プロムナード -22ページ目

プロムナード

古いこと、新しいこと
いつでも、どこでも
思いつくまま、気の向くまま


ここ暫く雨の日が続き、外出もままならないので、久しぶりに100均モノの分解なんぞやってみた。

今回の分解ターゲットは、車のシガーソケットに差し込む電圧変換アダプタで、反対側がUSB端子となっており、スマホなどのモバイル機器の充電が出来るアダプタ。即ち車のバッテリー12VからUSBの5Vを生成するのだが、くだんのアダプタは800mA対応品であるのに対し、別機種として同じアダプタで1A品があることが分かり1A品に買い換えることにしたので、800mA品の方を分解してみることにした。充電したいモバイルデバイスでも、スマホなどは、充電開始直後の電流値が900mA近くになることがあるので、1Aサポートだと安心だ。


さて、分解開始。

分解の第一歩である開封、100円商品だから当然ネジなどは使わずパカッとはめて接着剤で一点締めしてあるだけなので、隙間を見つけてこじ開けると簡単に外れた。

分解してみると、車からの給電側(アダプタから見た入力側)にはちゃんとヒューズ管が入っている。また、基板上に12V入力から5V出力するDC/DCコンバータと思しきICが乗っている。その他インダクタやコンデンサ類が幾つか見えるので、典型的なステップダウンコンバータだろう。


ということで、まずはこのICをチェック。拡大鏡で確認するとMC34063Aとある。モトローラ製かコンパチ品らしい。これをWebで検索してみると3.0Vから40Vまでの入力電圧で動作し、ステップアップにもステップダウンにも使えるICの様だ。また、ショットキーダイオードが入っているので非同期整流型なのだろう。車のバッテリからの供給電圧は状態によって大きく変動するが、このICの許容入力電圧は40Vなので問題ないのだろう。こういう用途向けとして開発されたDC/DCなのかもしれない。

ここまで分かったので、早速回路図に落としてみた。単層基板だし部品点数も少ないので回路図への落とし込みは簡単だった。


回路を見ると、ICメーカーの推奨参考回路と殆ど同じ構成で、ほぼ教科書通りのコンバータとなっているのが判るが、ICやヒューズ、USBコネクタなどを合わせて販売価格として100円で出来るのがエライ。部品屋へ行って一点ずつ買い求めたら、とてもじゃないが100円では収まらないのは、これまで見てきた100円ものと同様だ。

但し問題がないわけではない。例えばヒューズ管だがこの安全規格は北米のUL、ドイツのDVE、そして中国のCCCが刻印されているものの、使用先である我国のPSEの認証がない。

これは如何なものかと思うが、そんなものなのかもという気もする。

同じジャンルである1A品も興味あるが、概ね回路構成は同等だと思われるので、そいつの分解はいずれ。

小生、東海道新幹線には大体2週間に1度は乗車するのだが、東京から乗車する前に調達する弁当は、押しなべて崎陽軒のシウマイ弁当が定番となっている。かつて様々な弁当にトライしてきたが、値段が少しずつ上がってきているのが少し気になるものの、結局コストパフォーマンスを鑑みて、結局このシウマイ弁当に落ち着いてしまう。部品構成はご飯のほか、シウマイ5個、厚焼卵、鮪のつけ焼き、赤い縁取りつきの蒲鉾、鶏の唐揚、筍、杏の甘煮、切り昆布、千切り生姜、及び小梅。ある意味、汽車弁当の元祖かもしれない基本形でもある。


聞けばこのシウマイ弁当が誕生したのは、なんと昭和29年だったそうだ。それを知ったのはつい最近なのだが、聞く前からなんとなく世代的な整合感は感じていた。

ところで、このシウマイと言う言葉、本来はシュウマイ、或いは焼売と表すのが普通なのだが、「シウマイ」で検索すると完璧に崎陽軒のシウマイに誘導される。つまり、崎陽軒の商標の様なものなのだ。これは凄いことだ。なまじっか商標登録するよりも「シウマイと云えば崎陽軒」という方程式が確立されているということなのだ。考えてみると、スゴイ戦略でもある。調べてみると、日産約2万食の生産高だそうだ。人気が高いことがわかる。今や、ある意味横浜の顔のひとつだ。

さて、実はこのシウマイ弁当に就いて少し問題が生じた。少し、ではあるが。

それは、弁当に内包されている醤油ボトルの蓋が固すぎて開けられなかったということだ。なんだ、些細なことだと思うなかれ。醤油がさされていないシウマイなんぞ、それこそ醤油抜きの寿司とか玉子かけご飯みたいのものだ。味のコラボレーションというのは食材と調味料が共振することで昇華するというものだ。

従ってこれは大問題だった。もちろん力任せに蓋を捻れば開いたかもしれないが、醤油が飛び散って服にデカイ染みが付いてしまうかもしれないという恐れから、それは躊躇した。とはいえ、隣の席が空いていたことを幸いとして歯に加えてまわしてみたり、いろいろ試してみたのだが、総てダメ。仕方なく醤油無しのまま、共振しないままの食材を味わうこととなった。

これは何とかしなくてはならない。そう思った。小生の様な犠牲者が多発することはよろしくない。些細なことからファンが突如としてそっぽを向くことは、芸能界のアイドルの押メン変更と同様だ。

そこで現物の醤油をそのまま持ち帰り、必要なデータ、即ち製品名、製造ロット、購入年月日、購入場所が書かれた包装紙や売店のレシートなどを取り揃え、不具合状況を説明するレターと共にお客様相談室へ送付した。日産2万食のうちの1つかもしれないが、消費者の声は届くだろうと考えての行動だった。


それから一週間後、崎陽軒は生産管理・技術課から署名つきのレターと共にシウマイギフト券2枚を送ってきたのだ。

レターは自動応答の様なものではなく、症状を踏まえた上での具体的な善後策として「製造メーカーに対して、醤油ボトルの蓋を閉める工程でトルクを再調整するように指示した」と書かれたきちんとしたレターである。

小生的には今後対応されていればいいと言う程度にしか考えていなかったので、ここまで対応してもらえるとは思っていなかった。

アッパレである。

逆に礼をいいたいくらいだが、この場で謝意を書き記すものとする。


近年、クレーマという人種が蔓延っていると聞く。特に高齢になると相当厄介らしい。まして最近はツイッターの様なSNSで何でもかんでも、あることないこと瞬時に世界中へばら撒くことが出来る時代となり、一般消費財を販売しているメーカーはさぞかし大変だと思うが、中には品質改善のアイデアや対策ヒントを提供してくれる情報提供者もいる。今回の小生の行動はそんな大それたものではないが、それなりの対応策を講じてもらえるのであれば、品質改善への貢献が出来たのではないかと思う。

