豊太郎の未来話
田の道のその先
むかしむかし――
と申しても、それが百年前であったのか、百年後であったのか、
だれにもよう分からぬころのことでございます。
あるところに、豊太郎という百姓がおりました。
田を見、草を見、雲の形を見、
雨の気配を土のにおいで知るような男でございました。
春の終わりのこと、
豊太郎は夕暮れどきの田んぼ道をひとり走っておりました。
どういうわけか、その日は足が軽うて、
若いころのように、いくらでも前へ前へと出るのでございます。
道のかたわらには、まだ柔らかい春草があり、
その向こうには、田に水の光がちらちらと揺れておりました。
豊太郎はうれしくなって、
「まだ走れるものだ」
と思い、いよいよ速く走りました。
するとどうでしょう。
足が地を離れたのでございます。
ひとまたぎ、ふたまたぎと思ううち、
豊太郎のからだはふわりと浮き、
つぎの瞬間には、見覚えのある土手を越えて、
高いところから真っ逆さまに落ちてゆきました。
「これはいかん」
そう思ったところで、
どしん、と落ちたはずが、
からだは痛くもなく、
気がつくと、やはりそこは田んぼ道でございました。
けれど、そこはさっきまでの田ではありません。
道は同じように細く、
両側には草が茂り、
遠くには緑に覆われた山が見えるのですが、
どの山も、どの田も、見たことのない姿をしておりました。
春の草が足もとにあり、
木々の緑はもう初夏のように濃く、
風には若葉の匂いと、水の匂いがまじっておりました。
見知らぬ景色であるのに、
なぜか豊太郎は、
「ああ、ここへ帰ってきたのだ」
という気がいたしました。
ふと見ると、
前の道を、若い男女が二人、並んで歩いております。
男は稲の苗を束ねたような青いものを肩にかつぎ、
女は草の花と細い竹籠を持っております。
二人とも、いまどきの者とも昔の者ともつかぬ身なりで、
けれど歩きぶりは、土地によう馴染んでおりました。
豊太郎は、なぜともなく思いました。
「あれは、わしの子孫だ」
二人は立ち止まり、
振り向いて、少しも驚いた様子なく、
豊太郎に一礼しました。
「よう来なさった、豊太郎さん」
そう男が申しました。
「ここは、田の道のつづきです」
女もにこりと笑って申しました。
「あなたの見ていた先です」
豊太郎は、胸がどきりといたしました。
「わしは、どこへ来たのだ」
すると男は、遠くの山を指さしました。
「あの山は、昔はもっと荒れていたそうです。
けれど、木を全部伐らず、草を全部刈らず、
水の流れを殺さずにおいたので、
いまは鳥も虫も、また戻ってきました」
女は足もとの草を撫でました。
「この道も、前の人が残してくれた道です。
田は少し形を変えましたが、
水の来る筋も、風の抜けるところも、
土の癖も、だいたい昔のままです」
豊太郎は、じっと田の面を見ました。
水の張られた細長い田、
畔に群れる草、
遠くの築山のような小高まり、
そのどれもが、初めて見るのに、
たしかに自分の知っている世界の続きでございました。
「すると……おまえたちは、ほんとうに……」
豊太郎が言いかけると、
女はやさしく首を振りました。
「血のつながりかもしれませんし、
そうでないのかもしれません。
けれど、田の続きを受け取った者です」
男も申しました。
「名を継ぐより、
土地の癖を継ぐほうが、むつかしいのです」
その言葉を聞いて、
豊太郎は、なんとも言えぬ気持ちになりました。
うれしいような、かなしいような、
けれど胸の奥の重い石が、少しずつぬくうなるような気持ちでございました。
三人は田んぼ道を並んで歩きました。
道の脇には、
名も知らぬ小さな花、
昔から見てきたような草、
倒れて土に還りかけた木の幹、
その幹の上に生えた若木がありました。
豊太郎が
「これは百年後か」
とたずねると、
男は笑って申しました。
「百年後とも言えます」
女は申しました。
「百年前とも言えます」
「どういうことだ」
「土地には、先もあとも、
人ほどはっきりとはございません」
風が吹きました。
苗の青い匂いが立ち、
どこかでカエルが鳴きました。
やがて道の分かれ目に来ると、
若い二人は立ち止まりました。
女は竹籠の底から、
小さな籾を三粒、豊太郎の手にのせました。
「これを持ってお帰りなさい」
「これは何の種だ」
「まだ名のない稲の種です。
けれど、名がなくともかまいません。
だいじなのは、これが
ひとつの年ではなく、つづきの年を思う種
だということです」
男は申しました。
「ただし、それを播くときには、
多くを望んではなりません。
一列でよい。
一畔でよい。
つづくものは、小さく始まるのです」
豊太郎は、三粒の籾を握りしめました。
掌のなかで、それは不思議に温かく感じられました。
そのとき、
どこか遠くで、ひばりのような声がして、
あたりの光がふっと白くなりました。
はっとして目を開くと、
豊太郎は、もとの土手の下の草むらに寝ころんでおりました。
夕日はまだ沈みきらず、
田の水は赤く空を映しておりました。
「夢か……」
豊太郎はそう申しました。
けれど掌を開いてみると、
そこにはたしかに、籾が三粒、のっておりました。
その年、豊太郎はその籾を、
いちばんよく見える田の畔ぎわに、
ほんの一列だけ播きました。
するとその稲は、
背が高いわけでも、
穂数が多いわけでもなく、
見た目はべつだん変わりませんでしたが、
風の強い日にも妙によく立ち、
夏の水切れにも思いのほか耐え、
秋になると、澄んだ色の穂を静かに垂れたそうでございます。
豊太郎はその稲を刈り取り、
食べずに、また少しだけ種に残しました。
来年へ。
そのまた来年へ。
そうして年ごとに、ほんの少しずつ、
田の道のつづきを播いていったのでございます。
村の者は、
「豊太郎は年を取って、稲に話しかけるようになった」
と笑いましたが、
豊太郎は笑われても気にしませんでした。
朝の光のなかで田を見まわし、
遠くの山の緑を見て、
ときどき小さくうなずくばかりでございました。
なぜなら豊太郎には分かっていたからです。
人は落ちることがございます。
思いがけず、高い土手の上から、
季節の裂け目へ落ちることもございます。
けれどその先にも、
やはり田んぼ道はあり、
若い者が歩き、
山は緑に覆われ、
草は春と初夏のあわいに光っている――
そのことを、一度見てしまった者は、
もう目先の一年だけでは田を見られぬのでございます。
それゆえ豊太郎は、晩年になってからのほうが、
かえって静かによく働きました。
急がず、欲張らず、
けれど来年だけでもなく、
まだ見ぬ先の者たちの歩く田の道を思って、
鍬を置き、水を見、種を残したのでございます。
そうして今でも、
春の夕方、田んぼ道をあまり速く走りますと、
風にふわりと足をすくわれて、
見知らぬようで懐かしい山の見える場所へ
ひととき落ちてゆくことがある――
と、土地の古い人は申します。
















