休日日曜百姓の野良流宇夢(ノラリュウム)実践記

休日日曜百姓の野良流宇夢(ノラリュウム)実践記

休日日曜百姓の想像と実践
半自然植物栽培
semi-natural plants cultivation with my imagination and practice
畠、田んぼの生物多様性を増幅して農園を作っています
I am creating a farm by amplifying the biodiversity of my farm and my rice field.

 

先週は雪が積もっていた。田んぼの草も寒さのせいで出ていた葉が傷んだりしている。

 

今年の苗床に防草シートを敷いた。

苗床にする田んぼの一画を軽く草刈り機をかける。

今年は田んぼの面積が増えるので、2列苗床を準備する。

黒ビニールマルチを敷いて、その上に防草シートで覆う。端から光が中へなるべく入らないように、押さえピンと木の枝を重しにしてしっかり密着させる。

このまま4月まで草を抑えておく。

田んぼの畔の樹木はまだ芽が出ていないが、これから暖かくなってくるごとに、新芽が芽生えてくるだろう。

休耕田は「自然農法的最適解」――人間には不都合、しかし生きものには理想郷

稲作をやめた休耕田が、数年後には タチスズメノヒエのほぼ純群落になった。
ほかにセイタカアワダチソウやアゼガヤも混じるが、景色はその後ほとんど変わらない。
野鳥が種を運べば、湿地に適した陽樹が混じる可能性もある――そう思って見ていても、10年後も“ただの草地”のままだった。

いったいこれは「停滞」なのか。
それとも、別の意味での「完成」なのか。


 これは「休耕田の自然植生」と言える

結論から言えば、別の意味での「完成」と言えます。

ただしここでいう自然は、原生林のような“原初の自然”ではありません。
水田という人工地形(畦・排水・平坦化)と、耕作履歴(代かき・施肥)の上に成り立つ 二次的自然です。

その舞台条件の中で、もっとも勝ちやすい草が優占し、群落が自己維持に入る。
この意味で、その休耕田は **「その土地条件が生んだ自然植生」**そのものです。


それは自然農法の目指す核と、重なっている

自然農法の根には、次の感覚があります。

  • 余計な入力をやめる

  • 土地の循環に任せる

  • 生態系が自律する方向へ寄せる

休耕田の草地は、まさにそれを“極端に純化した結果”です。
つまり 「人間の収量」を捨てる代わりに「自律した植生」を得た

ここまでは、自然農法の思想と強く一致します。


 しかしそれは人間にとっては「食べられない最適解」になる

草地が安定したということは、裏を返せば、

  • 光の争奪戦は「背の高い草」が勝つ

  • 地表は枯草の層(リター)で覆われやすい

  • 裸地ができず、実生や作物が入りにくい

――という条件が成立している、ということです。

この休耕田の最適解は、生態としては合理的です。
しかし人間にとっては、

作物が勝てない完成形

になってしまう。

自然農法が「自然に任せる」を徹底すると、最適化されるのは作物ではなく草になり得る。
ここが、静かで大きな“ねじれ”です。

 その“不都合”は、生きものにとっての理想郷でもある

ところが、そのねじれは 価値の裏返しでもあります。

人間にとって不都合な草地は、
特定の野鳥・小哺乳類・両生類にとって 必要条件が揃った生息地になり得ます。

水田はそもそも、食料生産だけでなく多様な鳥の利用を受け止める場です。

そして休耕田の高茎草地は、そこにもう一段、別の価値を付け足します。

  • 種子(イネ科雑草の実)

  • 昆虫(小型節足動物)

  • 逃げ場(密な植被)

つまり 餌と隠れ場が同時に成立する

休耕田は「収穫田」ではなく、生息地として最適化された区画になっています。


具体例:タマシギという“休耕田の住人”

ここで一種、象徴的に挙げたい野鳥がいます。タマシギです。

タマシギは国内では主に水田周辺に生息し、繁殖場所として 「草丈の低い湿った休耕田」を好むとされています。
繁殖期の夕方から夜にかけて、メスが「コォー、コォー」と鳴いてオスに求愛する。
そして特徴的なのは、一妻多夫で、卵を産み終えたメスは巣を離れ、抱卵と子育てはオスが担うという繁殖システムです。

人間の目には、草が茂っただけの“荒れ地”に見える場所が、
タマシギにとっては 湿り・草丈・隠れ場・餌が揃った、輪郭のはっきりした居場所になります。

さらに近年の減少要因として、圃場の乾燥化や、湛水された草丈の低い休耕田の減少が関係すると考察され、湛水休耕田が個体群存続に重要という指摘もあります。

つまり、“休耕田”は失われた田ではなく、
ある種にとっては 生存条件を生む装置になり得るのです。


休耕田は「食料」ではなく「生息地」を生産している

この結論は、非常に生態学的です。

休耕田の自然農法的最適解は、人間にとっては不都合。
しかし特定の野鳥やカヤネズミ、カエルなどには理想郷。

これは、現代の里地で頻繁に起きている現象でもあります。
人間の“利益”だけで測ると価値が消えて見える土地が、
生物多様性の側から測ると、むしろ 残すべきコアになっている。

