シャガ


撮影は4月末でした。
シャガは色合いとか結構好きです。
確か2月頃だと思いますが、ブログに載せる花がほとんどなかったときに、シャガが咲いてるのを見つけたを見ました。
「なんだ、もう咲いてるんだ」とか思ってました(笑)。
2ヶ月はえーよ(笑)。

まあ夢の中なので、たとえ金木犀だったとしても気付かなかったと思います。 


さて、今週の記事についてです。
タイトルは「バプテスマ​の​後​も​イエス​に​従い​続ける」でした。

ちょっと思うんですが、「イエスに従う」と「イエスに倣う」って、結構違うんじゃないかなあ。
今回の記事は、その辺が完全にごっちゃになってるように感じました。

イエスに従うってのは、イエスが言ったことを守るってことで、基本的にしなければならないことは第一と第二の掟に集約されるんだと思うんですよ。

神を愛することと隣人を愛すること。

でも、イエスに倣うとなるときりが無い。
なんせ、イエスは文字通り命まで差し出しましたから。

でもねぇ。
アブラハムは確かに模範かもしれませんが、アブラハム以降誰一人として、子供を犠牲にするようになんか求められてないじゃないですか。
同じように、イエスと同じことをするなんて、そもそも求められてないんじゃないかなぁと思うわけですよ。だいたい私の命に贖いとしての価値なんかありませんし。

それなのに、一世紀当時に生きていた弟子たちへの命令と絡めて、現代でもあれもこれもイエスのように行えと言っている。
イエスはそんなことを現代の人に命じてないと思うんですよ。
顧客から依頼されてないことを、どれだけ誠実かつ熱心にやったとしても給料は出ません。
同様に、イエスが命じてないことを、あれこれ犠牲にして一生懸命やっても報いはなさそうです。

んじゃ突っ込みます。
まず7節。献身とはどういうことかについて。
ここにはさほど異論はありません。
エホバ​に​献身​する​と,自分​を​捨てる​こと​に​なり​ます。つまり,間違っ​た​欲求​を​満たそ​う​と​し​たり,エホバ​を​悲しま​せる​よう​な​こと​を​し​たり​し​ない​と​いう​こと​です。

この程度だと思うんですよね。
不完全なりに、できるだけ神に喜ばれる生き方をするようにします、って約束。

で、具体的な内容が8節。
結婚​し​て​いる​誰​か​の​こと​が​気​に​なっ​て​しまっ​たら​どう​し​ます​か。その​気持ち​を​そのまま​に​し​たり,相手​の​気​を​引こ​う​と​し​たり​は​し​ない​はず​です。

いやいやいや。
これは、献身どうとか抜きにして絶対あかんやつやろ。
続く部分には「誘惑​に​遭っ​た​時,どう​し​よう​か​と​迷う​こと​は​あり​ませ​ん。」とかあるけど、誰も迷わねーよ。

献身してなかろうが、JWでなかろうが、こんなことする奴は人間としてヤバい奴だけやないかい!


なに?
献身ってこの程度できてりゃいいの?
という疑問を抱きつつ次の実例。9節。
集会​に​定期​的​に​出席​する​の​が​難しく​なる​よう​な​仕事​の​話​が​来​たら​どう​し​ます​か。きっと​迷う​こと​は​ない​でしょ​う。そう​し​た​話​が​来る​より​も​ずっ​と​前​に,集会​に​行け​なく​なる​よう​な​仕事​は​受け入れ​たり​し​ない,と​心​に​決め​て​いる​から​です。

また、ずいぶん落差がありますね。
不倫するかどうかと、集会をたまに休む必要がある仕事に就くかどうか。
片方は人間としておかしいけど、片方はカルト信者以外には何が悪いのか分からないレベル。
なんでこんな「私たちは銀行強盗しません!」って内容の次に「鼻くそのポイ捨てもしません!」みたいな実例を持って来るの?

こうやって、カルトの規則をさも重要であるかのように見せかけるやり方がほんと汚いですね。


次。「従う」と「倣う」をごっちゃにしてると感じたところ。
「イエス​に​従い​続ける​に​は」の副見出しから。
11節。
エホバ​に​もっと​仕え​よう​と​努力​し​て​いる​兄弟​姉妹​の​話​を​聞く​こと​が​ある​か​も​しれ​ませ​ん。王国​福音​伝道​者​の​ため​の​学校​に​出席​し​た​人​や,さらに​伝道​者​が​必要​な​区域​に​移動​し​た​人​たち​の​話​です。

これはイエスに従ってるんじゃなくて、イエスに倣ってますよね。

しかも、またすり替えられて、「イエスは宣教に励んだ」ということが、「JWのやり方で宣教に励む」になってるんですよ。


イエスは「王国​福音​伝道​者​の​ため​の​学校​に​出席」なんかしてませんし、「伝道​者​が​必要​な​区域​に」引っ越したりもしてません。

もはやイエス関係ないですね。



11節の後半にも
エホバ​が​喜ば​れる​の​は,あなた​が​自分​の​状況​で​できる​限り​の​こと​を​し​て,精いっぱい​エホバ​に​お仕え​する​こと​です。

なんて書いてありますが、私はエホバ​が​喜ば​れる​の​は、苦行として宣教を限界まで頑張るなんてことじゃなくて、イエスが命じた2つの掟を守って、幸福に暮らすことの方だと思います。


最後。14節。自問できる点について。
「聖書​の​基本​的​な​教え​を​説明​できる​だろ​う​か。どう​すれ​ば​宣教​を​もっと​楽しめる​だろ​う​か。どれ​ほど​具体​的​に​祈っ​て​いる​だろ​う​か。私​の​祈り​に​は​エホバ​を​心​から​信頼​し​て​いる​こと​が​表れ​て​いる​だろ​う​か。集会​に​定期​的​に​出席​し​て​いる​だろ​う​か。どう​すれ​ば​もっと​集会​の​プログラム​に​集中​し,良い​コメント​が​できる​だろ​う​か」。

これも、聖書通りのものと、JWの極端なローカルルールが混じってるんですよねぇ。
聖書の基本的な理解とか、神を信頼して祈るのは良いことだと思いますよ。
でも、宣教を楽しむのは人それぞれで良さそうですし、集会への定期的な出席なんかどうでもいいことです。
最後の「良いコメント」なんか、心底どうでもいいことですよ。
勝手にやってろ。

こうやって聖書の内容に添加物を混ぜ込んで、あたかもJWの基準が聖書の基準であるのように思わせるのは、本当にやり方が汚いと思います。


今週は以上です。


そうそう先週のブログタイトルは日付が間違って月曜日になってました。そのうち気が向いたら直します。

さつき


もしくはつつじ。

まだ見分けつかないんですよ。
前に調べた時、私はさつきとつつじを逆に覚えていたっぽいことがわかりました。

もし、その基準があっていれば、これは私がさつきだと思ったのでつつじが正解らしい(←却って分かりづらい)。



さて、今週の記事についてです。 
いきなり突っ込みますが、そもそも「エホバ​の​ため​に​生き​て​いき​たい」って考えが間違ってると思うんですよ。

例えで考えてみます。
自分が子育てのエキスパートだったとします。

数々の子供を見た経験から、子供の才能も潜在能力も把握できます。だから子供がサッカーに向いてるのか、野球に向いてるのか、はたまた水泳か、楽器か、何をやったら成功できるか分かっています。


そこで、水泳に向いてる子供がいたとします。
水泳をやらせれば、ぐんぐんタイムも上がり、将来はオリンピックメダリスト確定という才能があります。しかしそれは5歳までに始めたらという条件付きです。
でもその子はもうすぐ5歳になろうと言う時に野球に夢中です。
残念ながらこのまま野球を続けても高校球児としての成功はできそうですが、プロとしてやっていくのは無理という将来が自分には分かります。
その時に親としてどうするのが正しいでしょうか。
「お前は絶対に水泳が向いている」と言って、野球をやめさせて水泳をやらせるでしょうか。
ここで「はい!それが子供のためです!」と元気よく答えたら120%毒親なので猛省が必要ですよ。
自分が好きでもないことをやらせても楽しくないし、楽しくなければ上達もしないんです。無理やりやらせても才能は開花せずに終わるでしょう。

じゃあ、ピアノに才能のある別の子供が、親に丸投げしてやる気もなく、口半開きで「お父さんの言う通りにするよ。何やったらいい?」って聞いて来る子供だったらどうでしょうか。
これ幸いと、ピアノの英才教育を施しますか?
それだとやはり才能は開花せずに終わるでしょう。
なぜか?
やはり自分で選んでないからです。
自分で「やりたい!」と思ったからこそ、やる気が出ますし、成長もするんです。言われたからやる、じゃあダメなんですよ。

