豊太郎の未来話
千年後の悪夢
承平の末(945年)、天慶の初めのころ、薩摩の山里に豊太郎という若者がいた。
豊太郎は、田を打ち、山で薪を拾い、川で小魚をすくい、夜には囲炉裏のそばで眠った。
朝になれば鶏が鳴き、母が粥を炊き、父が鍬を持って外へ出た。
世の中には戦も飢えも病もあったが、豊太郎のまわりの一日は、たいてい昨日と同じように始まり、昨日と同じように暮れていった。
ある夏の夜、豊太郎は夢を見た。庭に月の光が満ちていた。その光の中に、ひとりの女が立っていた。衣は霞のようで、髪は黒い水のようだった。豊太郎は、人ではないと思った。
女は言った。
「豊太郎」
声は耳からではなく、自分の胸の奥から聞こえた。
「そなた、千年後の世を見たくはないか」
豊太郎は寝床の中で目を開けたつもりだった。だが、そこはまだ夢の中だった。庭の草は白く光り、影はひとつも動かなかった。
「千年後でございますか」
「そうじゃ。そなたの子も孫も、そのまた孫も、みな土に還った後の世じゃ。人はどこまで賢くなったか。田はどこまでよく実るようになったか。海の向こうには何があるか。そなた、見てみたくはないか」
豊太郎は息をのんだ。
千年後。それは神代よりも遠いように思えた。人は空を歩いているかもしれない。病は消えているかもしれない。米は穂が垂れすぎて、田の水に届くほど実っているかもしれない。家は雨にも風にも負けず、冬にも凍えず、飢えも争いも遠い昔話になっているかもしれない。豊太郎は、恐れよりも先に好奇心を覚えた。
「見とうございます」
女は少し黙った。
「ほんとうに見るか」
「はい。千年後の世を、ひと目でよいから見とうございます」
女は豊太郎を見つめた。その目は悲しいようにも、冷たいようにも見えた。
「見れば、忘れられぬ」
「忘れませぬ」
豊太郎はそう答えた。まだ、何を忘れられなくなるのか知らなかった。
女が袖を上げた。月の光がぼやけた。庭が消えた。虫の声も、囲炉裏の匂いも、母の寝息も、すべて遠のいた。
次の瞬間、豊太郎は、知らぬ島の土の上に立っていた。
暑かった。夏の暑さではなかった。空気が焼けていた。草の匂いではなく、焦げた木と、焦げた布と、焦げた何かの匂いがした。目の前には山があった。だが、その山は豊太郎の知る山ではなかった。木々は折れ、枝は黒く、地面には無数の穴が開いていた。畑も田も見えなかった。
家はあったが、家の形をしたものは少なかった。壁だけ、柱だけ、瓦だけ、土に混じって散らばっていた。
遠くで雷が鳴った。豊太郎は空を見た。雲はなかった。もう一度、雷が鳴った。すると山の斜面がめくれた。土が柱のように噴き上がり、黒い煙が空へ立った。
雷ではなかった。何かが山を叩いていた。見えない巨人が、鉄の槌で島を打っているようだった。
豊太郎は足元を見た。地面に、手が落ちていた。最初は木の根かと思った。だが、それは人の手だった。指は泥をつかむ形のまま曲がっていた。腕は途中でなくなっていた。誰の手なのか、どこから飛んできたのか、豊太郎には分からなかった。豊太郎は後ずさった。
そのとき、近くの岩陰から人の声がした。
女と子供と老人が、穴の中に身を寄せ合っていた。穴といっても、獣の巣ではなかった。
人が掘った逃げ場だった。
女は子供を抱いていた。子供は泣いていなかった。泣く力がないのか、泣いてはいけないと教えられたのか、目だけを大きく開けていた。
老人は何かを唱えていた。豊太郎の知る念仏とは違ったが、それが祈りであることは分かった。
豊太郎は近づこうとした。そのとき、空から裂けるような音が降ってきた。
鳥ではない。風でもない。矢でもない。音が先に来た。そのあと、岩が砕けた。
穴の外にいた男の体が跳ねた。豊太郎には、何が起きたのか分からなかった。
男の肩から上が消えていた。首が斬られたのではない。刀で落とされたのでもない。
そこにあったはずの頭と肩と片腕が、土と煙と赤黒いしぶきになって周囲に散った。
男の体は、すぐには倒れなかった。膝をついたまま、少し揺れていた。
それから、首のあった場所から血が噴き出した。
豊太郎は息をするのを忘れた。
刀傷なら見たことがある。