休耕田は、収量を生まない。
しかし価値がゼロではない。

食料ではなく、生息地価値を生み続けている。
それが、この休耕田草地の正体です。


変わらない草地は、自然が選んだ「答え」だった

10年変わらないという事実は、衰退ではありません。
自然がその条件下で到達した 安定解です。

そしてその安定解は、人間の都合とは一致しないことがある。
けれど一致しないからこそ、そこに 他の生きものの居場所が生まれる。

休耕田を見る目が、少し変わります。

 田んぼは小さな大宇宙

——一枚の水面の下に、三次元の世界が折り畳まれている

田んぼは、平らな二次元の面に見える。
しかし実体は、面ではない。層である。

空気の層があり、水の層があり、泥の層があり、根の層がある。
その層の内部で、微生物・藻類・虫・貝・カエル・鳥が、互いの領域を押し合いながら住み分けている。

「田んぼは小さな大宇宙だ」という言葉は、詩的な比喩として響く。
けれど、その比喩は半分以上、物理としても正しい。

宇宙が広いのは、遠いからではない。
宇宙が広いのは、三次元だからだ。
同じように田んぼが深いのは、奥行きの距離があるからではない。
田んぼが深いのは、そこに層の体積があり、その体積のなかで化学と生命が同時に動くからだ。


 層がある場所は、世界が複数ある場所になる

田んぼは、ひとつの世界ではない。
層があるということは、境界があるということだ。境界があるということは、別の世界が隣接しているということだ。

空気と水の境界、水と泥の境界、泥と根圏の境界。
境界の数だけ、状態が変わる。
状態が変われば、支配的な生き物も変わる。
支配的な化学も変わる。

地表に立つ人間が見ているのは、水面と稲の姿だけかもしれない。
しかし田んぼの実体は、水面下にある。
「水」と「泥」と「根圏」という、見えにくい層が、田んぼの性格を決める。


 太陽は田んぼの恒星である

田んぼのエネルギー源は太陽だ。
これも比喩ではなく、循環の起点である。

光が入り、稲が受け取り、糖が生まれる。
糖は稲の体を作るだけでなく、根から滲み出して、土中の微生物を動かす燃料にもなる。
微生物が動けば分解が進み、分解が進めば栄養が循環に入る。
循環が回れば、稲はさらに伸びる。

光から始まる化学が、生命のネットワークを起動する。
この構造は、恒星が惑星の化学と生態を駆動するのと同じである。
田んぼには恒星がある。
それが太陽であり、稲はその光を受け取る受信機でもある。


 水位は潮汐であり、田んぼの呼吸である

田んぼを田んぼたらしめているのは、水位の上下だ。
水が張られれば、世界は水中へ沈む。
水が引けば、世界は干潟へ寄っていく。

水があると、酸素は入りにくくなる。
水が引くと、酸素が一気に入り、反応が加速する。
同じ土であっても、酸素があるかないかで、分解の速度も、微生物の顔ぶれも変わる。

だから水位は、ただの管理項目ではない。
水位は田んぼにとっての昼夜であり、
田んぼにとっての潮汐であり、
田んぼの生態系を切り替えるスイッチである。

田んぼは水で呼吸している。
水を張って止め、引いて解放する。
その繰り返しの中で、田んぼは“環境そのもの”を作り直している。


 田んぼの主役は「見えないもの」である

稲は見える。
水面も見える。
虫も鳥も見える。

しかし田んぼの勝敗を決める主役は、しばしば見えない。

たとえば、

  • 微生物の量と構成

  • 有機物の分解速度

  • 酸化還元の傾き

  • 根から出る分泌物

  • 目に見えない化学勾配

こうしたものが、結果を支配する。
見えないのに、世界の形を決める。
これは宇宙で言えば、見えないのに銀河の骨格を支配する重力や、暗黒物質に似ている。

田んぼにも「暗黒物質」がある。
それは、観測しづらいが決定的な働きを持つ層である。

見えない循環が整えば、稲は“勝手に”強くなる。
見えない循環が崩れれば、稲は“突然”弱くなる。
田んぼの変化は、目に見える原因よりも、目に見えない原因から始まりやすい。


 田んぼは単作に見える多生態系である

田んぼは稲の単作に見える。
しかし実態は、単作ではない。
稲の周囲には、常に別の生命がいる。

雑草、藻、昆虫、貝、カエル、鳥。
それらが入り込み、拮抗し、抑え合い、時に助け合う。
「害虫」も「益虫」も固定された役割ではなく、状況によって立場が変わる。
重要なのは、個々の敵味方ではない。全体のバランスである。