一般消費財に限らず、改善改良を進めるにはユーザの声を反映させるのが一番だ。企業はそういう声を聞く耳を持ち、なおかつ役立つ情報かどうかを見分ける選球眼が必要だろう。そうした関係が出来ればWin-Winの構図が出来上がる。

今回の件で、崎陽軒の対応は立派だったと思う。もちろん他のメーカーと比較した結果ではないが、絶対値として正しい方法で対応したと考える。

今後もシウマイ弁当が新幹線弁当としての主食となりそうだ。

 

 

 

小生、アスファルト上の道端に成虫だろうが幼虫だろうが、とにかく虫が這っているのを見ると、瞬時に拾い上げて近くの叢へと放つ。ひょっとすると虫はアスファルトの上を歩きたかったのかもしれないが、だからと言ってそのまま蠢いていれば人や車に轢かれたり、あるいは目的を成就することなく干からびたりする可能性が高いし、いきおい、生存する確率は叢の方が高いと思えるので、いらぬお世話かもしれないのだができるだけそうしている。

そういう事をするとき、いつも頭をよぎるものがある。

これまで家族や友人には一度も話したことがないのだが、それは小学校の低学年の頃に犯した犯罪だ。 そっと罪を悔い改めるために、それをここに書いておこう。

小学校低学年の頃といえば、好奇心の真っ盛りであり、大人が考えない様なことをする年頃だ。当時の友人との遊び場の一つは近くを通る国鉄の線路だった。線路といっても貨物線だったから往来は少ない。子供ではあったが、さすがに石を置くのはよくないという事ぐらいは判っていたので石は置かなかったが、小さなかんしゃく玉を置いて火花が出るの見たり、釘を置いてぺったんこにしたりとか、いろいろなことをやって遊んだものだった。

 

 

 


そうした遊びの中、実は過激なことをしたことがあった。それはカブトムシを線路に置いて貨物列車に轢かせるというものであった。だれが言い出したのかなんて全く覚えていないが、何となくやってみようということになった。というか、そこにカブトムシがいたから線路に乗せただけ、という程度のものだったのだが、とにかく線路の上にカブトムシを置いたのだ。そのカブトムシ、もともと瀕死な状態だったこともあり、殆ど動けないほど弱っていたのだが、それでも生きていた。それを線路の上に置く。貨物列車が通った後はどうなるかなんて、もちろん理解していての行動だ。

カブトムシを線路に置き、子供たちは列車が来るのを待った。先に書いたように貨物だから本数は少ない。一時間に一本も来ない。しかし「その時」はたまたま来た。忘れもしない、蒸気機関車だった。

カブトムシの上を車輪が乗る瞬間を見たかっただけなのか、或いは何かの奇跡が起きるのを見たかったのかなんて覚えていない。ただ、その情景は今でも鮮明に覚えている。列車がすぐそこまで来たとき、はたして危険を察知したのか、単に線路が振動したからなのか判らないが、瀕死だったカブトムシが歩き始めた。そして線路からずり落ちそうになったとき、列車の車輪は、カブトムシが線路から落ちる前に覆いかぶさった。

と、思う。

「と思う」と書いたのは、実は小生を含め友人のだれもがその瞬間については目を背けて見ていなかったからだ。なぜ目を背けたか。間違いなく罪の意識があったからだと思う。しかしとにかく誰も見ていないのだ。その前後の事は今でも鮮明に覚えているが、その瞬間の事だけは全く記憶にない。常磐貨物線の蒸気機関車が迫り来る情景。だるそうにたくさんの貨物車両を牽引して通り過ぎる情景。今は昔、連結の最後に連結されていた車掌の乗る緩急車が過ぎ去っていく情景。総て脳裏に焼きついている。しかし、カブトムシの最期については記憶がない。

このこと、今からすでに半世紀近く前の事にも拘らず、昨日の事の様に記憶している。恐らく今後も記憶し続けるだろうと思う。

アスファルトに虫が這っているのを見ると必ずこの光景が現れる。だから殆ど無意識的に拾い上げるのだ。それで昔のことを免罪しようとかそういう事ではなく、殆ど発作的なものだ。これからも、そうやって拾い上げていくのだろうと思う。先日は拾い上げた虫に噛まれた。それはそれでいい。そんなことに懲りることなく、拾い続ける。それが小生の懺悔だと考えている。

そう言いながら、蚊が出れば蚊取り器を出すし、ゴキブリが出れば退治する。全くもって勝手ではあるが、人間はそういう動物だと割り切るしかない。しかし、少なくとも研究対象としてか、自分に危害を加えてこない限り、殺生はしないことを心がけている。というか、したくない。

子供というのは、大人の想像以上に残酷なことをすることがある。カエルの口に火薬を突っ込んでみたり、それはもうメチャクチャなことを試みたりする。だが、そういう行為を重ねるうちに、ふと命の尊さを知るということもあるのだ。

「虫だって殺してはいけない」と教育し、殺生を忌み嫌う。もちろんそれは正しいことなのだが、子供たちから、一度死ぬと元には戻らないという命の尊さを知る機会を絶ってしまうことは、如何なことかと思う。


最近小中学生も含め、若い人の凶悪事件が後を絶たない。凶悪事件を起こす子供の中には、なんと「一度人殺しをしてみたかったからやった」とまでうそぶく子供が出現していると聞く。死ぬ様を見てみたいからだという。一般論として、未体験のことを知りたい、見てみたいという好奇心や探究心は理解できるが、善悪の判断がその大前提にあることが教育されていない結果だ。こんな危険なことはない。科学云々の前に、倫理があるべきなのだ。それが人間というものだろう。

あの日から小生の空の上には、あのかわいそうなカブトムシがいつもこちらを見ている。「ぼくを最後の犠牲者として、もうこれ以上意味のない殺生はしないでね」そう語りかけている。

生命体にリセットボタンはない。子供たちが、昆虫たちからそういうことを教えてもらうことも大切なのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


