箕作秋坪 | 墓守たちが夢のあと

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箕作秋坪の墓
 
箕作秋坪

 

 箕作秋坪は幕末から明治期にかけて活躍した洋学者です。
 文政8年(1826)に津山藩の儒者菊池士郎の二男として生まれた秋坪は、津山藩の蘭学者、箕作阮甫、次いで緒方洪庵の適塾にて蘭学を学び、嘉永3年(1850)阮甫の二女つねと結婚し養子となります。(つねの死後、阮甫の三女と再婚)
 安政6年(1859)から東京大学の前身である蕃書調所の教授手伝となり文久1年(1861)には幕府による文久遣欧使節に福澤諭吉らとともに随行しヨーロッパを視察しています。
 明治維新後、かつての攘夷論者である新政府に仕えるのを好まず、私塾三叉学舎を設立。ここでは東郷平八郎、原敬、平沼騏一郎らが学んでいます。
 明治6年(1873)には森有礼らと日本初の学会「明六社」を設立し、後に社長へ就任しています。
、この他、東京学士会院の創設への参画や、高等師範学校摂理を務めるなど日本の教育界に多大な影響を与えた秋坪は、明治19年(1886)に肺炎のため死去しています。
 
谷中霊園 乙5号2側(低地側飛び地)