プロムナード -23ページ目

プロムナード

古いこと、新しいこと
いつでも、どこでも
思いつくまま、気の向くまま

 


小生がリスペクトする二人のうちの一人、井澤弥惣兵衛為永。

 

 

 

 

 

埼玉県さいたま市見沼自然公園にある銅像


知っている人は相当少ないと思うが、江戸時代の土木技術者だ。一体彼の何が凄いのか。。。いや、とにかくスゴイのだ。

埼玉県と群馬県や茨城県の県境にある利根川から取水する用水路には大小様々、幾つかの用水路があるが、その中のひとつに、さいたま市の見沼たんぼへ給水する見沼代用水という用水路がある。埼玉県の教科書には必ず出てくるという関東最大の用水路だそうだが、小生は東京生まれ育ちだったので、埼玉に住むようになってから始めて知った名前だ。

始めてこの用水を見た時、普通の用水と比べた水流の速さに驚いた。

埼玉県の南部は、面積約1万7000平方キロメートルという日本で最大の平野である関東平野の中央に位置し、極めて平坦な土地となっているため、自ずから川の流れは緩やかなものとなっており、ぱっと見ではどちらに流れているのか分からないような川が多いのだが、それに比べてこの用水は流速がとても速い。一体この用水路は何処から流れ出て何処へ流れ着くのだろう。その疑問がこの用水路との出会いだった。調べてみると、度肝を抜くような大偉業だったことが分かった。

著名ではない、地元しか知らないような川を遡上したり下って河口を探し出すことは、散策途中で様々なことが分かったり、大発見があったりして楽しいものだ。

この見沼代用水についても、水源や河口を探り始めたのはもう10年以上も前のことだ。ところが、さいたま市から利根川までは調査に取り掛かって直ぐに走破したものの、下流部分についてはなんとなくサボったまま何年も過ぎてしまったのだが、最近になって最終河口である荒川までのルートを走破したので記録しておくことにする。

この用水路、見沼代用水は、先に紹介した井澤弥惣兵衛為永(以下、為永と略す)が、江戸時代に設計施行した用水路である。

為永は、幼少の頃から算術に長けていた土木技師で、開田や治水に多くの偉業を達成した人物なのだが、出生記録がはっきりしないらしく、東京麹町にある心法寺の墓碑による逆算だと寛文3年(1663年)、寛政重修諸家譜の記載によれば承応3年(1654年)らしいが、事業の経緯から推測すると寛文3年(1663年)が本当の生年な様だ。没年は元文3年3月1日(1738年4月19日)、つまり76歳まで生きていたわけだから、江戸時代の平均寿命が45歳程度だったことを考えると、異例の長命だったことになる。

為永がこの見沼代用水を造成した経緯について整理しておこう。

江戸時代の享保元年に徳川吉宗が八代将軍になった頃、当時の幕府は財政状況は大変厳しく、財政改革が必要とされ、吉宗は年貢増徴手段として新田の開発を奨励した。その間、土木技術に秀でた紀伊国那賀郡溝ノ口村(今の和歌山県海南市野上新)の豪農の出身者である勘定吟味役格、井澤弥惣兵衛為永を江戸に呼び寄せ、享保10年(1725年)に当地での水田開発を命じた。為永は現在のさいたま市東南部の大宮台地で見沼(見沼溜井)を視察した後、見沼を干拓して水源を利根川とする新たな用水路を開削する工事に、享保12年(1727年)に着工して翌13年2月に完成させた。これが見沼代用水(見沼の代わりの用水)である。

用水路は、利根川から取水後に既存の星川を利用して導水し、交差する元荒川の川床を木製樋館で通す伏越(サイフォン)で通過させたり、綾瀬川は掛渡井で通すなどの工夫を行い、現在の上尾にある瓦葺で東縁と西縁に分水して東西から見沼田んぼを挟むようにして用水源としたもので、取水口である利根川右岸の下中条村(現在の埼玉県行田市下中条)からの水路延長は約60km、受益面積17,000haの規模となるが、

着工から竣工まで僅か6ヶ月、しかも設計と殆ど狂いはなく、ちなみに取水口からと、下流の川口からと、それぞれ測量しながら出会った地点での誤差はわずか二寸程度だったという。

実際現代の高低差をGoogle Mapで調べてみると次の様になる。

 

 

 

 

取水口(利根川大堰)
 

 

 

 

 

埼玉県笹目川(流れ込み)


取水口である利根川堰の標高は19m。一方、笹目川への河口の標高は7mなので高低差は12m。つまり約60km離れた地点での高低差は12m。即ち1m当たり0.2mmとなる。水は高いところから低い方に流れ、決して高いところに流れないのだから、この割合を落差として60km続けていかなくてはならない。途中で大きく落差が生じると水はそれ以上高いところに登ることはないので、落差を正しく均一に保って落としていくことが必要だ。 

当時は現在の様なGPSはもとよりパソコンも電卓も、というか、そもそも電気も車も無い時代だったわけで、すべてお手製の水準測量で行ったのだから、

60km離れて二寸(約6cm)という誤差、即ち0.0001%と言う誤差はまさに神業である。

また、延べ労働力は90万人を投入し、その賃金が15,000両、さらに構造物費用は5,000両と言う巨大なプロジェクトだったというから、為永は、設計だけではなく工事責任者としても辣腕を振るったことだろう。まさに土木の頂点だ。この事業は、武蔵国の湖沼干拓と幕府財政の立直しだけでなく、灌漑・治水、そして利根川上流及び武蔵国穀倉地帯の産物を代用水路を活用して蔵前まで運ぶ相乗効果も産んだのだから、その功労は想像を絶して余りあるものがある。

しかもこの大事業、なんと為永が還暦を迎えた後に仰せつかったというから更に驚く。江戸時代の平均寿命は45歳だったそうだから、それを15年も超えてから新事業に着手したことになる。長寿命化した現代でも、還暦で引退を決め込む輩も多い今日この頃だが、還暦を迎えてから国家大プロジェクトに着手して自ら設計測量を行い、90万人を指揮して半年で竣工させたというのだから、そのバイタリティには敬服して余りある。

小生も、これからが正念場というところかと思う、今日この頃でもある。

60kmで12mの高低差ということは、10kmという距離を以って僅か2mしか高低差がないのだから、どれだけ平坦なのかが理解できる。しかも高低差といっても一様に下がるのではなく、その間に起伏もあろうというものだ。しかし水の流れは一様であり、決して低いところから高いところへと登ることはない。だから平坦だろうが起伏があろうが、10kmにつき2mの落差を保ちつつ、徐々に下げるという工事が必要とされたことになる。しかも一度下げてしまうと上げることができないから下げ続け、しかし決して下げ過ぎないという工事が必要だ。

一方、測量について、60kmで6㎝の誤差だったということは、距離1mでの高低差の誤差は僅か0.000001m=0.001mm。現在の様な高性能測量機器はおろか、そもそも電気すら時代に、これだけの精度で測量を行ったこと自体が信じ難い。

この測定に使用された機器を次に示す。

 

 


 

 

 

 

 

 

ご覧の様にきわめて単純な機器なのだが、物理的な本質を捉えているが故、手軽で正確な測定が可能だったということなのだろう。構造が単純だからいくつも製造が可能であり、測定器の数が多ければ多いほど全体の測量にかかる時間は大幅に短縮できる。本質はこんなところにあるのだろう。

