大隈重信暗殺未遂 来島恒喜 | 墓守たちが夢のあと

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 早稲田大学を設立した大隈重信は外務大臣時代に右翼活動家に爆弾を投げつけられ右足切断の重傷を負いますが、その実行犯である来島恒喜の墓が谷中霊園にあります。
 来島恒喜は安政6年(1860)に福岡藩士・来島又右衛門の二男として福岡に生まれます。明治16年(1883)に上京し中江兆民に仏語を学んだ後、右翼の巨頭・頭山満率いる玄洋社社員となります。
 来島は明治22年(1889)に、日本への不平等条約解消のために外務大臣の大隈重信が中心になってとりまとめた条約改正案が不平等の解消につながらないと反対し、玄洋社を退社したうえで帰宅中の大隈が乗る馬車を襲撃。爆弾を投げつけ暗殺しようとします。大隈は一命を取り留めたものの右足切断の重傷を負い大臣を辞任。当時の黒田内閣も騒動のため総辞職したため条約改正は頓挫してしまいます。
 一方、来島は爆弾が炸裂すると同時に、短刀で喉を突き自害。31歳の生涯を閉じています。
 当時、来島の行動に一定の理解を示す人も多かったようで来島の最初の墓は勝海舟により建てられます。現在の墓は頭山満により建替えられたもので、墓に刻まれた文字は頭山満によるものです。写真には写っていませんが、勝海舟が建てた墓石は現在の墓の脇に横たえられているそうです。
 
東京都台東区谷中 谷中霊園 乙10号17