6月に胃カメラでの検診を行なったところ、どうやらピロリ菌がいるらしいという判定が下り、駆除を行なうことになった。別に自覚症状はないのだが、胃癌発症の3%はピロリ菌保有者、逆にピロリ菌無保有者の胃癌発症率や0%と聞かされると、医者から強制されなくても駆除希望となるのはアタリマエだろう。


ということで、投薬中の1週間という長きに渡る禁酒生活を送った後、8月に入ってから駆除が成功したかどうかを検査したところ、どうやら成功したらしいということがわかった。

この検査は、ピロリ菌の体内にあるウレアーゼという酵素が人間の胃の中の尿素をアンモニアと二酸化炭素に分解、この二酸化炭素が血液を循環して呼気に排泄されるので、その二酸化炭素の量を測定するというもの。測定に当たっては服用する薬に13C-尿素という尿素の同位体を用い、それが分解されると二酸化炭素の同位体である13CO2が排出されるので、もしも呼気の中にこの13CO2が検出されない、つまり排泄されていないとすれば、「ピロリ菌がいないために分解されていない」という方程式が成り立ち、駆除が成功したということになるわけだ。

この測定に赤外分光が使用されているという。いわゆるスペクトラム解析だ。化学の分野では定性分析などで良く使われている技術だが、エレクトロニクスでは解析したい信号にどの様な周波数成分が含まれているかを調べるために、頻繁に使われる技術で、その測定器を通称スペアナと呼んでいる。

かつて小生が学生だった頃は、スペアナの理論は机上で勉強しただけで、実際のリアルタイム解析装置は極めて高価だったこともあってか学生に触らせる余裕はなかった様で、実際に見たのは企業に就職してからのことであった。

スペクトラム解析というのは時間軸で信号を表示するのではなく、周波数軸で表示する方法。左の図が正弦波(サイン波)を時間軸で表したもの。人間は三次元に住んでいるから時間の経過に伴う変化は直感的に理解できるので、時間軸で表した方が信号の変化を理解し易い。

一方、正弦波を周波数軸で表すと右の図の様になる。一見、へんてこりんに見えるかもしれないが、信号、つまり事象を極めてシンプルに表現することができる。

 



これは信号に含まれる成分の周波数を横軸として右方向を高い周波数として表したものなのだが、実はこの方法の方だと、時間経過に伴って変化する信号が多数あって重畳している場合には、どういう成分がどれだけ含まれているのかが、目視的に判りやすくなるのだ。


オーディオ関係では、このグラフをイコライザとして表示させるようになったものなどが昔から商品化されているので、見たことある人も多いだろう。また、昔のカセットテープなどの包装パッケージにも、テープの周波数特性としてこのグラフが記載されていたものだった。


この表示は時間軸をフーリエ変換することによって描画できる。

近年、このフーリエ変換をコンピュータを用いて高速処理する方法、即ちサンプリングして繰り返し計算を行なう式に変換(これをFFT,Fast Fourier Transformという)、瞬時に周波数軸で表示させることが可能となった。



最近ではスマホでリアルタイム音声信号解析ができるアプリも登場している。小生等の様な年代から見れば、まるで夢の様な話だ。ひとえにコンピューティングパワーのなせる業といえる。



「時間軸を周波数軸に変換する」というと何やら仰々しいのだが、プロジェクト管理に応用してみると、大勢の人がコラボしてプロジェクトを進行させている時の進捗状態を分析するという場合、時間軸で見ると状態は時々刻々と変動する上、各人の動きが重なり合うために分析は難しいが、各人が置かれている位置を横軸としてその動きを見ると、進捗や効率は把握しやすくなる。


こういう解析が手軽にできるようになったことは、大変喜ばしいことだ。人のする仕事の評価にも、スペクトラムでの評価が有効だと思う。そうすればプロジェクトに埋もれてしまっている個人の努力が正しく評価できる。正しく評価できれば、本人に対する啓蒙となるだけでなく、次のプロジェクトで活かせる。

乃木坂46と言うグループは「ファンを選ぶグループ」だということに、最近気づいた。


ファンになるためには乃木坂46から提示された「ファンになるための条件」を許容する必要があるのだ。というと少し大袈裟なのだが、要はその条件を容認出来なければ乃木坂46を好きになれないといった方が適切かもしれない。

もちろん、彼女たち、他のアイドルグループと同様に日夜ファン獲得のために奔走しているとは思うのだが、ファンを増やすためには何でもするグループとは獲得手法がかなり違う様に思える。早い話、新規に対して特別に秋波を送る様な媚びはせず、「こんな私たちでよろしければよろしくお願い申し上げます。」という、ある意味古風な対応で接してくるグループなのである。

元々、そうった「媚びない」というコンセプトで誕生したと言うことではないはずだから「たまたま」そうなっただけなのだろうか。

そもそも、よく知られている様に乃木坂46発足のキャッチフレーズは「AKB48の公式ライバル」という謳い文句だった。何を以ってライバルと言うかという事を鑑みれば、ビジネスである以上、ファンの数というのはライバル同士として比較する上で大変重要な要素なはずだ。従ってその数を増やすと言うことは「いの一番に達成すべき大命題」だろう。

しかし乃木坂46にはAKB48の様な専用劇場という活動拠点やグッズショップなどはなく、ライバルと言わせながらも甚だしく大きなハンディキャップを負わされているということも事実だ。つまり、ライバルとして戦うための土俵は当初からAKB48とは全く異なっていることを理解する必要があるのだ。また、メディアや一般人への露出が圧倒的に少ない集団でもあり、そもそも乃木坂46は「何の、何が、どの様に」AKB48のライバルなのだろうと疑問を持たざるを得ないグループでもあるのだ。

ところで乃木坂46の「46」と言う数字とAKB48の「48」と比べた大きな違いは、48が多くの約数を持つ高度合成数であることに対し、46は約数が極めて小さい数字であることだ。高度合成数については、下記で紹介した。

http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-11714230936.html

要は、48と言う数字は2つにも3つにも4つにも、或いは8でも12でも24でも、10通りの数で割り切れるということで、同じ数での分割が容易に出来る数字であることに対し、46は1と46以外には2と23でしか割り切れないという「融通の利かない数字」なのだ。即ち、もしも構成人数が46人である場合には同人数でグループ分けするには23人で分けるしかないわけで、AKB48のようにチーム分けして戦わせるという構図が取り難いことを意味しているのだ。その辺りがオーディション寄せ集めグループの割には、メンバー同士の化学的結合感が強く見える理由かも知れない。

