さつき


もしくはつつじ。

まだ見分けつかないんですよ。
前に調べた時、私はさつきとつつじを逆に覚えていたっぽいことがわかりました。

もし、その基準があっていれば、これは私がさつきだと思ったのでつつじが正解らしい(←却って分かりづらい)。



さて、今週の記事についてです。 
いきなり突っ込みますが、そもそも「エホバ​の​ため​に​生き​て​いき​たい」って考えが間違ってると思うんですよ。

例えで考えてみます。
自分が子育てのエキスパートだったとします。

数々の子供を見た経験から、子供の才能も潜在能力も把握できます。だから子供がサッカーに向いてるのか、野球に向いてるのか、はたまた水泳か、楽器か、何をやったら成功できるか分かっています。


そこで、水泳に向いてる子供がいたとします。
水泳をやらせれば、ぐんぐんタイムも上がり、将来はオリンピックメダリスト確定という才能があります。しかしそれは5歳までに始めたらという条件付きです。
でもその子はもうすぐ5歳になろうと言う時に野球に夢中です。
残念ながらこのまま野球を続けても高校球児としての成功はできそうですが、プロとしてやっていくのは無理という将来が自分には分かります。
その時に親としてどうするのが正しいでしょうか。
「お前は絶対に水泳が向いている」と言って、野球をやめさせて水泳をやらせるでしょうか。
ここで「はい!それが子供のためです!」と元気よく答えたら120%毒親なので猛省が必要ですよ。
自分が好きでもないことをやらせても楽しくないし、楽しくなければ上達もしないんです。無理やりやらせても才能は開花せずに終わるでしょう。

じゃあ、ピアノに才能のある別の子供が、親に丸投げしてやる気もなく、口半開きで「お父さんの言う通りにするよ。何やったらいい?」って聞いて来る子供だったらどうでしょうか。
これ幸いと、ピアノの英才教育を施しますか?
それだとやはり才能は開花せずに終わるでしょう。
なぜか?
やはり自分で選んでないからです。
自分で「やりたい!」と思ったからこそ、やる気が出ますし、成長もするんです。言われたからやる、じゃあダメなんですよ。

私は「エホバ​の​ため​に​生き​て​いき​たい」って考え方は、この口半開きでやる気のない子供と同じに見えるんですよ。

神は「自由意志」を与えたんです。
それは、「自分で好きなことをしてごらん」って言ってるってことです。
だったら子供としてやるべきことは、いろんなことに挑戦して、「これがやりたいっ!」て物を見つけることでしょう。
その時には、才能のあるなしにかかわらず、お父さんも喜んでくれるでしょう。


で、その先。
せっかくだから引用して突っ込みましょう。

主題の聖句から。

「私​は​何​を​し​て​エホバ​に​お返し​し​よう。私​の​ため​に​し​て​くださっ​た​全て​の​良い​こと​に​対し​て」。詩編 116:12


確かにダビデは「何を返せるか」と考えていました。


じゃあ、ダビデは神が必要としているものを何か返したかって言うと、実はなーーーーんにも返してないんですよ。

だって、神は人間に何かしてもらう必要なんかないんですから。

じゃあ、何ができるか。
たぶん「感謝」ぐらいしかないんじゃないですかね。
その感謝を物や行動で表すことも多少ならありかもしれませんが、そのために生きるとか愚の真骨頂だと思うんですよね。

これも例えで考えてみます。
自分は億万長者の父親です。必要なものは全部持ってます。
で、子供にもしっかり教育を受けさせて、社会に送り出しました。
子供がどうなることを望むでしょうか。

普通の親なら、子供が自分で生活をして、家族をもって、幸せに生きてれば花丸満点なんじゃないでしょうか。

で、時々にでも「お父さんのおかげで幸せに暮らせてるな」と思い返してもらったり、それを電話で伝えてもらったりしたら、もう感激で涙を流してることでしょう。(そこまでじゃないかも)


ここで、毛色の違った子供がいます。
社会に出たのはいいんですが、家族にいろいろ我慢させて、自分もろくなものも食わずに、親が喜ぶと思うものを送ってくるんです。
これが、家族に我慢させて、ソフィアにアイスクリームを我慢させて、寄付をさせようとする模範的()なJWの姿です。

親はどう思うでしょうか。

例え欲しいものが送られてきたとしても「おっ、あいつは俺の好みがわかってるな」とか決して思わないでしょう。だって自分が億万長者なんですから、欲しいものはいつでも手に入るんです。そして子供の家族が我慢していることも知ってるんです。

普通の親なら、「無理してこっちになにかしようと思わないで、ちゃんと自分と家族のために金を使え」って言うと思いませんか?

そして、さらに状況の悪化した子供がいます。
普通に暮らしていいのに、なぜか自分で見当違いのルールをつくって我慢しながら生活し、別に必要としてないものを送って来ては、「これだけ我慢して、これだけお父さんに贈り物をすれば、将来お父さんが莫大な財産を相続させてくれるはず」とぶつぶつ言いながら生活している奴です。
これが、大して黙想もせず、組織の言うことを聞いていれば救われると思っている莫迦JWです。

それ、親は全っっっ然喜んでねーから。

せっかくもらった「自由意思」を捨ててっから。

お父さんはきっと「どうしてこんな馬鹿に育っちゃったかなぁ」って頭抱えてっから。


で、「ぜひ献身して、自分のやりたいことは全部諦めて、お父さんの役に立つことだけしましょう」ってこの莫迦JWを作ろうとしているのが今週の記事です。


正直うんざりですよ。


今週の記事に有るように、神のルールは制限じゃなくて、危険から保護するためのものなんですよ。
だから、本当はそんなに厳しくない。
それを重い重い荷物にして、信者に無理やり背負わせようとしているのがJWなんですよ。

まさに現代のパリサイ人ですね。


というわけで私達がやるべきことは、せっかくもらった自由意志を使って、自分がやりたいことを見つけて、楽しく暮らして、幸せになることだけですよ。それこそが神を喜ばせることだと私は信じています。

まあ、その「幸せになる」ために神のルールとか、イエスが言った掟とかが関わっては来ますが、そこさえ抑えとけばそこまで不自由な思いはしません。

余裕ができたら、神に感謝すればいいし、もっと余裕ができたらダビデみたいに何か神に返そうとすればいいんじゃないですかね。知らんけど。

ほぼほぼ全体に突っ込んだだけで終わっちゃいましたが、今週は以上です。