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「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」に関するまじめな宗教学的、神学的な考察

天理教の歴史は、教祖の50年の天啓、そして本席様の20年間にわたる合計70年の天啓による指導精神によって、発展してきたことは周知の史実である。明治40年に本席様が出直された時の、天理教内の失望感は今では想像することもできないものであった。

 その中から天啓の再来の期待が他宗教との比較の中から、盛んに意識の高い信徒たちによって、考察されたことも事実である。  今では地場に天啓は無いのが当たり前で常識となっている。そして、あったとしたら、それは即異端だという断定のもとに、教会中心の天理教として人間一条も多分に加味されて展開してきました。

 

 『奈良糸様がいただかれたるおさしづ解釈』(昭和2年)には、天啓の再来を期待して、天啓に対する態度を以下のように3つの区分している。 以下の、それぞれについて、及ばすながら、私の解釈から解説してみたい。 

 

1.天啓断絶説

2.天啓中絶説

3.天啓継続説

 

 それぞれについて論じたうえで、3の継続説に期待を込めている記述であった。  

1は、現在の天理教団の立場を維持する説で、教祖・本席の天啓で十分であり、それを研究することで新し理の思案ができるという立場だ。

とはいっても、本席様の『おさしづ』すら軽く受け取られて、十分研究されていない。一般の教会長で『おさしづ』を根ほり葉ほり研究されている方は少数派であろう。教える体制自体もなく、教会の本棚でほこりをかぶっているのが落ちだろう。

 

2は、一次的に天啓が消えても、再度その火が再点火するという立場である。本席様の遺言の『百日さしづ』は10年先のことを見据えてくだされたものだ。10年間天啓がなくとも、それを埋め合わせるために、神様が本席様を使い切って、刻限話が続いた。2日間本席様が飲まず、食わずだった時もあった。本席様の命を燃やした遺言である。 今後10年間は途絶えるが、その先のは次なる天啓者の成長してくることが期待されていたのである。  この問題は、天理教では全く議論されていないのが不思議である。  

 

3は、継続するか否か、教祖や本席様は自ら何と語っているのか。 教祖は自分が亡くなった後のために、本席様が自らの最大の後継者として天啓を継承されることを期待したことは明らかである。 秀司さんも、こかんさんも先に出直された。 同じ中山家の子供たちは期待に応えられなかったひな形を残された。 中山家ではない、飯降家がなかったら、本当にこの道は途切れていただろう。 それほど、伊蔵さんが天啓を継がれたことは、偉大な史実であった。  

 

 その本席様は、理の継承について、明治40年3月22日の刻限話で、明らかにつなぎが必要なことを明かしている。 しかし、特定の人物を明言せず、「一本の木」として、ある特定の人物が予告されていた。 しかし、神殿普請の材木だと受け取られたことに、誤解が生じた。  

 いずにしても、つなぎに関する、刻限話を教会本部が隠ぺいしなかったことは、希望が持てます。 公刊されたからこそ、私にも読めるのはありがたいことです。  

 

 「大工の人(にん)」という比喩も、歴史上の本席様だけの意味ではないでしょう。  

 みかぐら歌の12下り目は、実は天啓継承を明々白々に語っていて、道の将来のビジョンを歌っていると思われます。 これについてはいつか別項で述べます。  

  

 10年間の間に次なる天啓者が生まれたのか否か。 ここに旧長(きゅうちょう)さんこと、北分教会の旧会長であった、本部員にもなった茨木基敬さんが本格的な理の継承者であったのか否か。その史実を研究しなければなりません。  

 

 本席様があと5年長生きされ、教祖の115歳と一致して、すんなり次の本格的な天啓者にバトンタッチできかもしれません。 ピンチヒッター的だった本席様の御用はそれでも尊いものです。その理の研究が俟たれます。  

 

参考文献

 『奈良糸様のいただかれたるおさしづ解釈』(昭和2年)の「第7章 天啓継続の有無について」(254頁)

 

 

 

  

『天理教資料研究』(宇野晴義、昭和48年)によれば、以下のような記述がある。

 

