ユキヤナギ。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240405/20/miso-siro/bb/0c/p/o0825108015421899099.png?caw=800)
綺麗ですよね。
多摩川の河川敷で、点々と真っ白に咲いてるのを見ると嬉しくなります。
染井吉野も咲き始めました。素晴らしい季節ですね。
さて今週の記事についてです。
主題は「エホバはあなたのことを心から愛しています」でした。
でもねぇ。
先週と同じ突っ込みになるんですけど、愛しているってだけで、大したことしてくれないんですよねぇ。
いや、してくれてるのかもしれませんが、それがはっきりと分かるわけではない。
もちろん贖いは貴重なものでしょう。
でも、そんな2000年も前に示されたっきりのことに、今でも死ぬほど感謝して、それに命をかけられるってほどまでは、さすがに心に訴えないんですよ。
まあ、私がクリスチャンでなくなっているってことなんでしょうけど。
ここで、こんなことを考える事自体、「神様はもうちょっとしっかり何かしらしてくださるはず」と私が勘違いしていたことの証拠というか、組織のミスリードに乗せられていた結果なのかなぁと思ったり。
であれば、逆に先週や今週の記事のように、神から確実に与えられるものは基本的には「心の平安」だけで、何か他の物も与えられるかもしれないけどそれについては保証されてはいない、というガッカリな結論こそが、実はキリスト教のあるべき状態なのかなぁ、と考えたり。
そんな変な方向に黙想が進んで行っちゃってます。
ほんじゃ、その「神の愛はいまいち役に立ってない」ってことから突っ込みますかね。
4節。
挿絵は赤ちゃんを抱っこしてるおかあさんでした。
前回も書きましたが、「安心」は与えてくれるのかもしれないんですけど、実際的な助けが欲しいんですよ、こっちは。
母親は赤ちゃんの一切合切を世話してくれていますが、神様からそうされてる印象はあまりないんですよ。
もし、そうしてもらってるなら、JWが世の人としている人もほぼほぼ同じだけ世話してもらってることになりますし、世紀の極悪人も同様に世話してもらってることになります。
神様を愛している人に対する特別な配慮は無いんですかね?
無いんでしょうね。
次。
6節。
いや、大切に思ってもらえるのはありがたいですよ。
でも、こっちとしては守って欲しいんですよ。
とりあえずまぶた閉じろ、と。
顔を背けろ、と。
相手の手を払え、と。
「いやー、こいつめっちゃ瞳触ってくるやん!」とか思いながら、そのまま触らせておくなよ。
で、守ってもらえない例が16節。
これも、レイチェルが必要としているのは、できれば「夫が帰ってくること」で、だめなら「安心して生活する手段」ですよね。
それに対してエホバがやってくれたことはと言えば、「愛されていることを実感できるようにしてくださいました。」だけ。
はあー、使えねー。
って言いたくなりませんか?
結局、愛されてるかもしれんし、大切に思われてるかもしれんけど、守られてないのよ。
そう考えると、「神の愛はいまいち役に立ってない」って結論に行き着くんですよねぇ。
この辺は聖書も一般のキリスト教も敵に回すことになるので、これ以上考えないことにします。
さて、後は細かい箇所に突っ込みます。
まず1節。
なんでここで、「イエス」を出さないんですかね?
イエスご自身が「わたしを見た者は,父を[も]見たのです。」って言っておられるんですから、「神のイメージ」を考えるときに真っ先に浮かぶべきなのは、杉浦太陽とか焼き尽くす火とかじゃなくて、イエスであるべきだと思います。
次。
5節。
んじゃなんで、この組織は人をぽんぽん排斥にするんですかね?
しかも、排斥になった根拠が間違ってたと分かっても、謝罪どころか取り消しもしないですよね?
エホバが許しても俺は許さんっ!って思ってるってことですかね。神を踏み越えるとかいい度胸してますね。
9節。
ここ、特出しする必要無いよね?!
同じ節に、
ってあるんだから、それで十分だよね?
最後。
10節。
ここももう納得できなくなっちゃったんですよねぇ。
塩狩峠の話あるじゃないですか。
乗客助けるために、自分が線路に飛び込んで犠牲になった機関士の話。
あれのミニ版を考えてみて。
観光バスに家族全員で乗っててブレーキが故障したとする。外から操作すれば止められるけど外に出た人は助からない。
そこで「よし!長男にやらせよう!」ってなるか?
しかもそれが「一番大切な息子」らしい。
この前も書いたけど、全能者であり、ルール作ってるのが神なんだから、他の手段でバスを止められたんじゃないかとか考え出すと、どうも聖書自体に納得できなくなっちゃうんですよねぇ。
別にキリスト教にも聖書にも喧嘩を売りたいわけではないので、今週は以上です。