数多くの宗教や信条がある中で、天保9年(1838年)に大和の寒村における農家の主婦から始まった天啓の言葉が人類で最初の神による発言だという独立した信仰の伝統ができて、今年で184年。教祖(おやさま)、本席と神の詞、天啓が70年間継続した。その後、教会本部からは啓示者はいなくなったとしても、神の詞は連綿として続いて今に至る。神様には伝えたいことがあり、神様のあることを知ってほしい。これが全人類に掛けられた思いであるが、受け取る側の人間には心の自由があり、直ちに天啓の言葉を信じる人は皆無である。 目に見ない神様を誰も信じない。 幻想・空想としての神、宗教はアヘンだという有名な言葉もある。 神様はそのことも良くご存知であり、分かったもの少数の人間たちにその声を発信し続ける。
今あるコロナ感染の世界的な苦境も神様による巨大な仕込みで、掃除の理がかかっている。神様が望む新しい世界へと切り替えるための巨大な仕込みである。目に見える世界は苦境に溢れている。身近な感染者の拡大、変異種の増加、オリンピック開催の中止論の高まり。海外ではパレスチナ問題の悪化、ミャンマーの弾圧、アフリカ・中近東での紛争と飢餓、温暖化などの環境問題、米中対立の深刻化など日々のニュースでは明るい話は少ない。 各宗教団体でもソーシャル・ディスタンスをとるため、蜜を避けるため、ミサも行事も中止、教会にくることが禁止されたりと。 自殺者は増えており、格差も拡大している。セーフティ・ネットから漏れ堕ちている人への救いが社会問題化している。
このような中でも日々に私たちは生きている。生かされている。貸しもの・借り物の肉体を結構に使わせて頂ているという根源的事実に目がいかないといけない。困難であるときと程、真実とは何かが啓示の言葉から照らし出される。
「みかぐら歌」二下り目に
「九ツ こゝろをさだめゐやうなら
十デ ところのをさまりや」
どこの天理教の教会でも毎日勤めている「おつとめ」の地歌の一節である。
こころとは、人間の自由な心のことである。喜ぶ心、悲しむ心、焦る心、不安になる心・・・・人間の数だけ心の習慣も違う。親子でも、文化の違いでも心の在り方は幾千と違う。 その中で、心を神様の心に合わせる。神様の心に定める。 これが信仰心の核心的なところで、神様を知った心とそうでない心の分水嶺となる。 自由な人間の心が、ある方向に決断する、決定する。
神様の心は、万人の陽気暮らしの実現であり、そのために人間世界を創造し続けている。肉体は神の貸しもの、借り物であることを根本的に諭されている。 すなわち有形の世界、形の世界はすべて神が支配しているという真理が最初に来る。 形の世界を神様が見せている。その形の世界は「これでよいか」と神様は常に人間に問うている。 この形の世界は神様が一方向的に支配しているのではない。
心通りに守護されている。 これが根源的な第二の真理である。 人間の心に合わせて、現実の世界が起きている。人と人が出会い、結婚し、子供を作ってと人間が望むように神様は守護されている。 しかし人間が望む形がすべて与えられているのではない。それが、貸しものの真理である。形の世界は神様の支配下にあり、神様が治めている。
そこで人間はもっとよりよい形を望む。そこに神様の心に自らの心を定める必然性が出てくる。 人間の心が神様の心に沿ったなら、即、その形が与えられる。これが「ところの治まり」である。過去の形も、今の形も、未来の形も神様が与える。それが「ところのおさまり」だという。 最新の神様の御啓示からの私なりのつたない解釈である。
コロナ禍はなおもやみそうにない。これは神様からの大きな仕込みであり、神様がされることに不足はいらない。なってくる形の世界に心を合わせ、大きく深く形の世界の奥にある神様の心を信じていきたい。
人間は生きている。生かされている。このことを信じて、絶対的自由の道へ。人間に与えられた自由の心を存分に使っていきたいと思います。 合掌