本席様は「神が入り込めば、神や、神が去れば人間である」とお聞かせ頂ているが、真柱(本部長)も同じ理であると拝する。

現在真柱様がおさづけ並に教会事情のお運びをお勤めくだされるについては、取次人衆(言上)は常に真柱様の代理として、

神なる真柱様にお願いして、願人(満席者、教会事情人)におさしづ下されるのである。

 

これは昭和47年頃に宇野本部員が『おさしづ』改修版の増補の筆跡鑑定をされている頃に書かれたもので、当時の真柱は、中山善衛様である。今の真柱様である中山善司様の御尊父である。

 教会本部の中枢で、救済の技法である「おさづけ」を真柱様が渡されている原事実を上記のように理解しているが、「神なる真柱」という表現には、無理があることは否めない。

 

 本席様の御在世の時は、真柱様(本部長)から本席様にあらゆることがお願いされて、真柱様が願人である。その願人の代理として、代願する方がいて、書き取りの方がいて、付き人がいて、合計3名が神と願人の間を取次人衆となっていた。

 

 本席様亡きあと、上田奈良糸様がおさづけの理を渡す神意を継承されていたことは間違いない。しかし、大正7年に上田奈良糸様に事情が起きて、渡せなくなった時、本部員会議で、御母堂(中山たまへ)様が「おさづけの理」を渡すことが決められた。

 そして、中山正善(二代)ー中山善衛(三代)ー中山善司(四代)と代々の真柱が、神なる真柱として「おさづけの理」を渡すことが続いてきた。 今の青年会長、中山大亮氏は時期真柱後継者とされる。  

 

 

 では、果たして、真柱は本当に「神なる真柱」と言えるのか。これは本部員会議で決められことで、世俗化の根源はここに由来しているとしか判断できないと思われます。

 

 

 二代真柱様は、そのお出直し(1967年11月14日)まで、「おさづけの理」を渡し続けただろう。三代真柱は、途中で引退して、「おさづけの理」は四代真柱となった善司様が後継された。真柱の理の重みが次第に軽くなり、「おさづけの理」の後継が世俗リーダーが渡すことが常態化して100年たった。今の真柱様は、数年前に倒られ、半身不随と聞かせていただく。 

 

 

 真柱様が「神なる真柱」の役割を担っていることに、大いなる自己矛盾があり、世俗教団の世俗化が維持され、この道が発展しない構造的矛盾を孕んでいます。 

 

 

 天理教という巨大な新宗教の教団トップである真柱様は、教団内ではもちろん尊敬され、誰もがその声を頼りに、指導を仰いできた。

 四代目は三代目から真柱の理を継承してこられたが、それは本当に喜びの仕事としてこられたなら、倒れることもおありにならなかっただろう。ご自分の前生が何かを知り、今の立場にたてたことを真から喜べたら、事情は解決するに違いないが・・・。  そうしたことを諭せるのは、存命の教祖だけである。 

      

 

  諭達には東大出身の頭のいい方によって教義の面で立派がことが書かれています。しかし、それは刻限話とは違うことは理の上から明確です。  おさづけやおたすけの前に、理の仕込みが全く欠けてしまっていることに誰もが自覚しはじめているでしょう。 片だよりの中、迷走が続き、教義の教条化、時代遅れの体制維持に堕してしまっているかも知れません。 

 

真柱様に諭せるのは神様だけです。善兵衛さんが月日の社を受入れ、真之亮さんが本席様から諭されたように。この道の根本構造は、「裏は鍛冶屋に表は大工」。この2本柱の構造が神人一体の天の組織づくりを構成します。おさしづ役を失った地場の悲劇が一日も早く終わりますように。人類に責任ある地場の復興を目指します。

 

 

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 教祖の直弟子である桝井伊三郎(1850-1910)さんは、教理に明るい人で、本席様の刻限の御用に側でも務めた人で有名です。明治43年6月に61歳で出直されています。 この方の四男?に桝井孝四郎(1894-1968)さんがいて、「おさしづ」の編集に関わった方がいます。「おさしづ」の研究家でもあります。この方の父母の時代が教祖の肉声にふれた世代で、教祖と対面された方々の話をたくさん集めていました。

 