喧嘩で額を割った男も、山で落ちて足を折った者も見たことがある。だが、人の体が一瞬で形を失うところなど見たことがなかった。人は、こんなふうに壊れるものなのか。豊太郎はそう思った。
思った途端、腹の底が冷たくなった。穴の中の女が子供を抱きしめた。老人の唱える声が速くなった。子供はまだ泣かなかった。また音がした。
今度は穴の入口が白く光った。火ではなかった。光そのものが刃になって入り込んだようだった。
女の背がはねた。口が開いた。声は出なかった。
豊太郎は女の腹のあたりを見てしまった。
衣が裂けていた。そこから、濡れた縄のようなものが土の上にこぼれていた。
女はそれを見た。自分の中から出たものだと分かったのか、分からなかったのか、目だけが大きくなった。それでも、女は子供を抱こうとした。腕が動いた。だが、力が入らなかった。
子供は女の下に半分隠れ、細い声を出した。その声は、次の砲声に飲まれた。
豊太郎は叫ぼうとした。だが、喉が動かなかった。走ろうとした。だが、足は土に縫いつけられたように動かなかった。
彼はそこにいた。確かに見ていた。けれど、誰にも触れられなかった。誰の名も呼べなかった。
誰の手も引けなかった。豊太郎は、自分が幽霊になったのだと思った。
海の方から、さらに低い音が来た。
豊太郎は振り向いた。
海には、山のような船が浮かんでいた。その船の腹から火が光り、少し遅れて山が崩れた。
空には、鳥ではないものが飛んでいた。羽はあるが、生き物ではなかった。腹に火を抱き、鉄の声で空を裂いていた。
鉄の鳥。
鉄の山。
見えない雷。
千年後の人間は、そういうものを作っていた。豊太郎には、鉄も石油も電気も分からなかった。
その名を知らなかった。
だから、ただこう見えた。
人間が雷を飼いならした。そして、その雷を、人間に向けて放っていた。
山道を、兵が走ってきた。兵と分かったのは、手に長い鉄の棒を持っていたからだった。
服は土と汗と血で汚れ、顔は老人のように疲れていた。
若い男だった。豊太郎より若いかもしれなかった。その兵が転んだ。
転んだのではなかった。胸のあたりが弾けていた。背中から赤い霧が出た。
兵は地面に倒れ、両手で胸を押さえた。押さえた指の間から血があふれた。
兵は何かを言った。母、と聞こえた。
豊太郎の耳には、たしかにそう聞こえた。
母。
その一語だけが、砲声の間から浮き上がった。
そして、すぐ消えた。
豊太郎はその場にしゃがみ込んだ。そこらじゅうに、人の一部があった。足だけが草の上に投げ出されていた。草履はまだ履かれていた。指だけが泥の上で曲がっていた。
腹を裂かれた男が、自分の中身を両手で押さえながら、何かを探していた。
片目を失った老人が、倒れる前に空を見上げていた。
誰が生きていて、誰が死んでいるのか分からなかった。
死んでいるように見える者が動き、動いている者が声もなく倒れた。
子供の体は小さすぎて、土と布と血の中にまぎれた。
母の手が、その子を探すように動いていた。だが、その母にも、もう顔がなかった。
豊太郎は目を閉じた。しかし閉じても見えた。まぶたの裏に、赤いものが残った。
泥に落ちた手が残った。腹からこぼれたものを見てしまった女の目が残った。
母と呼んだ兵の口が残った。
目を開けても同じだった。島全体が、ひとつの傷口のようだった。
穴の中で、まだ生きている人々が身を縮めていた。
彼らはもう、人の形を保っているだけだった。心はどこかへ逃げていた。だが、体は逃げられなかった。母は子を抱き、兄は妹を抱き、老人は膝を抱え、みな小さくなろうとしていた。
石の隙間の虫のように。踏まれぬように。見つからぬように。音に触れられぬように。
誰も声を出さなかった。声を出せば死ぬからではなかった。声を出しても、何も変わらないからだった。
そこへ、砲弾が落ちた。穴の中が白くなった。
豊太郎は、自分も砕けたと思った。骨が散り、肉が裂け、目が飛び、舌が土に落ちたと思った。
だが、彼はまだ立っていた。夢の中の者だからだった。
煙が引いたとき、穴の中には静けさがあった。
さっきまで家族だったものは、もう家族の形をしていなかった。
母も子も老人も、ひとつに混じっていた。
髪。
