京都・高台寺を探訪す 戦国時代に生きた、晩年のねねが何を想い過ごしたのか 青紅葉が鮮やかな名所
妻 「アナタ~! どこかへ行きましょう!」私 「そうだなあ・・・ 奈良、大阪・・・」妻 「奈良、大阪は嫌だわ」私 「京都か、滋賀か・・・」妻 「京都がいいわわ。 行っていない寺がいいわ」私 「いつも前だけ、通り過ぎている 高台寺があるけど・・・」妻 「そこよ!」ということで、秀吉の正室・ ねねの高台寺へ行くことになりました。京阪清水5条駅から 高台寺を目指しました。八坂通りから清水寺へ上がる 坂を歩きました。法観寺の五重塔のある坂道は インスタ映えスポットで有名です。この日は、外国人観光客?の 舞妓さんのコスプレを撮影していました。 (いつでも、結婚式の前撮り撮影をよくしています)清水寺へ行かず、 二年坂から高台寺へ下りて行きました。 坂は、観光客でいっぱいでした。ねねの道から、高台寺へ入る台所坂です。青紅葉が美しかったです。台所門が迎えてくれます。門をくぐり、左に折れると受付入口です。祇園閣の建物が一望できました。 祇園閣は、浄土宗の大雲院の建物で 1928年(昭和3)に、名建築家・伊藤忠太の 設計だそうです。 大雲院は、1587年、織田信長、信忠父子を 弔うために創建されたそうです。茶室「遺芳庵」は、商人・灰屋紹益が見受けした 京都島原の吉野大夫を偲んで建てたそうですが 二人が亡くなった後の建築とも言われています。小堀遠州が作庭したと言われている美しい庭園があります。 (東山を借景にしているのが素敵です) 池の上には、「開山堂」へ向かう「観月台」(重文)が かかっています。 「観月台」は、秀吉の伏見城から 移築したものだそうです。池にかかる木造廊下の「観月台(重文)」から ねねは、亡き秀吉を偲んで月を眺めたとか・・・。 (「観月台」は立入禁止でした・・・トホホ)「方丈」には、枯山水の庭が広がっています。奥に見える「勅使門」は、1912年(大正元年)に 再建されたそうです庭からは、霊山観音を眺めることができます。 (少し無粋なような気がしますが・・・)「開山堂」(重文)は、1605年(慶長10)に、ねねが建立し、 ねねの兄・木下家定夫婦などを祀られています。私 「この山奥に、『霊屋(おたまや・重文)』が あるけど、行っみる?」妻 「石段を登るのは嫌だから、 アナタだけで、見てきて。 暑いから、木陰で待ってるわ・・・」 (妻は、坂道と階段が大嫌いです・・・トホホ)私一人で、石段を上がって行きました。「霊屋」は、1605年(慶長10)に、ねねが建立し、 秀吉像とねね像が祀られています。なお、ねね像の地下2mに、ねねが葬られているそうです。秀吉の正室・ねね(北政所、高台院)は、 1549?~1624年の生涯でした。 (一般的には、「ねね」ですが、正確には「おね」だという ことです。 秀吉が関白になったために「北政所」と 言われるようになったそうです。 天皇家との交渉、人質となった各大名の妻子の 監督、世話など、八面六臂の活躍で、 秀吉を支えてました。 「高台院」の称号は、天皇から授けられました)ねねと秀吉の結婚は、ねねの実母が猛反対し、 実母は、生涯この結婚を認めなかったようです。 (どうも秀吉とねねは、婚前、事実婚で 押し通したようです)秀吉とねねに子供が生まれていたら 日本史は大きく変わっていたでしょう。女好き(身分の高い女性好き)、乱倫の秀吉でしたが 完全に秀吉を尻に敷いていました。 (秀吉が、跡継ぎが欲しかったこともあります。 秀吉は「種なし」?だったようですので、 淀殿との息子・秀頼は 当時から、秀吉の子供ではないと 言われていました。 秀頼の本当の父親は誰かは、 日本史最大のミステリーの一つです。 秀吉は、絶世の美女であった 織田信長の妹・お市の方を ストーカーのように追い回しました。 お市の方の夫(浅井長政、柴田勝家)を殺して 手に入れようとしたのですが 自害して拒絶しました。 