 その桝井孝四郎著『みちの秋』(道友社、1937年)でおさしづの編集出版に関わる思い出を書いている。この書籍の中で、教祖のことも実は書かれていて、あまり知られていない史実も記載されているので、紹介します。

 

 桝井孝四郎 著『みちの秋』,天理教道友社,1937.11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1873645 (参照 2026-02-17)

 

 教祖の肉体を利用して、神様が話をされる現象があり、これは刻限と言われている。天保9年から、亡くなるまで何度も繰り返しあった神秘的な現象である。神がかりの時は、普通に話しているときとは明らかに異なる音量、音質で、中山みきとは別の人格の者が語っていることを周囲に納得させるための現象であった。  

 本席様の時代は、筆取りの制度があり、筆記されたものが「おさしづ」と呼ばれて膨大に残された啓示録であり、分量的には、教祖時代よりはるかに多い。 教祖の音声による刻限話は、ほとんど筆記もされず、周囲の人たちの記憶に残されるだけで、どこまで正確に記憶されれているかは実は曖昧であり、口伝とかで言い伝えられている。 

 

 孝四郎が母から聞いた話として、以下のものを紹介する。

 

 「御教祖様は上段の間で御休みになって居られる。皆の者はその下の方で、寝まして貰ってゐる。

  静かにしてゐないといけないと云ふので、恐れ言ったことであるが、中には寝てゐながら、聴かして貰ってゐるものもあった」(p.38-39)

 

このように聞き流しのままで勿体ないことだが、教祖が寝ている最中に刻限話があったということである。熱心な信徒たちは、教祖の近くで寝ていたこともリアルに伝わってくる話である。

 

 また天啓があったのは教祖や本席様だけでなく、教祖の末女の小寒様も同様な状態だったという。古い高弟たちの間では、「若い神様」「若神様」と呼ばれていたという(p.39)。

 

 また長男の秀司が亡くった通夜の晩に、教祖の肉体を通じて、秀司先生とさらにそれ以前に亡くなった三女のお春様が、語ったこともあったという(p.40-41)。 これは教祖の肉体を神様が借りて、秀司さんや、お春さんが話したという霊媒的な現象である。  お二人の語った内容は以下である。

 

 お春さん「子供がみな帰ってゐるよって、ちょっと私も帰って来ました。」

 

 秀司さん「私は今でも上を思ひ、世界を思ひ村方を思ひして神様の仰る事を止めて来た。どうぞこれから、之を雛型として神様の云う事を守ってくれ。私はこんなになりました。」
 

 秀司さんは、教祖の云うことをもっとも一番聞いて従わねばならなかった人だが、その神様に素直になれず、出直されたことを教訓として欲しいと。秀司さんはまさに真柱的な役割を担った方です。 これは、今の真柱様にも同様に相当する教訓ではないでしょうか。教祖のの周りには多くのマイナスの雛型もあり、それは教訓的に今にも生きる史実です。これらも神様の周到な運びの中から生まれた教訓です。

 

 ご参考までに書いておきます。  

 

今ではデジタルでも見れます。

 

 

 

 

 


 

 

 

鹿野政直(かのう・まさなお)著の『明治維新につくした人』(昭和41年)で、中山みきを取り上げています。明治維新は政治上の一大激変期で、通常は政治家や政治指導者が取り上げられますが、

吉田松陰 ・ 高杉晋作 ・ 坂本竜馬 ・ 中山みき ・ 大久保利通 の5人の中に一人だけ宗教者として取り上げられていました。 早稲田大学で明治期の思想の研究者のようです。参考までに、サイトを掲載します。

 

 

 

政治体制という外形上の大変革期は歴史的にも表面化するので、誰にでもわかりやすいですが、目に見えない精神世界の大激変が、中山みきとう宗教者を通じて世界の歴史が大変革されたという視点が本当は必要です。

 明治維新どころから、グローバル・ヒストリー、宇宙の歴史の大分岐点としての教祖による天啓の開始という視点が、将来歴史家によって記述されねばなりません。 

 

 

