休日日曜百姓の野良流宇夢(ノラリュウム)実践記

休日日曜百姓の野良流宇夢(ノラリュウム)実践記

私は、自分の畑や田んぼや菌ちゃん農法の畝を持っている。そこには草が生え、虫が来て、菌が働き、水がたまり、乾き、季節が流れていく。作物だけを見れば畑だが、全体を見れば、小さくても立派な生態系だ。私はそれを、ノラリュウムと呼ぶ。

 

 

『ジュラシック・パーク』の旋律が高く大きく開くとき、太古の湿地から青と緑のトンボが次々に舞い上がる――。恐竜の咆哮ではなく、かれらの無数の翅音によって古代世界の情景がよみがえる

 

 

 

 

石炭紀の空をトンボの群れが舞っている

三億年前、世界にはまだ、花がなかった。

赤道近くの低地には、果ての見えない湿地が広がっていた。鱗のような樹皮をまとったリンボクやフウインボクが、細い幹を三十メートルもの高さまで伸ばし、その間を巨大なトクサの仲間が埋めていた。樹冠には花も実もなく、細かな葉と胞子嚢だけが、湿った光の中に重なっていた。

大地は水と陸のあいだにあった。

黒い水面には枯れた幹が半ば沈み、その上へ新しい植物が根を張っていた。倒木は腐りきらず、幾重にも積み重なって泥炭となった。その暗い層は、まだ誰にも知られぬまま、遠い未来の石炭をつくり始めていた。

空気は重く、温かく、水分と酸素に満ちていた。

鳥の声はしなかった。花を訪れる蜂も、草原を渡る獣もいなかった。ただ、水の滴る音、巨大な葉が擦れ合う音、浅瀬で原始的な両生類が身体を動かす音が、ときおり湿地の静けさを破った。

やがて、林の奥から低い翅音が近づいてきた。

最初は一つだった。それが二つ、十、百となり、湿地の上空へ広がった。

古代のトンボたちだった。

大きなものは、左右の翅を広げると人の腕ほどもあった。四枚の透明な翅には黒い脈が細かく走り、傾いた太陽を受けるたび、薄い金色や紫色を返した。細長い腹部は、くすんだ褐色ではなかった。あるものは深い瑠璃色に輝き、あるものは湿地の植物と同じ鮮やかな緑を帯びていた。青と緑は金属のように冷たく、しかし生き物の体温を宿していた。

一頭が水面すれすれに身を翻すと、後に続く群れも一斉に向きを変えた。

無数の翅が光を砕いた。

青い体が上昇し、緑の体が交差し、透明な翅が一瞬だけ白く燃えた。群れは巨大な植物の幹のあいだを抜け、胞子の煙を巻き上げながら、湿地の上へ大きな渦を描いた。それは獲物を追う飛翔であり、相手を探す舞いであり、地球上に空という新しい領域を得た生命の歓喜でもあった。

まだ恐竜は現れていない。

空には翼竜も鳥もいない。

この時代、空を支配していたのは、青と緑のトンボたちだった。

群れは次第に高く昇っていった。古代の森を覆うほどに広がり、暗い樹冠の上で幾千もの光点となった。地上から見上げる者は誰もいなかった。それでも彼らは、見る者のいない空を荘厳に満たしていた。

大気そのものが翅を得たようだった。

やがて太陽が厚い雲の向こうへ沈むと、青い輝きも緑の輝きも、深い影の中へ溶けていった。翅音だけがしばらく湿地の上に残り、それも遠ざかると、石炭紀の森は再び、三億年前の夜の暗闇へ戻っていった。

 

 

今年、私の田んぼにはシオカラトンボが多い。畔や田んぼの端にいて、私が歩いて近づくと、足元から一頭、また一頭と飛び立つ。遠くへ逃げるわけではない。少し先の草や畔に止まり、こちらが追いつくと、また透明な翅をひらく。まるで田んぼの縁を先導しているようである。