田んぼとは、稲を孤立させる場所ではなく、
稲を中心に置いた共生の設計空間である。

稲だけを見ていると、田んぼは単純に見える。
しかし層を見れば、田んぼは複雑になる。
複雑であるということは、壊れやすいというより、
秩序の作り方が複数あるということでもある。


 宇宙の広大さは「距離」ではなく「体積」だった

宇宙が巨大なのは、遠いからではない。
三次元の体積を持つからだ。

田んぼが深いのも同じである。
田んぼは広いのではない。
厚いのである。

水の厚み、泥の厚み、根圏の厚み。
そして、その厚みの中に、微細な流れと化学と生命が詰まっている。

一握りの泥に、世界がある。
一枚の田に、宇宙がある。


 田んぼは地球サイズの宇宙が折り畳まれた場所

光が入り、化学が動き、生命が連鎖する。
水位が変わり、世界が切り替わる。
見えない循環が骨格となり、見える風景を支配する。

田んぼは小さい。
しかし小さいからこそ、密度がある。
小さいからこそ、宇宙の原理がよく見える。

田んぼは小さな大宇宙である。
そしてその宇宙は、毎朝、あなたの足元で起動している。

 

1995年8月15日:村山富市首相「戦後50年談話」

日本の戦争責任に関する政府の基本姿勢(侵略・植民地支配への反省とお詫び)を明確化し、以後の外交・歴史認識の土台になった会見。

 

1998年7月13日:橋本龍太郎首相(自民党総裁)辞任を表明した記者会見
参院選敗北の責任を取り、首相退陣へ。90年代政治の大きな節目。

 

2002年9月17日:小泉純一郎首相「日朝首脳会談後の記者会見」
拉致問題が重大局面として国民的課題化し、対北朝鮮政策の焦点が大きく固定された会見。

 

2005年8月8日:小泉純一郎首相「郵政民営化否決→衆議院解散(いわゆる郵政解散)」会見
“ワンイシュー選挙”型の政治を決定づけた象徴的会見の一つ。

 

2008年9月1日:福田康夫首相 辞意表明の緊急記者会見
“突然の辞任表明”として記憶され、政局の不安定化を象徴する会見に。

 

2011年3月11日:菅直人首相 東日本大震災発生直後の記者発表
未曽有の災害への国家対応が始まった瞬間として記録される会見。

 

2012年11月16日:野田佳彦首相「衆議院解散」記者会見
「近いうち解散」などの政治日程が結実し、政権交代へ直結した会見。

 

2020年4月7日:安倍晋三首相(新型コロナ)緊急事態宣言の会見
戦後の社会運用を大きく変えた“コロナ禍の国策”を国民に正式説明した会見。

 

2020年8月28日:安倍晋三首相 辞任表明の記者会見
長期政権の終幕を告げ、コロナ禍の最中に政権が移る直接の契機になった会見。

 

2021年9月3日:菅義偉首相(自民総裁選)不出馬表明(実質的な退陣表明)
党総裁選の構図を一変させ、その後の政権交代へ直結。

 

2026年1月19日:高市早苗首相衆議院解散理由説明記者会見

この会見は、当時の政局的には「高支持率のうちに勝負する解散」「予算審議を遅らせる身勝手解散」という批判から始まった。しかし後年、政治史の文脈では、単なる“選挙戦術”ではなく、国家運営の哲学を国民へ再提示した会見として分類されることになる。この会見を「令和の重大会見」と呼ぶとき、注目点は、解散そのものよりも、解散を“主権者への信任の問い”として定義し直した構図にある。

 

会見本文(AIによる想定稿) (※以下、AI創作再現) 

 

本日、私は内閣として、衆議院を解散する決定をいたしました。 この判断について、国民の皆さまに、逃げずに、誤魔化さずに、理由をお伝えします。 

まず、皆さまの中にある疑問に正面から向き合います。 「突然だ」「大義がない」「身勝手だ」「予算審議が滞る」―― そう言われることを、私は承知しています。 政治は疑われて当然です。疑われる現実を、政治が招いてきた面があるからです。 だからこそ私は、言葉を飾りません。

 

解散は、権力者が振り回す道具であってはならない。 

解散は、政治家の都合で国会を止める行為であってはならない。 

解散は、主権者である国民に、最終判断をお願いする行為でなければならない。 

 

私は今日、その原点に立ち返り、国民の皆さまにこの内閣の信任を問います。

 いま日本は、静かに、しかし確実に分岐点に立っています。 世界が変わったからです。 危機は、ニュースの中だけの出来事ではありません。 災害、感染症、物価の高騰、供給網の寸断、サイバー攻撃、地域の疲弊―― 生活の足元から、国の形を揺さぶる時代に入っています。 そして、もう一つの現実があります。 私たちの社会は長いあいだ、決めるべきことを決めず、先送りを重ねることを時に続けてきた。 衝突を避ける代わりに、未来の負担を静かに増やす。 誰かの痛みを直視せず、次の世代へ押しつける。 その“穏やかな先送り”が、いま限界に来ています。 私は、その政治に戻しません。 