  6世紀に仏教が日本に伝来した際は百済から日本の朝廷にもたらされ、聖徳太子や法隆寺ができた飛鳥時代に最初の仏教興隆の頂点が生まれた。その後、7世紀の白鳳時代に寺院建設、仏像の工房が機内にあった。その一部は東国にも伝来し、現存する関東の白鳳佛として著名なのが、深大寺の白鳳仏と千葉県の龍角寺の白鳳仏だという。  
 深大寺の釈迦如来像が国宝となったのは最近で、平成29年であった。

 

 

 千葉県の龍角寺の釈迦如来像の頭部のみが白鳳期のものだという。

 

 

白鳳期の仏像を一同に集めた展示会が奈良国立博物館で平成29年に開催され、深大寺と龍角寺の仏像も奈良で展示された。開館120年で、白鳳期の仏教美術を集めた歴史的な展示だったと思わます。  

 

 

以下、深大寺での写真。深大寺の参詣は無料ですが、白鳳仏の拝観には300円の拝観料がありました。  

 
 
 

 

 

 

 

産経新聞の記事から転載します。

 

 

 平成10(1998)年 6月18日 新真柱の中山氏会見 「これまでの路線を継承」 天理教
 

  天理教の新「真柱(しんばしら)」に就任した中山善司氏(三九)=写真=が、奈良県天理市の教団施設でこのほど記者会見を行った。
  この中で中山真柱は「真柱という立場が父から私に代わっただけで、これまでの方針、路線が急に変わることはない。おやさまがつけた道をしっかりと継承し、先に延ばしていきたい。天理教の百六十年の歴史は『陽気ぐらし』の教えを信じてきた人たちの積み重ね。それが現代の要求と一致するかどうかは分からないが、同じ道を通っていくことが大切」と抱負を語った。
  宗教が問われている課題について質問を受け、臓器移植について「(賛成、反対の)どちらが正しいとはいえない。天理教は人助けの教えを持つが、何をもって助けるということなのか。そこから議論しなければ」と述べた。また、宗教法人法の改正については「必要があれば改正もやむを得ない」との見解を明らかにした。
 同氏は第三代真柱の長男として生まれ、昭和五十七年に立命館大学文学部卒業。在学中に真柱継承者となり、天理教少年会長、青年会長を務めている。

 

  この記事で、「陽気くらしが現代の要求と一致するかどうか分からない」とのご発言がある。歴史的教祖の時代は幕末から明治初期であり、平成時代とはもちろん時代も環境も異なる。その中で、教祖の説かれた陽気暮らしが現代にも通用するのか、本人は疑問を持たれたようだ。140年以上前の教祖の発言は今でも妥当性があるのか、教団のリーダーからのこの発言には、理に対する信仰心の薄れを感じる次第である。

 

 陽気暮らしとか甘露台一条の理想の社会の実現が説かれていましたが、今はトップでもそれに対する信ぴょう性が低くなってしまったかも知れません。

 

 あれから20年たって、ご本人は2018年6月7日に脳梗塞か何かで東京・新宿のバーにて容態変化。何ごともなかったかのように、同年6月の月次祭は大亮氏が祭主となったという・・・。

 

 2019年?の正月の天理時報でも、お顔は出ず、発言も全く聞かれなくなり、末端の教会長からはリーダーの不甲斐ない姿に不満が出ているそうだ。 

 

 2025年の正月の天理時報では、真柱ご夫婦の写真が出ておりました。2024年の秋の大祭でも短いですが、神殿講話されました。ご本部のおつとめの人衆として参加はできないそうですが、つとめ中は横から拝見しているとのことです。リハビリされて何とか歩けるとのことです。 

 

 

 

 おやさまがつけた道をしっかり継承するというが、それは歴史上の教祖であり、無形の教祖ではない。 ここに理の源泉を失い、低迷している根本要因があるのではないでしょうか。 高齢化とか人口減という外的要因で済まされる問題ではなく、信仰の根本が問われております。  節とは地場の事情です。100年以上、事情中の地場です。  上田奈良糸様のお運びが出来なくなったという地場の事情が今も続ているのです。 真柱様の身上も天理教の大きな大きな節です。 

 

 本席様が存命の教祖の声を代弁されていた史実を振り返り、存命の理を体現した『おさしづ』がなぜ続いたのか、その説かれたこととは何かを調べる必要があると思われます。 100日さしづの意義が問われます。  なぜ10年先の預言が残されたのか。

