明治大学創設 岸本辰雄 | 墓守たちが夢のあと

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岸本辰雄

 
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岸本辰雄の墓
 
 谷中霊園には明治大学(明治法律学校)の創設者で初代校長を務めた岸本辰雄の墓があります。
 嘉永4年(1851)に鳥取藩で藩士の子として生まれた辰雄は藩校「尚徳館」で学び、戊辰戦争に従軍後、明治3年に藩の推薦を受けて「大学南校」(後の東京大学)へ入学します。翌年にはフランス法を専門とする法律家養成機関「司法省法学校」に第一期生として入学し、卒業後、宮城浩蔵、矢代操とともにフランスへ留学します。
 帰国後の、明治14年(1881)に宮城や矢代と共に「明治法律学校」を設立。学校設立にあたりフランス留学仲間であった西園寺公望が協力し、財政的支援は辰雄の出身である鳥取藩最後の藩主池田慶徳の息子・池田輝知と旧島原藩主・松平忠知が協力しています。ちなみに慶徳と忠知は共に水戸藩主・徳川斉昭の実子で養子として各藩を継承しています。最後の将軍・徳川慶喜の兄弟にあたる人物です。
 「明治法律学校」は数寄屋橋の旧松平忠知邸を校舎として開校しています。その跡地付近である銀座5丁目の数寄屋橋交差点の一角には、現在「明治大学発祥の地」の碑があります。
 岸本辰雄は明治45年 (1912)に市電で大学へ向かう途中に脳溢血で倒れ亡くなっています。
 
東京都台東区谷中 谷中霊園 乙 4号 9側