この選挙は、単なる政争ではありません。 この選挙は、日本がこれから何を守り、何を変えるのかを決める選挙です。 私はその責任を、国民の皆さまの前で引き受けます。 

第一に、暮らしを守る。 物価は上がり、賃金の実感が追いつかない。 この苦しさに対して、政治が精神論を語ることは許されません。 家計の負担を、制度として軽くする。 働いた分が報われる形に、税と社会保障を組み替える。 「努力が報われる国」を、現実の仕組みとして取り戻します。 

第二に、国を守る。 平和は、願うだけで続く時代ではありません。 守るべきは、軍事だけではない。 エネルギー、食料、重要物資、技術、そして日常そのものです。 国民の命と生活を守るため、私は曖昧な言葉ではなく、責任ある政策で向き合います。 

第三に、未来を守る。 子どもが減る国は、静かに弱る。 地方が痩せる国は、時間をかけて崩れる。 災害に負ける国は、何度でも立ち止まる。 ここを立て直さずして、未来はありません。 未来は「祈り」ではなく、今日の設計で生まれます。 

そして第四に、私は、はっきり申し上げます。 この国を守り抜くために、政府は、**危機管理投資を最優先にする「責任ある積極財政」**を行います。 災害、感染症、エネルギー途絶、供給網の断絶、サイバー攻撃。 想定外の危機は、いつ起きるかではなく、いつか必ず起きるものになりました。 危機が起きてから慌てて国費を投じる国は、必ず高くつきます。 危機が起きてから慌てる国は、必ず誰かが置き去りになります。 だから先に備える。 これは“ばらまき”ではありません。 国民生活を守るための、国家の保険です。 損失を未然に減らし、国の体力を上げる、最も合理的な投資です。 防災・減災と国土の強靭化。 エネルギーの安定供給と備蓄。 医療・公衆衛生の危機対応力。 食料の生産基盤と流通の確保。 重要インフラを守るサイバー防衛と経済安全保障。 国家機能が止まらない国へ――この一点に集中します。 

そして私は、ここで強調します。 「積極財政」という言葉だけを独り歩きさせない。 私は、責任ある積極財政を行います。 財政規律とは、削ることではありません。 国家の支出を、意味のある未来に集中させることです。 効果の薄いものは改め、重複を減らし、透明性を高め、成果を検証する。 そのうえで、守るべきものに、ためらわず投資する。 私はこれを、数字と政策で実行します。 

ここで私は、もう一つの根本問題に向き合います。 これまでの政治が、多くの国民にとって、遠く、曖昧で、自分の言葉では語られないものに見えてしまっていたことです。 政治は本来、暮らしのすぐ隣にあるはずです。 働くこと、育てること、食べること、守ること。 その仕組みを決めるのが政治です。 それが遠く感じられたのは、国民のせいではありません。 政治が、国民と同じ高さの言葉で語られてこなかったからです。 そして、その曖昧さを生んだ要因は一つではありません。 事実と解釈と印象が混ざり合い、論点が細切れにされ、 「何が真実で、何が争点で、誰が責任を負うのか」が見えにくくなる。 その構造が積み重なってきました。 私は、これを終わらせます。 これからの政治は、日本人の手に取り戻します。 そのために政府は、徹底します。 事実を遅らせない。 根拠を示す。 議論の土台を公開する。 民主主義は、政策だけで守れるものではありません。 情報の透明性がなければ守れません。 なぜなら今、国内外で、世論を揺らすための影響工作や情報戦が現実に存在するからです。 切り取られた映像、意図的な誤情報、分断を煽る言葉、匿名の大量拡散。 社会を疲弊させ、互いを疑わせ、国を弱らせる。 私は、この見えない圧力に、日本が無防備であってはならないと考えます。 もし、周辺国からの影響工作が疑われるなら、政府は感情ではなく、法と証拠に基づいて厳正に対処します。 それは、誰かを敵視するためではありません。 国民が、自分の判断を、自分の手で下せるようにするためです。 民主主義の意思決定が、外から歪められてよい理由はありません。 ここで私は、国民の皆さまに、はっきり申し上げます。 世論は、誰かに作られるものではない。国民が、自分の目で確かめて決めるものです。 政府はそのために、事実を開き、責任を明確にし、政策を結果で示します。 そして私は、日本の政治の中心を、明確に置き直します。 守るべき中心は、はっきりしています。 日本人の暮らし。 日本の地域。 日本の子どもたち。 そして日本の歴史と伝統。 私は、日本人ファーストを、曖昧なスローガンにしません。 それは他国を貶めることではありません。 それは排他の叫びではありません。 国家がまず自国民の生活を守り、次の世代へ国の土台を渡す―― 当たり前の責任を、当たり前に果たすという宣言です。 自国の文化と積み重ねを大切にできない国が、世界から尊重されることはありません。 自分の国の歴史を学び、敬い、誇りを持ち、未来へつなぐ。 その背骨があってこそ、国は強く、しなやかになります。 私は、この背骨を立て直します。 

