谷根千、日暮里、上野を流れていた藍染川(その2) -藍染川の流路 | プロムナード

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前回に引き続き、今回は藍染川の流路を辿る。

藍染川の流路

水源を出た藍染川は、その後滝野川一丁目を経てゆっくりと霜降橋へと流れる。現在の都電荒川線の滝野川一丁目踏切の下を通る形だ。ただし、水源からこの滝野川一丁目辺りまでは川幅が小さいと思われることや、現在も水流があるか不明などの理由により、流路を見極めることは困難である。

滝野川一丁目辺りからは流路が確認し易くなる。滝野川一丁目から緩い坂を下って行くと、右手の交番の名称が滝野川「谷戸駐在所」であることに気付く。即ち、かつてここは谷戸川だったことが想像できる。

 

 

 

 

 

 

 

 
谷戸川は、霜降橋を過ぎて駒込駅北にある山手線陸橋の下を潜る。この付近では谷戸川は谷田川となる。写真がその陸橋だ。ここでは、「中里用水」と書かれている。   

 

 

 

 

 

 

 

 
尚、この陸橋の脇に、当時の谷田川を跨いだ橋の欄干と思しき建造物がある。暗渠工事の際に移動したものではないかと思われる。

 

 



 

 

 

 

その後、谷田川は現在の田端区民センター(平成26年9月現在、工事中)の前の道路の下を通り、田端駅と道坂下をつなぐ道路と直交する谷田橋交差点を通過し、北区から一時的に文京区と荒川区へ入り、ついで台東区と文京区の区境となる。

 

 

 

 

 

 
写真は、田端区民センター辺りの下水工事。ここには工事内容として「北区田端三丁目付近に於ける谷田川幹線管渠の再生再構築工事」と書いてあった。この写真が現在の暗渠と今後の暗渠の写真だ。谷田川通りの地下は四角く囲まれた暗渠であることが如実に表されている資料となる。 

 

 

 

 


この付近、つまり北区・文京区・荒川区・台東区の区境辺りからその名称を藍染川と変えるが、よみせ通り辺りまでを谷田川といい、道路名称は写真にある様に谷田川通りである。

 

 

  

 

 

 

 


谷田川は道灌山下付近で谷田川本流と排水路の2つに分岐する。谷田川は道灌山下と西日暮里駅をつなぐ道灌山通りを横断し、緩やかに蛇行している「よみせ通り」に入る。排水路については別途詳細に述べる。

現在の様に道路の両脇に家が建ち並んでいると、自分のいる場所の地形を把握し難いが、大まかに地形を表せば、次の図に示すように本郷台地と上野台地に挟まれて谷を形成し、ゆっくりと川下の不忍池方面へと繋がっている水系が理解できる。

 

 

  

 

 

 

 

 

 

      
谷田川(藍染川)は台東区のよみせ通りを通り抜け、三崎坂(さんさきさか)と直交する。三崎坂との交差点には、枇杷橋という橋があったという。 

 

 

 


この「枇杷橋跡」と書かれた解説板の裏側には、

「文京と台東の区境の蛇行している道路は、現在暗渠となっている藍染川の流路である。新編武蔵風土記稿によれば、水源は染井のうち長池(現在の都営染井霊園の北側の低地)で、ここから西ヶ原村へ、さらに駒込村から根津谷に入る。不忍池から上野の山の三枚橋下(公園入り口のところ)で忍川となり、三味線掘から隅田川に注ぐ」

とある。ここでの記載によると、水源は長池となっている。

三崎坂を越えると、道は著しく蛇行を始める。地元では「へび道」と呼んでいるが、地元発行のパンフレットなどにも、へび道と記載されており、英文版のガイドにも「HEBIMICHI」と書かれている。

この付近だけ川が蛇行している理由は、高低差が少ないことと流路の土質によるものと推定できるが、土質については見ることは出来ない。この界隈では洪水が多く起きたとある。平たい土地で洪水が起きると、流路は簡単に変動する。自ずから流路は蛇行するわけだ。
道の蛇行は川が蛇行に伴う。

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このへび道は全部で15の曲折をもち、現在の台東区と文京区の区境であり谷中と千駄木の境でもある。次の写真に、千駄木と谷中の住居表示が背中合わせであることが確認できる。
 