 

 

 

 

 

 


なお、見沼代用水について写真で紹介しておこう。用水路とはそもそも人間が利水するために開削した川なので、普通の自然の川が小さな水源と大きな河口を持つこととは正反対に、大きな水源と小さな河口を持つことが特徴だ。見沼代用水もその例に漏れない。これまでにも多くの文献などで取水箇所や途中の見どころについては紹介されているが、河口についてはあまりない。それは先に述べたように河口があまりにも貧相だからなのだが、それについても紹介しておこう。

 

 


利根大堰の見沼代用水取水口

 

 

 

 

 

 

 

 

埼玉県上尾市瓦葺の、見沼代用水東縁、西縁の分岐

 


笹目川への流れ出し(河口)

 

 

通常、川は水源はごく小さく、流路を取るにつれて幾つかの川が合流し、河口が広くゆったりとするのが普通だが、ここは逆で、利根川取水量に比べると、利水後はこんな程度となる。
 

 

 

最後に、四谷の心法寺にある為永の墓と、分骨が埋葬されている埼玉県白岡市にある常福寺の墓を掲示する。
 

   

 

 

 

前回、ヨーグルトとウンコのステキな関係について記載したとき(http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-12023641534.html)、その文末に「ここまで書いたら、ヨーグルトが食べたくなってきた。」と書いた。

「ヨーグルトを食べたくなった」のは自分であるし、そう思ったのは自分の脳だが、ひょっとして誰かが自分にそう思わせたと言う可能性はないだろうか?誰かが脳に対してそう思う様に指示した結果じゃないだろうか?

まるでSFみたいな話だが、少しマジメに考えてみた。

前回記載した様に、腸内には腸内細菌が実に1000兆個以上棲んでいる。一方ヒトの総細胞数は、下記文献によると37兆個だそうだ。

引用:A current estimation of human total cell number calculated for a variety of organs and cell types is presented. These partial data correspond to a total number of 3.72 × 10^13.

http://informahealthcare.com/doi/abs/10.3109/03014460.2013.807878

つまり、人間を形成している細胞の数よりも腸内細菌の数の方がはるかに多いのだ。

その腸内細菌の種類は500種から1000種ぐらいと言われ、壮絶な生き残りバトルを繰り広げたり、或いは互いに共生しあいながら、腸内という狭い嫌気性空間の中で生活していることになる。世界中の人口数は約70億人といわれているから、腸内細菌を人間に換算すると、実に今の総人口の14万倍の人間達が地球上にひしめいていることになる。

細菌一つ一つは単なる部品であり、ロボットで言えばネジや機構部品の様なもので、意思を持たない。しかしそれらの部品が組み合わされて外部からエネルギーが与えられれば、ある目的を持って稼動するシステムとなる。つまり細菌も個々の細菌は意思を持たないのだが、集まってコロニーを形成することによりシステムが構築され、「ある意思」を持って動作するのだ。

では、その意思とは何か。それは存命することだろう。

細菌も生命体であるから、生命体に与えられた命題は種の存続と繁栄であるはずだ。しかし、腸内細菌に限って言えば、彼等の99%以上が真性嫌気性生物(酸素に触れると死亡する生物)であるために、腸から外界に出ることが出来ない。

つまり腸内細菌は、宿主とは文字通り運命共同体なのである。

もしも何らかの理由で宿主が死亡すると、腸内細菌に対する栄養補給が途絶えてしまうために腸内では圧倒的に少数派であるはずの腐敗菌との戦いが突如形勢不利となり、やがて玉砕してしまうのだ。

であるならば、彼等が存命するために何が必要かというと、それは取りも直さず宿主の健康維持に他ならないだろう。
人間たちが健康維持するために必要とされる食事や適度な運動と言った基本的な生活要素とは、実は人間固体を存命させようとする腸内細菌たちの存命要素でもある。

人間は、彼等の本能に答えるべく食事をしていると思えるのだ。

人間の腸には、1000種類を超える腸内細菌が棲んでおり、その総数は人間を形成している細胞数よりもはるかに多い。それらの腸内細菌たちは共生し、或いは互いに複雑な食物連鎖を造り、ひとつのシステムが形成されて、ある目的を持ってダイナミックに稼動している。つまり、人体には腸内細菌コロニーという別の生命体がエイリアンとして宿っていると考えるべきなのだ。我々の感じる空腹感というのは、宿主の健康を維持させようとする腸内細菌コロニーからの信号に基づき、脳が空腹を感じるのではないだろうか。

腸は脳と神経によって密接に関連しているために第2の脳とも言われ、不安やストレスがあると脳からその信号が腸に伝わり、腸の蠕動運動に対して様々な影響を及ぼす。

セロトニンは情緒を安定させる神経伝達物質として知られているが、腸の状態が悪いとセロトニンもスムーズに分泌されないことが判明しているという。逆に腸の状態がよければ腸から脳に対して「セロトニンを出してくれ」と指示を出す。つまり、幸せな心理状態になるためには、便秘や暴飲暴食による腸の疲労状態を改善することが必要なのだ。それを考えると、人間は「腸で物事を判断している」ともいえるだろう。

このように腸の活動、更にそれを通じて宿主たるヒトの生活をコントロールしている生物、それこそが腸内細菌なのだ。

そもそも我々が食事を摂る理由は、エネルギー補填や栄養補給のためだけではなく、腸の内部に住みながら腸の状態を良好に保つための活動を行なう腸内細菌への栄養補給でもあるのだ。彼等はその指示を出し、ヒトは食事を摂る。

体質改善をすることによって
アレルギーへの対応が改善されるそうだが、免疫性に対し、腸内細菌による関与が大きいことなどを鑑みると、体質改善とは即ち腸内細菌の活性化、場合によっては適切な細菌へと入れ替えなどを行なうことなのかもしれない。

食事をするときには、自らの命を掛けて宿主の健康を維持させようと活動する、勤勉で健気な腸内細菌たちの気持ちも考えて摂るようにするべきじゃないだろうか。

一般的に、ヨーグルトは便秘に良いと言われている。しかしどの様なメカニズムでヨーグルトがウンコの排出に関与するのかについては、意外と知られていない様だ。そこで、ヨーグルトの何がどう良いのかというメカニズムについて、きちんと理解出来るように整理しておく。

簡単にいえば、腸内で有害細菌の駆逐を行なう乳酸がヨーグルトの乳酸菌によって生成され、そもそもウンコの固形部分の主成分は死滅した有害細菌や討ち死にとなった乳酸菌だから、それらの死骸が大量に排出されて便通となって便秘解消、めでたしめでたしということだ。また、乳酸菌は癌細胞を攻撃するということも知られている。

まずはウンコから。
大半の人はウンコの成分は食べ物のカスだと思っているのではないだろうか?