ここで、「予算審議が滞るのではないか」という不安にも、明確に答えます。 国の支払いが止まること、自治体や現場が困ることがないよう、必要な措置を講じます。 国民生活への対処に空白をつくらない。 それは政権の義務であり、国家の責任です。 この責任から逃げるための解散ではありません。 この責任を引き受けるための解散です。 政治への不信を、私は知っています。 「どうせ変わらない」 「結局、自分たちのためだろう」 ――そう思われる現実を、私は軽く扱いません。 政治の正当性は、説明では回復しません。 演出でも回復しません。 選挙によってしか回復できないからです。 この国の主人公は、政府ではありません。 国会でもありません。 国民です。 

私は、国民の皆さまに問います。 

暮らしを守り、国を守り、未来を守る。 

危機に備え、国家の体力を上げる。 

情報の透明性を徹底し、国民の判断を守る。 

歴史と伝統を土台に、次の時代をつくる。 

この進路で、日本の舵を切ってよいか。 

信任が得られなければ、私はその結果に従います。 権力とは、国民から預かるものであり、国民が返せるものでなければならない。 民主主義とは、そういうものです。 どうか、皆さまの一票で、日本の次の数年の進路を決めてください。 私たちは、どのような結果であっても受け入れ、国を止めずに前へ進めます。 国民とともに、現実を直視し、備え、立て直し、未来をつくる。 私は、その先頭に立ちます。 以上です。

 

青空を見上げたのは、昼休みの時間だった。

雲は薄く、光は均一で、空は一つの「青い面」になっていた。
その青空を、意地悪なくらいにじっと見つめていると――最初は何も起こらない。

しかし次の瞬間、視界の中に、極小の白い点々がふっと湧いた。
星ではない。埃でもない。米粒の千分の一みたいな細かい白い粒が、高密度に無数に現れ、そして落ち着きなく細かく震えながらどこかへ流れていく。

確かに「見えている」、そう思った途端、点はますます増えた。
増えたというより、最初からそこにあったものに、ようやく焦点が合ったのだ。

点は、一直線には動かない。
細かく揺れ、流れ、曲がり、途切れ、また現れる。
目を動かしても追い切れない速さで、しかし規則的に脈打つように、ちらり、ちらりと。

そのとき私は、妙に不思議な気になった。

空を見ているのに、見えているのはただ青い空だけではなかった。

 

 

「ブルーフィールド内視現象」


それは「ブルーフィールド内視現象」と呼ばれるものらしい。

自分の目の中、いや、もっと言えば――自分の眼球の中の血の流れだ。

眼球の奥の薄い網膜の表面を、微細な毛細血管が走っている。
そこを、透明に近い白血球が抜けていくたび、青い色が一瞬だけ変わる。
その変化が、白い点になって、青空の上に浮いて見える。

私はその瞬間に、世界の見え方がまたひっくり返る感覚を覚えた。

「外側を見る」という行為の底に、「内側が写り込む」という構造が隠れている。
いつもは気づかない。気づく必要がないように、うまくできている。

けれど青空は、あまりにも単純で、あまりにも明るい。だから、隠されていたものが顕わになる。
目は、外の世界を描きながら、同時に、自分自身の目の中の動きを見てしまう。
私の意志と関係なく、私が見ていなくても、白い点々は、今も流れる。

その事実が示すのは、目は、ただの窓ではないということ。
身体が、ただの器ではないということ。
そして、世界を「見る」という行為が、つねに自分の内部と接しているということ。

昼休みが終わるころ、私は視線を落とした。
空はまたいつもの青空に戻り、白い点々は見えなくなった。消えたのではない。ただ見えなくなっただけだ。

 

 

 

種おろしの新手:穂軸籾を筋まきする「穂伏せ」——苗床設計とメリット50

自然農で、苗床に種もみを植えることは「種おろし」と呼ばれます。
今年はその種おろしを、種もみを粒にバラさず、穂軸ごとに解体して“穂軸籾のまま”筋まきする方式で行います。

私はこのやり方を、ひとまず 「穂伏せ(ほぶせ)」 と呼ぶことにしました。

  • 列間:約8cm

  • 苗床:幅90cm、長さ20m

  • 手順:V形の溝→穂軸配置→薄いもみ殻被覆→板で鎮圧

塩水選ができない(穂軸籾のままだと比重選別が難しい)という制約はありますが、その代わりに、播種~発芽~苗取りの工程全体を“設計”として整える方向に振った方法です。