私は「エホバ​の​ため​に​生き​て​いき​たい」って考え方は、この口半開きでやる気のない子供と同じに見えるんですよ。

神は「自由意志」を与えたんです。
それは、「自分で好きなことをしてごらん」って言ってるってことです。
だったら子供としてやるべきことは、いろんなことに挑戦して、「これがやりたいっ!」て物を見つけることでしょう。
その時には、才能のあるなしにかかわらず、お父さんも喜んでくれるでしょう。


で、その先。
せっかくだから引用して突っ込みましょう。

主題の聖句から。

「私​は​何​を​し​て​エホバ​に​お返し​し​よう。私​の​ため​に​し​て​くださっ​た​全て​の​良い​こと​に​対し​て」。詩編 116:12


確かにダビデは「何を返せるか」と考えていました。


じゃあ、ダビデは神が必要としているものを何か返したかって言うと、実はなーーーーんにも返してないんですよ。

だって、神は人間に何かしてもらう必要なんかないんですから。

じゃあ、何ができるか。
たぶん「感謝」ぐらいしかないんじゃないですかね。
その感謝を物や行動で表すことも多少ならありかもしれませんが、そのために生きるとか愚の真骨頂だと思うんですよね。

これも例えで考えてみます。
自分は億万長者の父親です。必要なものは全部持ってます。
で、子供にもしっかり教育を受けさせて、社会に送り出しました。
子供がどうなることを望むでしょうか。

普通の親なら、子供が自分で生活をして、家族をもって、幸せに生きてれば花丸満点なんじゃないでしょうか。

で、時々にでも「お父さんのおかげで幸せに暮らせてるな」と思い返してもらったり、それを電話で伝えてもらったりしたら、もう感激で涙を流してることでしょう。(そこまでじゃないかも)


ここで、毛色の違った子供がいます。
社会に出たのはいいんですが、家族にいろいろ我慢させて、自分もろくなものも食わずに、親が喜ぶと思うものを送ってくるんです。
これが、家族に我慢させて、ソフィアにアイスクリームを我慢させて、寄付をさせようとする模範的()なJWの姿です。

親はどう思うでしょうか。

例え欲しいものが送られてきたとしても「おっ、あいつは俺の好みがわかってるな」とか決して思わないでしょう。だって自分が億万長者なんですから、欲しいものはいつでも手に入るんです。そして子供の家族が我慢していることも知ってるんです。

普通の親なら、「無理してこっちになにかしようと思わないで、ちゃんと自分と家族のために金を使え」って言うと思いませんか?

そして、さらに状況の悪化した子供がいます。
普通に暮らしていいのに、なぜか自分で見当違いのルールをつくって我慢しながら生活し、別に必要としてないものを送って来ては、「これだけ我慢して、これだけお父さんに贈り物をすれば、将来お父さんが莫大な財産を相続させてくれるはず」とぶつぶつ言いながら生活している奴です。
これが、大して黙想もせず、組織の言うことを聞いていれば救われると思っている莫迦JWです。

それ、親は全っっっ然喜んでねーから。

せっかくもらった「自由意思」を捨ててっから。

お父さんはきっと「どうしてこんな馬鹿に育っちゃったかなぁ」って頭抱えてっから。


で、「ぜひ献身して、自分のやりたいことは全部諦めて、お父さんの役に立つことだけしましょう」ってこの莫迦JWを作ろうとしているのが今週の記事です。


正直うんざりですよ。


今週の記事に有るように、神のルールは制限じゃなくて、危険から保護するためのものなんですよ。
だから、本当はそんなに厳しくない。
それを重い重い荷物にして、信者に無理やり背負わせようとしているのがJWなんですよ。

まさに現代のパリサイ人ですね。


というわけで私達がやるべきことは、せっかくもらった自由意志を使って、自分がやりたいことを見つけて、楽しく暮らして、幸せになることだけですよ。それこそが神を喜ばせることだと私は信じています。

まあ、その「幸せになる」ために神のルールとか、イエスが言った掟とかが関わっては来ますが、そこさえ抑えとけばそこまで不自由な思いはしません。

余裕ができたら、神に感謝すればいいし、もっと余裕ができたらダビデみたいに何か神に返そうとすればいいんじゃないですかね。知らんけど。

ほぼほぼ全体に突っ込んだだけで終わっちゃいましたが、今週は以上です。

藤(白)

青空に映えてますね。


♪ブログの 行方を 照らすため
 エホバよ 組織を (ちゃんと)導けー!

とか、ちょっと前に終わっちゃった特撮番組のオープニングを替え歌にしてぼんやり考えていたら、今週のタイトルは「エホバの導きにこれからも従っていきましょう」でした。

まあ、誰もが想像する通り、「エホバの導き」って大上段に掲げておきながら、結局は「組織の導き」に従えって内容でした。カスだね。


では突っ込みです。
今回の突っ込みは3点。
①JWが神に導かれているという根拠の薄っぺらさ。
②JWのアドバイスに従ったときの報いのショボさ。
③記事内の誘導のいやらしさ
です。

じゃあまず①。
11節。
チャールズ​・​テイズ​・​ラッセル​と​仲間​たち​は,1914​年​が​神​の​王国​の​設立​に​関する​重要​な​年​に​なる​と​考える​よう​に​なり​まし​た。(中略)1914​年​に​起き​た​世界​の​出来事​は,神​の​王国​が​統治​を​始め​た​こと​を​示し​て​い​ます。第​1​次​世界​大戦​が​起こり,流行​病,地震,食糧​不足​が​あちら​こちら​で​見​られ​まし​た。エホバ​は​これら​の​誠実​な​兄弟​たち​を​通し​て,ご自分​に​仕える​人​たち​を​助け​て​い​た​の​です。

びっくり。
正直、とっくに破綻してるのに「まだこの理論に固執するんだ」とまず思いました。

そもそもさあ。
1914年は「終わりが来る」って予想してたんじゃん?
んで、その前の「終わりが来る」って予想してたのも思いっきり外してたじゃん?

1914年に予想を外した時はしれっと「終わりが来るんじゃなくて、天で神の王国の支配がはじまったんです」とか、期待していたことをすりかえやがりましたけどね。
すりかえ仮面かお前は。

あとJWにとってはめっちゃ重要なことなんだけど、「1914年から終わりの日のしるしが起きたのは天で神の王国の支配がはじまった証拠」とされてるけど、その大本の計算が間違ってるんだよね。
7つの時の計算をこねくり回して、1914年っていう数字を出してるんだけど、その計算の初期値が間違ってる。
具体的に言うと、エルサレムの滅びはBC607年じゃないことが考古学で判明しちゃった。
となると、JWの計算式があっているとすると、天で神の王国の支配がはじまったのは1914年じゃなくなるし、終わりの日のしるしとしていたものはぜーんぶ無関係だったことになる。
つまり、JWが1914年に注目したのは神に導かれたからじゃなくて、ただの妄想。

この辺突っ込まれたら、JW独自の教理全部が根底からグラつくんで、この辺はもう触れないようにそっとしておくのかと思ったらそうでもなくて、信者を情弱と馬鹿にして未だに机上の空論を自信満々に展開している。

悪質極まりないですね。

まあカルトだからなぁ。



次。12節。
世界​本部​の​責任​ある​兄弟​たち​は​啓示 17​章​8​節​を​注意深く​研究​し​た​結果,この​戦争​が​ハルマゲドン​まで​ずっ​と​続く​わけ​で​は​ない​と​いう​こと​を​理解​し​まし​た。そして,戦争​の​後​さらに​多く​の​人​に​伝道​する​こと​の​できる​平和​な​時期​が​来る,と​いう​こと​も​知り​まし​た。

ここもさあ。

「戦争​の​後​さらに​多く​の​人​に​伝道​する​こと​の​できる​平和​な​時期​が​来る」とか書いているけど、野獣が今はいないけど後からまた出てくるってことをどう解釈したら「平和な時期が来る」と思えるの?頭大丈夫?


そもそもさあ。
「今はいない」って言ったら、普通書いた人の書いた当時が「今」でしょ?
なんで勝手に「この預言は今成就しているはず!」とか自信満々に思えるの?馬鹿なの?自信過剰なの?両方なの?

