シャガは色合いとか結構好きです。
確か2月頃だと思いますが、ブログに載せる花がほとんどなかったときに、シャガが咲いてるのを見つけた夢を見ました。
「なんだ、もう咲いてるんだ」とか思ってました(笑)。
2ヶ月はえーよ(笑)。
まあ夢の中なので、たとえ金木犀だったとしても気付かなかったと思います。
さて、今週の記事についてです。
タイトルは「バプテスマの後もイエスに従い続ける」でした。
ちょっと思うんですが、「イエスに従う」と「イエスに倣う」って、結構違うんじゃないかなあ。
今回の記事は、その辺が完全にごっちゃになってるように感じました。
イエスに従うってのは、イエスが言ったことを守るってことで、基本的にしなければならないことは第一と第二の掟に集約されるんだと思うんですよ。
神を愛することと隣人を愛すること。
でも、イエスに倣うとなるときりが無い。なんせ、イエスは文字通り命まで差し出しましたから。
でもねぇ。
アブラハムは確かに模範かもしれませんが、アブラハム以降誰一人として、子供を犠牲にするようになんか求められてないじゃないですか。
同じように、イエスと同じことをするなんて、そもそも求められてないんじゃないかなぁと思うわけですよ。だいたい私の命に贖いとしての価値なんかありませんし。
それなのに、一世紀当時に生きていた弟子たちへの命令と絡めて、現代でもあれもこれもイエスのように行えと言っている。
イエスはそんなことを現代の人に命じてないと思うんですよ。
顧客から依頼されてないことを、どれだけ誠実かつ熱心にやったとしても給料は出ません。
同様に、イエスが命じてないことを、あれこれ犠牲にして一生懸命やっても報いはなさそうです。
んじゃ突っ込みます。
まず7節。献身とはどういうことかについて。
ここにはさほど異論はありません。
この程度だと思うんですよね。
不完全なりに、できるだけ神に喜ばれる生き方をするようにします、って約束。
で、具体的な内容が8節。
いやいやいや。
これは、献身どうとか抜きにして絶対あかんやつやろ。
続く部分には「誘惑に遭った時,どうしようかと迷うことはありません。」とかあるけど、誰も迷わねーよ。
献身してなかろうが、JWでなかろうが、こんなことする奴は人間としてヤバい奴だけやないかい!
なに?
献身ってこの程度できてりゃいいの?
という疑問を抱きつつ次の実例。9節。
また、ずいぶん落差がありますね。
不倫するかどうかと、集会をたまに休む必要がある仕事に就くかどうか。
片方は人間としておかしいけど、片方はカルト信者以外には何が悪いのか分からないレベル。
なんでこんな「私たちは銀行強盗しません!」って内容の次に「鼻くそのポイ捨てもしません!」みたいな実例を持って来るの?
こうやって、カルトの規則をさも重要であるかのように見せかけるやり方がほんと汚いですね。
次。「従う」と「倣う」をごっちゃにしてると感じたところ。
「イエスに従い続けるには」の副見出しから。
11節。
これはイエスに従ってるんじゃなくて、イエスに倣ってますよね。
しかも、またすり替えられて、「イエスは宣教に励んだ」ということが、「JWのやり方で宣教に励む」になってるんですよ。
イエスは「王国福音伝道者のための学校に出席」なんかしてませんし、「伝道者が必要な区域に」引っ越したりもしてません。
もはやイエス関係ないですね。
11節の後半にも
なんて書いてありますが、私はエホバが喜ばれるのは、苦行として宣教を限界まで頑張るなんてことじゃなくて、イエスが命じた2つの掟を守って、幸福に暮らすことの方だと思います。
最後。14節。自問できる点について。
これも、聖書通りのものと、JWの極端なローカルルールが混じってるんですよねぇ。
聖書の基本的な理解とか、神を信頼して祈るのは良いことだと思いますよ。
でも、宣教を楽しむのは人それぞれで良さそうですし、集会への定期的な出席なんかどうでもいいことです。
最後の「良いコメント」なんか、心底どうでもいいことですよ。
勝手にやってろ。
こうやって聖書の内容に添加物を混ぜ込んで、あたかもJWの基準が聖書の基準であるのように思わせるのは、本当にやり方が汚いと思います。
今週は以上です。
そうそう先週のブログタイトルは日付が間違って月曜日になってました。そのうち気が向いたら直します。