この付近については、夏目漱石の著書「三四郎」にも描写があるので、引用する。

谷中と千駄木が谷で出会うと、いちばん低い所に小川が流れている。この小川を沿うて、町を左へ切れるとすぐ野に出る。川はまっすぐに北へ通(かよ)っている。三四郎は東京へ来てから何べんもこの小川の向こう側を歩いて、何べんこっち側を歩いたかよく覚えている。美禰子の立っている所は、この小川が、ちょうど谷中の町を横切って根津(ねづ)へ抜ける石橋のそばである。 

「もう一町ばかり歩けますか」と美禰子に聞いてみた。 
「歩きます」 

二人はすぐ石橋を渡って、左へ折れた。人の家の路地のような所を十間ほど行き尽して、門の手前から板橋をこちら側へ渡り返して、しばらく川の縁を上ると、もう人は通らない。広い野である。 二人の足の下には小さな川が流れている。秋になって水が落ちたから浅い。角の出た石の上に鶺鴒(せきれい)が一羽とまったくらいである。三四郎は水の中をながめていた。水が次第に濁ってくる。見ると川上で百姓が大根を洗っていた。美禰子の視線は遠くの向こうにある。向こうは広い畑で、畑の先が森で森の上が空になる。空の色がだんだん変ってくる。


ここで出てくる小川とは藍染川のことで、当時ののどかな景観が彷彿とされる。

へび道を通り抜けると、今度は直線的な道となる。この辺りはかつて根岸藍染町と呼ばれていたため、「藍染」と言う名前は近隣のマンションや駐車場に使用されている。

 

 

 

 

 

 
写真は藍染パーキングロットという駐車場の写真であるが、この塀の基礎はかなり古そうなものであり、暗渠になる前に作られたものかもしれない。暗渠の工事は、大正10年から始められたとされている。また、付近には丁子屋という染物屋がある。そこでの話しによると、最近まで数件あった染物屋が今はこの丁子屋のみとなってしまったとのことであった。 

 

 

 


その後、藍染川はほぼ直線的に流れ、言問通りにぶつかる。江戸時代の資料によると、藍染川はここで90度右へと折れる。その後不忍通りの手前を左折、つまり言問通りに出てからクランク状に流路を取っているとある。この流路は、不忍通り方面に向かって緩やかに傾斜している場所でもあるためと思われる。 

 

 

 

 

 


言問通りと不忍通りとの交差点にある赤札堂付近に、手取橋や紅葉橋と言う橋があったということが、文京ふるさと歴史館の資料に書かれている。

 

 

 

 

 

 

 

 
通説としては、その後藍染川は不忍池へと注ぐとなっているが、そうであれば東京電力花園変電所および上野動物園の下を通って不忍池へと続くことになるだろう。

 

 

  
 

 

 


この不忍池からは、忍川となって東京湾へと連絡するというが、不忍池から直接東京湾に注ぐのか、隅田川経由で東京湾に続いているのかは、更なる調査を行う必要がある。

また、藍染川は不忍池に注ぐのではなく、不忍池から流出する水と合流した後、不忍池を周回するようにして東京湾方面へと流れると記載された資料もある。

但し、森鴎外の「雁」には、次のような文章がある。

「岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川(あいそめがわ)のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。それから松源(まつげん)や雁鍋(がんなべ)のある広小路、狭い賑やかな仲町(なかちょう)を通って、湯島天神の社内に這入って、陰気な臭橘寺(からたちでら)の角を曲がって帰る。しかし仲町を右に折れて、無縁坂から帰ることもある。 」

小説なので証拠とはならないが、「藍染川は不忍池に流れ込む」と書いてあることが確認できる。

縄文時代の頃には、不忍池一帯は上野台地と本郷台地に面する東京湾の入り江であった。その後海岸線の後退とともに入り江が取り残されて、紀元数世紀頃に池になった。明治時代の初期までの池の形は現在のものとはかなり異なっていた。特に藍染川が注ぐ北側は、池の北側は今よりもかなり広かった。しかし1884年、共同競馬会社による競馬場の建設に伴い、埋め立てが行われてほぼ現在の形が出来上がった。 本稿では、この不忍池を藍染川の着地点としておく。

 

 

 

 

 


前述の様に、この藍染川には道灌山下付近で分水されて隅田川へと注ぐかつて「大ドブ」と呼ばれていた藍染排水路がある。

次回、この藍染川排水路について述べる。