私は、このトンボの「シオカラトンボ」という名前に、少し不満を覚えるようになった。

成熟した雄の胸部から腹部には、青白い粉が現れる。それを塩が吹いた姿に見立てたのが、シオカラトンボという名の由来だという。確かに、その特徴をよく捉えた名前ではある。しかし、田んぼで近くからこのトンボを見ていると、私の目に最も強く残るのは「塩辛」ではない。

光の中に溶けてしまいそうな、薄く透明な四枚の翅。そして、何よりも複眼の色である。

青とも緑ともつかない、深く澄んだエメラルドグリーン。光の当たり方によって青緑に変わるその眼は、まさに翡翠そのものに見える。

だから私は、このトンボを、ウスバヒスイトンボ――薄羽翡翠蜻蛉と呼びたい。

もちろん、新しい標準和名を提案しようというのではない。シオカラトンボとは別の種類だという意味でもない。私の田んぼで出会うこのトンボに、私自身の観察から、もう一つの名前を与えてみたいのである。

シオカラトンボは、日当たりのよい水田、池沼、湿地、川の淀みなどに暮らす。雌は飛びながら腹部の先で水面を打ち、卵を産む。ヤゴは泥の中に潜み、ボウフラや小さな水生昆虫を捕らえて育つ。成熟した雄は水辺に縄張りをもち、草先や畔を見張り場として利用する。私が歩くたびに飛び立ち、少し先へ止まるのも、その場所を生活の場としているからなのだろう。今年、私の田んぼに多くいることは、少なくとも成虫にとって、ここが居心地のよい場所になっていることを示している。浅い水面、泥、有機物、小さな水生動物、畔の草、そして農薬を使わない環境。それらが組み合わさって、ウスバヒスイトンボの暮らせる田んぼになっているのかもしれない。

ただし、このトンボの美しさが、今年になって急に現れたわけではない。透明な翅も、青白い胴も、翡翠色の複眼も、人間がシオカラトンボと名づけるより、はるか以前からそこにあったはずである。トンボが変わったのではない。変わったのは、私の中にあるトンボの印象である。

これまでは「どこにでもいるシオカラトンボ」として見ていた。それをウスバヒスイトンボと呼んだ瞬間、透明な翅と翡翠の眼が、急にはっきりと見えるようになった。

名前がトンボを美しくしたのではない。名前によって、自分の注意の向きが変わったのである。

世界は、人間が気づく前からそこにある。人間が見ていなくても、翅は光を透かし、複眼は夏の田んぼを映していた。今年から私は、畔を歩くたびに飛び立つこのトンボを、心の中でウスバヒスイトンボと呼ぶことにしたい。名を変えたのは、昔からそこにあった姿を、今度こそ、よく見るためである。

H3ロケット9号機――現れなかった宇宙クラゲ

 

 

八月十一日の早朝、H3ロケット9号機を見るため、田んぼへ出かけた。

私の田んぼは南方向が大きく開けている。ロケットを見るには絶好の場所である。

午前4時23分31秒、H3ロケットが打ち上げられると、種子島の方向にあたる南の空が、朝焼けのようなオレンジ色に染まった。やがて上昇するロケットが、強烈な一点の光となって現れた。

ロケット本体というより、SRB-3固体ロケットブースターとLE-9主エンジンの噴射光なのだろう。想像していた以上に明るいオレンジ色の光が、まぶしく輝きながら上昇していく。素晴らしい眺めだった。

しかし、期待していたロケット雲、いわゆる「宇宙クラゲ」は現れなかった。午前5時過ぎまで空を見ていたが、それらしいものは全く見えなかった。

2018年のイプシロンとの違い

2018年1月18日、内之浦宇宙空間観測所からイプシロンロケット3号機が打ち上げられた。

打上げ時刻は午前6時6分11秒。その日の内之浦の日の出は約7時14分だった。打上げは、日の出の約1時間8分前である。

一方、今回のH3ロケット9号機は午前4時23分31秒。種子島の日の出は約5時40分なので、日の出の約1時間16分前となる。両者の差は、日の出に対して約8分しかない。