とにかくベールに包まれたナゾ多きグループなのである。ファンになるためには、まずはそれを条件として許容しなければならない。

この、謎めいたところが年齢の割りにクールだとか、お嬢様女子高校生集団の様だと言わせしめる理由のひとつかも知れない。とにかく彼女たちとこちら側との間には、良くは判らないが何か見えない壁があると感じさせるのだ。

では壁とはいったい何なのか。

その答えはドキュメンタリー映画「悲しみの忘れ方」に描かれていた。

http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-12049390467.html

彼女たちが醸し出すその壁は、


運営側が仕組むナゾ多き少女たちという演出とは別に彼女たちがグループに持ち込んだものだったのだ。

これを理解し、許容することがファンになるための最も大きな条件である。この壁は同様のグループであるAKB48にはなかった。というより、あっても見せない様に振舞ったのがAKB48だった。

映画によると、乃木坂46主要メンバーの多くは、小中学生の頃に壮絶なイジメにあって不登校になるほどの激しいストレスに晒されたり、受験に失敗して自暴自棄になりかけたりといった様な、暗い歴史や挫折感にもがいていた経験があるという。であるならば、目立つことそのものがストレスであり、西野七瀬や白石麻衣の様に、アイドルと言う稼業に全く興味はなく、オーディションでは落選したかったという子がいてもおかしくなかった。つまり、アイドルになりたくてなったのではなく、周囲から背中を押されてアイドルになったという子がたくさんいるところが、他のアイドルグループと著しく異なる点なのだ。これをしっかりと理解する必要があり、そういう経緯が踏まえて現在アイドル稼業に従事しているという事情を許容できなければ、ファンになることができないのである。

たとえ乃木坂46が「ファンになってください」と懇願してきたとしても、それはいわゆる「 Business-like」としての行動だ。本心としては、プロモーション活動や公演活動を客観的に見据えている。即ち乃木坂46とは、現在の位置やビジョンを的確に分析する卓越した能力やバランス感覚を持つ持つ子がたくさんいるグループなのだ。そこまで理解して彼女たちを見ると、納得できることがたくさんあることに気づく。

では、何故その様な分析が可能なのか。

それは挫折を経験してきたからだろうと考える。

映画の中では語られていなかったが、彼女たちの中には、自ら死の淵まで歩み寄った子もいたのでないかと小生は想像する。彼女たちはそこから更正してきたのだ。

この子達こそ、文字通りの地獄から生還した子なのだ。

一方、いまだにアイドルという位置に対してこだわりや固執がない子もいる気がする。価値が見出せなければ頂点にいたとしても突然引退してしまってもおかしくない。それほど真面目な子が多いグループだということも知っておくべきだと思う。

今日び、イジメを苦にして、或いは辱めを受けて命を絶つ子供のニュースが絶たない。人によってその状況は様々であり、その苦しみを他人に理解してもらうことは出来ない、出来るはずがない。「私達がそうでした。でも、そこで一度冷静になって欲しい。悲しみは忘れ方があるんです。」


「命は美しい」と乃木坂46は歌う。メンバーの誰も、そういう言葉を詞にすることはしないだろう。随分後で知り合いになった秋元氏だからこそ書けるのだ。だから歌える。挫折から更正した西野、白石、橋本、生田をはじめ、多くの子が歌う。そして堀もだ。

イジメにあったって、受験に失敗したって、センターを下ろされてたって、くじけるな。そこで行動を起こせば、今まで見えなかったことが見えてくるよ。経験者たる乃木坂46のメンバーたちは、そう歌っている。

 
3.11以降、以前にも増して日本人にとっての悲願は地震予知だろう。

小生の学生時代の友人、卒業後に故郷である宮城県牡鹿郡の女川へと帰郷して行き、今では全く消息が分からなくなってしまったのだが、最悪、あの震災の犠牲になっている可能性だってある。その前にどこか違う土地へ嫁に行っていて、難を逃れていることをただ願うばかりである。

地震予知に就いては、政府が「予測は不可能」と言う結論を出して時間が経つ。しかし地震予知というジャンル、地震学とは別の次元での議論であると言うことを理解すべきだということが、最近わかった。

地震学はこれまでに発生している地震のメカニズムを解明することにあり、地震のナゾを解く学問であるが、それに対し地震予知学は地殻変動を解明することではなく、地震の前兆を自然現象の一つとして探り、「地震発生を発生に先んじて知る」学問である。即ち、地震予知とは様々な現象を分析することによって、未来に起きると思しき地震を予測することだ。

地震予知を鑑みるに、実際に得られる現象としては、「電磁気的現象」、「力学的現象」、「宏観的現象」が挙げらるそうだが、地震予知学的にいうと、地震学の知識なんぞは力学的現象データのひとつに過ぎないのだという。

そもそも地震予知する上では地震の起きる地殻変動などのメカニズムの解析はさほど重要ではなく、最も大切なことは事象としての地震の前兆を確実に見つけることなのだそうだ。

ここでいう宏観的現象とは、古くからの言い伝えにあるナマズの行動とか、イルカや鯨の行動など、動物の行動や生理的な現象と地震との相関を観察して予知に役立てることであるが、残念ながら殆どのケースが偶然の一致であり、彼等の異常行動が地震予知による動物行動であるという科学的因果はまだ発見されていないという。また、発見されたとしてもその立証や確度、つまり確実に動物の行動として宏観現象が発生するとは限らないことなど、問題も多い様だ。

そうした中で、現在最も確実性が高い予知方法として、電磁的現象が注目されている。

東京電気通信大学の早川名誉教授がその第一人者だ。写真は、
小生が横須賀YRPで開催された同教授のセミナーに出席した時の演題である。

YRPセンターに於ける早川教授の講演

教授はこれまで何度も予知を行い的中しているのだが、この講演の中で

「来週水曜日ぐらいまでの間に、東京近辺で比較的大きな地震があります」とサラッと述べたのだが、果たして木曜日深夜午前1時16分、北関東で本当に震度4クラスの地震が発生した。

この1日の誤差は、地球地質学的な時間経緯からみれば誤差ではない。実際、現在言われている「30年以内に起きる確率 71%」といった予測とは全く異なる精度だ。教授に言わせれば、こういう予測は、的中したというよりアタリマエのことを言ったまでだということらしい。木から離れたりんごは地面に落ちることが予測されるが、本当に落ちた場合、人はこれを予言が的中したとはいわないのと同じだ。

