木戸松子の墓
料亭「幾松」
京都市東山区の京都霊山護国神社隣りにある霊山墓地には木戸孝允(桂小五郎)の墓がありますが、その隣りには松子夫人(幾松)の墓があります。
木戸松子は天保十四年、若狭国小浜藩士・木崎家に生まれ、名前は計(かず)といいました。しかし、父は藩内の農民騒動の影響で閉門。その後、妻子を残したまま京都へ出奔してしまい、母は子供達を連れて夫の消息を尋ねて上洛します。しかし、貧しい生活のため松子は九条諸太夫の次男・難波恒次郎の養女に出されます。恒次郎の妻は元・京都三本木の芸者・幾松で、松子は十四歳の時に三本木の「吉田屋」の芸妓となり二代目幾松を名乗りました。
嘉永七年、ペリー来航による世情不安で御所近くの三本木には多くの勤皇の志士達が集まるようになります。この頃幾松は置屋「瀧中」の芸者で笛と舞の名手として評判となっていました。幾松には実家の木崎家と養家の難波家を養う為に莫大な借金があり、幾松に入れ込んだ桂のために伊藤俊輔が奔走して金の都合を付け身請けします。
桂と幾松は京都木屋町に居を構え生活を始めますが、幾松は芸妓を続けて勤皇志士たちの為に宴席での情報収集に努めています。
長州藩は元治元年、「八月十八日の政変」で京都を追われ、さらに「池田屋事件」では桂小五郎は会合に遅れた為に襲撃を免れますが、新撰組に追われ幾松に匿われています。
「蛤御門の変」により長州藩は朝敵となりますが、桂は京都に潜伏し情報収集を行ない、この時も幾松は支援しています。しかし、新撰組の追及が厳しくなった為、桂は但馬出石に脱出。新撰組は幾松を捕らえて桂の居場所を聞き出そうとしますが、幾松は対馬藩同志の協力により下関に逃げ延びます。
長州に帰藩後、桂は木戸に改姓し、維新後は孝允と名を変えますが、幾松も松子と変え、長州藩士・岡部利済の養女として正式に入籍します。
なお、木戸夫妻が暮らした木屋町の屋敷は、現在は料亭「幾松」として営業していて、国の登録有形文化財(建造物)に登録されています。
京都霊山護国神社:京都霊山護国神社:京都市東山区清閑寺霊山町1
撮影日:2014年3月16日
料亭「幾松」:京都市中京区木屋町通御池上る