たまたま、国際連盟が国際連合として第二次世界大戦後に再結成されちゃったから、さも預言が当たったみたいにふるまってるけど、ただの偶然だからね。

で、この記事に出てくる「エホバがJWを導いている証拠」ってこの2つだけですから、結局のところ「導かれてない」ってことです。
まあ当然の結論ですね。


次、②。報いのしょぼさ。
15節。
アンディー​兄弟​と​ロビン​姉妹​は,生活​を​シンプル​に​する​よう​に​と​いう​アドバイス​に​従い​まし​た。その​結果,建設​奉仕​に​参加​でき​まし​た。

がんばってアドバイスに従った結果、得られたものが「建設奉仕に参加」。




いらねええええぇぇぇぇ。

チロルチョコ1個もらえた方がはるかに嬉しいレベル。



16節も一緒。
マーシア​姉妹​は​高校​を​卒業​し​た​後,エホバ​へ​の​奉仕​を​第​一​に​する​よう​に,と​いう​励まし​に​従い​たい​と​思い​まし​た。(中略)今,開拓​奉仕​を​し​て​い​ます。予定​を​調整​し​やすい​仕事​に​就く​こと​が​でき​た​の​で,ベテル​で​コミューター​と​し​て​も​奉仕​し​て​い​ます。

奨学金を蹴ってまで組織の言うことを聞いたのに、得られたものは「開拓奉仕」と「べテルでコミューターとしての奉仕」。




いらねええええぇぇぇぇ。

あのさあ。
「奉仕」ってことは、持ち出しだから。
なんにも貰ってねーから。
さも何か得られたかのように書くのやめてほんと。

合間に「幸せ」だの「充実している」だの「本当に良かった」だの出てきますが、そんなのどこのマルチ商法でも、ツムツムの合間に出てくる広告のセミナー参加者の言葉でも言ってますから、何の証拠にもなりませんね。
まあ信じたい情弱信者だけ信じてればいいでしょう。幸福には絶対なれませんけどね。


最後③。誘導のいやらしさ。
まずは囲み記事の「はっきりとした証拠があっても認められなかったのはどうしてか」から。
エホバ​が​ご自分​に​仕える​人​たち​を​人間​を​通し​て​導い​て​いる,と​いう​はっきり​と​し​た​証拠​を​受け入れ​られ​ない​人​たち​も​い​まし​た。どうして​でしょ​う​か。多く​の​場合,誇り​の​気持ち​が​原因​でし​た。

いっやっらっしーーーいですよねえ。
こういう書き方をすることによって、「自分たちには、神に導かれている証拠があるんだ!(お前たちは調べるな!)」「信じない奴は誇りが邪魔をしている目立ちたがり屋だ!」って言ってんですよ。
ところが実際に調べると、上に書いたように証拠なんか何一つないんですよ。
あるわけありません。
導かれてないんですから。
それなのに、組織が神に導かれていると信じない奴は誇りのせい!とレッテルを貼って蔑むんですから酷いもんです。

だいたい毎日、火の柱とか雲の柱とか見てるのにモーセを否定している人や、いろいろ奇跡を起こしてんのにイエスを否定している人と、なーーーーっんにも証拠がないからとJWを否定している人を、一緒にするのは失礼ってもんでしょう。


最後。ずっともどって1節。
森​の​中​で​道​に​迷っ​た​ところ​を​想像​し​て​み​て​ください。いろいろ​な​危険​が​潜ん​で​い​ます。野生​動物​や,毒​を​持っ​た​虫​や​植物,岩場​など​です。(中略)私たち​が​生活​し​て​いる​この​世界​は,まさに​危険​な​森​の​よう​です。信仰​を​失わせる​もの​で​あふれ​て​い​ます。

この前提が間違ってんですよ。
だから、記事全体が無価値なんですよ。

なんで、この世界を危険生物でいっぱいな森に例えるんですか。
神はこの世界をほっぽらかして、そんなに危険な状態で放置したりはしてないんですよ。
「信仰を失わせるものであふれています」なんて書いてますが、それで命を落とした人なんかまずいないんです。
これが、JWの基準を守らないとすぐ死んじゃうとか、絶対悪い目に遭うような世界だったら、まあ分かります。
でも全っっっ然違うじゃないですか。
JWの基準を守らなかろうが、神の基準を知らなかろうが、全世界のほとんどの人は、なーーーーんにも災いを被らないで一生を終えてるんです。
もちろん、中には道を踏み外して残念な一生を終える人もいますが、JWがやってる程度のアドバイスは世の中にあふれかえっています。JWが特別なことなんかなんにもしていません。
むしろ、JWの中で病んでいる人が大勢発生しています。
JWのアドバイスが神から来ていない証拠みたいなもんです。
にもかかわらず、現実に目をつぶってやれ「幸せ」だの、やれ「充実している」だの言ってるんですよ。何の説得力もありませんね。

結局のところ世の中は、JWが言っているほど危険なところではありません。

一般的な常識に倣えば、一般的な程度には幸せに生きられます。


そして、まかり間違って自信満々のJWの導きに従うと、精神を病む可能性が高くなります。
むしろカルトという落とし穴に注意して生きるのが知恵というもののようです。

今週は以上です。

♪何もしないことを 奉仕と 呼んで~

せっかくだからもう一枚写真載せますね。

藤(紫)




シャクナゲ。


撮影は4月上旬。

では早速今週の記事についてです。

今回はナジルに関する内容でした。

それにしてもさぁ。
「ナジル人」だったのが「ナジル」に変更とか、なんでこんな細かいとこ変更するんだろうね。
いや、名称を変更するだけなら別に大したことじゃないんですけど。


でもさあ。

この組織って、そういう細かいところまでぜーんぶ組織の言うとおりに使わないと、お互いに文句言いあうじゃん。

思えば、新世界訳のクリスチャンギリシャ語聖書(緑)から、新世界訳全巻(黒)になった時も霊の実の「柔和」が「温和」に変更されてました。
よりふさわしい訳になっただけなら問題ないんですけど、人に霊の実を言わせて、まだ「柔和」だと「ブッブー!はい間違い!」みたいなことをやってました、子供たちが。

私とか。(←ダメじゃん)



あとね。
昔は「天使」なんて言ったら、「それは大いなるバビロンの呼び方です」とか文句言われましたよ。
今じゃ、「み使い」って言ったら、「最新の理解に付いて行ってない」とか文句言われるんですよ。




ばーーーーーっかじゃねえのーーー?



とまたハルパゴスになっちゃいました。

とにかく、ころころ用語を変更する割には、それ以外の用語の使用に厳しいのが酷く愚かに思えました。


さて、突っ込みです。

今回の突っ込みは大きく分けて2点。
まずは、神に仕える生き方はそんなに犠牲ばかりなの?ってこと。
9節。
エホバ​に​喜ば​れる​こと​を​行お​う​と​する​と,人​と​違う​こと​を​し​て​目立つ​こと​に​なり​ます。

んで11節。
私たち​は​聖書​の​教え​に​従っ​て​家族​を​大切​に​し​ます​が,家族​が​願っ​て​いる​こと​より​も​エホバ​が​求め​て​いる​こと​を​優先​し​ます。

あと13節。
家族​を​大切​に​し,愛​と​敬意​を​込め​て​接し​つつ,エホバ​に​仕える​ため​に​は​犠牲​が​伴い​ます。

これらの箇所では、いかに神に仕えることに犠牲が求められるか、ってことを強調してるんですが、その考え方がそもそもおかしいと思うんですよねぇ。


最初の9節の箇所。
基本的には、神が求めていることは「神を愛すること」と「隣人を愛すること」だとイエスは言ってました。
それだけをやってて、「人と​違う​こと​を​し​て​目立つ​」ってことなんかあるんですかね?
別に9節にあるように、職場や学校でJWであることを公言する必要なんかないんですから、悪目立ちしないように黙ってりゃいいと思います。

次の11節の箇所。
家族を喜ばせることを神も望んでるんですから、これもそうそう相反することばかりじゃないと思うんですよ。
とんでもない毒親で、子供に万引きさせようとするとかだったらそりゃダメですけと、そんな場合は聖書どうこう言ってないでさっさと警察に相談する必要があります。

最後の13節も同じ。

なんか自分で勝手に規則を作って厳しくしておきながら、犠牲が求められて大変だーとか言ってるのは、本当に馬鹿らしいです。 


あと、もう聖書通して読んだのなんかずいぶん前になっちゃったので間違ってるかもしれないんですが、ナジル人って途中でやめても特にペナルティなかったような覚えがあるんですよ。

今回の記事では、「家族​や​親族​を​亡くし​た​時,この​命令​に​従う​の​は​本当​に​大変​だっ​た​はず​です。当時​の​埋葬​の​習慣​の​中​に​は,遺体​の​近く​で​行う​もの​も​あり​まし​た」なんて書いてありましたが、そんなに大変なら、その時のナジルチャレンジをそこで終了するだけのことに思えるんですよ。
「神に感謝を表そうと思ってナジル始めたけど、アクシデントがあったからここで終了!」ってだけなんじゃないかなぁと。

