元帥海軍大将 東郷平八郎 | 墓守たちが夢のあと

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歴史に名を残した人物の墓所データベースです。

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多磨霊園入口

 
 東京都府中市から小金井市にまたがる都立霊園「多磨霊園」へやってきました。大正12年(1923)に東京市により整備された日本初の公園墓地であり、128万平方メートル(東京ドーム27個分)の広大な敷地の中にはバスも通っています。当然、1回では廻り切れないため、今回は第一弾として紹介します。
 多磨霊園は青山墓地・谷中墓地などの公営墓地が手狭となったために整備されたのですが、東京の中心部より遠く離れた場所にあるため当初は不人気で申し込む人はあまりいませんでしたが、昭和9年(1934)に東郷平八郎帥海軍大将が名誉霊域に埋葬されたことにより一気に知名度が上がり、現在は、改葬などで空いた場所のみの新規の募集が行われています。
 
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東郷平八郎の墓
 
 鹿児島藩士の東郷平八郎は戊辰戦争に従軍し、維新後の明治4年(1871)にイギリス海軍に留学します。帰国後、海軍中尉となり、日清戦争では浪速艦長として活躍。その後、海軍大学校長、常備艦隊司令長官、舞鶴鎮守府司令長官等を歴任しています。
 日露戦争では、連合艦隊司令長官として、旗艦「三笠」に乗艦し、自ら主要作戦を指揮、ロシアのバルチック艦隊を日本海海戦で全滅させる軍功を上げます。大正2年(1913)に元帥となり、晩年も海軍の長老として昭和9年(1934)に86歳で亡くなるまで絶大な影響力を保持していました。
 各国の軍人からも尊敬されていた東郷の国葬には各国海軍の儀礼艦が訪日し、イギリス海軍重巡洋艦「サフォーク」、アメリカ海軍重巡洋艦「オーガスタ」、フランス海軍は軽巡洋艦「プリモゲ」が日本艦隊と共に横浜港で半旗を掲げ、弔砲を発射しています。また、イタリア海軍巡洋艦「クアルト」、中華民国巡洋艦「寧海」も葬儀後に横浜へ駆けつけています。
 東郷は、生前に自分が神として祀られるのを拒否していたと言われ、墓も母親の眠る青山墓地への埋葬を希望していたそうですが、願いは聞き入れられず、軍神として崇められ神社が建立されています。
 第二次世界大戦後、GHQでは日本の軍国主義につながるものを次々と排除していきますが、東郷を尊敬するアメリカ人も多く、東郷に関連するものには一切手を出さなかったといいます。
 
多磨霊園 7-特-1-1