 

 『おさしづ』を研究すれば、理の後継の課題がおのずから浮かびあがります。  

 

 「真柱を呼んでこい」というお声を出す方は誰なのか。明治20年の本席定めの際の飯降伊蔵さんの大音声は、誰からの声だったのか。伊蔵さんに肉体を貸している誰か? また誰が飯降伊蔵の肉体を借りて、発話されているのか。飯降伊蔵ではない、飯降伊蔵がかたっている。  無形の理を語る、存命の教祖の声だと分かるな否かが、問われます 

 

 今再び、その声があなたに届いたとき、あなたならどうするか?  足元に大きな理をみる。

 

それが聞けなかったら、寿命を継げるか否か?。  神様のかしもの・かりもの理が今に生きます。

 

ひとこと話はひのきしん においばかりをかけておく

むりにこいとはいはんでな いづれだんだんつきくるで

むごいことばをだしたるも はやくたすけをいそぐから

 

 

  

  

 

 

 

 

Twitterで、盛んに教会本部の体制に体験的な立場から批判されているお方が語っていること https://twitter.com/toku_Music1234

を拝見しました。  なお、2022年3.22. 現在では、この方のツイッターのアカウントは削除されていました。

 

 読んでいて、私も悲しくなってくるような内容でした。本部の史料掛を若い頃はされて、天理教の機関紙・書籍などを発行している道友社にご勤務で、病気から退職された50代から60代くらい、山陽大教会系の用木(ようぼく)の方のようです。 貴重な資料を道友社に送ったのに、邪見な扱いを受けて、これまでたまった憤りが切れてしまって、2020年8月7日から告発を始められたようです。

 天理教内での著名な布教師の裏話、殺害事件、本部員の子供の不祥事から、今の真柱様が「おさづけ」を本通り自らされなかった秘話など、生々しい話が多く、嘘ではないと思われました。  10年前の自教会での本人を含めた集団写真もあって、笑えました。そこまで露出されなくても・・・。大変正直なかただと思いました。 「理を立てなくても、生きている。」 その通りです。 2000万円のお供えもされたりっぱな方です。 

  多くの問題を提議されておりますが、真柱がおさづけを取り次ぐことの正統性に関する疑義が一つの問題として提議されていて、これは天理教の救済の中核を問う、重大な問題だと思われます。

 

 山本利雄先生(医学博士、江戸分教会長、今は故人)に直接質問された答えは、「存命の教祖が真柱様の背後におられることを信じること」という優等生的な答えでした。

 歴史的には何度か書かせてもらいましたが、再度繰り返します。

 大正7年の茨木父子が本部員を免職の翌日、上田奈良糸様におかれて、おさづけが出来なりました。本部員会議で、中山家の御母堂様が、渡しはじめました。 その当時、この一件に教内から批判はなかったのでしょうか? おそらく疑義はあったと思われますが、かきけされたことでしょう。 こうして、人間一条の体制が築かれてしまったことに、今や多くの方々、特に本当の教祖を求める人たちが疑問をもっても当然のことです。  

 

 この方も、教祖の言われたことは正しい、まともな天理教の優しい会長夫婦もいることを認めながら、今の体制が許せないということのようです。 このような方々は決して少数派ではなく、氷山の一角としてマグマのようにたまってきていることが、今のコロナ禍で浮き彫りになってきたようです。  

 

 本部は片頼りという、茨木さんのお詞もありました。 

 

 私の祖母も大金をお供えして、最後は天理教は辞めろとの遺言を残しました。叔父さんもかなりの大金をお供えして、娘を助けてもらえず、私が参拝した時に、こんな神様の社はいらないと私の目の前で、階段の下に投げ捨てました。  そのおじさんは、すぐになくなることもなく、天寿を全うしました。  

 

 天理教の教団体制の維持には高額な資金が財政が必要です。高額な寄付で救済が進展して勢いのあった時代はかつての栄光であり、今では目立ってはいないでしょう。それでも、集金体制は温存されていて、旧統一教会と似た構造があるのではないでしょうか?