穂伏せのやり方

  1. 幅90cmの畝を苗床にする(畝は高くせず平畝)

  2. 列間約8cmで、V形の溝を切る

  3. 溝に穂軸を置いていく(穂軸籾のまま筋まき)

  4. 上から薄くもみ殻を被せる

  5. 板で鎮圧して、籾と床土の接触と水分のつながりを作る

工程が少なく、しかも順序が明確なので「来年も同じ条件で再現できる」のがこの方式の強みです。


穂伏せ(穂軸筋まき)方式のメリット50

集合穂
 
穂軸にばらして一列に並べる

ここからは、この方式が持ちうるメリットを50項目に整理して列挙します(圃場条件で強弱は出ますが、論点の全体像として)。

  1. 粒籾を一粒ずつ扱わずに済み、播種作業が単純化する

  2. 穂軸という単位で“置く”ため、播種の手加減が安定しやすい

  3. 風で籾が飛散するリスクが下がる

  4. 雨滴で籾が跳ねて移動するリスクが下がる

  5. V形溝が“受け皿”となり、籾の位置ズレを抑える

  6. V形溝で播種深さの基準が作れ、深度ムラが減る

  7. 筋まきの直線性が出やすく、以後の管理がしやすい

  8. 列間(約8cm)が確保され、苗床の見通しが良い

  9. 列間があることで光・風が入り、蒸れにくい方向に働く

  10. 列構造により、生育観察(発芽率・欠株)が容易になる

  11. 欠株箇所が視認でき、追い播き判断が容易になる

  12. 品種・区画の切り分けがしやすい(列/ブロックで管理可能)

  13. 苗床の踏み込み動線を設計しやすい(列を潰しにくい)

  14. 苗取り(抜き取り)を列単位で進められ、作業が整う

  15. 苗取り時に「良苗だけ拾う」選抜がしやすい(列で比較できる)

  16. 塩水選ができない条件でも、苗取り段階で実用的な選別が成立する

  17. “播種量”を穂軸長で見積もれるため、計画が立てやすい

  18. 播種量の過不足を、列の本数・列長で調整しやすい

  19. 播種器具を要さず、溝切りと手置きで成立する

  20. 溝→配置→被覆→鎮圧の工程が明確で、再現性が高い

  21. 年ごとの比較(条間・溝深・被覆厚・鎮圧強度)がしやすい

  22. 薄いもみ殻被覆で表面蒸散が抑えられ、乾燥ムラが減りやすい

  23. もみ殻が表面温度の急変を緩和し、地温が安定しやすい

  24. 夜間の放射冷却による冷え込みの影響を緩和しやすい

  25. 日中の急な高温・乾燥の影響を緩和しやすい

  26. もみ殻が雨滴衝撃を分散し、表面のクラスト化(硬化)を抑えやすい

  27. 表面硬化が抑えられると、出芽阻害が起きにくい方向に働く

  28. もみ殻が泥はねを抑え、初期病害リスクを下げる可能性がある

  29. 脱穀しないので、籾に物理的な衝撃が加わらず種籾が傷つかない。

  30. 鎮圧により毛管水がつながり、表層の水分供給が安定しやすい

  31. 鎮圧で表面の不陸が減り、灌水・降雨時の水の偏りが減りやすい

  32. 溝構造が降雨を受け止め、浸透に回しやすい

  33. 籾が露出しにくく、鳥害を受けにくい方向に働く

  34. 籾が露出しにくく、蟻などの持ち去りリスクが下がる方向に働く

  35. 穂軸が物理的な“芯”になり、籾が極端に深く埋没しにくい

  36. 穂軸が列内の微小な空隙をつくり、根域の構造化に寄与し得る

  37. 穂軸はゆっくり分解する炭素源となり、根圏に有機物を供給し得る

  38. もみ殻も炭素資材として働き、微生物の足場になり得る

  39. 有機物があることで、苗床の微生物相の立ち上がりが早まる可能性がある

  40. “土の側の力”に寄せた育苗(低投入)と整合しやすい

  41. 列構造のため、部分的な不調(乾燥・過湿・病害)を早期発見しやすい

  42. 列構造のため、対処(局所灌水・被覆調整)を局所化しやすい

  43. 条播は苗の取り回し(束ね方・持ち運び)の段取りがつけやすい

  44. 苗を多めに確保し、移植側で“多めに植える”運用と相性が良い

  45. 苗の不足が起きた場合も、列単位で不足量が把握できる

  46. 列間8cmは、苗床面積当たりの条長を確保しつつ、管理性も保てる

  47. 穂軸の籾数(例:10cmあたりの粒数)が分かれば、苗数の上限を見積もれる

  48. 見積もりができることで、本田面積に対する苗床規模の適否判断が可能になる

  49. “穂伏せ”という手順が明確なため、共有・継承(作業手順化)がしやすい

  50. もみ殻・穂軸を活かすため、地域資材循環(自然農の文脈)と整合しやすい


補足:苗数の見積もりができるのが強い

今回、穂軸の籾数を数えたところ 10cmあたり約25粒でした。


このように「実測値」が取れると、苗床の条長(列数×列長)から、今年の苗の上限が概算できるようになります。
穂伏せの良さは、単なる省力ではなく、「種おろしを“設計可能な工程”に変える」点にあります。


