駒込天祖神社  -もうひとつの故郷を巡る旅 | プロムナード

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小生の本籍は都内荒川区だが、生まれてから数年間、両親と共に文京区駒込に住んでいた。今でもその片鱗ではあるが、住んでいた長屋や、そこにあったちゃぶ台、玩具のロボット、更にそのロボットが壊れた時に純粋文系人である母親が果敢に修理を試みた姿などは記憶にある。その長屋は天祖神社という神社に隣接していた。その名前や場所は全く記憶が無かったが記憶を辿るべく、実に五十数年ぶりに訪れてみた。
 
場所は関東平野におよそ700平方キロ広がる武蔵野台地東縁の本郷台地の上にあり、不忍通りの道坂下交差点から道坂上まで南下して西に折れたところにある。JR田端駅若しくは西日暮里駅から徒歩で15分~20分程のところだ。
 

 

 
天祖神社の物理的諸元は次の通り。
 
所在地 東京都文京区本駒込3-40-1
位置     北緯35度43分49.3秒
    東経139度45分17.4秒
主祭神 天照大御神
社格等 旧村社 駒込村総鎮守
創建     文治5年(1189)
本殿の様式 神明造
別名     駒込神明宮
例祭     9月16日
 
この付近は田端駅から歩くと判るのだが、かつて河川が縦横無尽に流路をとっていたために台地の起伏が複雑に入り乱れ、現在は暗渠となっている谷田川(藍染川)、即ち旧石神井川、の流路にある谷田橋交差点付近を相対的な最低標高とすると、そこから不忍通りの「道坂下」交差点から「道坂上」までの坂を上って付近を見渡せば、前後左右の高さが各々異なる地形となっている。下の図の赤丸が天祖神社だ。標高は黄色が一番高く、ついで緑、水色、青となる。
 

 

南端を京成電鉄「京成上野駅」とする上野台地は、地質学上、新生代第四期洪積世なので本郷台地の一部だ。
 
天祖とは、天皇の祖先のことで、一般には天照大神をさすが、古くは瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を指したこともあった。全国くまなく在る天照大神をお祀りする神社は、主に神明社や神明宮、天祖神社と称される様だ。その名前を名乗る天祖神社のひとつがこの駒込天祖神社である。
 
昭和44年に書かれた、境内にある「天祖神社の御由緒」には、
 
「当社は鎌倉時代文治五年(1189年)源頼朝が奥州藤原泰衡追討の途中、この地を過ぎる時に霊夢を戴き、松樹に大麻がかかり、祠が御座したのを畏み、神明を祀ったと云う御由緒が伝えられています
 
以来駒込神明宮と称され駒込の総鎮守として一郷の共同生活と栄敬の中心として仰がれて参りました
 
明治の御代となり天祖神社と改称され氏子区域は駒込一円の浅嘉町林町吉祥寺町片町富士前町上富士前町道坂町神明町及び豊島区駒込の全町であります
 
現在の新様式の神明造り御社殿並びに社務所はこれら(以下解読不可能)者によって戦災後復興奉賛会が結成され各位の厚き誠の心の結集により再建を期され昭和31年に完成致したものであります
更に明治100年記念事業として氏子栄敬者各位の御奉賛により大鳥居や舞殿の建設並びに境内整備が行なわれ、ここに威容荘厳を示すに至りました」
 
とある。
 
また、東京都文京区教育委員会が昭和63年3月に掲げた天祖神社にある同神社の説明板によると、
 
「江戸時代、駒込の氏神として神明さまと呼ばれ、里人に親しまれてきた。社伝によると、文治5年(1189年)源頼朝が奥羽征討(藤原泰衡-やすひら追討)の途中、この地に立ち寄り、夢のお告げで松の枝に大麻(伊勢神宮のおふだ)がかかっているのを見つけた。頼朝は、征討のよい前触れと喜び、この地に神明(天照大神)を祭ったのが、この神社の起源といわれる。
社殿の様式は神明造り。
大麻のかかっていた大木は、神木として崇められ、さしわたし4尺(1.2m)もある大木と伝えられている。
その後、宮守も無く神木の根元に小さな祠を残すだけとなったが、1650年頃、堀丹後守利直によって再興された。神木はその後枯れたという。
社殿の裏に、都立駒込病院辺りにあった「鷹匠組」の寄進名が刻まれた石柱が今も残る。」
 
と書かれている。
 
そう云えば、住んでいた土地の当時の名前としては神明町だった。都電の車庫も公園もすべて神明町だったし、実際、小生の両親やこの地に住む人たちはこの神社のことを「神明さま」と呼んでいた。この神明町と言う名称は、天祖神社(神明さま)があることから付けられた町名だったのだが、現在は既に消滅しており、文京区本駒込となっている。町名はこの神明さまというところから付けられたものだろう。
 
神明町は、文京区の歴史によると、
 
「もと、北豊島郡駒込村の内であった。明治24年に東京市に編入された。町名は駒込の総鎮守天祖神社の旧称である神明社のあることから名づけられた。
「駒込は、一富士二鷹三茄子(古川柳)」
富士は富士神社、鷹は鷹匠屋敷で現駒込病院の地にあった。また、富士神社裏一帯の畑からは富士裏の茄子が採れて、有名であった」
 
一般に、一富士二鷹三茄子とは、縁起のよい夢を順に並べて言う言葉とされており、駿河の国(現静岡県)のことわざで、一説に駿河の名物を言うと云われているが、それを実現している地という意味では、神明町はまことに縁起の良い土地だったとも云える。
 
しかしながら、その痕跡としては、鷹匠屋敷跡には現在、駒込病院が建っているだけで鷹匠の痕跡はなく、茄子についても現在では周辺の宅地化により茄子の生産は全くなく、縁日等でも土産の茄子も売られていないという。一方、富士については天祖神社近くに駒込富士神社と言う神社があるのだが、一富士二鷹三茄子のうち、残っているのは富士のみとなっている。この富士に就いては後で述べる。
いずれにせよ、縁起の良い土地とされているが、その一方で、一富士二鷹三茄子は「仇討ち」を示す隠語であるとの説もあるらしい。「富士」の裾野での曾我兄弟の仇討ちがあり、「鷹」は忠臣蔵での敵役・浅野長矩の定紋で、「茄子」は鍵屋の辻の決闘の舞台、伊賀上野の名産物をそれぞれ表すということが根拠という。どれが正しいかということよりも、様々な解釈があるということが興味深い。
 
先に述べた様に1189年が起源とされているが、その後江戸時代には駒込神明宮と称され、駒込村総鎮守とされた。しかし、空襲により残らず消失してしまったのだが、氏子各町の熱意により昭和29年新築し現在に至っているという。
 
この天祖神社に関する記憶は残念ながら無い。神社というもの、2-3歳の子供にとっては遊具や謎めいたものが無ければそんなものだろうとは思う。ただ、昭和29年に新築というところ、なんと小生の歳と同じである。
 
こういうマイナーな旅もまた楽しい。