 

 安倍首相の暗殺の背後にある宗教教団への敵意という報道があった時、奈良県でしたので、かなりの人が、天理教ではないかと危惧したものです。 (2022年8月22日 補筆)

 

  亡き父も若い頃、今から70年以上まえ、どこかの教会をまかされそうになったようですが、本部の体制を見て、辞めました。そして、その決断は良かったと言っています。30年たって、その当時の知り合いの若者が本部で暗そうに仕事をしているのを見て、行かなく良かったと・・・・。彼に声掛けはしかなったようです。 

 

  天理教の中にある家柄主義から、古い信仰の家柄が優先される、中山家の血筋が優遇されていることは外部からよく見えます。 経営学的にはダメなファミリービジネス(同族企業)と似ています。

 

 また30年ほどまえ、英語の達者な本部の先生がT大学の先生に天理教団を盛り上げる方法はございませんかと尋ねている光景を見たことがあります。その先生は天理教の研究で学会賞もとられた有名な先生ですが、信仰者ではなく、道徳やゆるい神観念には惹かれるような観念の持ち主でした。

 彼に聞いても、何のいいアイデアがいただけるわけではありません。世の普通の学者先生には謝礼が行くだけで、来てもらったことで教会本部に権威が少しつくだけです。  

 カメラでこっそり、「かぐらづとめ」の写真を撮ろうと失敗したと反省したこともある素直な先生です。 

 S先生には第一、神様への、理の信仰も全くない方です。そのような方にアドバイスを求める教団幹部に私はその時、失望しました。

 

 そのご本部の幹部のI先生も今は、御身上で動けなくなっておられるようです。 

 

 私は、幸い、60歳近い年齢ですが、今もこうして入力をさせてもらっています。 いつまでも元気かは、肉体はかりものなので分かりません。ただ元気なうちに、理とは何か、教祖のメッセージは何かを求めて参りたいと思います。 

 借りている肉体を真から喜ぶこと、これが第一で、神様を直接感じれる日々です。  

 無理なお供えはしませんし、自分のできる範囲でさせてもらっています。  

 

 形の天理教では教えが形骸化して、教えを食い物にして、本当に宗教教団に成り下がっていていたり、世間の常識以下のことが起きているとしたら、それは許されません。  

  

 

  

 

 

 

 

 

『高安大教会史:上巻』(昭和2年)に沿って、松村家の信仰について整理してみよう。

 

明治2年 さく子の妹、小東松枝子、中山秀司へ嫁ぐ。 さく子お地場へ。 栄治郎の次男、亀次郎が出生。

明治3年 秋頃、 さく子、「たちやまい」、医師5名から死の宣告。

明治4年 正月二日 さく子、平等寺村の小東家に引き籠り療養。

      正月十日 お地場へ。教組より頭の虱(しらみ)などを取ってもらい、入浴。教組よりの御話。お願い勤めする。3日目に霊救あり。松村一家の信仰の始め。

      栄治郎は、淀県庁第15区の連合戸長を拝命。

明治5年 さく子、盆の藪入りに地場に参拝、帰路平等寺村に立ち寄り、「おこり」を病む。神の霊救で全快。

      教祖が、松尾市兵衛の長男の病気で来訪、平等寺村の小東家にて3日間滞在。

明治6年 さく子の父、小東政吉氏が出直す。

      10月21日 中山松枝子、松村家へ来る。

明治7年 9月4日 栄治郎、地場へ参詣、平等寺村に立ち寄り、7日に帰宅。三男、五三郎の出生。

明治8年 4月25日 中山秀司、来宅し、翌日、大阪へ出発。

明治9年 4月21日 さく子、地場へ参詣、

      6月9日 中山秀司ほか1名、来宅、翌日に帰宅。

      11月23日 次女のすて子出生。

明治10年

 

  ・・・・・・(作業中)・・・・

 

 

・小東家と中山家をつないだのは、小東政吉の内室のとみ女。とみ女は、龍田村の勘兵衛の奥さんは「言上の伺い」を許されていて、龍田は信仰の拠点となっていた。とみ女は、勘兵衛宅に伺い、救われた。松枝は縁談を断ると身上となった、何回と繰り返されて婚姻となった。 小東家は平群地方の一流の旧家、資産家だった。 小東政吉は法隆寺斑鳩御所の名目金を地方人に貸し付けていた。取り立ても厳しく、巨利をおさめた。3人の男児はいずれも身持ちが悪かった。

