本因坊秀和の父 土屋和三郎 | 墓守たちが夢のあと

墓守たちが夢のあと

歴史に名を残した人物の墓所データベースです。

最福寺

 

本因坊秀和の父 土屋和三郎の墓

 

墓石側面

 

秀和誕生の地碑

 

碑の台座は碁盤

 

本因坊秀和の実家

 

 江戸時代に確立した囲碁家元の筆頭、本因坊家の十四世・本因坊秀和は、静岡県伊豆市小下田の土屋家出身だそうです。
 江戸で秀和は別家を興し、長男の秀悦、次男の秀栄、三男の秀元が本因坊家を継承するなど、土屋家は幕末から明治期の囲碁界をけん引。
 現在、巣鴨の本妙寺にある本因坊家の墓所は、秀和の子孫により管理されています。
 一方で、小下田の実家・土屋家の菩提寺である最福寺には、秀和の父を始め先祖の墓が残されています。数年前に秀和の故郷を訪れたことがあり今回紹介させていただきます。
 小下田の土屋家は、武田信玄に仕え、武田勝頼が自害した際、その時間を稼ぐために織田勢と戦い討ち死にした土屋昌恒の末裔で、武田家滅亡後、小下田に落ち延びてきたと伝えられています。小下田の土屋家にはいくつかの分家があり、秀和の実家も分家の一つだそうです。
 秀和は文政3年(1820)当主の土屋和三郎の子として生まれ、幼名は「土屋俊平」と言いました。父・和三郎は三島の出身で土屋家の養子となったと伝えられています。
 俊平は幼い頃から父や最福寺の住職に囲碁を教わりますが、9歳の時に父に連れられ三島のお祭りに出かけた際、沼津に住む12歳の少年と囲碁の対局をしたところ、四子で敗北。
 腹を立てた和三郎は、そのまま俊平を江戸に連れて行き、当時囲碁界の第一人者であり、同郷の伊豆出身であった本因坊秀和に預けて帰ってしまったそうです。
 しかし、自宅に帰った和三郎は家族に激しく非難され、仕方なく江戸へ戻り俊平を引き取ります。ところが、その帰途、沼津の少年と再び対局した俊平は、今度は互先で打ち分けたそうで、俊平の短期間での成長に気を良くした父親は家族を説得し、正式に丈和の門下生にしてもらったと言われています。
 つまり、父親のあり得ない行動により、秀和は本因坊家継承への道を切り開いていくことになったのです。
 ところで、父の「土屋和三郎」という名は、歴代当主が名乗っていた名前であり、土屋家の墓所には複数の和三郎の墓があります。
 そこで、秀和の経歴と照らし合わせたところ、文政13年(1830)に亡くなった和三郎が秀和の父親であることが判明しました。
 という事は、俊平(秀和)が江戸に出て間もなく和三郎は亡くなり、その後の活躍を見ることは無かったという事が分かりました。
 土屋家の菩提寺・最福寺の境内に建立されている「秀和誕生の地」の碑は、平成2年(1990)に生誕170周年を記念して建立されたもので、文字は坂田栄男(二十三世本因坊栄寿)の揮毫。除幕式には坂田氏本人も出席されています。
 また境内にある資料館「夢の実現堂」には秀和に関する資料があり、取材当時にご住職から色々とお話をうかがうことが出来ました。
 そして、ご住職の案内で寺の隣りにある秀和の実家にも案内していただきました。秀和の実家である土屋家は現在、地元にはおられませんが、建物は、江戸時代のでは無いものの、かなり立派な建物で、昭和63年に「第43期本因坊戦」の第五局が、最福寺の近くの土肥温泉で行われた際には、武宮正樹本因坊と大竹英雄九段が、ここを訪れています。
 なお、秀和の子孫の土屋家と、実家の土屋家は、現在、特に交流はないそうですが、平成18年(2006)に秀和が囲碁殿堂入りした際には、関係者の働きかけで両家が揃って授賞式にのぞんだそうです。

 
 
 
 
 
 
最福寺:静岡県伊豆市小下田1667