実は、ウンコの固形部分は、前述の通り死滅した乳酸菌や有害菌の死骸や新陳代謝した腸壁の残渣である。ヒトの腸には知られているだけでも500種類以上の腸内細菌が棲息しており、数で言えば1000兆個以上だという。

これらの総重量は約1.5kgで、ウンコの固形部分の約半分近くは腸内細菌か、その死骸だ。このことは以外に知られていない。因みにO157などでよく知られている大腸菌の割合は、全体の0.1%にも満たないという。

この腸内細菌叢を構成している腸内細菌は、互いに共生しているだけでなく、宿主であるヒトや動物とも共生関係にある。宿主が摂取した食餌に含まれる栄養分を主な栄養源として発酵することで増殖し、同時にさまざまな代謝物を産生する。おならは腸内細菌が発酵によって作り出したガスや悪臭成分だ。

ここで、ウンコの主成分について探ってみよう。

ウンコの成分は水分が70%となる。水分以外を見ると、
    腸壁:   15%
    腸内細菌 10%
    食物残渣 5%

だそうだ。

これらのうち、水分を除去した固形物を100%とすると、
    腸壁:      50%
    腸内細菌    34%
    食物残渣    16%


先に述べたように、腸内では数百種類の細菌が命がけの壮大なバトルが繰り広げられている空間なのだが、そこでの死骸は他の細菌の栄養素となり循環するものの、役に立たなくなったものは排出される。このリサイクルできなくなったものがウンコの34%を占めているということになる。

一般に、生物には次のような種類がある。

・ 好気性 
生育に酸素を必要とする生物。体内に、酸素によって生成される有害な過酸化水素等を分解するカタラーゼ酵素を持っている。

・ 嫌気性
生育に酸素を必要としない生物。通性嫌気性と偏性嫌気性がある。

   ・ 通性嫌気性  酸素があってもなくても生育できる生物。酸素があるときには好気性呼吸を行ない、エネルギーの放出や貯蔵、物質の代謝や合成の重要な役目を果たす物質である「ATP」を生成し、酸素が無い場合には嫌気性呼吸による発酵にてエネルギーを得られるように代謝を切り替えることができる生物。乳酸菌は好気性の持つカタラーゼ酵素はないが、代わりにNADHオキシターゼがあり、酸素がある場合に好気性呼吸が可能である。

   ・ 偏性嫌気性  酸素があると死滅する生物カタラーゼやオキシターゼを持たないことによる。腸内環境は嫌気性であり、腸内細菌の99%以上が偏性嫌気性菌に属している。つまり、ウンコの源である腸内細菌は酸素の無い環境で活動する生物なのだ。興味深いことは、この無酸素状態と言う箇所、実は地上では相当に限られており、これら偏性嫌気性細菌にとって腸内と言う環境は決して外界へ出ることが出来ない閉鎖空間であるものの、彼等にとってはパラダイスでもあり、なおかつ命をかけた壮大なバトルが繰り広げられている戦場でもあるということだ。この嫌気性細菌としてよく知られているのが乳酸菌であり、ヨーグルトはこの嫌気性細菌によって生成されている。ただし多数の腸内細菌が偏性嫌気性であることに対し、乳酸菌は通性嫌気性である。

乳酸菌について整理しておこう。
乳酸菌は、健常者の腸にあっては多数を占める菌で、口腔や腸管内などの粘膜や漬物、乳製品などに棲息する、無酸素環境にて糖をエネルギー代謝によって最終生成物である乳酸へと分解する細菌のことをいう。その多くは通性嫌気性であるため、嫌気性でありながら酸素があっても死滅しない。乳酸菌と呼ぶ条件は次の通り。

乳酸菌の条件
・ 糖から乳酸を50%以上生成する能力を持つこと
・ グラム陽性菌(細胞壁が厚く、乾湿に強い)であること

である。尚、ここでいう糖からの分解のことを発酵という。

発酵と腐敗は元の物質を分解すると言う意味では極めてよく似た現象であるが、その違いは、糖の分解を発酵といい、たんぱく質の分解を腐敗ということだ。

腸内細菌は、その宿主の行動に多大なる影響を与えている(宿主の行動は、腸内細菌の指示に従っている)らしい。消化器系について、「口から食べ物が入って肛門からウンコが出るまでの通路」として知られているが、よく考えてみると、その途中に壁らしい壁が無い。つまり口、喉、胃、腸、肛門は、他の臓器である心臓や肝臓、或いは腎臓などが完全に外界から隔絶されていることに対し、消化器系は外界と直結していることに気付く。つまり通路なのだ。

従って、腸は外界に晒されているということになり、外敵である有害な病原菌や毒素に対する防御器官として働いていることが分かる。この防御本能を司るのが腸内細菌であるとも言われているらしい。

腸内細菌がその本能を十分に発揮できる様に、宿主に対して食事する様に指示する。細菌が宿主の行動を左右するというのは大変興味深い。

腸に於ける乳酸菌の活動を整理しよう。

乳酸菌の活動
・ 乳酸を生成すること。乳酸は酸性なので、他の殆どの細菌の生育は困難である
・ 腸の内側にバリアを形成すること。サルモネラ菌などの有害菌が腸に付着することを抑制する
・ 有害菌に対する抗生物質のバクテリオシンを分泌すること。食中毒菌などの有害菌を破壊、或いは、取り囲んで増殖を抑制する
・ 免疫力を高めること。人間の免疫力の70%は腸内細菌が提供しているという。腸内細菌にあって、最も人体に有益な筆頭細菌が乳酸菌である。
・ 発ガン物質を生成する腸内細菌の活動を抑制すること。また、人間の細胞が本来持っている癌細胞を駆逐する能力を活性化する。

乳酸菌のこれらの活動内容を見てみると、宿主の健康を維持すべく驚くほど健気に働いていることが分かる。きちんとした食生活は、早い話、日夜腸内で健康維持に励む乳酸菌への栄養補給であり、空腹感というもの、実は腸内細菌からの要求なのかもしれない。

これらのステキな能力は乳酸菌によってもたらされるのだが、その乳酸菌を補給するのが発酵食品であり、その代表のひとつがヨーグルトと言うことなのだ。

昔から「ご飯は良く噛んで食べなさい」と言うが、良く噛むということは唾液によるコメの澱粉の糖への分解を促進することであり、糖こそ乳酸菌の重要な栄養素であることや、また、手っ取り早く乳酸菌を補充する方法としてヨーグルトを補給したことなどを考えると、昔の人の知恵とはスゴイものがあると思う。

ここまで書いたら、ヨーグルトが食べたくなってきた。


その昔、USBが現在の様に普遍的になる前、パソコンにUSB端子があっても接続先である周辺機器が無かったので、USBインターフェースが何のために付いているのか誰も知らない(そもそも付いていることすら知らない)時期が長いこと続いた。その後、近年になってデジカメやタブレット、スマホなどのモバイル機器への充電は、USBケーブルを用いることがアタリマエとなった。


ところで、USBケーブルでデジカメ、スマホなどのモバイル機器を充電する時、もしもUSBケーブルを何本か所有しているとすると、ケーブルの種類によって充電時間が異なることに気付くだろう。

実際、拙宅にあるタブレットPCへのUSBケーブルでの充電が経過時間的には完了しているはずだったのに半分も充電出来ていないことがあり、その原因を調べてみた。本来は定電圧電源と電子負荷装置を用いて条件を統一して測定しないとフェアではないのだが、電子負荷装置が手元に無いので簡易的な測定ではある。
その結果、