この電磁的現象について少し述べる。

電磁的現象とは、地殻変動によって地球を取り巻く電離層が撹乱されることを云い、それを観測して地震を予知すると言うものだ。

電離層についてここで書き始めると大変な量になってしまうので割愛するが、簡単に言えば、地球を取り巻く大気の上層部にある分子や原子が太陽やその他から飛来する紫外線やエックス線などによって電離している領域のことだ。電離層には高さや性質によって幾つかの層に分かれるが、地震予知に利用されるのは、高度50km付近に存在するD層と100km付近に存在するE層という層である。



Wikipediaより

教授によると、地震の前兆としてこの電離層が2~3km程度下降するという。その理由はまだはっきりとは解明できていないが、そもそも地震とは地下で発生する破壊現象であり、地殻変動によって地殻に大きな圧力がかかったときに電流が発生するピエゾ効果や 岩石に微細な破壊が生じると電荷が発生して電流が流れること、更に地殻の摩擦によって電流が発生することなどが考えられるという。

ピエゾ効果とは圧電効果ともいい、ある物質に圧力がかかったときに圧力に比例した分極(表面電荷)が発生することを指し、電子ライターや着火装置などに使われているから一般にも知られている現象だ。因みに、花崗岩へ圧力をかけることによる圧電効果、岩石の高圧力破壊実験での電荷と電磁波の発生は広く知られた物理現象で、300MHz、2GHz、22GHz帯のマイクロ波が照射されるという。

この電流が起因し、大地表面や海面に帯電した巨大な電荷が下部電離層のプラズマ化を促進した結果として電離層が下降するので、その下降を超長波(VLF:Very Long Frequency)を用いて観測すると言う方法が電磁的現象の観測方法だ。観測方法は、電波伝搬の到達時間や位相の進み遅れを観測するということで、下部電離層がどの程度地上に近づいたか、或いは遠ざかったかを調べるというもの。もちろん、ばらつきは相当大きく、標準偏差の値も大きくなるので、値が4σに入るかどうかを調べているという。

しかも、この現象は、

地震が発生するほぼ一週間程度前に発生するから、地震の予知が可能になるというのだ。

超長波VLFについては、福島の「おおたかどや山標準電波送信所(40 kHz)」と、九州の「はがね山標準電波送信所(60 kHz)」から送信されている標準電波を全国にある幾つかの受信曲で観測しているという。このメッシュ構造が緻密であるほど精度は高まるが、まだ国からの援助がないので、「細々と」活動し続けるしかないそうなのだ。

送信所をたくさん設けるには相当の予算が必要だろう。また様々な弊害も出そうだ。しかし、少なくとも受信所の建設は送信所に比べれば安価で済む。この受信設備を拡充することだけでも精度は向上するはずだ。国民の人命や資産を守るのが国の最重要任務だろう。

直接的に関与するこの様な研究に対し、国はもっと積極的に協力すべきだと思う。

気象庁のホームページにあるQ&Aに「東海地震は必ず予知できるのですか?」といいうのがあるが、答えは「必ず予知できるのかとの問いには、いいえとなります。」とある。

また「現在の科学技術では、時期・場所・地震の規模を特定した地震予知ができる可能性があるのは、唯一東海地震のみです。これは東海地震が100~150年という比較的短い間隔で歴史的に繰り返されてきたこと、発生の原因がかなり解明されていること、発生場所が陸域の地下を広く含むため観測体制が整えやすいこと等の条件が重なっているためです。他の地震については、残念ながら現在のところ予知をすることはできません。」と言う記載がある。

言っていることは正しいと思うが、それを前面に出して聞く耳を持たない姿勢があるとすれば、改善すべきだろう。地震学として、予知は不可能だと結論するのであれば、それで終了とせず、別の方法を探る必要がある。

教授はセミナーで「国はもっと真剣に予知に対して注力すべき」と訴えていた。

メカニズムが完全に科学的解明がされないと、重鎮たちの意識を変えさせるのが難しいと言うことかもしれないが、

地震は直接国民の生命に関わるのだから、国は見栄とかこれまでのしがらみに束縛されることなく、新たな技術に対して積極的に取り組んで欲しいと思う。


乃木坂46の初映画「悲しみの忘れ方 Documentary of 乃木坂46」の公開初日に参戦した。想像以上に、いや、或る意味想像通りではあるが、そもそもこのタイトルに暗示されている様に笑えるシーンは楽屋落ち的なシーン以外では殆どないという、一遍して重い内容だった。

しかし、彼女たちの知られざる黒歴史をしっかりと描くことによって深層心理を引き出し、本心を語らせることによって一層ファンの心を掴むということには奏功しただろうし、更に「人生の転機とは何か」というテーマを通じて視聴者へ勇気を与えるという目論みは見事に成功したとみる。久しぶりに見る感動的なドキュメンタリ映画でもあったと考える。

映画館にポスターが並べて置いてあるが、左と右は図案が少しだけ異なる。間違い探しゲームの様だ。向かって左は西野がこちらを見ている。右は生田がこちらを見ている。どちらもそれぞれ当人のサインが書かれている。

以下、ネタバレを含むが、本編はドキュメンタリー映画だからストーリ的なものはないので、オチやどんでん返しはない。

「Documentary Of ・・・」というタイトルはAKB48の流れを汲むものだが、AKB48のそれが年間の活動報告的記録映画であることに対し、本編は乃木坂46としての初回のドキュメンタリーモノと言うこともあるとはいえ、メンバー達の今日に至るまでの道のりがフォーカスされており、AKB48のドキュメンタリーとは異なる構成となっている。

以前、下記ブログの中で、「彼女たちのコンセプトは、巷にあふれる体育会系アイドルグループに対する文化部的なアンチテーゼではないかと思う」と書いたが、映画パンフレットにある、乃木坂46運営委員会委員長今野氏の談話の中に、同様に「乃木坂46は文化系」と表現しているので、コンセプト的には大体そういうところなんだろうと思う。しかし、この映画を見る限り、乃木坂46プロジェクト発足当時のコンセプトがそういう類だったのか、或いは結果的にそうなったのかは述べられていない。

