シャクナゲ。


撮影は4月上旬。

では早速今週の記事についてです。

今回はナジルに関する内容でした。

それにしてもさぁ。
「ナジル人」だったのが「ナジル」に変更とか、なんでこんな細かいとこ変更するんだろうね。
いや、名称を変更するだけなら別に大したことじゃないんですけど。


でもさあ。

この組織って、そういう細かいところまでぜーんぶ組織の言うとおりに使わないと、お互いに文句言いあうじゃん。

思えば、新世界訳のクリスチャンギリシャ語聖書(緑)から、新世界訳全巻(黒)になった時も霊の実の「柔和」が「温和」に変更されてました。
よりふさわしい訳になっただけなら問題ないんですけど、人に霊の実を言わせて、まだ「柔和」だと「ブッブー!はい間違い!」みたいなことをやってました、子供たちが。

私とか。(←ダメじゃん)



あとね。
昔は「天使」なんて言ったら、「それは大いなるバビロンの呼び方です」とか文句言われましたよ。
今じゃ、「み使い」って言ったら、「最新の理解に付いて行ってない」とか文句言われるんですよ。




ばーーーーーっかじゃねえのーーー?



とまたハルパゴスになっちゃいました。

とにかく、ころころ用語を変更する割には、それ以外の用語の使用に厳しいのが酷く愚かに思えました。


さて、突っ込みです。

今回の突っ込みは大きく分けて2点。
まずは、神に仕える生き方はそんなに犠牲ばかりなの?ってこと。
9節。
エホバ​に​喜ば​れる​こと​を​行お​う​と​する​と,人​と​違う​こと​を​し​て​目立つ​こと​に​なり​ます。

んで11節。
私たち​は​聖書​の​教え​に​従っ​て​家族​を​大切​に​し​ます​が,家族​が​願っ​て​いる​こと​より​も​エホバ​が​求め​て​いる​こと​を​優先​し​ます。

あと13節。
家族​を​大切​に​し,愛​と​敬意​を​込め​て​接し​つつ,エホバ​に​仕える​ため​に​は​犠牲​が​伴い​ます。

これらの箇所では、いかに神に仕えることに犠牲が求められるか、ってことを強調してるんですが、その考え方がそもそもおかしいと思うんですよねぇ。


最初の9節の箇所。
基本的には、神が求めていることは「神を愛すること」と「隣人を愛すること」だとイエスは言ってました。
それだけをやってて、「人と​違う​こと​を​し​て​目立つ​」ってことなんかあるんですかね?
別に9節にあるように、職場や学校でJWであることを公言する必要なんかないんですから、悪目立ちしないように黙ってりゃいいと思います。

次の11節の箇所。
家族を喜ばせることを神も望んでるんですから、これもそうそう相反することばかりじゃないと思うんですよ。
とんでもない毒親で、子供に万引きさせようとするとかだったらそりゃダメですけと、そんな場合は聖書どうこう言ってないでさっさと警察に相談する必要があります。

最後の13節も同じ。

なんか自分で勝手に規則を作って厳しくしておきながら、犠牲が求められて大変だーとか言ってるのは、本当に馬鹿らしいです。 


あと、もう聖書通して読んだのなんかずいぶん前になっちゃったので間違ってるかもしれないんですが、ナジル人って途中でやめても特にペナルティなかったような覚えがあるんですよ。

今回の記事では、「家族​や​親族​を​亡くし​た​時,この​命令​に​従う​の​は​本当​に​大変​だっ​た​はず​です。当時​の​埋葬​の​習慣​の​中​に​は,遺体​の​近く​で​行う​もの​も​あり​まし​た」なんて書いてありましたが、そんなに大変なら、その時のナジルチャレンジをそこで終了するだけのことに思えるんですよ。
「神に感謝を表そうと思ってナジル始めたけど、アクシデントがあったからここで終了!」ってだけなんじゃないかなぁと。

そもそもぶどう製品一切不許可で死体に触れちゃいけないナジルのサムソンが、宴会行ったりロバの顎骨で千人殺しとかやってる時点でルールガバガバでしたね。


んじゃ最後。もう一個の突っ込み。
記事の脚注から。
これ​まで​の​出版​物​の​中​で,ナジル​を​全​時間​奉仕​者​に​当てはめ​て​考える​こと​が​あり​まし​た。この​記事​で​は,エホバ​に​仕える​全て​の​人​が​ナジル​の​姿勢​に​どの​よう​に​倣える​か​を​考え​ます。

さらっと書いてますけど、これものすごい方向転換ですよ。
今までは、
ナジルは普通の人には求められてない基準を守った→開拓者は普通の人には求められてない要求時間を果たす
って言うのが基本的な適用だったのに、「エホバ​に​仕える​全て​の​人」がナジルに倣うってことになると、じゃあ開拓者は聖書に果たして根拠があるのかってことまであやふやになります。

こうやって解釈を変更しかけてるのにそれを明言しないこととか、今までの解釈が誤ってたと言わずにこっそり変更するのが本当にいやらしいやり方です。

もちろんしらを切って、これまでと変わらない適用を続けるのかもしれませんが、こっそりとナジル人と開拓者の解釈上の結びつきを切り離すように動く可能性もあります。
奉仕時間の多寡で人を差別することに慣れきってるこの組織が、今さら開拓の制度を無くすとも考えにくいですが、この前「姉妹のズボン解禁」とか「ヒゲ解禁」とかもあったので、これからの動きを注意する必要があると思いました。

今週は以上です。

遅くなってすみませんでした。


そうそう。今日、カート奉仕を見かけました。
姉妹たちがそろってラテ系の飲み物片手に集まってました。
さすがにカート横で立たされ坊主やってる時には持ってないと信じたい。

私がまだ小学校に上がるかどうかって時代には、子供が水飲んだだけで、「神聖な奉仕中に何をやってるんだ」とお叱りを受けたもんですが、時代は変わりましたね。
奉仕中に自販機で飲み物買ってると、その時間は差し引かされてました。

いや、良い方に変わってるとは思いますが、水も飲ませてもらえなかった子供たちに謝罪もなく、大した発表もなく、なあなあで基準を緩めておきながら、過去の厳しい基準をなかったことにするのは、正直な行いとは言えませんね。