした。おそらく高知大教会の部内でも大きな有力教会だと思われます。
こちらの初代会長が何か病気(身上)となられて、神様に伺い、その際下されたおさしづの一節を引用します。
明治38年12月13日 柿谷達太郎48歳身上願(高知部内幡多支教会長)
「・・・なれど、めんめん何でこういう事になると思へば、いろいろ沸く。」
「どういう事も治めてくれ、治めてくれ」
「又どういう事を治めたらよいと思うやろ」
「よう聞き分け」
「人間と言うというは、一代と思うからどうむならん」
「人間生まれ更わり、この理聞き分け。」
「めんめん盡した理は無くならせん」
「盡した理は、日々皆受け取ったる。」
「この楽しみ諭してくれ。」
「これではと思わず、身上不足なりて、そらたんのうはでけやせんでけやせん。」
「なれど、この理聞き分けてたんのう」
「ならん中のたんのうは、前生いんねんのさんげえと言う。」
「これを聞き分け。案じてはならん。案じること要らんで。」 【『おさしづ 補遺』 p.6307-6308】
【釈義】 熱心な布教師で、多くの人たちを救ってきた柿谷さんであった。明治26年3月22日に幡多出張所の設置が許され、明治27年3月14日には支教会に引き直し願いが許された。明治28年6月23日には支教会増築願も許された。
どういうわけだが、自分自身が何か病いにかかってしまった。人並み以上の相当の効能をしめし、功績もあげ、大きな支教会も守護していただいた。人にも救済の真理である「かしものかりもの理」を説いてきた。その諭しで、多くの人も助けられ、信仰へと導かれた。しかし、熱心で人を助けた自分が何でまた病いをいただくのか。大きな不安が生まれてしまった。大きな信徒集団を作った立志伝のあるような人なら、なおさら自分にふりかかる不都合に納得がいかない。形の世界を支配する神様に、自分が身上をいただいた理由を教えて欲しい。ということで、高知の外れ、幡多から遠路、お地場へと伺ったのである。リモートによる諭しは、いまだ無理なこの時代において、運ぶだけでも大変な距離である。
ここで諭されている大きなポイントは、人間の肉体は有限だとしても、魂は永遠であり、前生があって、今の道があるということの根本的な諭しであった。人間は生まれ変わりするということ。肉体的死が人間の終焉なのではなく、また別の肉体を借りて、どこかに再生するのが人間の真実の姿なのである。今の形だけにとらわれたら、心を汚すだけである。形の奥にある、形の元にある神様の心に自覚がいかねばならない。
自分が人助けのために尽くした誠の心はかなり重なっていて、天の貯蓄となり、本人や家柄を形成する徳分となっている。それは目には見えないが、神様はしっかり受け取っている。こうした喜ばしいことを、信者にも諭して欲しいということである。日々の誠の心は、形では見えないが、誠の精神は無形の理として蓄積されている。そして、先祖の徳分で、今の子孫の方も栄えている。
こんなことになっているという不都合な状況に、心を倒してはいけない。これは磨きの事情として与えられているのである。
信仰熱心になるに応じて、さらに神様から磨きの事情が次元を超えるためにあたえられる。それは本人の魂の次元をさらに上げるために、本人にもっとも適切な形で与えられるのである。決して無理な事情は与えられない。本人が受け取れる範囲でのお慈悲で与えられている。だれもが神様を知る前は、喜べない不満の心を燃やしてきている。そうした汚れた心のほこりが原因となって魂磨きの事情が与えられる。磨かれていることを喜んで、不安に思うことなく、先に心を進めて欲しい。有形な不都合の形は人間には変えられない。しかし受け取る心は自由であり、自由の精神から形の世界を大きく深くさとることもできる。さらに磨いて大きな手柄を与えるために、今回の身上があったかもしれない。そのように神様がはげまされている。こうした神様のお話を素直に受け取るか、軽くするか。それは人間の心次第である。
おそらく、初代会長は神様の直々の話に触れ、新たな精神となって土佐に帰国したことだろう。今でもあるその大きな教会がその時の会長の魂の磨きの成果を表している。