そもそもぶどう製品一切不許可で死体に触れちゃいけないナジルのサムソンが、宴会行ったりロバの顎骨で千人殺しとかやってる時点でルールガバガバでしたね。


んじゃ最後。もう一個の突っ込み。
記事の脚注から。
これ​まで​の​出版​物​の​中​で,ナジル​を​全​時間​奉仕​者​に​当てはめ​て​考える​こと​が​あり​まし​た。この​記事​で​は,エホバ​に​仕える​全て​の​人​が​ナジル​の​姿勢​に​どの​よう​に​倣える​か​を​考え​ます。

さらっと書いてますけど、これものすごい方向転換ですよ。
今までは、
ナジルは普通の人には求められてない基準を守った→開拓者は普通の人には求められてない要求時間を果たす
って言うのが基本的な適用だったのに、「エホバ​に​仕える​全て​の​人」がナジルに倣うってことになると、じゃあ開拓者は聖書に果たして根拠があるのかってことまであやふやになります。

こうやって解釈を変更しかけてるのにそれを明言しないこととか、今までの解釈が誤ってたと言わずにこっそり変更するのが本当にいやらしいやり方です。

もちろんしらを切って、これまでと変わらない適用を続けるのかもしれませんが、こっそりとナジル人と開拓者の解釈上の結びつきを切り離すように動く可能性もあります。
奉仕時間の多寡で人を差別することに慣れきってるこの組織が、今さら開拓の制度を無くすとも考えにくいですが、この前「姉妹のズボン解禁」とか「ヒゲ解禁」とかもあったので、これからの動きを注意する必要があると思いました。

今週は以上です。

遅くなってすみませんでした。


そうそう。今日、カート奉仕を見かけました。
姉妹たちがそろってラテ系の飲み物片手に集まってました。
さすがにカート横で立たされ坊主やってる時には持ってないと信じたい。

私がまだ小学校に上がるかどうかって時代には、子供が水飲んだだけで、「神聖な奉仕中に何をやってるんだ」とお叱りを受けたもんですが、時代は変わりましたね。
奉仕中に自販機で飲み物買ってると、その時間は差し引かされてました。

いや、良い方に変わってるとは思いますが、水も飲ませてもらえなかった子供たちに謝罪もなく、大した発表もなく、なあなあで基準を緩めておきながら、過去の厳しい基準をなかったことにするのは、正直な行いとは言えませんね。


ちゅーりっぷほか


ちょっと前に横浜市がやってる、なんとかって花のイベントに行った時の写真です。

いやー、いい季節ですね。
もう、桜は散っちゃいましたが、八重桜は咲いてる、サツキ(ツツジ?)も咲いてる、ムラサキツメクサも咲いてる、電車からしか見てませんが藤も咲いてる。

5月のはじめには立夏ですから、やっぱり植物が元気なんでしょうねぇ。

まあ、葛も伸び始めてますけど。


さて、今週の記事についてです。
まあね。
神を賛美することには反対はしませんよ。

この記事では、そうすることの理由について。
1 神が喜んでくださるから
2 イエスが喜んでくださるから
3 他の人の命を救うことになるから
としていました。

気になったのは、なんかやたらうがった見方をしているってことと、「神の名」を賛美することが、本当に「名前」を賛美することになってたりすることでした。

まずは、うがった見方を2箇所。
1個目。4節。
私たち​が​エホバ​の​名​を​賛美​する​時,エホバ​は​喜ん​で​くれ​ます。ある​人​は,不安​で​自信​が​ない​の​で​褒め言葉​が​欲しい​と​思う​か​も​しれ​ませ​ん​が,全能​の​神​で​ある​エホバ​は​そう​で​は​あり​ませ​ん。

神が、賛美を喜んでくださるってことから、「不安​で​自信​が​ない​の​で​褒め言葉​が​欲しい​と​思う」を連想する神経が分かりません。
この後これを否定する例えが出てきてましたが、そもそも、人がほめられて喜んでいる時に、それを「不安」だの「自信のなさ」の表れだと考える奴なんかそうそういないと思うんですよ。

ましてや「神」ですよ。
神が、「自信が無くて人間からの賛美を欲している」とか、考えつくだけでも失礼極まりないと思います。
もちろん結論では否定してるんですが、なんでこの組織はそんな見方を思い付くんでしょうかね?


2個目。6節。
エホバ​の​聖​なる​名​は​どんな​言葉​で​も​賛美​しきれ​ない​と​いう​こと​を​謙虚​に​認め​て​い​まし​た。この​よう​に​自分​の​小ささ​を​認め​つつ​心​から​捧げ​られる​賛美​を​聞い​て,エホバ​は​とても​喜ん​だ​に​違いあり​ませ​ん。

「どんな​言葉​で​も​賛美​しきれ​ない​」ということは、別に「自分​の​小ささ​を​認め​」てるのとは違うんじゃない?

「どんな​言葉​で​も​賛美​しきれ​ない​」っていうのは、単に神の偉大さを強調してるだけでしょ?

「A国の山火事は、日本の全消防車を持って行っても消せない規模だった」って言ったとしても、日本の消防能力の小ささを言ってることにはならないでしょ?


それなのになんで「自分の小ささ」とかわざわざ持って来るの?

性格激悪なの?




次。「神の名」を賛美することが、本当に「名前」を賛美することになってる箇所。
これも6節から。
ダビデ​は​エホバ​の​名​を​賛美​する​なら,エホバ​を​賛美​し​て​いる​こと​に​なる​と​いう​こと​を​理解​し​て​い​まし​た。エホバ​の​名​に​は​評判​が​含ま​れ​て​いる​の​で,それ​は​エホバ​の​素晴らしい​性格​や​行い​を​連想​さ​せ​ます。

「エホバ​の​名​に​は​評判​が​含ま​れ​て​いる」ってあるけど、「名」って「評判」そのものだよね。

むしろ「評判」を完全に除いて「名」を賛美することってあるの?
「エホバ」という名の、響きが素晴らしいとか、綴りが素晴らしいとか賛美するの?

それ却って馬鹿にしてるよね。

ここの書き方だと、エホバを賛美することと、エホバの名を賛美することが違うことになってるけど、同じことだと思います。

その流れで10節では
イエス​は​ほか​の​人​に​も​エホバ​の​名前​を​使っ​て​ほしい​と​思っ​て​い​た​でしょ​う​か。確か​に​そう​思っ​て​い​まし​た。

とか出てくるんですけど、エホバという名前を使うことと、エホバの名を賛美することとは、全然別だと思うんですよ。
神がして下さったことを認識したり、それに感謝したり、それを讃えることはぶっちゃけ名前なんか知らなくたってできないことはありませんから。

この組織は、「エホバ」という読み方にこだわって、16節にも
神​の​名前​が​エホバ​だ​と​いう​シンプル​な​真理​も,誠実​な​人​たち​の​生き方​に​大きな​影響​を​与える​こと​が​あり​ます。

とか書いてますが、「エホバ」が唯一の正しい読み方だという根拠もありません。
たぶん組織も「ヤハウェ」読みなどをはっきりとは否定していないはずです。

それなのに文字通りの「名」と、評判を表す「名」をごっちゃにして分かりにくくしてるのが、気になりました。


じゃ、後は細かい箇所に突っ込みます。
7節。
私たち​が​エホバ​に​倣う​なら,人々​は​この​悪い​世​の​中​に​あっ​て,私たち​の​生き方​が​違う​こと​に​気付き,興味​を​持つ​か​も​しれ​ませ​ん。

「生き方​が​違う​」って、子供を鞭で虐待したこととか、狂信的に輸血を拒否して、自分じゃ判断できない年齢の子供を死に追いやったこととか、教育の機会を取り上げることとか、信者が精神を病む確立がやたらめったら高いこととかですかね?

それとも、他の宗教をボロカスに貶すこととか、政府からの指導に従わないこととか、逆に政府に優遇してもらえなくなると、今まで信者に強制していた基準を手のひらを返したように無かったことにすることとかでしょうか。

興味を持ってもらえても、悪名ばかり広まりそうです。


次。上を踏まえて14節。
私たち​が​伝道​を​行う​なら,サタン​の​思い通り​に​は​なり​ませ​ん。エホバ​に​つい​て​人々​に​伝える​こと​に​よっ​て​神​の​名​を​賛美​する​こと​が​でき​ます。

あー。

賛美どころか、逆に悪評を招きそうですよ。


最後。16節。
組織​と​し​て​の​宗教​に​は​関わり​たく​ない​と​思っ​て​い​まし​た。宗教​が​教え​て​いる​こと​と​実際​に​行っ​て​いる​こと​の​違い​を​たくさん​目​に​し​て​き​た​から​です。

お前が言うな!