布。
小さな足。
指。
割れた椀。
土に押しつぶされた顔。
豊太郎は、それ以上見てはいけないと思った。だが、目が離せなかった。
千年後。
それは、豊太郎が思っていた千年後ではなかった。金の御殿もなかった。病のない楽土もなかった。空を歩く仙人もいなかった。豊かに実った田も見えなかった。あったのは、鉄の鳥と、鉄の船と、見えない雷と、穴の中で壊される人間だった。
豊太郎は天女を探した。
「天女さま」
声は出なかった。
「天女さま、もうよい」
それでも天女は現れなかった。
豊太郎は歩いた。歩きたくなかった。けれど、夢は彼を歩かせた。
山の斜面には、黒く焼けた木が立っていた。木の根元には、人が座っていた。
座っているように見えた。近づくと、焼けて固まっているだけだった。
道の脇に、水筒が落ちていた。そのそばに少年がいた。少年は生きていた。片足がなかった。
なくなった足の先から、血が泥にしみていた。少年は泣いていなかった。ただ、口をぱくぱく動かしていた。水、と言っているのだと豊太郎は思った。
豊太郎は水筒に手を伸ばした。指は水筒をすり抜けた。もう一度伸ばした。また、すり抜けた。
少年の目が豊太郎を見た。見えるはずがなかった。
だが、見た。
豊太郎は水筒を取ろうとした。取れなかった。
少年の口が動いた。
水。
声にはならなかった。
豊太郎は膝をついた。何度も水筒に手を伸ばした。何度も、指はすり抜けた。
少年の目は、しだいに動かなくなった。
それでも豊太郎は手を伸ばし続けた。水筒はそこにあった。少年もそこにいた。豊太郎もそこにいた。なのに、何もつながらなかった。
やがて、少年の口は動かなくなった。
豊太郎はそこから逃げた。
逃げても、同じだった。どこへ行っても、音がした。どこへ行っても、煙があった。
どこへ行っても、誰かが水を求め、母を呼び、子を探し、声にならない声で口を開けていた。
太陽は空にあったはずなのに、島は夕方のように暗かった。煙が光をふさいでいた。
その暗さの中で、豊太郎はひとりの少女を見た。
少女は岩のそばに座っていた。髪は煤で固まり、頬は泥で汚れていた。膝の上に、小さな布包みを抱いていた。
赤子かと思った。だが、布包みは動かなかった。
少女は豊太郎を見た。
「あなたは、どこの人」
豊太郎は震えた。
この少女には、自分が見えている。
「薩摩の者です」
「薩摩?」
「千年前の……者です」
少女はしばらく豊太郎を見ていた。
その顔には、驚きも笑いもなかった。
千年前と聞いても、もう何も不思議に思う力が残っていないようだった。
「ここは、千年後ですか」
豊太郎は自分で聞きながら、声がかすれた。
少女は答えなかった。
遠くで砲声がした。
少女の肩が小さく震えた。
布包みは動かなかった。
豊太郎は尋ねた。
「その子は」
少女は布包みを抱き直した。
「弟」
「眠っておるのですか」
少女は答えなかった。
豊太郎は、それ以上聞けなかった。
少女は海の方を見た。
「昨日までは、母さんがいた」
豊太郎は何も言えなかった。
「その前は、おばあもいた」
少女はそう言ったきり、黙った。
昨日。その前。千年後にも、昨日があり、その前の日があったのだと豊太郎は思った。
朝があり、飯があり、水があり、家族の声があったのだ。
それが、一日ずつ壊れていったのだ。
少女が豊太郎を見た。
「あなたは帰れるの」
豊太郎は答えられなかった。
「帰れるなら、帰ったほうがいい」
少女は静かに言った。
「ここにいると、みんな壊れるから」
その声は、泣いていなかった。怒ってもいなかった。ただ、乾いていた。
豊太郎は少女に近づこうとした。
そのとき、空が鳴った。
少女は布包みを抱きしめた。
豊太郎は身を伏せようとした。
白い光。
土。
煙。
耳の奥で、世界が破れた。
豊太郎は叫んだつもりだった。音は出なかった。煙が流れたあと、少女のいた場所には、布の切れ端だけがあった。
豊太郎はそれを見た。
見たくなかった。
だが、見た。
そのあと、天女が現れた。
白い衣は汚れていなかった。
髪も乱れていなかった。
その姿だけが、島の中であまりに場違いだった。
豊太郎は天女を見上げた。
「なぜ」
