山手線の西日暮里駅(下記注釈*1) で下車し、 改札を出てから線路に直交する道潅山通りを右に曲がると、道路の反対側に緩やかな上り坂が見える。そこを歩いて行くと、程なく道路の直ぐ右に道路と平行する東北本線や高崎線が通る緑色の陸橋が見えてくる。
第二日暮里跨線線路橋
その橋は、今でこそ緑色だが小生が子供の頃には黒かった、実家ではこの鉄橋を「黒い鉄橋」と呼び、亡祖父と何度も散歩に行った場所だ。昭和30年代前半だった。
なぜ「黒い鉄橋」と呼ばれたのか。
元々黒く塗られていたのかもしれないが、家族の話によれば鉄橋の下を走る蒸気機関車の煤煙が鉄橋に付着したからだという。そう云えば蒸気機関車が放つ警笛音、昔の家屋には現在の様な防音性がなかったこともあって小生の実家まで聞こえたものだった。その音は今でも記憶している。小生の親は「その音が聞こえると天気が崩れる」と言った。当時はその理由を知る術もなかったが、それはこういう理由による。
実家は黒い鉄橋の北東方向にあった。つまり実家まで警笛音が聞こえるということは、東風が吹いていることだ。音は風上よりも風下の方が聞こえ易い。
蒸気機関車の警笛が聞こえると天気が崩れるという理由は、音源が北東方面にあるということと、そちらが風上であると言う2つの相乗効果の結果だ。
音源が地表にあると仮定すると、音は地表の音源を中心とする半球空間へ発散する。音のエネルギー、即ち空気を媒体として縦波に伝播する運動エネルギーの総量は、音源を最大値として無限に遠いところで減衰値が最大となるエネルギーを半球型に全方向で積分された値となる。ある地点、例えば音源と同じ地表にいる被試験者に到達するエネルギーは、被試験者の耳に集音されるエネルギーの総量である。
このとき、音を伝える空気が動いていたらどうなるか。音は空気を媒体として振動エネルギーを伝播するから、空気が移動するとそれに引きずられて音の振動伝播方向も屈折する様に移動する。つまり音源から全方向に向けて伝播する音の一部は、その過程で風の影響により屈折が生じ、凸レンズの様な効果が働きとなって、空気が停止している場合には伝播されない程度の微音でも風下にいる被試験者には聞こえると言う現象が発生する。
つまり、警笛を発する蒸気機関車の西側にいる人にとって警笛は西風の時には聞こえ難く、東風の時には聞こえ易いのだ。小生の実家で蒸気機関車の警笛が聞こえるということは、東風が吹いているということになる。東風が吹くということは、気圧の高い東から気圧の低い西へ風が吹いているわけで、西にある低気圧はコリオリの力を得た偏西風の影響で東に移動し、やがて天気は崩れる。そういう経験則から「蒸気機関車の警笛が聞こえると天気が崩れる」と言ったのだろう。
祖父母や両親がそのメカニズムに就いて何処まで理解していたかは判らないが、経験則として自然現象を習得するというのはスゴイことだと思う。
この黒い鉄橋の正式名称は「第二日暮里跨線線路橋」という。鉄橋を走る東北線や高崎線の下を通る列車は田端を起点とする常磐貨物線だ。昭和30年代とはいえ、都内の国鉄(今のJR)の路線は概ね電化されていたはずだが、この線には蒸気機関車が走っていた。小生が友人たちとこの線路辺りで遊んでいた時に蒸気機関車が通っていたことは、今でもはっきりと記憶している。
1969年3月15日に日暮里から上野へ向かう常磐線の写真が次のブログに掲載されていた。この写真に記録されている様に、1969年、つまり昭和40年代前半まで常磐線には蒸気機関車が走っていた。大変貴重な写真である。ここに掲載する許可を得る方法が分からないので、取り急ぎブログのURLを貼っておく。指摘頂ければ削除します。
http://sellbremse.blog.so-net.ne.jp/2011-10-25-1
常磐貨物線に対し、人を運ぶのは東京都荒川区の日暮里駅( 下記注釈 *2) から千葉県北西部、茨城県、福島県の太平洋側を経由して宮城県岩沼市の岩沼駅までを結ぶ東日本旅客鉄道の鉄道路線で、2015年3月14日までは上野始発、以降は東京駅、品川駅まで乗り入れとなった常磐線だ。
