木戸孝允(桂小五郎) | 墓守たちが夢のあと

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木戸孝允の墓
 
木戸孝允

 

 京都霊山護国神社には明治維新のために尽力した志士達1356名の墓があり、中でも坂本龍馬の墓所として知られていますが、現地案内図に最も大きく描かれているのは西郷隆盛、大久保利通と並んで「維新の三傑」と称されている木戸孝允(桂小五郎)の墓です。
 天保4年(1833)、現在の山口県萩市に藩医・和田昌景の長男として生まれた小五郎は、七歳で向かいの桂家の末期養子となり、長州藩の大組士という武士の身分と秩禄を得ます。翌年には桂家の養母も亡くなったため、生家の和田家に戻り両親の元で成長しています。
 早くから秀才として注目されていた小五郎は、藩校明倫館で吉田松陰の教えを受け、さらに江戸留学により多くの志士たちと交流を結び、尊王攘夷派の中心人物として長州藩を率いていきます。よく、木戸は松下村塾出身と間違われますが松下村塾には入っていません。
 有名な「池田屋事件」では池田屋へ一番早く行った小五郎は、まだ同志が集まっていなかった為、近くの対馬藩邸へ行っていたために難を逃れます。
 八月十八日の政変、禁門の変により長州藩は京より撤退しますが、小五郎はその後も京に潜伏し情報収集に努めます。
 その後、帰郷すると長州藩を率い、坂本龍馬の仲介で薩長同盟を締結。第2次長州征討で幕府軍を打ち破りますが、この頃、木戸姓に改めています。大政奉還により長州藩の復権に成功すると薩長主導による新政府を樹立。
 木戸は明治新政府でも中心的役割を果たしますが、明治10年(1877)、西南戦争への対応で京都に滞在中、病死します。そして、霊山護国神社隣りの霊山墓地へ葬られました。霊山墓地の墓のほとんどが招魂碑ですが、木戸孝允夫妻の墓は、坂本龍馬中岡慎太郎の墓と並んで数少ない実際に埋葬されたお墓です。

 

 
京都霊山護国神社:京都市東山区清閑寺霊山町1
撮影日:2014年3月16日