USBケーブルによる傾向が読めたので報告しておく。


100均の、「格安」USBケーブル


モバイル機器付属の、「純正」USBケーブル



アキバで買った、「保証なし」USBケーブル

結論から言えば、「モバイル側の充電に必要な電流が流せるかどうか」と云うことなのだが、その違いに就いて、ケーブルを目視で観るだけでは判別が不可能だ。

しかし、

写真の様に、測定してみるとケーブルによって電流値が低いことが分かる。

純正ケーブルでは、多くの電流が流れるので電源電圧に於ける電圧降下が生じている。一方、廉価ケーブルは、電流値が低いので電源電圧の降下が起きていない。しかし、「電圧×電流=電力」で比較してみると、電流が大きく流れるケーブルの方が電力値が大きい。つまり負荷側で消費(充電)されているということだ。

これをグラフ化してみた。これで見ると大体500mA付近でUSB電源電圧の閾値を下回る、つまりモノによってはちゃんと充電できないということが分かる。


使用当初は100均のケーブルだと分かっていても、外見上の違いがないために時間が経つと正規品との区別が付かないから、廉価モノで充電しようとして無駄な時間を費やすことになる。

ただし充電するに十分な時間が費やせる場合であれば、100均のUSBケーブル充電で何ら問題ない。しかし、数十分以内で出発しなくてはならないという状況であれば、正規のUSBケーブルで十分な電流で流し込む方がよい。

ケーブル価格と充電時間、侮れない関係がある。

100均ケーブル等の廉価版ケーブルを買う時は、きちんと充電できるかどうかじっくり確認した方が良さそうだ。

 


子供の時に聞いた音とは、不思議なことに何年経っても覚えているものだ。それらのうち、大人になって初めてその発生原因が分かったものがある。 

小学生の頃、友人の家が近いこともあって、電車の踏切近くが専らの遊び場だった。その近傍に、大きな変電所があった。もちろん現在も稼動しており、正式名称を「東日本旅客鉄道株式会社 東京変電技術センター」と云い、上野や王子の交流変電所から22kV回線で受電して山手線、京浜東北線、高崎線、宇都宮線、常磐線、常磐貨物線などに給電する、重要な変電所なのだが、その変電所から出る唸り音が昔の記憶にある最も古い音のひとつとなっているのだ。

 

 

 

 

 


中学に入ってからは、その友人とも会わなくなってしまったこともあって変電所からは遠ざかった。自ずからその唸り音を聞くことがなくなり、いつしか昔聞いた音と言う程度となったのだが、その後、その音を意識して聞くようになったのは、大人になってからだ。

 

 

 

 

 


変電所の唸り音、近くを通ったとしても意識しなければ聞こえてこないかもしれないが、意識すればよく聞こえる音だ。あの「ブーン」という唸り音は、電源周波数50Hzや60Hzの特出した純音の干渉性音源による音と、それを基本波とする高調波が重畳した音とが複雑に絡み合って出来上がった音なのだ。ではあの音は何処から出ているかというと、発生源は主に変圧器(トランス)である。

この音が出るメカニズムは次の通り。

変圧器は二次側へ電圧を誘起させるために磁束を利用するが、この磁束を造る為に一次側に励磁電流を流す。この励磁電流が流れる時に、コイルが巻いてある変圧器の中央の鉄心(珪素鋼板)が振動することによって音が伝わる。

ではなぜ振動するのか。

鉄やフェライトなどの磁性体は、多数の微細な磁石からなる多磁区構造となっていて、消磁状態では向きはバラバラであるが、外部から磁界が加わると磁区の磁気方向が回転し、外部磁界の方向に揃うことによって寸法変化が起きる。これを磁歪と言うが、交番磁界(交流による磁界)が与えられた場合には機械的に膨張・収縮を繰り返す現象が発生し、鉄心の体積が変化することよって周囲の空気や冷却用のオイルが振動する。この振動が運動エネルギーとして空気を伝わり、ブーンという唸り音として耳に到達するのだ。

そのことを知ったのは、電子工学を学ぶ大人になってからである。その理由を知った時は小躍りするくらい嬉しかった。

「あの音はそういうことだったんだ」

子供の頃から聞いていて、しかし理由の分からない音の原因を理解出来たのは、「すっきり」するものがあった。

人によっては(恐らく、多くの人)、騒音だと思う。小生も四六時中聞いていたら騒音と思うだろう。しかし、たまにこの音を聞くとなぜか懐かしささえ感じるのだ。それは最初に述べたように子供の頃に聞いた音、ある意味、小生にとっては胎内音の様な音だからだと思う。

子供の頃に聞いた音。懐かしさもあるし、忘れていた何かを思い出させるトリガーにもなる。

そういえば、小生を電気の道へ導いたのは、変電所の「あの音」だったのかもしれないと、今思う。

 

AKB48の川栄李奈が去る3月26日のAKB48単独コンサートに於いて、昨年5月25日の握手会会場でテロリストというべき暴漢に襲われて怪我を負って以来、「握手会に出ることが出来ないし、今後も出来ないから」という理由で電撃的に卒業を発表したことは記憶に新しい。


その後、幾日か経ち、ブログの中で理由を翻すかのように「それよりも女優として活動したいので卒業することにした」と語っているが、これまで女優としての実績もない状態で、AKB48を卒業したのちに女優に転職すると言うのは、どう考えてもリスクがありすぎて無謀だろう。女優といっても、最初から主演に抜擢されるということはあり得ないのが普通だし、いきおい、チョイ役から修行を積んでいくというのがアタリマエであるということを鑑みれば、現時点で完全転職する必要はないはずだ。

従って小生は、AKB48のコンセプトである「会いにいけるアイドル」という、ファンとの閾値の低さを保つことが出来ない以上、AKB48としての活動が困難という最初の答弁の方が、やはり本当の理由だろうと考えている。

確かにそれは運営側にとってのダメージだろう。しかし、それよりも運営側は、暴漢に襲われたという事実によるトラウマをきちんとケアしたのかどうかを問いたい。川栄の卒業希望の理由について、ケアがしっかり出来ていなかったことを隠匿すべく、川栄の女優業への転職希望という我儘へ責任転嫁してしまおうとする運営側の思惑が含まれていないか?川栄に対し、その様に言わせしめていないか?

もし、握手会に出られないのであれば、出られる様に心のケアをするべきだったのではないか?それを怠り、ちっともケアを進めていないことを封印するために、最初に語った本当の理由を、女優転職理由へと「歪曲」させたのではないか?

他の暴漢事件に比べ、握手会での事件は犯人に最初から殺意があった点が異質であり、一方、被害者は自分に近づいてくる相手に好意を持っている点が全く異なる。握手会という場面、今、自分の目の前にいる人は自分を応援してくれているファンの人だと思えば、たとえ打算的であれ、ずっとファンでいて欲しいという気持ちから初対面でも心を開いて接近するのが普通だろう。ところが相手は自分を殺すつもりで接近してくるのだ。そして鋸を振りかざして襲いかかる。想像するだけでもおぞましい光景だ。よく、手や頭の怪我だけで済んだと思う。

5月25日にこの事件が勃発し、当時小生は警備の徹底的な増強を訴えた。

川栄李奈と入山杏奈  - テロの、本当の被害者たち
http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-11862350091.html#cbox

こんなおぞましい経験が、うら若い女性にとってトラウマにならないわけがない。そのケアをきちんと行なったのか、どうやって行なったのか、それが大きな疑問である。川栄は昨年の総選挙では25位。運営にとっても重要な人材なはずだ。警備の増強はもとより、実際の犠牲者となってしまった川栄や入山に対するメンタルケアはしっかりやったのか?