とはいえ、その辺りが曖昧で謎めいていることこそ、実は魅力のひとつになっているのかもしれない。

http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-11981130302.html

映画の中で、一時期SKE48と兼任となっていた松井玲奈が「乃木坂46はまだ方向性が定まっていないから、逆に透明感がある」と語っていたが、これは面白い見方だと思う。通常は方向性がないとばらばらなカオス状態となり、全体としては非晶質状態となって輝きが出ないことに対し、方向性があると輝きを持つ様になる。しかしこの結晶も良し悪しで、実は見る方向によっては輝かないどころか、光が閉じ込めれられてしまうこともある。つまり方向性が定まっていない方が劈開性が出ず、どの方向からみても色ムラが発生しないという現象が現れることもあるのだ。

ところで小生の様な理系から見るとリケジョ達の価値観や道徳観は大体想像がつくが、文系、特に文科系女子という人種はとても遠くて不思議な存在であり、ある種憧れの様なものがあることは確かだろう。逆に言えば、文化系女子というもの、理系男子にとっては最高の分析対象でもあるのだ。その意味、本編は彼女たちの心の葛藤や転機と言った心理的な変遷に重きを置く構成となっているため、ある意味謎解き的な楽しみも味わえる演出となっている。こういう文科系女子を任された乃木坂46運営委員会委員長の今野氏はさぞかし重労働だったことだろうと想像する一方、毎日仰天する様な面白い発見を味わっていることだろうとも思う。と、

ここで今野氏についてググってみたら、案の定、東大工学部建築学科出身。やはり理系だった。

映像の中で、メンバーの多くはオーディションを受けた理由について、「いじめ、ひきこもり、不登校、貧乏等々からの訣別を目的として受けただけで、アイドルになりたかったというわけじゃないし、むしろ目立ちたくはなかった」と語る。これは意外であった。つまり、過去との訣別というのは、どうやら結果的にそうなったということであって、当初は学校生活におけるイジメなどからの逃避先だったのだ。アイドルになるということよりも、現実から逃避したい。そしてその駆け込み寺が乃木坂46だったということになる。

つまり、彼女たちにとって乃木坂46は「更正施設」だったようだ。

メンバー達の嫌いな言葉は「ライバル、アピール、オーディション」だという。いきおい、控えめオトナシ系女子が大半を占めるというオドロキのグループでもある。実際自分たちを評するに、控えめで人見知り、内気だと定義する。それだけ聞くととんでもなくネガティブ集団に聞こえるのだが、実際はどうなのか。この映画はその辺りを掘り下げ、深層心理を引き出す。本当にそうなのか。

それを暴く。それがこのドキュメンタリー映画のメインテーマだ。

白石麻衣は、幼少時代には活発な子だったが、打たれ弱く、中学の時に部活での先輩からのイジメで心を閉ざし、突如として不登校になって引き篭もるになったと語る。今の白石からはまるで想像できない黒歴史がそこに存在していたことを告白している。彼女に限らず、そういった負の要素が見え隠れしているところが、このグループの特徴であり、また謎めいている部分でもあり、そして大きな魅力となっているのかもしれない。

西野七瀬の場合は、本人ではなく母親がオーディションに応募したことが本編でも語られている。人見知りで内気な性格を変えて欲しいという母親の願いとしてだった、と母親は語る。その母親に対し、「乃木坂46が楽しいかどうか。私は仕事が出来ればそれでいい。自分の居場所はそこしかない」と言い切る。驚くほど客観的に、かつ冷静に自分を分析している。

橋本奈々未の場合、自分は貧乏な家庭だったために奨学金を学費へ宛がい、生活費は総てバイトで賄っていたと語る。自分がやめても家族が暮らせる様な環境を整えるのが使命だと述べ、年老いた両親を安泰させたいと言う理由で乃木坂46仕事をしているという。かなり壮絶な半生を歩んでいる様だ。また、松村沙友理の事件についても、相手は確信犯であるという持論をはっきりと述べる。自分の生き様に自信があるから、自分としての人生論を持ち合わせているということなのだろう。恐らく乃木坂46で、表裏を含め一番多くの経験を積んでいるかもしれない。

生田絵梨花はドイツデュッセルドルフで生まれ、父親の仕事によってはそのままドイツを離れなかったかもしれないという。しかもピアノに対する情熱は並々ならぬものがあり、その両立に悶々としている様が映画に描画されている。中学受験に失敗、幼くして挫折を経験したのだが、そこで覚醒し、音楽と言う道での「見返し」を決意したようだ。しかし、オーディションに合格した時、母親の方が喜んでいるのに対し、本人は却って悩んだと言うから彼女もまた数奇な人生でもある。

アイドル、とにかく芸能界に入りたかったと映画の中で告白したのは生駒里奈だけだった。ただし、生駒は小学生時代に、思い出したくもない壮絶なイジメにあっていた経験があることから、芸能界という別世界へ逃避したいと思ったということは想像できる。真っ暗な過去を思い起すにつれ「目立てば、またいじめにあう」というトラウマを今でも持っているようだ。

彼女たちは実にラッキーだったと思う。現実からの逃避としてアイドルへ転身するというのはごく一部の幸運な人だけが出来ることであり、悪いケースであれば不良や非行へと走り、風俗や犯罪に手を染めるケースもありうる。彼女たちが道を逸れずに乃木坂46のオーディションを受けたのは、この映画を観てわかったことだが、親がしっかりしていたということだ。

乃木坂46のオリジナルコンセプトはAKB48の公式ライバルである。しかし、AKB48とは全く異なるグループであり、同じ土俵にはいないのだ。その辺り、実際にメンバーを集めてみると、結成当初のコンセプトとは少し違っていたと言うことだろう。しかし、無理にライバル意識を煽ることなく方針を変更させている点が秋元氏の真骨頂かもしれない。

ただ、追うものとして定義されているから、追うことを余儀なくさせれているのは少し残念だ。AKB48と同じ直線(路線)上で競わせるのはどうか、と思う。
実際、AKB48は乃木坂46を自分を追い越そうとして活動していると見るだろうし、一方乃木坂46はAKB48とは違う道を開きたいと考えている。追うもの、追われるものの競争という構図とは少し異なっている。追うものと追われるものと言う構図に於ける追うもののストレスは、下記ブログに書いたように、想像以上に大きい。かつてイジメにあった彼女たちが喧嘩を売るというポーズを取るということは、少し考え難いのだ。

http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-12040494009.html

乃木坂46は、一般的に美形でいて清楚というイメージがあるという。年の割には大人っぽい子が多い理由もそこにあるかもしれない。そういわれてみれば、「おとなしい」という言葉を漢字で書くと「大人しい」となる。一方、ただ単に大人しいわけじゃなく、アイドルとしてステージに立つクソ度胸もあるのだから、実は相当に骨太なのだ。ある意味面倒くさい子も多いだろうという想像も付く。しかし、先に述べたような黒歴史を経て自分の殻を破り、自分の深層心理まで深く分析する能力を持つ思慮深い子達であって、極めて頑固で自尊心が強く負けず嫌いなのが本音であり、先に述べた様な内気で引っ込み思案というのは、実は真の姿ではないのだ。