まとめ

穂伏せは、種おろしを

  • 溝で位置を決める

  • 穂軸で播種を単位化する

  • もみ殻と鎮圧で水と温度の安定を作る

  • 列で観察・選抜・苗取りを成立させる

という形に整理し、再現性を高める方法です。
塩水選ができない制約はある一方で、苗取り段階で「良苗を拾う」という実務的な選別が働くこと、そして何より、穂軸籾数を測れば苗数の上限を見積もれることが、この方式を“技術”にしています。

今年はこの条件で実施して、発芽揃い・苗質・苗取りのしやすさ・本田での初期生育を観察し、来年の穂伏せに活かします。

 

 

あけましておめでとうございます。昨年はこのつたないブログを見ていただき、いいねもいただきありがとうございました。

ブログは便利です。日常生活では話題にしないような自分の特殊な内面事など匿名で載せることができ、しかも不特定多数の人に見ていただけるという、昭和生まれの者には何ともあり得ないことが可能なこのまるで未来のような世界、2026年がいよいよやってまいりました。(いやもっと前からそうか。)

ところで、先日の紅白歌合戦、面白かったが長すぎた。サカナクションの怪獣を見終えたらねむくなっていました。

問題が話題だったaespaの歌唱は、8時(20時)14分に入場して、8時(20時)15分に始まったということで、また問題になっています。いやそれは偶然じゃなくて狙っているでしょう?

あの歌唱、英語、ハングルが入り混じっていて意味不明です。雰囲気だけ楽しめばいい?

そんなわけではないでしょう。言葉なので。

ということで、歌詞をわたしのChatGPT君に翻訳してもらった。そしたらこれまたびっくり仰天。

 

 

 

 

以下翻訳(ほぼ直訳)

 

 

 

 

NHK放送100年特集ドラマ火星の女王 面白かったです。

火星の情景は鮮明で、NASAの探査機による映像の通りの風景が圧巻でした。

撮影上、火星の地球の3分の一重力まで再現するのは無理だろうから、火星都市の人々の動きが普通なのは、そこは仕方がないと思う。

そもそも火星に人類が植民することの可能性や妥当性といったものには私は前から疑問だったので、一回目視聴時は、批判的な姿勢で見てしまっていた。

火星の環境は過酷だ。空気は100分の一気圧くらいしか無いし、気温も氷点下160度以下まで下がる極寒、おまけに宇宙からは太陽などから強い放射線が降り注いでいる。地球のどんな過酷な環境とも比較にならない地獄の環境だ。そこに何十万人もの人口が移民して、世代を重ねて故郷になる?あり得ない。どうかしている。移民した人たちは相当間抜けで騙されたとしか思えない。と思っていた。

それでもドラマとしてはよくできていて、結局3話とも2回観ている。随所に感動的なものがあったので。

①     宮沢賢治オマージュ1:白石アオトの子供の頃の回想で、父親と河原で好物採集していたところ。宮沢賢治に息子がいたら、きっとそんな父子だったかもしれないと思えた感動シーン。

②     宮沢賢治オマージュ2:エマの火星労働歌がなんとなく宮沢賢治の星巡りの歌みたいだった。

③     ISDAの日本支局の中が、映画コンタクトのマシーン指令部のように見えた。

④     ISDAがやることや、総長がまるでチュウキョウとキンペイみたい。

⑤     そもそも火星をテラフォーミングするとかしてはならないとか言うのは、国連とかで議論すべき案件で、一部の組織が極秘に実行するものではない?

いろいろありますが、とても面白いSFドラマでした。もう一回視たい。

⑥     宮沢りえさん、ISDAの日本支局長を好演されています。最初はこの人が火星の女王なのかなと思っていたが、違った。ちなみに貴乃花親方は最近ふるさと納税ふるなびのCMに出ています。感慨深い。

小説はかなりドラマと異なるらしいので、小説も読んでみたい。

 

 

 

 

 

『さよならジュピター』映画版鑑賞時の「いたたまれなさ」を言語化する —— 小説の没入感と、台詞が崩す世界観

小松左京『さよならジュピター』は、小説版を完読すると、文明規模のスケール感と没入感が強く残ります。ハードSFとしての骨格(世界観の層、制度と技術の連鎖、巨大災厄の因果)が読者の内部で一つの宇宙を組み上げるからです。
その状態で映画版を観ると、ある種の「いたたまれない境地」に立たされる——この感覚は、気分や好みではなく、構造的に説明できます。