それだけしか言えなかった。
天女は答えなかった。
豊太郎はもう一度言った。
「なぜ」
天女は、ただ豊太郎を見ていた。
「千年後を見せると言ったではありませぬか」
豊太郎の声は震えていた。
「これは何ですか」
天女は答えなかった。
「これは人の世ですか」
答えはなかった。
「これは未来ですか」
天女は、袖を上げた。
豊太郎は叫んだ。
「まだ帰さないでくだされ」
自分でも、なぜそう言ったのか分からなかった。
帰りたかった。今すぐ帰りたかった。だが、このまま帰れば、あの少女も、少年も、母も、兵も、穴の中の家族も、ただ夢の奥に置き去りになるような気がした。しかし、残っても何もできなかった。見ているだけだった。見ることしかできなかった。
天女の袖が、月の光のように広がった。島が遠のいた。砲声が水の中の音のようになった。
煙が薄れた。血の匂いが消えた。
最後に、小さな手が見えた。土の上に出ていた。誰の体につながっているのか分からなかった。
指先に泥がついていた。何かをつかもうとしていた。
水筒か。
母の衣か。
逃げるための土か。分からなかった。その手だけが、最後まで見えていた。
豊太郎は目を覚ました。
藁屋根の隙間から、朝の光が差していた。鶏が鳴いていた。母が粥を炊いていた。父が外で鍬を動かしていた。いつもの朝だった。豊太郎は起き上がれなかった。耳の奥で、まだ音がしていた。
雷ではない。太鼓でもない。山崩れでもない。あの島の音だった。
母が土間から声をかけた。
「豊太郎、起きぬか」
豊太郎は返事をしようとした。
だが、声が出なかった。
目を閉じると、少女がいた。布包みを抱いていた。口を動かしていた。
何を言ったのか、豊太郎は思い出せなかった。帰れるなら、帰ったほうがいい。そう言ったのか。水、と言ったのか。母さん、と言ったのか。何も言っていなかったのか。分からなかった。
ただ、口の形だけが残っていた。
その日、豊太郎は田へ出た。泥は冷たかった。水面には空が映っていた。苗は青く、風はやわらかかった。
父が言った。
「顔色が悪いぞ」
豊太郎は首を振った。
「何でもありません」
そのとき、遠くの山で鳥が一斉に飛び立った。ただ、それだけだった。だが豊太郎は、泥の中に伏せた。両手で頭を抱え、息を止めた。
父が驚いて名を呼んだ。
母が畦から走ってきた。
豊太郎には、何も聞こえなかった。耳の奥では、鉄の鳥が来ていた。海の鉄の山が火を吐いていた。穴の中で家族が身を寄せていた。少年が水を求めていた。少女が布包みを抱いていた。
豊太郎は泥の中で震えた。
しばらくして、父が肩をつかんだ。
「どうした。何があった」
豊太郎は顔を上げた。
田はそこにあった。山もあった。空もあった。何も落ちてこなかった。だが豊太郎には、もう同じ空には見えなかった。
それから、豊太郎は口数の少ない男になった。
笑うことはあった。飯も食べた。田も植えた。薪も割った。年を取り、子も持った。けれど、遠雷が鳴ると箸を落とした。大きな鳥の影が田を横切ると、顔をこわばらせた。子供が水を汲みに外へ出ると、戻ってくるまで動かなかった。
夜中に目を覚ますことも多くなった。家族は眠っている。囲炉裏の火は小さく赤い。外では虫が鳴いている。平和な夜だった。
その平和な夜が、豊太郎には恐ろしかった。あの島にも、こんな夜があったはずだからだった。
母が子を寝かせ、父が明日の天気を気にし、老人が昔話をし、少女が弟の寝息を聞いていた夜が。
そして、その先に朝が来た。
豊太郎は夜明けまで目を開けていた。千年後の世を見たことを、豊太郎は誰にも話さなかった。
話せなかった。
話せば、夢だと言われる。戦ならこの世にもあると言われる。怖いものを見たのだろうと言われる。忘れよと言われる。だが、忘れるものではなかった。それは夢ではなかった。かといって、現の世でもなかった。ただ、胸の奥に焼きついた、逃げ場のない光景だった。
鉄の鳥。
白い光。
穴の中の家族。
水を求める少年。
布包みを抱いた少女。
土の上に出ていた小さな手。
それだけが残った。
豊太郎は生涯、千年後の悪夢から、本当には帰ってこなかった。























