天理教は新興の宗教として、特に伝統仏教、真宗教団から目の敵にされた時代があった。
明治27年には以下の批判書が出てている。教祖亡き後、6年の間に200万人も信徒が増えた。位牌を捨てたり、檀家の突然の改宗が大量につづき、他の教団には大変な脅威だった。
同じ明治27年には天理教も含めて、十一個の淫祠宗教を批判した以下の書籍も出ている。
伊東洋二郎『淫祠拾壱教会』其中堂、明治27年9月
また明治29年には教祖十年祭が施行され、多くの信徒が奈良県の三島村の天理教教会本部の祭典に集まった。その数は以下の書籍によれば、25万人だという。また当時は天理駅は無かったが、法隆寺駅から利用者が19,822人もいたことが驚異的に書かれていた。
天理教大断案 : 公平評論
本書はかなり公平な立場から天理教を宗教として認めながらも、愚民を惑わす野蛮宗教だと断罪して、国民を啓蒙することを目的としている。仏教やキリスト教など伝統的に歴史ある宗教からすれば、新しい新興宗教に対する警戒感と脅威からこのような天理教批判があり、反対討論会なども開催されていた。 法蔵館から出版であり、今でも存続する出版社だ。
教祖が明治20年に「御身を隠されて」から数えで10年目であるが、この間、急速に信徒が増加していた。明治29年の信徒数は、辻井正和先生の統計資料などによる以下の研究によれば、313万人である。
https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3647/OYS000106.pdf
この統計によれば、最大で800万人の信徒がいた時代もあった。 明治21年4月に神道事務局から教派神道の一つとして認可され、天理教は公然と明治政府の管理下の中で、公認宗教となった。
とは言え、新興の教団には問題が山積している。
外部者からは客観公正に批評していると思われる本書は、今の時代において、よく読むと多くの誤解と間違った情報に基づいて書かれていることがわかった。
修験者や山伏を集めて教師として、布教を広げたことが書かれていた。これは史実なのか? 普通の教会の大教会史を見ても、初代の苦労が書いてあっても、山伏に布教を依頼したことは書かれているのを見たことがない。
また教祖の人格も最低なことが書かれていた。三島の古老からの伝聞と書かれていたが、その古老の言い伝えもひどいものであった。
十柱の神による人間世界創造の説話の「こうき話」と八つの埃の教説が天理教の教理の根幹で、これらも批判されていた。「天理教退治」でも十柱の神への信仰がもっとも批判されている。 たとえば、古事記にない神として、くもよみの命、たいしょく天の命がいるからである。教団も明治21年の認可の際には、これらの神々の名称を修正して認可をもらっている。
「泥海古記」については、渡辺優先生(東大准教授)の優れた最新の論考(2021年3月)も発見した。
https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/4685/GKH025603.pdf
こうき話の歴史的解釈を概観し、二代真柱の教学を批判的にとらえながら、民間信仰と天理教の教理を架橋する物語として、裏守護の意味を再考すべき論旨であった。優れた論考である。 高い求道心と学知を備えた新進気鋭の天理教学者である。
仏教と天理教の関係に関する教祖のお歌の実在は、すでに以下で論じた。 渡辺先生は山田伊八郎文書に「半牧のお筆先」に関連したことを教祖が説かれたこと興奮気味に紹介しているが、高安大教会史にも掲載がありますの、ぜひご覧ください。