本記事は、その“落差”がどこで起きるのかを、具体例とともに整理したまとめです。


小説版が成立させているもの

小説版が強いのは、出来事の羅列ではなく、次の要素が連結している点です。

  • 未来社会の文脈(制度・組織・合意形成)

  • 技術の手順と必然(なぜそれをするのか/どう実行するのか)

  • 巨大スケールの因果(天体・環境・危機が“人格”ではなく“条件”として立つ)

  • 個人の感情が“構造の中”に配置される(個人が主人公でも、世界は個人の都合で回らない)

このとき読者は「未来世界の住人」を頭の中で成立させられます。没入感の本体はここにあります。


映画版で起きる“世界観の露骨な崩れ”

映画版で強く感じられる問題は、特撮や設定の規模そのものというより、人物が未来に見えない瞬間が頻発することです。

俳優の「昭和の体温」が、未来世界へ持ち込まれる

主人公を演じた三浦友和は当時の人気若手俳優で、昼メロやゴールデンドラマ的な“見せる演技の文法”が観客の記憶と強固に結びついていました。
そのため未来世界のはずなのに、観客の側で「昭和のドラマの手触り」が立ち上がり、その世界観が露骨に見えてしまう。

これは俳優個人の力量というより、演出・脚本が“未来の話法・所作”を設計し切れていないときに起きる現象です。


決定的な例:あの台詞がなぜ刺さるのか

問題が凝縮されていたのが、同僚が怪我で死にそうになった場面で主人公が放つ台詞:

「俺が絶対木星を殺してやる。」

この一言が生む破壊力は、次の3点に集約できます。

  1. 語彙が“復讐ドラマ”へ変換してしまう
    「殺す」は人格的な敵に向ける語であり、木星のような天体に当てると、意図せず擬人化(悪役化)が発生します。
    ハードSFの「自然=巨大因果」が、「敵を倒す話」へ落ちる。

  2. 瀕死者への言葉の機能を外している
    本来、瀕死の同僚へ投げる言葉は「ケア/行動/約束/責任」のいずれかです。
    しかしこの台詞は、相手の苦痛へのケアではなく、話者の怒りの自己演出に転じやすい。観客の倫理感がそこで冷える。

  3. スケールは巨大なのに、論理が小さい
    言葉は天体級なのに、感情の型が昭和ドラマのサイズで、落差が大きい。結果として緊迫ではなく「照れ」「いたたまれなさ」が前に来る。


「同じ決意」を世界観を壊さずに言うには

ここからが今回のチャットの核心です。
同じ場面で成立する言葉は、「同僚に向けた言葉」として機能しながら、SFの硬さも保持する必要があります。

そこで提案された、最も強く美しくまとまった一文がこれでした。

「無駄にはしない。……お前の分まで、木星核融合を点火させる。」

この台詞が効く理由は明確です。

  • 弔い:「無駄にはしない」

  • 継承:「お前の分まで」

  • プロジェクト語彙:「木星核融合」「点火」

  • 擬人化を避ける:木星は敵ではなく、条件であり対象であり、手順で扱うものになる

つまり、感情はあるが、感情が世界を幼くしない。ここが決定的です。


“昭和臭を抜いたSF口調”での短い再構成

この台詞を核に、場面を20〜30秒の尺で組み直すと、人物の行動が先に立ち、言葉がそれを支える形になります。

  • 「しゃべるな。呼吸だけ保て。」(ケア+行動)

  • 「取れた。手順は揃った。」(状況整理)

  • 「戻ってこい。」(相手へ戻す)

  • 「無駄にはしない。……お前の分まで、木星核融合を点火させる。」(弔いの約束)

ここでは、決意表明が“決め台詞”ではなく、現場の倫理と手順の延長として機能します。


結論:映画の痛みは、観客のSF理解度が高いほど増幅する

小説版がハードSFとして優れているほど、観客の内部に「未来の住人の基準」ができます。
映画版がその基準から外れたとき、観客は「昭和のドラマ文法」を見てしまい、いたたまれなさとして体験する。

今回のやり取りは、その感覚を単なる好き嫌いで終わらせず、台詞の機能・語彙・倫理・擬人化の有無という構造で説明したものです。
そして、たった一文でも、世界観を守ることはできる——その実例が「点火させる」でした。

菌ちゃん農法の畝では、野菜がすくすくと育っています。

 

白菜(非結球)も柔らかそうな葉がもりもりと毎日大きくなる。

 

茎ブロッコリーものたうつように生育する。

 

人参もだいぶ大きくなってきました。

 

ミズナはもう少し。

 

ホウレンソウは何度も撒いたが、やっとこれだけ。

 

それでも、菌ちゃん農法の畝には、木の枝や刈草や稲わらしか入れていません。それなのにこんなに葉野菜が大きくなる。

すごいことだ。