蘭学者 箕作阮甫 | 墓守たちが夢のあと

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箕作家の墓所

 

箕作阮甫の墓

 

箕作阮甫

 

 多磨霊園に眠る幕末期に活躍した洋学者・箕作阮甫は、寛政11年(1799)に美作国津山藩(津山市)藩医の家に生まれ12歳で家督を相続。京都で漢方医学を学び、文政5年(1822)に藩医となります。翌年、江戸へ出ると蘭方医、宇田川玄真の門人となり蘭学を学んでいます。
 阮甫は、わが国初の医学雑誌『泰西名医彙講』や『外科必読』など多くの翻訳本を刊行。天保10(1839)年には幕府天文方蕃書和解御用を命ぜられ、外交文書の翻訳に当たります。
 ペリー艦隊来航時には、米大統領国書の翻訳にあたり、対露交渉団の一員として長崎にも出向くなど活躍。幕府の蕃書調所が創設されると教授職筆頭に任命され幕臣に取り立てられています。
 また、安政4(1857)年に「お玉ケ池種痘所」が設立された際には,拠出者の筆頭となっています。
  文久3年(1863)63歳で亡くなった箕作阮甫の墓石には、「紫川箕作先生之墓」と刻まれています。紫川は阮甫の号だそうです。
 阮甫の子孫について、以前、谷中霊園にある娘婿の箕作秋坪の墓所について紹介しましたが、阮甫の家督を継いだ箕作省吾も婿養子で、共に明治以降学者として活躍しています。


多磨霊園 14区1種2側