今週は以上です。

せっかくなので、春っぽい写真をいくつか載せておきますね。








サクラ


たぶん染井吉野。
満開でした。
やっぱり良いですね。何年かぶりに落ち着いて花見ができました。

ただこの後、残念ながら雨が降りやがりました。しかも強い風まで吹いて。
これで、近所の枝垂れ桜が一気に葉桜になりました。18分咲きぐらい。
まあ、染井吉野の咲き方は個体差がありますし、つぼみもそれなりに残ってたらしく、場所次第ですがまだそこそこ楽しめます。


さて、今週の記事についてです。

正直、馬っっっっ鹿みたいでした。

内容は下の通りです。
括弧内は私の意見。
・ハルマゲドン前に選ばれたクリスチャンは天に行くよね(←なんか割と最近、組織はそういうことにしたらしいね。そのへんころころ変わるから全く信用してないけど)
・そしたら地上に残されたほかの羊が、彷徨わないか心配だよね(←そんなわけねーだろ。神の手をどんだけ短く設定してんだ)
・だって、エホアシュは離れちゃったし、ヨハネが死んだ後のクリスチャンも背教してたよ(←いつの時代でも離れる奴はいたし、離れない人もいただろうが)
・でも大丈夫!ちゃんと選ばれた人がほかの羊を訓練してきたから!(←えっ。盲目の案内人のくせに、他人を訓練したとか図々しいにも程があるんですけど)
・つまりエホバは絶対に見捨てないってこと。やったね!選ばれなかったクリスチャンのみんな!(←唐突にエホバ登場)

と、こんな感じ。

なんかねー。

何一つ辻褄が合ってないのに、書いてる人だけは完璧だと思ってるっぽいのよ。

そもそも、イエスが本当に小さな群れとほかの羊を、楽園での支配者層と被支配者層の意味で使ったかは不明です。

さらに言うと、「選ばれたクリスチャン」って呼び方は酷くね?

ほかの羊は「選ばれなかったクリスチャン」なの?みんな神が引き寄せてくださったとかさんざん教えられたけど、その中で「選ばれた」とか「選ばれなかった」とか分かれてんの?

あと上にも書きましたが、ハルマゲドン前に残りの者がいなくなるかどうかは、ころころ変わるから全く信用できません。

んで、たとえ残りの者がいなくなったからと言って、そんなので不安になんかなるはずがありません。
それこそ、そういう不安を持たなくて済むのが、先週先々週に出てきた「神からの平安」ってやつでしょう。

で、その「別に不安に感じない」ものを、無理やり「不安を感じる」ことにして、ドヤ顔で「俺達がちゃんとやるから大丈夫!」とかやってんのよ。

なんか、不安を煽っておいて、自分たちに頼らせるという、質の悪い詐欺か、たちの悪いカルトとしか思えないんですよねぇ。



あ、たちの悪いカルトだった。

で、最後に唐突に「俺達は天に行ったら神の敵を滅ぼします!」みたいな宣言。
それ文脈と全く関係ないよね。

で、結論は「神は見捨てない」。

そもそも、普通に聖書学んで誠実に暮らしてりゃ「神に見捨てられるかも?」とか考えねーだろ。
もしそう考えるとしたら、教えてた奴が聖書を誤解してるか、わざと誤り伝えてるかだ。

もう内容無っ茶苦茶。
なんでJWは貴重な時間無駄にしてこんな馬鹿なことを命かけて学ばされてんの?

逆に気の毒になるレベルでした。


というわけで、突っ込む余地(価値?)がないほどの支離滅裂な記事だったんですが、言いたいことはあらかた書いたので、その他の部分に少しだけ突っ込みます。

古代イスラエルとか弟子たちが亡くなったあと、神から離れた人が多くいたけど、現代は大丈夫、っていう根拠の部分。
まず7節。
古代​イスラエル​の​時代。モーセ​は​自分​の​死​が​近づい​て​い​た​時,イスラエル​人​に,「私​の​死後,皆さん​が​きっと​ひどい​こと​を​行い,私​が​命じ​た​道​から​それる​こと​を,私​は​よく​知っ​て​いる」と​言い​まし​た。

続く8節。
使徒​たち​が​死ん​だ​後​の​時代。2​世紀​の​クリスチャン​会衆​が​腐敗​し​た​の​は​意外​な​こと​だっ​た​でしょ​う​か。いいえ。イエス​は​大​規模​な​背教​が​起きる​と​言っ​て​い​まし​た。

つまり、過去の背教は預言されてたから、当然生じるものだったってことです。


で、9,10節。

聖書​は​今​の​時代​の​こと​を「全て​の​事柄​の​回復​の​時」と​も​表現​し​て​い​ます。
聖書​に​は「あなた​を​攻撃​する​ため​に​作ら​れる​どんな​武器​も​役​に​立た[ない]」と​あり​ます。この​預言​は​今​実現​し​て​い​ます。次​の​言葉​も​今​の​時代​に​まさに​当てはまり​ます。「あなた​の​子​たち​は​皆​エホバ​に​教え​られ,豊か​な​平和​を​味わう。あなた​は​正しさ​に​よっ​て​しっかり​と​据え​られる。……何​も​恐れ​ず,おびえる​こと​も​ない。恐怖​を​抱か​せる​もの​が​あなた​に​近づく​こと​は​ない」。

だから安心できるってことです。



でもさあ。

この聖句が現代に当てはまるって根拠も無いよね。


で、9節の最初で引用されているテモテ第二3章では
終わり​の​日​に​は,対処​し​にくい​危機​の​時代​が​来​ます。

ってはっきり書かれてんですよ。
さらに、この聖句の続く部分には
敬虔​な​専心​と​いう​形​を​取り​ながら​その​力​に​おい​て​実質​の​ない​者​と​なる​から​です。

とか

邪悪​な​者​と​かたり​を​働く​者​と​は​いよいよ​悪​に​進み,惑わし​たり​惑わさ​れ​たり​する​でしょ​う。

って書かれてんですよ。

しかもこれは、クリスチャン会衆宛に書かれた言葉です。
これじゃあ、終わりの日の背教は預言されてないなんて、とても言えませんよね。

本当に聖書から都合よく抜き出して、自論の根拠としているだけなんだなぁと、改めて思いました。


最後。15,16節。
天​に​復活​し​た​後​は,キリスト​や​天使​たち​と​一緒​に​最後​の​戦い​に​加わり,神​の​敵​たち​を​滅ぼす​の​です。
地上​に​残っ​て​いる​選ば​れ​た​クリスチャン​の​中​に​は,高齢​で​体​の​弱い​人​たち​も​いる​か​も​しれ​ませ​ん。でも​天​に​復活​し​た​後​は​不滅​の​命​を​与え​られ,イエス​・​キリスト​と​一緒​に​力強く​戦い​ます。

なんか、えらい好戦的ですね。
よほど力を誇示したいんでしょうか。

神は本来、人間が一人も滅ぼされることを望んでないと、聖書には書かれています。

それなのに、ここでは「神の敵だあ!神の敵がいたぞー!」「神の敵は殺しても罪になんねーぞー!」「ひゃっはー!ぶっ殺せー!」っていう殺る気満々の意識が見えてるんですよね。

果たしてその態度を本当に神が望んでいるか、神が喜んでくださるのか、執筆者はもう一回聖書を読み直して考えた方が良さそうです。

今週は以上です。

ユキヤナギ。



綺麗ですよね。

多摩川の河川敷で、点々と真っ白に咲いてるのを見ると嬉しくなります。

染井吉野も咲き始めました。素晴らしい季節ですね。



さて今週の記事についてです。


主題は「エホバ​は​あなた​の​こと​を​心​から​愛し​て​い​ます」でした。


でもねぇ。


先週と同じ突っ込みになるんですけど、愛しているってだけで、大したことしてくれないんですよねぇ。

いや、してくれてるのかもしれませんが、それがはっきりと分かるわけではない。


もちろん贖いは貴重なものでしょう。

でも、そんな2000年も前に示されたっきりのことに、今でも死ぬほど感謝して、それに命をかけられるってほどまでは、さすがに心に訴えないんですよ。

まあ、私がクリスチャンでなくなっているってことなんでしょうけど。


ここで、こんなことを考える事自体、「神様はもうちょっとしっかり何かしらしてくださるはず」と私が勘違いしていたことの証拠というか、組織のミスリードに乗せられていた結果なのかなぁと思ったり。

であれば、逆に先週や今週の記事のように、神から確実に与えられるものは基本的には「心の平安」だけで、何か他の物も与えられるかもしれないけどそれについては保証されてはいない、というガッカリな結論こそが、実はキリスト教のあるべき状態なのかなぁ、と考えたり。


そんな変な方向に黙想が進んで行っちゃってます。


ほんじゃ、その「神の愛はいまいち役に立ってない」ってことから突っ込みますかね。

4節。

聖書​の​中​で​エホバ​は​ご自分​の​こと​を​愛情​深い​母親​に​例え​て​い​ます。幼い​子供​を​優しく​世話​し​て​いる​お母さん​の​様子​を​イメージ​し​て​み​て​ください。(中略)私たち​も​つらい​とき,エホバ​が​この​母親​の​よう​に​行動​し​て​くれる​こと​を​確信​でき​ます。詩編​作者​は​こう​書き​まし​た。「心配事​で​圧倒​さ​れ​そう​な​時,あなた​は​私​を​安心​さ​せ,落ち着か​せ​て​くださっ​た」。


挿絵は赤ちゃんを抱っこしてるおかあさんでした。


前回も書きましたが、「安心」は与えてくれるのかもしれないんですけど、実際的な助けが欲しいんですよ、こっちは。

母親は赤ちゃんの一切合切を世話してくれていますが、神様からそうされてる印象はあまりないんですよ。

もし、そうしてもらってるなら、JWが世の人としている人もほぼほぼ同じだけ世話してもらってることになりますし、世紀の極悪人も同様に世話してもらってることになります。


神様を愛している人に対する特別な配慮は無いんですかね?