とはいえ川栄李奈、もう卒業を発表している以上、先に進むしかないだろう。ここ最近おバカキャラで笑いを取っているが、小生は、あのおバカさは世間知らずとか単なる知識不足から来るだけのものであり、実は起用で咀嚼力が高く、回転の速い子で、バラエティのMCやコメンテータとしても十分な能力が発揮できると思う。つまり頭が悪いのではなく、単に知らないだけなのだ。そういう意味では、AKB48 を離れて時間を得ることにより、現在の知識不足を補えば様々な分野で活躍できると思う。

今後の活躍を期待する。がんばれ!

 


山手線の西日暮里駅(下記注釈*1)で下車し、改札を出てから線路に直交する道潅山通りを右に曲がると、道路の反対側に緩やかな上り坂が見える。そこを歩いて行くと、程なく道路の直ぐ右に道路と平行する東北本線や高崎線が通る緑色の陸橋が見えてくる。

 

 

 

 

 

第二日暮里跨線線路橋


その橋は、今でこそ緑色だが小生が子供の頃には黒かった、実家ではこの鉄橋を「黒い鉄橋」と呼び、亡祖父と何度も散歩に行った場所だ。昭和30年代前半だった。

なぜ「黒い鉄橋」と呼ばれたのか。

元々黒く塗られていたのかもしれないが、家族の話によれば鉄橋の下を走る蒸気機関車の煤煙が鉄橋に付着したからだという。そう云えば蒸気機関車が放つ警笛音、昔の家屋には現在の様な防音性がなかったこともあって小生の実家まで聞こえたものだった。その音は今でも記憶している。小生の親は「その音が聞こえると天気が崩れる」と言った。当時はその理由を知る術もなかったが、それはこういう理由による。

実家は黒い鉄橋の北東方向にあった。つまり実家まで警笛音が聞こえるということは、東風が吹いていることだ。音は風上よりも風下の方が聞こえ易い。

蒸気機関車の警笛が聞こえると天気が崩れるという理由は、音源が北東方面にあるということと、そちらが風上であると言う2つの相乗効果の結果だ。

音源が地表にあると仮定すると、音は地表の音源を中心とする半球空間へ発散する。音のエネルギー、即ち空気を媒体として縦波に伝播する運動エネルギーの総量は、音源を最大値として無限に遠いところで減衰値が最大となるエネルギーを半球型に全方向で積分された値となる。ある地点、例えば音源と同じ地表にいる被試験者に到達するエネルギーは、被試験者の耳に集音されるエネルギーの総量である。

このとき、音を伝える空気が動いていたらどうなるか。音は空気を媒体として振動エネルギーを伝播するから、空気が移動するとそれに引きずられて音の振動伝播方向も屈折する様に移動する。つまり音源から全方向に向けて伝播する音の一部は、その過程で風の影響により屈折が生じ、凸レンズの様な効果が働きとなって、空気が停止している場合には伝播されない程度の微音でも風下にいる被試験者には聞こえると言う現象が発生する。

つまり、警笛を発する蒸気機関車の西側にいる人にとって警笛は西風の時には聞こえ難く、東風の時には聞こえ易いのだ。小生の実家で蒸気機関車の警笛が聞こえるということは、東風が吹いているということになる。東風が吹くということは、気圧の高い東から気圧の低い西へ風が吹いているわけで、西にある低気圧はコリオリの力を得た偏西風の影響で東に移動し、やがて天気は崩れる。そういう経験則から「蒸気機関車の警笛が聞こえると天気が崩れる」と言ったのだろう。
祖父母や両親がそのメカニズムに就いて何処まで理解していたかは判らないが、経験則として自然現象を習得するというのはスゴイことだと思う。

この黒い鉄橋の正式名称は「第二日暮里跨線線路橋」という。鉄橋を走る東北線や高崎線の下を通る列車は田端を起点とする常磐貨物線だ。昭和30年代とはいえ、都内の国鉄(今のJR)の路線は概ね電化されていたはずだが、この線には蒸気機関車が走っていた。小生が友人たちとこの線路辺りで遊んでいた時に蒸気機関車が通っていたことは、今でもはっきりと記憶している。

1969年3月15日に日暮里から上野へ向かう常磐線の写真が次のブログに掲載されていた。この写真に記録されている様に、1969年、つまり昭和40年代前半まで常磐線には蒸気機関車が走っていた。大変貴重な写真である。ここに掲載する許可を得る方法が分からないので、取り急ぎブログのURLを貼っておく。指摘頂ければ削除します。

 

 

 

 

 

http://sellbremse.blog.so-net.ne.jp/2011-10-25-1


常磐貨物線に対し、人を運ぶのは東京都荒川区の日暮里駅(下記注釈*2)から千葉県北西部、茨城県、福島県の太平洋側を経由して宮城県岩沼市の岩沼駅までを結ぶ東日本旅客鉄道の鉄道路線で、2015年3月14日までは上野始発、以降は東京駅、品川駅まで乗り入れとなった常磐線だ。

常磐線を使う人は知っている人も多いと思うが、乗車している客は日暮里駅を出た下り電車が三河島駅(
下記注釈*3)方面へ向かう時、駅出発直後から「キーン」という高周波数成分を持つ激しい軋み音と剛体が捩れる様な騒音を立てつつ、金杉踏切(下記注釈*4)と言う踏切を経て時計回りに大きくスロープを描きながら進行方向を130度ぐらい捻じ曲げて進むことに気付くだろう。一方、金杉踏切で電車の通過を待つ人たちは、電車の車内よりも更に大きな轟音に晒されながら、車体を傾斜させてカーブを曲がって走る電車を見る。

 

 

   

 

 

 

 

常磐線 金杉踏切とその周辺


この軋み音が発生するメカニズムは、電車にはカーブを曲がる時に作動する自動車の差動装置の様な装置が無いので、カーブがきつい場合、車輪の円錐踏面だけでは内輪差を解消し切れないために片側の車輪がレールの上を滑ることが原因だ。また、車輪のフランジがレールと擦れあうことも軋み音が発生する理由となる。いきおい、くだんの地点で起きる凄まじく大きな軋み音は、恐ろしく曲がったカーブによって発生しているということになる。

このスロープを描く常磐線は、田端から延びる常磐貨物線と三河島駅付近で合流するのだが、この線沿線について色々と踏査したり調べてみたところ、これまで知らなかったことがたくさん分かった。それをここに記しておく。

実は常磐線、開業当初は田端駅始発となっていたそうだ。

この捻じ曲げる様な大きなカーブ、一体なぜこの様な経路になっているのかというと、常磐線を田端へ入れずに上野へ導くためだったと言う。

元来、常磐線は常磐炭鉱の石炭を東京、神奈川にある火力発電所や京浜工業地帯へ運搬することを目的として発足した路線だった。この常磐線を敷設するに当たり、上野駅を始発とさせるには駅敷地面積が狭かったため、明治29年4月1日、田端駅がターミナル駅として開業した。その後、南千住や隅田川貨物駅が同年12月25日に開業し、常磐線は田端-土浦間で開通した。つまり当初常磐線は上野に入るのではなく田端へ入っていたのである。主に常磐炭鉱で発掘された石炭が常磐線を使って隅田川貨物駅(*5)に集荷され、そこから田端へと配送されたのだ。常磐炭鉱の石炭は北海道や九州産の石炭と比較すると、熱量は低いものの火持ちすることから重宝されたというから、常磐線は、極めて重要な任務を遂行していたという。