  「小東の家は無理がしてあるから、何度改革をしても家が潰れる」との教祖の仰せ[p.34]

  小東家没落の予言が、おふでさきの最後「びよさま、びよさま、このはなしあいづたてあい」

 小東政太郎の長女小玉。前川菊太郎に嫁したが不縁となり、大県大教会長の幾太郎氏に再嫁し、6人の子女、小玉女は教祖の母親の因縁である。

 

 さく子は、教祖四代前の母の生まれ替わり、栄治郎は四代前の叔父である[p.36]

 

<中山家と松村家、小東家などの系図>

 

 

 

 

 

 

 関東地方にひろがった天理教の教会について、研究のために掲載します。 大教会はあまりHPを持っておらず、デジタル化の遅れはどうしてなのでしょうか。  

 

高野友治『天理教伝道史 : 一調査資料として 7 (関東地方篇)』天理教道友社, 1968年

目次―関東地方篇―
    一、序―関東における道のはじまり/p3


    二、東京真明組(東系)の伝道/p10
    1 東大教会/p10       台東区東上野5丁目3番14号
    2 浅草大教会/p32     足立区梅田6丁目2番28号
    3 日本橋大教会/p46    品川区東五反田5丁目25番1号
    4 牛込大教会/p53     新宿区高田馬場4丁目4番32号
    5 深川大教会/p63     葛飾区四つ木5丁目2番5号
    6 立野堀大教会/p71   埼玉県草加市稲荷2-29-23
    7 阪東大教会/p76     群馬県前橋市表町2-23-11


    三、遠江真明組(山名系)の伝道/p84
    1 埼玉分教会/p84
    2 夷隅分教会/p89
    3 八王子分教会/p92


    四、天竜講(郡山系)の伝道/p94
    1 高座分教会、御所見分教会/p95
    2 座間、木水、桑都、銚子港各分教会/p98
    3 水戸分教会/p102
    4 中央大教会/p104
    5 南総分教会/p109


    五、斯道会(河原町系)の発展/p112
    1 岳東系
    A 小田原分教会/p112
    B その他の岳東系/p115
    2 秦野大教会/p116  神奈川県秦野市文京町5-16
    3 秩父大教会/p122  埼玉県秩父市野坂町1丁目2番26号
    4 日光大教会/p125   栃木県日光市御幸町523
    5 都賀大教会/p132  栃木県小山市大字間々田792-10
    6 中根大教会/p142  栃木県小山市城山町1丁目6-3
    7 那美岐大教会/p150  栃木県佐野市堀米町1645
    8 東中央大教会/p154  東京都渋谷区神宮前 5-14-2  


    六、天地組(北系)の伝道/p158
    1 麹町大教会/p158   北区滝野川1丁目86番1号
    2 綿江大教会/p164    千代田区神田錦町1丁目11番地
    3 大森町大教会/p169   大田区大森西4丁目4番10号


    七、高安大教会系の伝道/p173
    1 東本大教会/p173   墨田区本所1丁目13番17号
    2 本保大教会/p179   八王子市暁町1丁目37番11号
    3 本芝大教会/p184   東京都港区高輪1丁目22−17

 

    高野著にない大教会。

    本理世大教会   新宿区西落合1丁目9番1号 

    本荏大教会(ほんえ)  品川区大井2丁目5番17号

 

    4 本愛大教会/p189  名古屋市中村区大宮町1-60  なぜか名古屋?  