無いんでしょうね。




次。

6節。

エホバ​は​私たち​の​こと​を​瞳​に​例え​て​い​ます。目​は​体​の​中​で​も​特に​傷つき​やすく,大切​な​部分​です。エホバ​は「あなた​が​傷つく​時,私​も​大切​な​もの​を​傷つけ​られ​て​いる​よう​に​感じる」と​言っ​て​いる​か​の​よう​です。


いや、大切に思ってもらえるのはありがたいですよ。

でも、こっちとしては守って欲しいんですよ。

とりあえずまぶた閉じろ、と。

顔を背けろ、と。

相手の手を払え、と。


「いやー、こいつめっちゃ瞳触ってくるやん!」とか思いながら、そのまま触らせておくなよ。



で、守ってもらえない例が16節。

レイチェル​姉妹​の​例​を​考え​て​み​ましょ​う。姉妹​は,コロナ​の​パンデミック​中​に​夫​が​エホバ​から​離れ,家​を​出​て​いっ​て​しまっ​た​時,とても​大きな​ショック​を​受け​まし​た。エホバ​は​姉妹​の​ため​に​どんな​こと​を​し​た​でしょ​う​か。姉妹​は​こう​言っ​て​い​ます。「エホバ​に​愛さ​れ​て​いる​こと​を​実感​できる​よう​に​し​て​ください​まし​た。兄弟​姉妹​は​一緒​に​時間​を​過ごし,食事​を​届け​て​くれ​まし​た。温かい​メッセージ​や​聖句​を​送っ​たり,ほほ笑ん​で​安心​さ​せ​たり​も​し​て​くれ​まし​た。エホバ​が​私​の​こと​を​気遣っ​て​くださっ​て​いる​こと​を​思い起こせる​よう​に​も​し​て​くれ​まし​た。エホバ​が​この​よう​な​温かい​家族​を​与え​て​くださっ​た​こと​に​いつも​感謝​し​て​い​ます」。


これも、レイチェルが必要としているのは、できれば「夫が帰ってくること」で、だめなら「安心して生活する手段」ですよね。

それに対してエホバがやってくれたことはと言えば、「愛さ​れ​て​いる​こと​を​実感​できる​よう​に​し​て​ください​まし​た。」だけ。




はあー、使えねー。




って言いたくなりませんか?



結局、愛されてるかもしれんし、大切に思われてるかもしれんけど、守られてないのよ。


そう考えると、「神の愛はいまいち役に立ってない」って結論に行き着くんですよねぇ。


この辺は聖書も一般のキリスト教も敵に回すことになるので、これ以上考えないことにします。



さて、後は細かい箇所に突っ込みます。

まず1節。

私たち​は​エホバ​の​姿​を​見る​こと​は​でき​ませ​ん​が,聖書​の​いろんな​表現​から​エホバ​が​どんな​方​か​に​つい​て​知る​こと​が​でき​ます。例えば,エホバ​は「太陽,盾」,「焼き尽くす​火」と​表現​さ​れ​て​い​ます。


なんでここで、「イエス」を出さないんですかね?

イエスご自身が「わたし​を​見​た​者​は,父​を[も]見​た​の​です。」って言っておられるんですから、「神のイメージ」を考えるときに真っ先に浮かぶべきなのは、杉浦太陽とか焼き尽くす火とかじゃなくて、イエスであるべきだと思います。



次。

5節。

何​か​重大​な​間違い​を​犯し​た​と​し​て​も,エホバ​は​私たち​の​こと​を​見捨て​たり​し​ませ​ん。


んじゃなんで、この組織は人をぽんぽん排斥にするんですかね?

しかも、排斥になった根拠が間違ってたと分かっても、謝罪どころか取り消しもしないですよね?

エホバが許しても俺は許さんっ!って思ってるってことですかね。神を踏み越えるとかいい度胸してますね。



9節。

エホバ​は​天​に​行く​よう​選ば​れ​た​人​たち​に​も​愛​を​表し​て​い​ます。


ここ、特出しする必要無いよね?!

同じ節に、

エホバ​は​私たち​全て​の​こと​を​愛し​て​い​ます。


ってあるんだから、それで十分だよね?



最後。

10節。

エホバ​は​私たち​を​愛し​て​いる​の​で,ご自分​に​とっ​て​一番​大切​な​息子​で​ある​イエス​が​苦しん​で​死ぬ​の​を​許す​こと​まで​し​まし​た。


ここももう納得できなくなっちゃったんですよねぇ。

塩狩峠の話あるじゃないですか。

乗客助けるために、自分が線路に飛び込んで犠牲になった機関士の話。

あれのミニ版を考えてみて。

観光バスに家族全員で乗っててブレーキが故障したとする。外から操作すれば止められるけど外に出た人は助からない。


そこで「よし!長男にやらせよう!」ってなるか?


しかもそれが「一番​大切​な​息子」らしい。


この前も書いたけど、全能者であり、ルール作ってるのが神なんだから、他の手段でバスを止められたんじゃないかとか考え出すと、どうも聖書自体に納得できなくなっちゃうんですよねぇ。


別にキリスト教にも聖書にも喧嘩を売りたいわけではないので、今週は以上です。


春が来たから沈丁花。


前にも書いたかもしれませんが、春の沈丁花と秋の金木犀は、匂いの主張が激しく、ヘタに日本の狭い庭に植えると匂いがきつ過ぎて切る羽目になると聞いたことがあります。

まあ、私は絶賛花粉症中でめっちゃ鼻づまりで、匂いなんか分からないんですけどね。


さて、今週の記事についてです。

んー。
なんか、ミスリードを狙って書かれているように感じるんですよねぇ。
で、順に突っ込んでいくと、結局聖書そのものとか、神様本人に苦言を呈することになるから、ぶっちゃけあんまりやりたくない。

まあいいや。

私が神様の助けに過度に期待していたとしたら、私自身が組織のミスリードに乗っけられてたってことで、それも反省点の一つにします。



とりあえず、記事全体に突っ込みます。

まず主題。
大変​な​時​も,エホバ​が​助け​て​くれる

心強いですね。
で、この「大変な時」ってのがどんなものかが、1節に出てきます。括弧内は私がまとめたものです。
ルイス​兄弟​は,特殊​な​がん​に​かかっ​て​い​て​余命​数​カ月​しか​ない,と​医師​から​言わ​れ​まし​た。( →重い病気とそれに伴う間近な死)
モニカ​姉妹​は​夫婦​で​忙しく​奉仕​し​て​い​まし​た。でも​ある​日,長老​で​ある​夫​が​何​年​も​隠れ​て​罪​を​犯し​て​い​た​と​いう​こと​が​分かり​まし​た。(→どうも長老である夫が長年不貞をはたらいてたらしい)
オリビア​と​いう​独身​の​姉妹​は,大きな​ハリケーン​が​近づい​て​い​た​ため,避難​し​なけれ​ば​なり​ませ​ん​でし​た。戻っ​て​みる​と,家​は​嵐​で​壊れ,めちゃくちゃ​に​なっ​て​い​まし​た。(→衣食住全損)

なるほど大変な状況です。
神様に助けてもらいたいと思うのも当然ですね。

で、問題なのは神様がどう助けてくれるのか、なんですよ。

副見出しごとに見ていきますね。
エホバ​は​守っ​て​くれる
4節。
エホバ​は​どの​よう​に​助け​て​くれる​か。エホバ​は​私たち​に「神​から​の​平和」を​与える​と​約束​し​て​い​ます。

5節。

神​から​の​平和​が​私たち​の​心​と​考え​を​守っ​て​くれる​の​で,私たち​は​安心​し​て​いら​れ​ます。

つまり、神からの平和が受けられるので安心できるってことです。

次の副見出し。
エホバ​は​私たち​が​安定​できる​よう​に​助け​て​くれる
8節。
エホバ​は​どの​よう​に​助け​て​くれる​か。エホバ​は​私たち​を​安定​さ​せる​と​約束​し​て​い​ます。

