天理教の歴史は、教祖の50年の天啓、そして本席様の20年間にわたる合計70年の天啓による指導精神によって、発展してきたことは周知の史実である。明治40年に本席様が出直された時の、天理教内の失望感は今では想像することもできないものであった。
その中から天啓の再来の期待が他宗教との比較の中から、盛んに意識の高い信徒たちによって、考察されたことも事実である。 今では地場に天啓は無いのが当たり前で常識となっている。そして、あったとしたら、それは即異端だという断定のもとに、教会中心の天理教として人間一条も多分に加味されて展開してきました。
『奈良糸様がいただかれたるおさしづ解釈』(昭和2年)には、天啓の再来を期待して、天啓に対する態度を以下のように3つの区分している。 以下の、それぞれについて、及ばすながら、私の解釈から解説してみたい。
1.天啓断絶説
2.天啓中絶説
3.天啓継続説
それぞれについて論じたうえで、3の継続説に期待を込めている記述であった。
1は、現在の天理教団の立場を維持する説で、教祖・本席の天啓で十分であり、それを研究することで新し理の思案ができるという立場だ。
とはいっても、本席様の『おさしづ』すら軽く受け取られて、十分研究されていない。一般の教会長で『おさしづ』を根ほり葉ほり研究されている方は少数派であろう。教える体制自体もなく、教会の本棚でほこりをかぶっているのが落ちだろう。
2は、一次的に天啓が消えても、再度その火が再点火するという立場である。本席様の遺言の『百日さしづ』は10年先のことを見据えてくだされたものだ。10年間天啓がなくとも、それを埋め合わせるために、神様が本席様を使い切って、刻限話が続いた。2日間本席様が飲まず、食わずだった時もあった。本席様の命を燃やした遺言である。 今後10年間は途絶えるが、その先のは次なる天啓者の成長してくることが期待されていたのである。 この問題は、天理教では全く議論されていないのが不思議である。
3は、継続するか否か、教祖や本席様は自ら何と語っているのか。 教祖は自分が亡くなった後のために、本席様が自らの最大の後継者として天啓を継承されることを期待したことは明らかである。 秀司さんも、こかんさんも先に出直された。 同じ中山家の子供たちは期待に応えられなかったひな形を残された。 中山家ではない、飯降家がなかったら、本当にこの道は途切れていただろう。 それほど、伊蔵さんが天啓を継がれたことは、偉大な史実であった。
その本席様は、理の継承について、明治40年3月22日の刻限話で、明らかにつなぎが必要なことを明かしている。 しかし、特定の人物を明言せず、「一本の木」として、ある特定の人物が予告されていた。 しかし、神殿普請の材木だと受け取られたことに、誤解が生じた。
いずにしても、つなぎに関する、刻限話を教会本部が隠ぺいしなかったことは、希望が持てます。 公刊されたからこそ、私にも読めるのはありがたいことです。
「大工の人(にん)」という比喩も、歴史上の本席様だけの意味ではないでしょう。
みかぐら歌の12下り目は、実は天啓継承を明々白々に語っていて、道の将来のビジョンを歌っていると思われます。 これについてはいつか別項で述べます。
10年間の間に次なる天啓者が生まれたのか否か。 ここに旧長(きゅうちょう)さんこと、北分教会の旧会長であった、本部員にもなった茨木基敬さんが本格的な理の継承者であったのか否か。その史実を研究しなければなりません。
本席様があと5年長生きされ、教祖の115歳と一致して、すんなり次の本格的な天啓者にバトンタッチできかもしれません。 ピンチヒッター的だった本席様の御用はそれでも尊いものです。その理の研究が俟たれます。
参考文献
『奈良糸様のいただかれたるおさしづ解釈』(昭和2年)の「第7章 天啓継続の有無について」(254頁)