考えてみれば、そもそも内気で引っ込み思案と言う性格の持ち主は、たとえ親が応募しても、オーディションを受けないだろう。覚醒する要素がきちんと備わっていたということになる。

最近の若者云々と嘆く前に、こういう子たちもたくさんいるということを、大人たちはきちんと理解する必要がある。

また、この文科系女子集団というムーブメントは、ある意味現代社会に対するアンチテーゼでもあり、少し疲れちゃった人たちへのオアシス提案ともいえるだろう。

今後、乃木坂46は何処へ行くのか。その答えを、加入僅か5ヶ月で単独センターへの大抜擢となったものの、その後はずっと選抜から脱落させられた堀未央奈がしっかりと出した。映画はそれを見事に描いている。

悲しみの忘れ方。それは自分の黒歴史を封印せずにしっかりと分析した上で、新たな居場所を見つけることなのだろう。

小生のかつての仕事仲間に、大学を卒業した後、幾つかの職業を経て再び大学へ入学して学生している人がいる。聞けば、心理学をもっと追求したいからだそうだ。その後もたまに連絡を取り合っているが、充実した学生生活を送っているというから見上げたものだと思う。

これまで心理学という学問、小生的には商品開発エンジニアリングというカテゴリから見て、かなり離れた存在だったのだが、彼女に刺激されたからと言うわけではないとは思うが、心理学的な研究成果というものを、工業製品の商品企画に対してはもとより、商品の技術開発ステージに対しても、もっと積極的に取り入れるべきじゃないかと最近思うようになった。

先日、都内で開催された先進コンテンツ技術の展示会で、予てより話題となっていたアンドロイド人、ASUNAが展示されており、初めて彼女に「逢う」ことができた。尤も、カタログなどを配布する展示コーナーのブース受付に立ち、来場者に自分自身を自己紹介していたので、展示と言う言葉が適切かどうかは微妙ではあるが。


株式会社「エーラボ」で、自分を紹介するASUNA

この「彼女」、通り過ぎる人が足を止めてまじまじと見ないとアンドロイドだとわからないほど精巧に出来ているのだが、面白いことに、立ち止まって「彼女」を見つめる人が他にいないと、通る人たちは彼女に注目することなく通り過ぎていく。だれもアンドロイドであるとは気付かない。つまり目立たないのだ。実はここに、今後のロボット像としての大きなヒントがあるという。

そういわれて彼女の顔を見ると、確かにフツーだ。決してブサイクではないのだが、アイドルオーディションだったらぎりぎり予選通過というところだろう。どうせ人造するのだったら、しかも試作品とのことなので、徹底的な整形手術を施したマネキン人形みたいな絶世美女を創造すればいいのにと思ったのだが、そこが心理作戦なのだそうだ。

産業用は別として、人間の生活に直接関与するロボットは概ね二つに分類されると思う。ひとつは、人間との間の主従関係が明確となったロボットで、ASIMOやPEPPER、それにかつてのAIBOなどがその代表だ。この種のロボットはロボットであることが前面に出されており、主たる人間も彼等と接する上で恐怖心や不気味感を感じることはない。

それに対し、いわゆるアンドロイド系は人間との主従関係がかなり曖昧であり、ASUNAはそれに相当だろう。この場合は、ロボットらしさはあまり出てこず、従って人間は彼等と接する時に、条件によっては恐怖心や不気味感を感じるというのだ。

ここで人間の心理という要素が関わってくる。

人間が相手に対し恐怖心を覚えるのはどういったときか?それは即ち「ロックオン」されたときではないかと思う。人間同士でよく言われる「ガン飛ばし」がそれに相当する。相手が人間ではない「得たいの知れない生き物」であれば、ロックオンされた瞬間に背筋が凍るような恐怖心を抱くことだろう。

一方不気味感についてはどうか?これは、自分の過去の経験や知識にはない生き物を間近に見たときに、照会不可能となったときに感じるのではないかと思う。
こういう恐怖心や不気味感を与えないために、ASUNAは目立たない顔立ちとさせたのだそうだ。もしも目立つ美人顔だとすると、人の脳にはそれがロボットであるという意識との交錯がおき、混乱したり、不気味感を感じたりするのだという。それを防ぐためにわざとフツー顔にしたのだそうだ。


人間は自然界で生活する自然な生き物だから、動物的には物理的に安定を求める。それはかつて次のページ「「かわいい」とは何か  -自然は安定(平均)を求める」で述べた。

http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-11261483410.html


ここでは、安定(つまり平均)の例として当時のAKB48メンバーの顔を総て重畳して平均化した画像を紹介した。


アンドロイドが万人ウケを狙うのであれば、こういう顔作りでもいいのではないかと思ったのだが、平均顔が人目を引くとなると、人目を引いたアンドロイドに対しては不気味感を感じるらしく、どうも話はややこしくなる。人間の心理とは、かくもワガママなものなのだろう。

あとは、いわゆる「慣れ」も重要な要素となるかもしれない。

ところで、こういう心理学的な研究成果をアンドロイド相手だけではなく、様々な商品の開発に対しても反映させるべきだろう。エンジニアリング側からも、そして心理学側からも互いにアプローチを行なうと、さらに高い次元の「ユーザーフレンドリ」な商品が展開できる様になると考える。
森林浴は本当に気持ちがいい。なぜか?