しかし、常磐方面から上野に行くためには田端にてスイッチバックさせる必要があった。即ち、一度田端に突っ込んだ後で進行方向を逆方向とし、上野へ向かうと言う方法である。この場合、電車であればスイッチバックもさほど手間ではないが、当時は蒸気機関車が貨車や客車を牽引していたからスイッチバックは相当に不便だった。そこで明治38年4月1日に日暮里駅と三河島を開設し、日暮里駅から三河島駅へと線路を大きく曲げてつなぐ新たな線路を建設した。

それが日暮里・三河島間のスロープであり、現在の常磐線のルートとなった。

これに伴い、上野から常磐方面に行く場合に余儀なくされていた田端でのスイッチバックは解消し、田端から三河島へつなぐ線路は貨物専用となって今日に至る。この常磐貨物線は、正確にいうと田端信号場から三河島駅までを田端貨物線(1.6km)、三河島駅から隅田川駅(
下記注釈*5)、南千住駅までを隅田川貨物線(5.7km)という。また、田端の貨物駅は正式名称を田端信号場駅といい、現在もJR貨物鉄道の駅となっている。

 

 

 

 

 


この常磐貨物線には田端~三河島間に片瀬踏切、日暮里八丁目2号踏切、日暮里八丁目3号踏切、日暮里踏切、三河島踏切という5箇所の踏切がある。そのうち2つの踏切は自動車やバイクといった車両の通行が出来ない踏切となっている。常磐貨物線は、元々貨物専用線の踏切なので列車の往来は少なく、遮断機が下りていることは稀だ。尤も、本数は少ないとはいえ、隅田川貨物駅と田端信号場駅を結ぶ重要な貨物幹線なので、廃線となることはないだろう。ただし、踏切については、いったん下がると貨物車両は長蛇となる上に速度が遅いので、遮断機が上がるまでかなり待たされるのが難点ではある。

これらの踏切を田端側から紹介する。

 

 

 

 

 


片瀬踏切 キロ程:0K657M

 

  

 

 

 

片瀬踏切とその周辺


常磐貨物線が田端信号場を出てから最初の踏切がこの踏切だ。写真の様に車両通行は出来ない踏切となっている。ここは現在の西日暮里駅に近いためか人々の往来はかなり頻繁な踏切だ。現在、この辺りに片瀬という地名はないが、ここより三河島駅寄りでアンダーパスする尾久橋通りにかかる橋梁名が片瀬北陸橋となっており、かつてこの辺りが日暮里町大字片瀬だったことから、当時の地名であった片瀬という単語が、現在も踏切や橋の名称として残っているようだ。

 

 

 

 

 

 

 

  
片瀬踏切から見る下り方向と、上り方向に見える第二日暮里跨線線路橋

 

 


日暮里八丁目2号踏切 キロ程:0K756M

 

 

  

 

 

 

 

日暮里八丁目2号踏切とその周辺


ここも片瀬踏切と同様に車両通行が出来ない踏切だ。この踏切は数年前まで都内のJRにおける唯一の第三種踏切、即ち警報機のみで遮断機のない踏切だった。近年になって、事故も多発したことを踏まえて遮断機が設置されたのだろう。JRの踏切一覧「東京都内の踏切データ」一覧表 平成19年度版」を次に示す。これによれば、平成19年までは第三種踏切だったことが分かる。

 

 

 

 

 

 

 

 


この日暮里八丁目という名称は、旧町名が日暮里八丁目だったことに由来する。古い名称がそのまま残されているところ、例えば今はなき川や橋などの名称が通りや交差点などに残っている例は幾つもあるが、この踏切の名称も同様だろう。先の片瀬踏切という名称が、かつての地名だったことと類似する。余談だが、小生が小学生のころ、この近所に住む友人とよく遊んだのがこの辺りだ。

 

 

 

 

 


日暮里八丁目3号踏切 キロ程:0K835M 幅員11.3M

 

 

 
日暮里八丁目3号踏切とその周辺
 

 

 

 

   

 

 

 

日暮里八丁目踏切から見る下り方面       藍染川西通りと言う看板
ほぼ直線沿いに、すべての踏切が見える                     

 

 


ここも日暮里八丁目2号踏切と同様、日暮里八丁目という旧町名がそのまま残っている。ここは車両通行可能な踏切である。写真にある様に、ここの現在の町名は西日暮里一丁目だ。この線路が横断する通りの名称は「藍染川西通り」というが、この名前は道路の下を流れる藍染川に由来している名称である。ただし、正確に言うと、この暗渠となっている川は「藍染川排水路、地元では大ドブと呼んでいた」で、西日暮里にある不忍通りから上野台地の下を掘削して現在の山手線の下を潜り抜けたあとに開渠となって隅田川へと排水する水路のことだが、現在は藍染川もこの藍染川排水路も暗渠となっている。これについては別に紹介してあるので、ご参照頂きたい。

 

      

谷根千、日暮里、上野を流れていた藍染川(その1) -藍染川の生い立ち      
http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-11935005041.html


谷根千、日暮里、上野を流れていた藍染川(その2) -藍染川の流路        
http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-11935219750.html

       
谷根千、日暮里、上野を流れていた藍染川(その3) -藍染川排水路
        
http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-11935229968.html

 

 


いずれにせよこの踏切は、藍染川排水路、大ドブが開渠だったころには踏切ではなく橋梁となっていたわけだ。小生、ほんのおぼろげではあるが、この大ドブを横切る橋の記憶がある。橋の色は赤茶色ではなかっただろうか。図書館などの資料を探してみたが、橋の色はおろか、その存在が書かれた記載は見つかっていない。

日暮里踏切 キロ程:0K956M 幅員14.6M

 

  

 

 

 

日暮里踏切とその周辺
 
西日暮里駅をアンダーパスする道潅山通りを横切る踏切で、車両の通過量も多い踏切だ。踏切から三河島方面を見ると、日暮里駅を出た常磐線が大きなスロープを描いた後に、この常磐貨物線の上り線と下り線の間に分け入る構造を見ることが出来る。この日暮里踏切と次の三河島踏切には、かつて使用されていたと思われるロープが現在も残っている。小生の記憶でも、昔は現在の様な遮断機ではなくロープ式遮断機だった。

 

  

 

 

 

ロープ式遮断機のロープ               日暮里踏切から下り方面を見る
 

三河島踏切 キロ程:1k205M 幅員6.0M

 

  

 

 

 

三河島踏切とその周辺              高架は常磐線
 

 

常磐貨物線にある最後の踏切、三河島踏切。高架となっているのは現在の常磐線で、左右に分かれた常磐貨物線とこの先の三河島駅を過ぎた辺りで合流する。この常磐線の高架を三河島跨線と言う。日暮里駅を出てから10番目のガードで最も三河島よりのガードだ。それぞれのガードについては後述する。
常磐貨物線が左右に分かれた理由は、左二車線と右二車線を合流させるためだ。ここにもロープ式遮断機用のロープが装備されたままとなっている。この踏切を越えると常磐貨物線は序々に高度を上げて三河島駅へと向かう。
田端信号場からここまでが現在の常磐貨物線となり、日暮里駅を出てから高架となっていた常磐線まで高度を上げて並ぶ。その後、常磐貨物線は、正確な名称を隅田川貨物線と改称し、隅田川貨物駅へと向かう。