      

 

 

    5 都大教会/p192   東京都練馬区大泉学園町6-18-26
    6 東竜、東明、東日各分教会/p196


    八、その他の系統の伝道/p200
    1 兵神系―神本分教会/p200
    2 南海系/p201
    3 敷島系/p203
    4 江戸分教会/p203
    5 平安系/p204
    6 八木系/p206

 

 <分析> 東京都内には天理教の大教会が多くあり、東京真明組(東系)の東大教会(あずまだいきょうかい)系統、天地組(北系)、高安大教会系がその大半であることがわかります。北の系統として、3つの大教会があることは注目に値します。  茨城県・千葉県には大教会がない。 東京の伝道に関しては、早田一郎(天理教文献室)さんが詳しいです。

GT天理-154 (tenri-u.ac.jp)

また、都内の大教会について、婦人会総会の行事案内が役立ちました。

【東京教区】 会員決起の集い会場一覧 | 天理教婦人会 (tenrikyo-fujinkai.org)

 

 中山家と親せきであり、教会本部の政治面、庶務面で多大な功績を残された松村吉太郎さん。1867-1952の在世で、85歳の長命をいただいている。本人はその自伝で、自分の親族がみな短命だったことを告白している。弟や妹たち、自分の子供たちにも先立たれた。 吉太郎は長男で、次弟は亀次郎、妹のすて、三男は五三郎、四男は隆一郎。『道の八十年』によれば、以下のように出直されている。

 

  アイ子:長女、明治5年出生、明治7年6月4日に出直し [高安大教会史:上巻の年表より]

 亀次郎:郡山大教会の増田家に養子。明治38年1月に出直し。

 すて:芦田家へ。明治39年1月出直し。

 五三郎:芦津大教会の井筒家へ養子。大正8年11月8日に出直し。

 隆一郎:大正4年から高安大教会の第四代会長、大正6年9月2日に出直し。

 

本人はそのことを少しも不満に思うこともなく、中山家も同様であったことを語る。教組(おやさま)も秀司さん、こかんさんといったもっとも頼りにした子供たちが先に亡くなった。唯一孫の、たまへさんが残ったということである。  

 松村吉太郎の父は、松村栄治郎さんであるが、その父もかなり早く、吉太郎が23歳の時に出直された。松村栄治郎さんは、明治22年11月6日に48歳で出直された。 その出直す直前に、本席様から「おさしづ」をいただている。亡くなる5日前に神様からいただいたことばである。これはどういうことなのか、疑問に思い、その理を探求してみたい。

 

明治22年11月1日(陰暦10月9日)  松村榮治郎身上伺 

 

「・・・細い道は通りよい、往還は通り難(に)くい。細道は心に掛けて通るから通れる。往還の道は通り難(に)くい。世上では往還の道という。・・・」

 

 天理教が社会的に布教をしやすいように、国家から公認の認可が必要で、そこに奔走した松村吉太郎氏であった。その父も同様に、教祖時代から世間的に批判をあびている信仰集団を何とかしようと思っていたことだろう。 だが天理教の歴史は、迫害弾圧があった時ほど、逆に進展しているのである。社会との軋轢を乗り越えながら、その存在感を世界に示して広がっていった。

 往還道とは広い道であり、多くの人が利用できる。地方のスーパーならレーンが広く、ゆったりと商品を見れる。しかし都内のスーパーはレーンが狭く、渋滞しがちで、通過するにもストレスがかかる。これが細道のことである。 細い道は、注意して通らないとほかの人に迷惑になるので、より意識して通らねばならない。

 大正期には監獄にも入った松村氏であり、娑婆に戻ってさらにその地位を上げた人物である。 広い道をつくることに貢献した人生であったが、細い道が本当は良いというのが神様が思惑である。 よりつらい困難な道でこそ、魂は磨かれて、将来への土台が築ける。

 出直す直前に、松村榮治郎の大きな功績を認めつつ、神様はこの道の根本的な在り方をここに諭されている。 形が大きくなってくると、そこに安住してしまい、恵まれた環境に心がウカウカしてまう。そこに神様からのかしものかりもの守護を忘れて、何でも人間の力でやってきたと勘違いを起こしてしまう。 形や数字に目が奪われ、形の奥にある神様の心が見えなくなる。 感謝や喜びの心がだんだん薄くなり、道を知らない以前へと後退した境涯へと落ちていく。  

 仏法的いえば、この道は形を支配する神への絶対他力の信心が趣旨である。また同時に心自由であるなかで、己の心の在り方で、心の決断と創造性で、心通りに守護され、自他の世界が変わるという意味で自力の面が本当は強いのである。