秀吉は、お市の方の長女・淀殿を 側室にしましたが・・・ なお、信長が、 女癖の悪い秀吉で悩んでいるねねに 思いやり深い手紙を 書き送っています。 そして、この信長の手紙を 「秀吉に読ませてみよ」とまで 書いています)宣教師・フロイスの記録「日本史」には 「異教徒ではあるが、大変な人格者で 彼女に頼めば解決できないことはない」 (ねねの侍女には、マグダレナという キリシタンがいたそうです)ねねは、徳川家康とは、とても仲がいい 訳ではなかったのですが、 ねねの人望には勝てなかったようです。 家康は、豊臣家滅亡後も、ねねが、何不自由なく 秀吉を弔うことができるように 高台寺を建立させました。ねねは、秀吉の人質になっていた 幼い徳川秀忠を丁重に扱い、 親密になっていました。秀忠は、江戸から上洛するたびに、 高台寺のねねを訪れていたそうです。秀忠は、生涯、ねねを大切にしていました。最近の研究によると、ねねと淀殿の仲は 悪くなっかったそうです。なお、秀吉の手紙から、 ねねが「便秘」に苦しんでいたことが 分かっています。開山堂と霊屋を結ぶ屋根付き石段の「臥龍廊」です。 (「立入禁止でした)「傘亭」は、伏見城から移築した茶室です。 天井の竹組が、唐傘に似ているところからの命名「時雨亭」(重文)も、伏見城からの移築です。 (秀吉が建てた伏見城は、大地震で瓦解しました 奥に見える傘亭とは、土間の渡り廊下で 繋がっています)ねねは、1615年(慶長20)、大阪夏の陣で 焼け落ちる大阪城の天守を 「時雨亭」の2階から眺めていたとか・・・。 (焼け落ちる大阪城が見えるのかなあ・・・謎です)時雨亭から山を下っていくと、 嵐山に負けないような竹林の道がありました。高台寺の前を、何度も取り過ぎていたのを 恥ずかしく思いました。高台寺に入ると、観光客は少なく 落ち着いた静かな雰囲気で、探訪できました。青紅葉も素敵ですが、秋の紅葉は 絶景になっていると思いました。超お勧めスポットです。 (着物にコスプレした外国人観光客が インスタ映え写真を撮影していました)高台寺の駐車場からは 法願寺の五重塔と京都タワーが眺められます。観光客でいっぱいの2年坂も眺めることもできます。高台寺のすぐ横には、霊山観音があります。第2次大戦の犠牲者を弔うために 1955年(昭和30)に、観光バス企業が建立したそうです。 (入場せず、入口から写真だけを撮りました・・・スイマセン) 高台寺から、四条河原町へ歩きました。高台寺へ上がるさ鳥居です。すぐ近くに、京都・最強の縁切り神社「安井金毘羅宮」が あります。この石の穴をくぐります。 表から裏へ → 悪縁を切り 裏から表へ → 良縁を結ぶ女性が列をなしていましたので、悪縁が多いのでしょうか? (妻も私も、この穴をくぐるには、 体が堅くて無理だと判断しました)なお、妻とは、悪縁なのか?良縁なのか?は 謎です。 (恐ろしくて、妻に尋ねることはできせんでした。 もちろん、妻は無言でした・・・嗚呼、トホホ)カップルよりも、女性がメッチャ多かったです。いつものように、探索しながら 街のオブジェを撮影しました。スニーカー屋さんの大きな靴です。ジャイアント馬場のリングシューズを 見たことがありますが、それより大きいです。 (ジャイアント馬場の「十六文キック」が有名でしたが 若い人は、この言葉が分からないんだろうなあ・・・) 「昭和は遠くなりにけり」団子屋さんの招き人形です。お多福人形の変形のようです。四条河原町のカバ?のオブジェを見つけました。街には、遊び心が大切です。半日の、高台寺近辺の探訪でしたが お勧めコースです。朝に家を出て、高台寺を探索し、 インド料理の昼食(コスパ抜群で、美味しかった)、 四条河原町に寄って、帰りました。高台寺は、落ち着いた素敵なお寺です。秋の紅葉の高台寺を 是非訪れたいと思いました。最後に、生死が廻った戦国時代に 秀吉と伴に、波乱万丈の人生をおくったねねは、 高台寺での晩年を どのような気持ちで 過ごしていたのでしょうか?