常磐線を使う人は知っている人も多いと思うが、乗車している客は日暮里駅を出た下り電車が三河島駅( 下記注釈 *3) 方面へ向かう時、駅出発直後から「キーン」という高周波数成分を持つ激しい軋み音と剛体が捩れる様な騒音を立てつつ、金杉踏切( 下記注釈 *4) と言う踏切を経て時計回りに大きくスロープを描きながら進行方向を130度ぐらい捻じ曲げて進むことに気付くだろう。一方、金杉踏切で電車の通過を待つ人たちは、電車の車内よりも更に大きな轟音に晒されながら、車体を傾斜させてカーブを曲がって走る電車を見る。
常磐線 金杉踏切とその周辺
この軋み音が発生するメカニズムは、電車にはカーブを曲がる時に作動する自動車の差動装置の様な装置が無いので、カーブがきつい場合、車輪の円錐踏面だけでは内輪差を解消し切れないために片側の車輪がレールの上を滑ることが原因だ。また、車輪のフランジがレールと擦れあうことも軋み音が発生する理由となる。いきおい、くだんの地点で起きる凄まじく大きな軋み音は、恐ろしく曲がったカーブによって発生しているということになる。
このスロープを描く常磐線は、田端から延びる常磐貨物線と三河島駅付近で合流するのだが、この線沿線について色々と踏査したり調べてみたところ、これまで知らなかったことがたくさん分かった。それをここに記しておく。
実は常磐線、開業当初は田端駅始発となっていたそうだ。
この捻じ曲げる様な大きなカーブ、一体なぜこの様な経路になっているのかというと、常磐線を田端へ入れずに上野へ導くためだったと言う。
元来、常磐線は常磐炭鉱の石炭を東京、神奈川にある火力発電所や京浜工業地帯へ運搬することを目的として発足した路線だった。この常磐線を敷設するに当たり、上野駅を始発とさせるには駅敷地面積が狭かったため、明治29年4月1日、田端駅がターミナル駅として開業した。その後、南千住や隅田川貨物駅が同年12月25日に開業し、常磐線は田端-土浦間で開通した。つまり当初常磐線は上野に入るのではなく田端へ入っていたのである。主に常磐炭鉱で発掘された石炭が常磐線を使って隅田川貨物駅(*5)に集荷され、そこから田端へと配送されたのだ。常磐炭鉱の石炭は北海道や九州産の石炭と比較すると、熱量は低いものの火持ちすることから重宝されたというから、常磐線は、極めて重要な任務を遂行していたという。
しかし、常磐方面から上野に行くためには田端にてスイッチバックさせる必要があった。即ち、一度田端に突っ込んだ後で進行方向を逆方向とし、上野へ向かうと言う方法である。この場合、電車であればスイッチバックもさほど手間ではないが、当時は蒸気機関車が貨車や客車を牽引していたからスイッチバックは相当に不便だった。そこで明治38年4月1日に日暮里駅と三河島を開設し、日暮里駅から三河島駅へと線路を大きく曲げてつなぐ新たな線路を建設した。
それが日暮里・三河島間のスロープであり、現在の常磐線のルートとなった。
これに伴い、上野から常磐方面に行く場合に余儀なくされていた田端でのスイッチバックは解消し、田端から三河島へつなぐ線路は貨物専用となって今日に至る。この常磐貨物線は、正確にいうと田端信号場から三河島駅までを田端貨物線(1.6km)、三河島駅から隅田川駅( 下記注釈*5) 、南千住駅までを隅田川貨物線(5.7km)という。また、田端の貨物駅は正式名称を田端信号場駅といい、現在もJR貨物鉄道の駅となっている。
この常磐貨物線には田端~三河島間に片瀬踏切、日暮里八丁目2号踏切、日暮里八丁目3号踏切、日暮里踏切、三河島踏切という5箇所の踏切がある。そのうち2つの踏切は自動車やバイクといった車両の通行が出来ない踏切となっている。常磐貨物線は、元々貨物専用線の踏切なので列車の往来は少なく、遮断機が下りていることは稀だ。尤も、本数は少ないとはいえ、隅田川貨物駅と田端信号場駅を結ぶ重要な貨物幹線なので、廃線となることはないだろう。ただし、踏切については、いったん下がると貨物車両は長蛇となる上に速度が遅いので、遮断機が上がるまでかなり待たされるのが難点ではある。
