法学者 箕作麟祥 | 墓守たちが夢のあと

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箕作家の墓所

 

箕作麟祥の墓(右)

 

箕作麟祥

 

 和仏法律学校(法政大学)初代校長を務めるなど、明治期に法学者として活躍した箕作麟祥は、弘化3年(1846)江戸の津山藩邸で生まれています。
 祖父は蘭学者の箕作阮甫、父は地理学者の箕作省吾、従兄には数学者菊池大麓、動物学者箕作佳吉、歴史学者箕作元八らがいるなど学者の一族に生まれた麟祥は、生まれてから僅か4ヶ月で父が亡くなり祖父の阮甫に育てられます。
 藤森天山・安積艮斎に漢学を、家で蘭学・英語を学んだ麟祥は、文久元年(1861)15歳の若さで蕃書調所の英学教授手伝並となり、福澤諭吉・福地源一郎らとともに、英文外交文書の翻訳に従事。
 慶応3年(1867)パリ万国博に派遣された徳川昭武に随行しフランスへ留学し、明治元年(1868)に帰国すると、明治政府に出仕し翻訳業務に従事。一方で私塾「共学社」を開き,岸本辰雄中江兆民ら優秀な人材を育成しています。
 近代的法整備が急務であった政府は麟祥に「フランス刑法典」「フランス民法典(ナポレオン法典)」の翻訳を命じますが、現在使われている「権利」「義務」「動産」「不動産」などの言葉は麟祥が考案した言葉だそうです。また、Constitution(国家の根本の法)を「憲法」と訳したのも箕作麟祥だそうです。
 その後も民法・商法編纂委員、法律取調委員会委員、法典調査会主査委員などを歴任するなど法制度の近代化に尽力し「法律の元祖」と評された麟祥は、明治22年(1889)司法次官の時に和仏法律学校(法政大学)の初代校長に就任するなど人材の育成にも力を入れ、明治30年(1897)に52歳で亡くなります。政府は、麟祥の死後、その功績を讃えて男爵の爵位を追贈しています。


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