高架となった貨物線は、下から見ると写真の様に見える。

 

 

 

 

 

 

常磐線三河島駅のプラットフォームと、その下を走る常磐貨物線


田端信号場から三河島までの常磐貨物線を辿る僅か1.6kmの小さな旅はここまでだ。この線は、本数こそ少ないが、東日本の貨物玄関でもある隅田川駅と都内への集配所である田端駅をつなぐ重要幹線であり、今でも貨物列車が走る。
平成27年3月14日を以って、高崎線や宇都宮線が上野東京ラインとして東海道線と相互乗り入れとなった。これに伴い、常磐線も品川まで延びた。今後、常磐線がこの貨物の線路を利用すれば、田端経由池袋新宿方面という山手線の逆周りや高崎、宇都宮への直通運転も可能となるかもしれない。もちろん、それには多くの支障はあると思うが、出来ないことではないだろう。そもそも、その昔は常磐線、田端始発だった。今の様になるとは誰も思わなかったかもしれない。

「先のことはわからないね」

目を閉じて耳をすましてみると、そう云っている蒸気機関車の警笛が遠くに聞こえる気がする。

注釈:
(*1)西日暮里駅
1971年に、山手線の中では最も新しい駅として開設された駅。地下鉄千代田線との乗り換え駅として発足した。

(*2)日暮里駅
明治16年7月28日に上野熊谷間に開通した高崎線の一駅として、明治38年4月に開設された。当時は上野の次が王子駅だった。日暮里駅が開業するまで、常磐線は上野から田端経由で南千住と言うスイッチバックルートであったが、上野から直接南千住に向かう「効率のよい」ルートの中央として日暮里駅が開設された。1952年に起きた日暮里駅構内乗客転落事故の経験から2年後の1954年、谷中墓地の崖を削って新たなホームを建設した。

(*3)三河島駅
三河島駅は日暮里駅の次の駅として明治38年4月に開設された。この駅は、当時の貨物駅であった秋葉原駅が手狭になったので開設した(というか、開設させられた)専ら貨物の駅だった。大正9年の記録によると、2-3時間に1本という通行だったために一日の乗客数は282人だったという。

(*4)金杉踏切
日暮里駅と三河島駅の間にある踏切。日暮里駅を出て直ぐのところにある。金杉と言う地名、現在は消滅しているが、記録を見ると、1899年に設置された東京市に「北豊島郡にある金杉村という村の一部を日暮里村へ編入した」とある。よって、金杉という踏切名はそれに由来していると考えられよう。この踏切は、朝夕は相当な「開かずの踏切」である。

(*5)隅田川駅
隅田川駅は、それまでの秋葉原駅だけでは処理しきれなくなったことで、明治29年12月に貨物専用の駅として南千住駅と共に発足した駅である。

 
 

 

 

東京都北区の赤羽にある赤羽台さくら並木公園というところに、今でも防空壕が残されている。北区の方針として、戦跡は出来るだけ保存しておくという政策によるものだそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 


東京都北区には、王子の旧日本帝國陸軍第一工廠本部(その後米陸軍司令部の東京兵器補給廠となり、1968年はベトナム戦争開戦のため米陸軍王子病院(王子野戦病院)となった。日本への返還後は北区中央公園・十条駐屯地・東京成徳短期大学・公務員宿舎(大蔵省・防衛庁)他となって現在に至る)など、いくつかの戦跡がある。この防空壕跡もそのひとつだ。

負の遺産であれ、というか、そうであればあるほど、こういうものを後世まで残すということは、とても良いことだ。都市開発などで埋もれさせてはいけないと思う。

小生が子供の頃には、実家がある日暮里界隈にもこうした防空壕がいくつか残存していた。子供にとっては格好の秘密基地になっていたのだが、母親の話によると、死者10万人以上と云われる1945年3月10日の東京大空襲のとき、日暮里にある自宅付近はB29による焼夷弾で一面火の海となったのだが、庭に掘ったあった防空壕に逃げ込み、危うく難を逃れることが出来たという。

一体、どんな思いで防空壕の入り口から見える火の海を見ていたのだろうか。母親は、怖いというより不思議な感覚だったと語る。子供だったということもあるし、ある意味、みながバイアス状態だったから、何が異常なのかも判断できない状況だったのだろうということは想像に難くない。

かつて、沖縄本島にある未開拓の鍾乳洞(現地ではガマと呼ぶ)を日大や立命館、東洋大の探検部と合同にて探検調査を行なったことがあったが、密林に潜む鍾乳洞の洞口付近が火炎放射器で真っ黒に焼かれていたのを見た時の衝撃は今でも鮮明に記憶している。ガマに逃げ込んだ兵士や人民を炙り出す目的だったのか、或いは焼殺する目的だったのか、いずれにせよ、さながら火炎地獄だっただろうという想像がつく。探検中には、「こんな奥にまで」と思う洞内奥部で、食器や鉄カブト、そして鉄カブトの下にある頭骨、指の骨が残る軍靴など、おびただしい数の遺留品を見た。

太平洋戦争が終結して今年で70年となり、風化も進んでいる今日この頃、何も派手なものでなくも、こういう戦跡を残しておき、子供たちに伝えておくべきだろう。百聞は一見にしかず。まさにその通りだ。見るといっても写真や動画をパソコン画面上で見るだけでは伝わらないものがある。もちろん、博物館や史料館等で見ることは可能だ。

しかし、ショーケースのガラス越しでは伝わらないものがある。

出来ることなら現地で、実感として感じることが大切だと思う。

 

 

 

 

 

小生の本籍は都内荒川区だが、生まれてから数年間、両親と共に文京区駒込に住んでいた。今でもその片鱗ではあるが、住んでいた長屋や、そこにあったちゃぶ台、玩具のロボット、更にそのロボットが壊れた時に純粋文系人である母親が果敢に修理を試みた姿などは記憶にある。その長屋は天祖神社という神社に隣接していた。その名前や場所は全く記憶が無かったが記憶を辿るべく、実に五十数年ぶりに訪れてみた。
 
場所は関東平野におよそ700平方キロ広がる武蔵野台地東縁の本郷台地の上にあり、不忍通りの道坂下交差点から道坂上まで南下して西に折れたところにある。JR田端駅若しくは西日暮里駅から徒歩で15分~20分程のところだ。
 

 

 
天祖神社の物理的諸元は次の通り。
 
所在地 東京都文京区本駒込3-40-1
位置     北緯35度43分49.3秒
    東経139度45分17.4秒
主祭神 天照大御神
社格等 旧村社 駒込村総鎮守
創建     文治5年(1189)
本殿の様式 神明造
別名     駒込神明宮
例祭     9月16日
 
この付近は田端駅から歩くと判るのだが、かつて河川が縦横無尽に流路をとっていたために台地の起伏が複雑に入り乱れ、現在は暗渠となっている谷田川(藍染川)、即ち旧石神井川、の流路にある谷田橋交差点付近を相対的な最低標高とすると、そこから不忍通りの「道坂下」交差点から「道坂上」までの坂を上って付近を見渡せば、前後左右の高さが各々異なる地形となっている。下の図の赤丸が天祖神社だ。標高は黄色が一番高く、ついで緑、水色、青となる。
 