心の安定が得られるそうです。

次の副見出し。
エホバ​は​支え​て​くれる
11節。
エホバ​は​どの​よう​に​助け​て​くれる​か。エホバ​は​私たち​を​支える​と​約束​し​て​くれ​て​い​ます。

で、どう支えてくれるのを12節から。
誰​か​の​心​を​動かし​て​私たち​を​支える​こと​が​よく​あり​ます。例えば,ヨナタン​が​ダビデ​の​所​に​行っ​て​元気づける​言葉​を​語る​よう​に​し,エリシャ​が​エリヤ​を​サポート​する​よう​に​も​し​まし​た。

つまり、仲間を遣わして励ましてくれるということです。

最後の副見出し
エホバ​は​安心​さ​せ​て​くれる
15節。
エホバ​は​どの​よう​に​助け​て​くれる​か。エホバ​は​私たち​を​安心​さ​せ,落ち着か​せ​て​くれ​ます。小さな​女​の​子​が​ひどい​雷​の​せい​で​怖く​て​眠れ​なく​なっ​て​いる​様子​を​イメージ​し​て​み​て​ください。父親​が​やっ​て​来​て,娘​を​腕​に​抱き寄せ,眠れる​まで​そば​に​い​ます。雷​は​まだ​鳴っ​て​い​ます​が,娘​は​父親​の​腕​の​中​に​いる​の​で​安心​し​て​い​ます。私たち​が​試練​に​遭っ​て​怖い​と​感じる​時,天​の​お父さん​エホバ​は​私たち​を“抱き寄せ”,気持ち​を​落ち着か​せ​て​ください​ます。

気持ちを落ち着かせてくれるんだってさ。

この記事に出てくる「神の助け」はこれで全てです。

つまり。
病気で死が間近な人にも、長老である配偶者に長年不貞をはたらかれていた人にも、衣食住全てを失った人にも、神様は「安心」とか「心の平安」とか「励まし」とか「落着き」を与えてくれるダケなんだってさ。




言いたかないんだけどさぁ。





しょぼくね?
  




特に衣食住全てを失った人。
どんな助けが必要かといったら、まず当面命を支えるための食事と住居でしょう。
できるなら多少なりとも現金も。

ところが、「助けてくださる」「支えると約束しておられる」と強調されてる神様が与えてくださるのは、「安心」とか「励まし」。



そうじゃないんだよなぁ。


上に引用しましたが、雷を怖がってる女の子なら、父親の抱っこで良いかもしれません。
でも、乗った船が沈みかけてる時だったら?
部屋に海水が入って来てる時に必要なのは、抱っこじゃなくて手を引いて安全なルートから脱出することとか、救命胴衣とか救命ボートなんですよ。

それを「抱っこしてあげるから安心してオヤスミ(意味深)」とか、舐めんなって感じですよ。


だったら主題も
「大変​な​時​も,エホバ​が​助け​て​くれる」
じゃなくて、
「大変な時も,平安を保てる」
とかにしとけ、と。
そう感じました。


じゃあ後は細かいところに突っ込みます。

神から平安が与えられている人の反応について。
7節。夫を病気で亡くした姉妹。
アナ​姉妹​は​夫​を​亡くし​た​後,まさに​その​よう​な​経験​を​し​まし​た。こう​言っ​て​い​ます。「喪失​感​に​襲わ​れ,自分​の​こと​を​惨め​に​感じる​よう​に​なり​まし​た。『どうして​死ん​で​しまっ​た​の?』と​思う​と,怒り​の​気持ち​も​湧い​て​き​まし​た。別​の​時​に​は​寂しさ​を​感じ​たり,これ​まで​夫​が​し​て​くれ​て​い​た​決定​を​自分​で​し​なけれ​ば​いけ​なく​なっ​た​ため​に​いらいら​し​たり​する​こと​も​あり​まし​た」。

平安じゃないよ!

3節。夫に長年不貞を働かれてた姉妹。
モニカ​姉妹​は​こう​言い​ます。「がっかり​し​た​と​いう​か,心​は​もう​ぼろぼろ​で,日常​の​こと​に​も​手​が​付き​ませ​ん​でし​た。こんな​こと​が​起きる​なんて,思っ​て​も​み​ませ​ん​でし​た」。

全然平安じゃないよ!


いや分かりますよ。

夫を亡くしたのに、平常心でいることなんかできないのは確かでしょう。

でもさあ。

「助けてくださる」「支えると約束しておられる」とさんざん言われて。
そのくせ与えられるのが「心の平安」だけなら、もうちょっと強い平安が欲しいなぁ、とも思います。


次。
仲間からの励ましの具体例から。
12節。
誰​か​の​心​を​動かし​て​私たち​を​支える​こと​が​よく​あり​ます。(中略)現代​で​は,家族​や​友達​や​長老​たち​に​よっ​て​私たち​を​支える​こと​が​あり​ます。
13節。
大変​な​時​こそ,家族​や​友達​や​長老​たち​の​助け​を​進ん​で​受け入れる​よう​に​し​ましょ​う。



あのさぁ。


その家族であり、友達でもあり、長老でもあった人が、長年不貞はたらいてたんでしょ。
そんな奴の支えとか助けとか、なんのあてにもならないんですけど。
神様が、心を動かして遣わすのがそんな最低野郎、とか無い方がマシですよ。


最後。神の助けを受けるために求められること。
9節。
私たち​は​何​を​す​べき​か。感情​の​波​に​のま​れ​そう​に​感じる​時​に​も,祈り​や​集会​や​奉仕​の​習慣​を​守る​よう​に​努力​し​ましょ​う。


これ酷くね?

衣食住全部失った人に、なんで何かを求めるんだよ。被害知ってんだからすぐ助けてやれよ!

んでもって、祈りだの集会だの奉仕だの頑張ってやっと与えてもらえるのが、「安心」とか「平安」。



正直やってられません。

同じ9節の続く部分には
エホバ​は​組織​を​通し​て,私たち​が​感情​面​の​バランス​を​取る​の​に​助け​に​なる​情報​を​与え​て​くれ​て​いる​から​です。

とありました。

ここは「聖書」じゃないの?
聖書読んでるくらいじゃ、「安心」とか「平安」すらもらえないの?


やっぱケチだね。



今週は以上です。
なんか集会が休みらしいので、前に飛ばした記事についてです。

その前にミモザ。

桜より前に撮影してたんですけどね。
記事と一緒に後回しにされました。


んじゃ3月3日の記事についてです。
一つ前の記事は姉妹向けでしたが、この週は兄弟向けでした。

今回は前の週の記事との違いから、この組織の男女観について突っ込みますね。
この組織は「決して女性を下に見てない」と言ってますけど果たして本当か。

まずは求められてる特質について。
先週の記事では真っ先に「謙虚」と「慎み」が挙げられてました。
では今週の記事では?

思考力」と「信頼される」でした。

おいおいずいぶん違うじゃねーか。
兄弟にだって「謙虚」も「慎み」も必要だし、姉妹にだって「思考力」も「信頼される」ことも必要だろうが。
なんでこんなに違うんだよ。
やっぱ、「女は黙って従え!」っていうサイコパスパウロの影響を強く受けてるよね。


次、手本について。
前の週は「手本にできる聖書中の人物」として、エステルだのアビガイルだのが出てきてたんですよ。
まあ、聖書の中の模範的な女性ってことなら文句はないんですけど、この記事では4節に
何​より​も​イエス​・​キリスト​と​いう​完璧​な​手本​も​あり​ます。

とか言ってやがるんですよ。

いやイエス出すなら、姉妹たちの手本の時にも出せよ、と。「完璧​な​手本」なんだから。
なんかさぁ。
ドラえもんの道具に例えると、姉妹たちの時にはタケコプターとかタイムふろしきの話してたのに、兄弟になったらもしもボックスとかソノウソホントとか持ち出してきた感があります。


次、「実用​的​な​スキル​を​身​に​付ける」の副見出し。
ここは前の記事と共通の部分が多かった。
・上手​に​読み書き​できる​よう​に​なる。
・コミュニケーション​の​スキル​を​磨く。
・自活​できる​よう​に​なる。
これはどれも2週連続で出てきています。

ところが、今回になくて前回にあったスキルがありました。
・家事​を​上手​に​行える​よう​に​なる。
です。


なんで?



なんで、兄弟たちには家事を求めないの?



というか、姉妹たちにだけ家事の能力を求めるの?




おかしくない?


