戦跡は実感で感じ取るもの  - 赤羽さくら並木公園の防空壕跡 | プロムナード

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東京都北区の赤羽にある赤羽台さくら並木公園というところに、今でも防空壕が残されている。北区の方針として、戦跡は出来るだけ保存しておくという政策によるものだそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 


東京都北区には、王子の旧日本帝國陸軍第一工廠本部(その後米陸軍司令部の東京兵器補給廠となり、1968年はベトナム戦争開戦のため米陸軍王子病院(王子野戦病院)となった。日本への返還後は北区中央公園・十条駐屯地・東京成徳短期大学・公務員宿舎(大蔵省・防衛庁)他となって現在に至る)など、いくつかの戦跡がある。この防空壕跡もそのひとつだ。

負の遺産であれ、というか、そうであればあるほど、こういうものを後世まで残すということは、とても良いことだ。都市開発などで埋もれさせてはいけないと思う。

小生が子供の頃には、実家がある日暮里界隈にもこうした防空壕がいくつか残存していた。子供にとっては格好の秘密基地になっていたのだが、母親の話によると、死者10万人以上と云われる1945年3月10日の東京大空襲のとき、日暮里にある自宅付近はB29による焼夷弾で一面火の海となったのだが、庭に掘ったあった防空壕に逃げ込み、危うく難を逃れることが出来たという。

一体、どんな思いで防空壕の入り口から見える火の海を見ていたのだろうか。母親は、怖いというより不思議な感覚だったと語る。子供だったということもあるし、ある意味、みながバイアス状態だったから、何が異常なのかも判断できない状況だったのだろうということは想像に難くない。

かつて、沖縄本島にある未開拓の鍾乳洞(現地ではガマと呼ぶ)を日大や立命館、東洋大の探検部と合同にて探検調査を行なったことがあったが、密林に潜む鍾乳洞の洞口付近が火炎放射器で真っ黒に焼かれていたのを見た時の衝撃は今でも鮮明に記憶している。ガマに逃げ込んだ兵士や人民を炙り出す目的だったのか、或いは焼殺する目的だったのか、いずれにせよ、さながら火炎地獄だっただろうという想像がつく。探検中には、「こんな奥にまで」と思う洞内奥部で、食器や鉄カブト、そして鉄カブトの下にある頭骨、指の骨が残る軍靴など、おびただしい数の遺留品を見た。

太平洋戦争が終結して今年で70年となり、風化も進んでいる今日この頃、何も派手なものでなくも、こういう戦跡を残しておき、子供たちに伝えておくべきだろう。百聞は一見にしかず。まさにその通りだ。見るといっても写真や動画をパソコン画面上で見るだけでは伝わらないものがある。もちろん、博物館や史料館等で見ることは可能だ。

しかし、ショーケースのガラス越しでは伝わらないものがある。

出来ることなら現地で、実感として感じることが大切だと思う。