 

南端を京成電鉄「京成上野駅」とする上野台地は、地質学上、新生代第四期洪積世なので本郷台地の一部だ。
 
天祖とは、天皇の祖先のことで、一般には天照大神をさすが、古くは瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を指したこともあった。全国くまなく在る天照大神をお祀りする神社は、主に神明社や神明宮、天祖神社と称される様だ。その名前を名乗る天祖神社のひとつがこの駒込天祖神社である。
 
昭和44年に書かれた、境内にある「天祖神社の御由緒」には、
 
「当社は鎌倉時代文治五年(1189年)源頼朝が奥州藤原泰衡追討の途中、この地を過ぎる時に霊夢を戴き、松樹に大麻がかかり、祠が御座したのを畏み、神明を祀ったと云う御由緒が伝えられています
 
以来駒込神明宮と称され駒込の総鎮守として一郷の共同生活と栄敬の中心として仰がれて参りました
 
明治の御代となり天祖神社と改称され氏子区域は駒込一円の浅嘉町林町吉祥寺町片町富士前町上富士前町道坂町神明町及び豊島区駒込の全町であります
 
現在の新様式の神明造り御社殿並びに社務所はこれら(以下解読不可能)者によって戦災後復興奉賛会が結成され各位の厚き誠の心の結集により再建を期され昭和31年に完成致したものであります
更に明治100年記念事業として氏子栄敬者各位の御奉賛により大鳥居や舞殿の建設並びに境内整備が行なわれ、ここに威容荘厳を示すに至りました」
 
とある。
 
また、東京都文京区教育委員会が昭和63年3月に掲げた天祖神社にある同神社の説明板によると、
 
「江戸時代、駒込の氏神として神明さまと呼ばれ、里人に親しまれてきた。社伝によると、文治5年(1189年)源頼朝が奥羽征討(藤原泰衡-やすひら追討)の途中、この地に立ち寄り、夢のお告げで松の枝に大麻(伊勢神宮のおふだ)がかかっているのを見つけた。頼朝は、征討のよい前触れと喜び、この地に神明(天照大神)を祭ったのが、この神社の起源といわれる。
社殿の様式は神明造り。
大麻のかかっていた大木は、神木として崇められ、さしわたし4尺(1.2m)もある大木と伝えられている。
その後、宮守も無く神木の根元に小さな祠を残すだけとなったが、1650年頃、堀丹後守利直によって再興された。神木はその後枯れたという。
社殿の裏に、都立駒込病院辺りにあった「鷹匠組」の寄進名が刻まれた石柱が今も残る。」
 
と書かれている。
 
そう云えば、住んでいた土地の当時の名前としては神明町だった。都電の車庫も公園もすべて神明町だったし、実際、小生の両親やこの地に住む人たちはこの神社のことを「神明さま」と呼んでいた。この神明町と言う名称は、天祖神社(神明さま)があることから付けられた町名だったのだが、現在は既に消滅しており、文京区本駒込となっている。町名はこの神明さまというところから付けられたものだろう。
 
神明町は、文京区の歴史によると、
 
「もと、北豊島郡駒込村の内であった。明治24年に東京市に編入された。町名は駒込の総鎮守天祖神社の旧称である神明社のあることから名づけられた。
「駒込は、一富士二鷹三茄子(古川柳)」
富士は富士神社、鷹は鷹匠屋敷で現駒込病院の地にあった。また、富士神社裏一帯の畑からは富士裏の茄子が採れて、有名であった」
 
一般に、一富士二鷹三茄子とは、縁起のよい夢を順に並べて言う言葉とされており、駿河の国(現静岡県)のことわざで、一説に駿河の名物を言うと云われているが、それを実現している地という意味では、神明町はまことに縁起の良い土地だったとも云える。
 
しかしながら、その痕跡としては、鷹匠屋敷跡には現在、駒込病院が建っているだけで鷹匠の痕跡はなく、茄子についても現在では周辺の宅地化により茄子の生産は全くなく、縁日等でも土産の茄子も売られていないという。一方、富士については天祖神社近くに駒込富士神社と言う神社があるのだが、一富士二鷹三茄子のうち、残っているのは富士のみとなっている。この富士に就いては後で述べる。
いずれにせよ、縁起の良い土地とされているが、その一方で、一富士二鷹三茄子は「仇討ち」を示す隠語であるとの説もあるらしい。「富士」の裾野での曾我兄弟の仇討ちがあり、「鷹」は忠臣蔵での敵役・浅野長矩の定紋で、「茄子」は鍵屋の辻の決闘の舞台、伊賀上野の名産物をそれぞれ表すということが根拠という。どれが正しいかということよりも、様々な解釈があるということが興味深い。
 
先に述べた様に1189年が起源とされているが、その後江戸時代には駒込神明宮と称され、駒込村総鎮守とされた。しかし、空襲により残らず消失してしまったのだが、氏子各町の熱意により昭和29年新築し現在に至っているという。
 
この天祖神社に関する記憶は残念ながら無い。神社というもの、2-3歳の子供にとっては遊具や謎めいたものが無ければそんなものだろうとは思う。ただ、昭和29年に新築というところ、なんと小生の歳と同じである。
 
こういうマイナーな旅もまた楽しい。
 
春近し、といえども気温は冬。毎年、この頃になると、ひょっとしてこのまま春が来ないのではと思う。昔から寒いのは苦手だったが、それでも二十代の頃は毎年年末年始には冬山登山に行ったものだ。今でも行きたいと思うが、行かない。そこは探検で培った知恵で、無理はしても無茶はしない、ということ。

それはともかく、寒い日が続くと当然のこととして暖かいところに行きたくなる。

暖かいところに行く一番手っ取り早い方法は、温室に行くことだ。

温室は意外と身近にある。拙宅近くにもあるから結構ひいきにしている。入った瞬間の温度と湿度は、たまらない快感だ。避寒としては、ゼッタイお勧めである。

ところで、温室にもバリエーションがあって、植物だけの温室ではなく、昆虫を放し飼いしている温室というのがある。

とりわけ、放蝶している温室が秀逸。

そういうところにいる蝶は概ね南方系の蝶が大半で、彼らはどちらかというとフワフワヒラヒラと飛ぶ大型蝶が多いので、飛翔姿は優雅にして可憐だ。元来、蝶は幼虫が作物の外敵であることを除けば、歯も針も持っていないので、人類になんら危害を加えることはない。

バラとは異なり、美しいのに棘がないのだ。

 
オオゴマダラ

 
リュウキュウアサギマダラ

その辺りが子供を含めて愛される理由なのだろう。そんな姿を眺めていると時間が経つのが感じられない。しかも温室の中だから、いわば檻の中に蝶も人も同居しているわけで、常に視野の中に彼等がいると言う状態だからなおさらである。


一方、彼らも外界とは異なって外敵天敵がいないので、そこは楽園だろう。いわずもがな幸せなやつらである。

蝶が嫌いな人にはお勧めなスポットではないのだが、生理的に受け付けないと言うことでない限り、何ら危害を加えることなく、ゆっくりと舞う彼等を見直し、いったいどうしてこういう翅の模様を選んだのだろうとか、思いは馳せらすには良い機会だと思う。