福地源一郎の墓
現地説明板
晩年の福地源一郎
明治時代初期のジャーナリスト、福地源一郎(号は桜痴)は、天保12年(1841)に長崎で生まれ、故郷で蘭学を学んだ後、江戸へ出てイギリスの学問や英語を学んでいます。
外国奉行支配通弁御用雇として幕府に仕えると、文久元年(1861)と慶応元年(1865)の二度、幕府使節の一員としてヨーロッパを視察。ここで西洋の新聞や演劇、文学にも強い関心を示したと伝わっています。
慶応4年、江戸開城が行われていた時期に「江湖新聞」を創刊した福地は、新聞で幕府を擁護したとして逮捕されます。しかし、木戸孝允のとりなしで無罪となり、その後、大蔵省へ入ると岩倉使節団の一等書記官としてアメリカ・ヨーロッパ各国を歴訪しています。
明治7年(1874)には大蔵省を退職し、政府系の「東京日日新聞」(現:毎日新聞(東京))を発行している日報社に入社。後に主筆、そして社長を務めています。署名入りの社説を書くなど、紙面を刷新して発行部数を大幅に増やした福地は、「西南戦争」が勃発すると、自ら従軍記者として参加。ジャーナリストとして更に名声をあげたそうです。
明治11年(1878)には東京府議会議員に当選し、翌年には議長に就任。明治15年(1882)には丸山作楽・水野寅次郎らと共に「立憲帝政党」を結成していますが、勢力を拡大することは出来ず、翌年には解党しています。
また、「東京日日新聞」は「太政官記事」など政府の情報を売りにしていましたが、明治16年(1883)に「官報」が創設されると、その役割が取って代わられ次第に経営が悪化。福地は明治21年(1888)に社長を退き日報社を退社しています。
その後、小説家や劇作家として活躍した福地は、特に演劇界において、新しい時代の歌舞伎を提唱する「演劇改良運動」に9代目市川團十郎らとともに参加。その活動の拠点として、明治22年(1889)に銀行家・千葉勝五郎とともに「歌舞伎座」を開場し共同経営します。歌舞伎座の経営から手を引いた後も座付作者として活躍していた福地は、明治37年(1904)の衆議院選挙に立候補し当選。しかし、在職中の明治39年(1906)に亡くなり谷中霊園に葬られています。
谷中霊園 甲1号12側