数学者 菊池大麓 | 墓守たちが夢のあと

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菊池大麓の墓
 
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側面
 
菊池大麓

 

 谷中霊園の洋学者、箕作秋坪の墓の隣りに、息子の菊池大麓(きくち だいろく)の墓があります。
 大麓は、箕作秋坪の次男として江戸に生まれ、父の実家・菊池家の養嗣子となります。
 東京大学の前身である蕃書調所で英語を学び、慶応3年(1867)にイギリスへ留学。幕府崩壊により一時帰国しますが、明治3年(1870)に2度目の留学を果たすとケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジで数学と物理学を学び学位を取得。日本人初のケンブリッジ大学卒業生となります。
 帰国後、東京大学理学部教授となり、近代数学を教授。その後、東京帝国大学総長、学習院院長、京都帝国大学総長、理化学研究所初代所長等を歴任する一方、政治家としても明治23年(1890)に貴族院勅選議員に勅任され、第2次松方内閣から第3次伊藤内閣にかけて文部次官として大臣を補佐。
 明治34年(1901)には第1次桂内閣で文部大臣を拝命し教育行政をリードしていきます。そして、明治45年(1912)に枢密顧問官に勅任されて大正6年(1917)に亡くなるまで参画しています。

 

 ところで菊池大麓は、日本人初のラガーマンだったことでも知られています。ケンブリッジ大学時代にラグビーの試合に出場したことがあるそうで、これが日本人の記録に残る最も古いラグビーのプレーだそうです。
 
 
谷中霊園 乙5号2側(低地側飛び地)