これらの踏切を田端側から紹介する。
片瀬踏切 キロ程:0K657M
片瀬踏切とその周辺
常磐貨物線が田端信号場を出てから最初の踏切がこの踏切だ。写真の様に車両通行は出来ない踏切となっている。ここは現在の西日暮里駅に近いためか人々の往来はかなり頻繁な踏切だ。現在、この辺りに片瀬という地名はないが、ここより三河島駅寄りでアンダーパスする尾久橋通りにかかる橋梁名が片瀬北陸橋となっており、かつてこの辺りが日暮里町大字片瀬だったことから、当時の地名であった片瀬という単語が、現在も踏切や橋の名称として残っているようだ。
片瀬踏切から見る下り方向と、上り方向に見える第二日暮里跨線線路橋
日暮里八丁目2号踏切 キロ程:0K756M
日暮里八丁目2号踏切とその周辺
ここも片瀬踏切と同様に車両通行が出来ない踏切だ。この踏切は数年前まで都内のJRにおける唯一の第三種踏切、即ち警報機のみで遮断機のない踏切だった。近年になって、事故も多発したことを踏まえて遮断機が設置されたのだろう。JRの踏切一覧「東京都内の踏切データ」一覧表 平成19年度版」を次に示す。これによれば、平成19年までは第三種踏切だったことが分かる。
この日暮里八丁目という名称は、旧町名が日暮里八丁目だったことに由来する。古い名称がそのまま残されているところ、例えば今はなき川や橋などの名称が通りや交差点などに残っている例は幾つもあるが、この踏切の名称も同様だろう。先の片瀬踏切という名称が、かつての地名だったことと類似する。余談だが、小生が小学生のころ、この近所に住む友人とよく遊んだのがこの辺りだ。
日暮里八丁目3号踏切 キロ程:0K835M 幅員11.3M
日暮里八丁目3号踏切とその周辺
日暮里八丁目踏切から見る下り方面 藍染川西通りと言う看板
ほぼ直線沿いに、すべての踏切が見える
ここも日暮里八丁目2号踏切と同様、日暮里八丁目という旧町名がそのまま残っている。ここは車両通行可能な踏切である。写真にある様に、ここの現在の町名は西日暮里一丁目だ。この線路が横断する通りの名称は「藍染川西通り」というが、この名前は道路の下を流れる藍染川に由来している名称である。ただし、正確に言うと、この暗渠となっている川は「藍染川排水路、地元では大ドブと呼んでいた」で、西日暮里にある不忍通りから上野台地の下を掘削して現在の山手線の下を潜り抜けたあとに開渠となって隅田川へと排水する水路のことだが、現在は藍染川もこの藍染川排水路も暗渠となっている。これについては別に紹介してあるので、ご参照頂きたい。
谷根千、日暮里、上野を流れていた藍染川(その1) -藍染川の生い立ち
http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-11935005041.html
谷根千、日暮里、上野を流れていた藍染川(その2) -藍染川の流路
http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-11935219750.html
谷根千、日暮里、上野を流れていた藍染川(その3) -藍染川排水路
http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-11935229968.html
いずれにせよこの踏切は、藍染川排水路、大ドブが開渠だったころには踏切ではなく橋梁となっていたわけだ。小生、ほんのおぼろげではあるが、この大ドブを横切る橋の記憶がある。橋の色は赤茶色ではなかっただろうか。図書館などの資料を探してみたが、橋の色はおろか、その存在が書かれた記載は見つかっていない。
日暮里踏切 キロ程:0K956M 幅員14.6M
日暮里踏切とその周辺