これは、やっぱり女性が家事をするものだっていう、昭和的価値観を持ってる証拠だよね。


ほんじゃ後は、細かいところ。
15節。
長老​も​援助​奉仕​者​も,仲間​の​ため​に​一生​懸命​働き,宣教​に​熱心​に​参加​し​ます。10​代​後半​の​若い​兄弟​も,資格​を​満たせ​ば​援助​奉仕​者​に​なる​こと​が​でき​ます。そして,20​代​前半​だ​と​し​て​も,資格​を​満たす​なら​長老​に​任命​さ​れる​こと​も​あり​ます。

結局立場をエサにしてるんですよね。
そもそも「長者」って名称なんだから、10代とか20代前半とかでなれたらおかしいだろうが。
聖書の資格でもはっきりと、自分の家の者を立派に治めているとかありましたよね。
結婚もしてない、子育てなんか夢のまた夢みたいな若者が、他人の不道徳を裁いたり、人の子育てにアドバイスしたりするとか茶番もいいとこですよ。


最後。20節。
クリスチャン​と​し​て​成長​する​よう​で​きる​限り​の​努力​を​する​なら,人生​は​楽しく​て​充実​し​た​もの​に​なる​でしょ​う。

結局、最後のこの結論ですら、あやふやな基準で意味がないんですよね。

「できる​限り​の​努力​を​する​なら」の、「できる限り」できたかどうかは、誰が判定するんですか?

JWの成員が全く幸せそうでないのに、「人生​は​楽しく​て​充実​し​た​もの​に​なる​」って保証はどこから来てるんですか?

こんなあやふやな基準だから、なんとでも言えるんですよ。
「楽しくもないし、充実もしてない」って言われても、「お前ができる​限り​の​努力をしてないからだ」って答えりゃいいんですから。

と、いうわけで、この記事も大した内容はありませんでした。
んでもって、調べれば調べるほど、女性を軽視している組織だと言うことが分かりました。

今週は以上です。

集会が休みだと思うとたちまち油断して、更新が遅れてしまいました。
締切にだらしないのは、仕事ができない奴の特徴です。全くもって申し訳ない。

まあ、仕事ができないのに、プログだけまともにやってたらそれはそれで問題なのでこんなもんでしょう。
また来週頑張ろうと思います。
枝垂れ梅。

これも毎年お世話になってる花です。たぶん。
ちなみに撮影は2月半ば。この時はやっと咲いた感じでしたが、今はもうほとんど散っています。

ほんじゃ今週の記事について。
今週は記念式についてでした。

まず全体に突っ込みたいと思います。

JWは記念式を「1年で一番大切な日」とか取り上げてことさら強調しますけど、そこまで重要とも思えないんですよ。
なぜ重要かについて、今週の記事の1節では
エホバ​に​仕える​人​たち​は,キリスト​の​死​の​記念​式​を​1​年​で​一番​大切​に​し​て​い​ます。それ​は​イエス​が​行う​よう​に​と​弟子​たち​に​命じ​た,たっ​た​一つ​の​行事​だ​から​です。

なんて書いてました。

でもさあ。
なんだかんだ言って、イエスっていろいろ命令してるじゃん。
確かに行事っぽいのは「記念式」しかないかもしれませんが、イエスが「これを行事として行い続けなさい」って言ったわけでもないし、「これを行わない者は王国に入ることはできません」って言ったわけでもありません。

そんなに目くじら立ててやらなきゃいけないことじゃないんじゃないかなぁと。

JWはこれを厳守するのを誇りに思っていて、なんか投獄されていてもどうにかして無酵母パンとワインを手に入れて記念式を祝う、とかやってんですよ。
命の危険を冒して誰も飲まないワイン手に入れるとか愚の骨頂だろ。
ちなみにダビデは、部下が命懸けで水を手に入れた時は、それを「血と同じ」として捨ててたぞ。

ちなみに私は現役の時でも、仕事が入ったら記念式休んでました。
仕事が入らないように、精一杯努力したのにダメってことは、神もそんなに無理して出席することを望んでない証拠だからね。

あと、記念式に来る途中でひったくりに自転車の籠から荷物を取られて、警察に行かなきゃいけなくなって欠席した姉妹とかもいましたね。
開拓してかなり貧しい生活してんのに、あんまりじゃないですか。
神様もそんなに重要な行事なら、ひったくりぐらい止めてやれよ。数億のみ使いがいるんだろ。たかだか数百万の信者守れないなんてサボっt


では、細かい突っ込みに進みたいと思います。

記念式をする目的について。
2節では
記念​式​に​出席​する​なら,贖い​の​価値​を​思い返す​こと​が​でき​ます。イエス​の​犠牲​に​対し​て​どう​すれ​ば​感謝​を​示す​こと​が​できる​か​を​学ぶ​こと​も​でき​ます。また,記念​式​は​兄弟​姉妹​と「励まし合う」機会​と​なり​ます。

とか書いてありました。

これさぁ。
別に記念式じゃなくっても良くね?

クリスチャンなら普段から、食事のたんびに祈ってたり、起きた時や寝る前にも祈ってたりするじゃん。ざっくり言うと歯磨きと同じ回数祈ってる。
その中で、贖いの価値を思い起こすことも、感謝とかもいつでもやってるわけじゃん。
別に記念式じゃなくてもいいでしょ。

『兄弟​姉妹​と「励まし合う」』ってのも、年に1回しか会わないならともかく、週に2回(ちょっと前までは3回)も会ってるじゃん。
記念式1回増えたぐらいで、なんにも変わりゃしねーよ。だいたい今年なんか記念式のおかげで集会1回休みだろ。プラマイ0じゃねーか。

ってことは、別に記念式に出席する理由も大してないってことだね。


次、13節。
記念式に招待することについて。
記念​式​に​来​て​もらう​ため​に,どんな​こと​が​でき​ます​か。まずは​招待​し​ましょ​う。普段​の​伝道​で​出会う​人​に​加え​て,招待​し​たい​人​を​リストアップ​し​て​みる​の​は​どう​でしょ​う​か。

これもさぁ、イエスがほんとに望んでんの?
イエスが記念式を制定した時は、マリアもその他の忠実な人たちも誰も呼ばずに、弟子たちとだけ過ごしてたんだろ。
こんなのべつ幕なしに誰でも彼でも読んで良いもんじゃないでしょ。

先週うちにも招待状が来たって書きましたけど、イスカリオテのユダなんか途中で追い出されたんだよ?
こんなブログ書いてる奴なんか招待しちゃダメに決まってんだろ。

JWの14,4000人の解釈は私は納得できませんが、そんなに契約の当事者とその他を分けたいなら、記念式も当事者だけでやってろ、とも思います。


次。聖書への突っ込みになるんですけど10節。
イエス​が​たくさん​の​試練​に​耐える​の​を,エホバ​は​どんな​思い​で​見​て​い​た​の​でしょ​う​か。自分​の​息子​が​みんな​から​退け​られ,虐待​さ​れ,苦しむ​様子​を​見る​の​は,エホバ​に​とっ​て​本当​に​つらい​こと​だっ​た​に​違いあり​ませ​ん。

JWから離れてこれだけ経つと、この辺もおかしく感じるんですよねぇ。
だって物理法則も何もかも、エホバが作ったわけでしょ?
だったら親の罪が子に遺伝しないようにしとけば、アダムとエバは死ぬけど、子孫は死ななくて済んだわけで、別に贖いの必要もなかったわけです。
最悪、アダムが善悪の知識の実を食べた瞬間に、後出しジャンケン的に、「実はこれは遺伝しませんでした」的に決めたって良かったんです。
言わば、必要もないのに縛りプレイやってるみたいなもん。
わざわざ自分で、贖いが必要な世界に設定しておいて、「辛いわー。イエスが贖いとして苦痛を受けるのはマジ辛いわー。」とか本気で言ってんの?って感じですわ。
エホバは造物主だから、すべてのことを決定する権利がある、とかさんざん学ばされたじゃないですか。
だったら、親の罪が子に遺伝するかどうかぐらい、好きに決められるでしょ。それやらないで、「犠牲を払ってる」とか言われても、好きでやってるようにしか思えないんですよねぇ。


最後。
17節。
長老​たち​は​集会​や​奉仕​を​しばらく​お休み​し​て​いる​兄弟​姉妹​を​どの​よう​に​サポート​で​きる​でしょ​う​か。兄弟​姉妹​の​こと​を​心​から​気​に​掛ける​よう​に​し​ましょ​う。記念​式​まで​に​できる​だけ​多く​の​人​と​連絡​を​取る​よう​に​し​ましょ​う。

お願いだからやめて。
戻りたいけど、戻れないなんて人は正直言ってツチノコ並みにいないの!
お休みしてる人のほとんど全員が、もう二度と関わりたくないと思ってんの!
こっち見んな!って思ってんの!

今週は以上です。