森林を形成する樹木は、自身が他の生物から損傷を受けると殺菌力のあるフィトンチッドという揮発性物質を放ち、自己防衛する。この物質は、以前このブログでも書いたファイトアレキシンと似た物質だ。

http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-11982859840.html

森林浴は、このフィトンチッドに接することでストレスなどからリセットされることだが、
森林浴の効果は、どうやらこの化学物質の作用だけではないらしい。

森林の中で、腰を下ろしてじっとしていると、実は様々な音が聞こえていることに気付く。鳥のさえずりや虫の声はもとより、風切音や木の葉が擦れる音、近場に沢や小川があれば水の音などが絡み合って音として耳に入ってくる。


この音の中には、当然のことだが人間の耳には聞こえない音も多数含まれるだろう。人間はおよそ20Hzから20kHzまで音を感知することができるというが、この範囲、自然界の中にあっては相当に狭い範囲でしかない。若い人ほど高音の聴力が優れているといわれるが、それでも高々20KHz。自然界の音はもっと広範囲に存在するのだ。コウモリが真っ暗闇の洞窟の中で壁にぶつかることなく移動ができることなどはよく知られているが、彼らは人間の聴覚限界をはるかに超えた30kHzから100kHzといった帯域の音を感知することができる。森林には、こういった人間の耳には聞こえない帯域の音が多く存在している。どうやらこれらの音の存在も、フィトンチットなどの化学物質とともに森林浴効果に影響がありそうな気がするのだ。

人間は、森林の中にいるとき、それらの音が耳に聞こえているかどうかとは別に、それらの音が「存在している」ということは感知しているのではないだろうか。しかし前に述べた様に耳で聞く音の周波数帯域は20~20kHzまでだ。それ以上の音は耳では聞こえない。では、体にあるどのセンサーが可聴帯域外の音を聞き取ることができるのだろうか?

昔から「肌で感じる」という言葉がある。

空気を読むといったことと同様に雰囲気を感じるものだが、この雰囲気の中には、物理量としての音という要素があるだろう。つまり、音を耳ではなく肌で聞く。これはありそうな気がするのだ。

最近の研究で、森林には20kHzを超えた帯域で多くのピークを持つ独特の音があることがわかったという。


人間は、こういう帯域の音は耳に聞こえないため、音楽の録音や再生時にはそれらを省略していた。もちろん技術的な問題や録音再生機器のコストも大きな問題ではあるが、CDで聞く音楽程度の再生であればそれらの音を省略しても何ら問題はなかった。

CDよりもアナログレコードの方が音がいいとかよく言われるが、原理的に言うと、CDは44.1kHzでカットオフされることに対し、アナログレコードの場合にはカットオフが特定されていないということがその所以だが、現実的には無限大の周波数音声が再生されるということはないので自ずから限界がある。ただ、44.1kHzで強制的にカットされるものとは異なってくる。

従って、アナログレコードの方がCDよりも原音に近い音が再生できることになる。もちろん無限大ということではないが、よりHiFiなサウンドの再現が可能ということになる。それがアナログレコードが見直される大きな要因の一つだ。ただし録音時の帯域に依存する事には注意が必要ではある。

ところで最近よくハイレゾという言葉をよく耳にする。このハイレゾとは、上述のCD限界をはるかに超えた192kHzで録音された音源の事で、その意味、より原音に近い音が再現できることになる。実際に聞き比べてみると、CDの音に比べると、その違いは明瞭だ。何がどう違うかなどは専門書もたくさんあるのでここでは触れないが、とにかく明確に音質は異なっている。このハイレゾを使って森林の音を録音再生してみたらどうだろうか。通常使われるマイクではなく高周波の音を集音する広帯域のマイク(10~100kHz)を用いて、サンプリング192kHz/16bitにてデジタル変換して滝、枯葉が擦れる音などには20kHz以上の音が含まれており、そのレベルは他の土地に比べておよそ10dB以上大きいという。つまり、森林にいるときには可聴帯域を越える超高音の世界にいるということになる。

自然界に存在する音はかくのごとく広範囲なものだ。元来人間は自然界の音の中で進化してきた。

人間の心理は音によって著しく変動する。たかが音、されど音。確かに映像も大きな影響があるが、目を閉じれば見えない。しかし音は耳をふさいでも聞こえるのだ。

人間は音によって過敏になったり不安になったり、或いは癒されたりする。その意味、ハイレゾサウンドはそれに近づいた技術だと言えるだろう。これからの更なる開発が楽しみだ。
「世の中には」と言うといささか大袈裟だが、人間社会には喰うか喰われるかという動物的な競争とは別次元に、古今東西年齢性別国籍等を問わず、「追うものと追われるもの」という関係は常に存在している。

では追うものと追われるものとではどちらの方が大変か。これはもちろん性格や価値観等によって異なるが、物理的な具体的行動として考えると追われる方が圧倒的に大変である。

追われるという状態を鑑みる場合、イメージ的にその状態を想像してみると、追われるものは一本の道の先端を走っていると言うイメージが浮かぶ。マラソンのトップの様なイメージだ。一方、追うものとは、そのトップの背中を見ながら追いつこうとして必死に喰らい付く姿がイメージできる。マラソンで言えば2位以下の選手がトップを追う姿だ。

しかしこの様な「直線上での競争」は飽くまでもひとつの例に過ぎず、実社会での競争はもっと多面的な競争となっている。単なる直線上を走るものではない。つまりトップを追うものに対しては、後ろから追いかけてくるもののみならず前後左右から挑戦してくるものがいるのだ。それがトップにとっての大きなストレスとなるのだ。


写真は自分のテリトリを警邏してテンパっているヤマキマダラヒカゲ。枯れ木の上でのんびりしている様に見えるが、テリトリに入るものは蝶であれ蜂であれ、追い回してテリトリ外へと追い出す。

トップがトップであることを維持するためには、テリトリを監視するこの蝶の様に、全方位に対し一瞬たりとも監視を怠ってはならない。

しかも自分がトップであることが正しいことなのかどうかを客観的に評価しなければならない。トップであることを堅持しているうちに(そのつもりでいるうちに)評価方法が変ってしまえば、相対的にトップではなくなるということもありうるのだ。

一方、追う方は自分のペースとコンディションと相談しながらトップの手抜き状態を突いて仕掛ければよい。気が向かなければ活動しない。気が向けばやる。失敗して元々、成功すれば金星となる。考えてみれば相当に気楽な立場だ。

しかし、本当にそうだろうか。

以上は物理的な事象として追うものと追われるものを比較しているのだが、人間の実社会の場合には、そこに感情という厄介な要素が加わってくる。しかも追う者と追われるものという二人だけではなく、その戦いを見ている観客がいる。実はこれが厄介な要素なのだ。つまり追うものには、追うという事以外に「追うものとして見られている」というストレスがあるということだ。そのプレッシャーに屈せずライバルに迫るためには、並大抵ではない精神力を必要とするだろう。

この、追うものと追われるものという構図、実はどこにでもあり、ビジネスでも学業でも、或いは芸能界のもあると思う。これに打ち勝つには、相当な精神力が必要だと、最近思う。