西日暮里駅をアンダーパスする道潅山通りを横切る踏切で、車両の通過量も多い踏切だ。踏切から三河島方面を見ると、日暮里駅を出た常磐線が大きなスロープを描いた後に、この常磐貨物線の上り線と下り線の間に分け入る構造を見ることが出来る。 この日暮里踏切と次の三河島踏切には、かつて使用されていたと思われるロープが現在も残っている。小生の記憶でも、昔は現在の様な遮断機ではなくロープ式遮断機だった。
ロープ式遮断機のロープ 日暮里踏切から下り方面を見る
三河島踏切 キロ程:1k205M 幅員6.0M
三河島踏切とその周辺 高架は常磐線
常磐貨物線にある最後の踏切、三河島踏切。高架となっているのは現在の常磐線で、左右に分かれた常磐貨物線とこの先の三河島駅を過ぎた辺りで合流する。この常磐線の高架を三河島跨線と言う。日暮里駅を出てから10番目のガードで最も三河島よりのガードだ。それぞれのガードについては後述する。
常磐貨物線が左右に分かれた理由は、左二車線と右二車線を合流させるためだ。ここにもロープ式遮断機用のロープが装備されたままとなっている。この踏切を越えると常磐貨物線は序々に高度を上げて三河島駅へと向かう。
田端信号場からここまでが現在の常磐貨物線となり、日暮里駅を出てから高架となっていた常磐線まで高度を上げて並ぶ。その後、常磐貨物線は、正確な名称を隅田川貨物線と改称し、隅田川貨物駅へと向かう。
高架となった貨物線は、下から見ると写真の様に見える。
常磐線三河島駅のプラットフォームと、その下を走る常磐貨物線
田端信号場から三河島までの常磐貨物線を辿る僅か1.6kmの小さな旅はここまでだ。この線は、本数こそ少ないが、東日本の貨物玄関でもある隅田川駅と都内への集配所である田端駅をつなぐ重要幹線であり、今でも貨物列車が走る。
平成27年3月14日を以って、高崎線や宇都宮線が上野東京ラインとして東海道線と相互乗り入れとなった。これに伴い、常磐線も品川まで延びた。今後、常磐線がこの貨物の線路を利用すれば、田端経由池袋新宿方面という山手線の逆周りや高崎、宇都宮への直通運転も可能となるかもしれない。もちろん、それには多くの支障はあると思うが、出来ないことではないだろう。そもそも、その昔は常磐線、田端始発だった。今の様になるとは誰も思わなかったかもしれない。
「先のことはわからないね」
目を閉じて耳をすましてみると、そう云っている蒸気機関車の警笛が遠くに聞こえる気がする。
注釈:
(*1)西日暮里駅
1971年に、山手線の中では最も新しい駅として開設された駅。地下鉄千代田線との乗り換え駅として発足した。
(*2)日暮里駅
明治16年7月28日に上野熊谷間に開通した高崎線の一駅として、明治38年4月に開設された。当時は上野の次が王子駅だった。日暮里駅が開業するまで、常磐線は上野から田端経由で南千住と言うスイッチバックルートであったが、上野から直接南千住に向かう「効率のよい」ルートの中央として日暮里駅が開設された。1952年に起きた日暮里駅構内乗客転落事故の経験から2年後の1954年、谷中墓地の崖を削って新たなホームを建設した。
(*3)三河島駅
三河島駅は日暮里駅の次の駅として明治38年4月に開設された。この駅は、当時の貨物駅であった秋葉原駅が手狭になったので開設した(というか、開設させられた)専ら貨物の駅だった。大正9年の記録によると、2-3時間に1本という通行だったために一日の乗客数は282人だったという。
(*4)金杉踏切
日暮里駅と三河島駅の間にある踏切。日暮里駅を出て直ぐのところにある。金杉と言う地名、現在は消滅しているが、記録を見ると、1899年に設置された東京市に「北豊島郡にある金杉村という村の一部を日暮里村へ編入した」とある。よって、金杉という踏切名はそれに由来していると考えられよう。この踏切は、朝夕は相当な「開かずの踏切」である。
(*5)隅田川駅
隅田川駅は、それまでの秋葉原駅だけでは処理しきれなくなったことで、明治29年12月に貨物専用の駅として南千住駅と共に発足した駅である。