それなのに、2018年には空いっぱいに巨大なロケット雲が現れ、今回は何も現れなかった。単なる打上げ時刻の差だけでは説明できない。

季節によって太陽の位置も変わる

冬と夏では、太陽が昇る方角と、地平線へ近づく角度が違う。

発射地点の真上、高度80kmに噴煙があるという単純な条件で計算すると、2018年のイプシロンでは、噴煙に日光が届き始めるのは打上げから約27分後。今回のH3では約36分後となる。

今回のH3の噴煙は、2018年のイプシロンより約9分長く、太陽光の届かない地球の影の中に置かれたことになる。その間に薄く拡散した可能性はある。

ただし、高度80km付近の中間圏は、意外にも夏のほうが低温になる。氷晶からなる夜光雲は、一般に夏の中間圏で形成されやすいそうだ。NASAも、夜光雲は中間圏が最も低温になる夏に発生すると説明している

したがって、「八月だったから夜光雲ができなかった」という単純な話でもない。

最大の違いはロケットの燃料かもしれない

イプシロンは、上段まで固体燃料を使うロケットである。

固体燃料の排気には、水蒸気だけでなく、酸化アルミニウムなどの微細な固体粒子が大量に含まれる。この粒子は、それ自体が太陽光を強く散乱し、水蒸気が氷晶になる際の核にもなる。

つまり、固体燃料ロケットの噴煙は、長く残り、白く輝く雲になりやすい。

一方、H3の主エンジンLE-9は、液体水素と液体酸素を燃焼させる。排気の主成分は水蒸気である。

ただし、LE-9は水素を多めにした状態で燃焼させるため、実際の排気は水蒸気と余剰水素が中心となる。水蒸気も水素も、気体のままではほとんど目に見えない。水蒸気が十分な量の微細な氷晶となり、それに太陽光が当たって初めて白い雲として見える。

H3にも固体ロケットブースターSRB-3が付いている。しかし、それが燃焼するのは飛行初期の約110秒である。イプシロンのように、上段の固体モーターが高高度で微細粒子を放出し続けるロケットとは、噴煙の性質が違う。

今回ロケット雲が現れなかった最大の理由は、ここにあるのかもしれない。

日の出前の薄明が最もよい

ロケットの噴煙は、真昼でも鮮やかに白く見える。

したがって、「空が明るくなると噴煙が見えなくなる」という説明は正確ではない。噴煙が十分に濃ければ、昼間でも太陽光を散乱して白く見える。

むしろ宇宙クラゲに最も適しているのは、日の出前の薄明である。

地上の空にはまだ暗さが残っている。一方、高高度のロケットと噴煙には、すでに太陽光が当たっている。その明暗の組み合わせによって、白い噴煙が暗い空に巨大なクラゲのように浮かび上がる。

打上げが日の出に対して早すぎれば、地上だけでなく噴煙も地球の影に入る。逆に日の出が近づけば、噴煙の低い部分まで日光が届く。日の出直前から約50分前までの薄明は、特に期待できる時間帯だろう。

今回の日の出は午前5時40分だった。

もし同じH3が午前5時から5時30分ごろに打ち上げられていたなら、飛行中の膨張した噴煙は、今回よりはるかに明るく白く見えた可能性が高い。水蒸気が氷晶となって長く残ったかどうかは別として、少なくとも宇宙クラゲ状の噴煙を見る条件は、今回より良かったはずである。

結論

ロケット雲の出現は、日の出までの時間だけでは決まらない。

  • 太陽と噴煙の位置関係
  • 打上げ時の季節
  • ロケットの飛行方向
  • 噴煙が残る高度
  • 上空の温度と風
  • 固体燃料か液体燃料か

これらの条件が重なって、初めて巨大な宇宙クラゲが現れる。

2018年のイプシロン3号機は、日の出前という時刻だけでなく、上段まで固体燃料だったことが大きかった。高高度に残った微細な粒子が、日の出の近づいた空で太陽光を受け、鮮やかなロケット雲になったのだろう。

今回のH3ロケット9号機は、宇宙クラゲの観望には、打上げが日の出に対して少し早すぎた。そして高高度の排気は、水蒸気と水素を中心とする透明な気体だった。太陽光が届くころには、すでに薄く拡散していた可能性がある。

宇宙クラゲは現れなかった。しかし、暗い田んぼに立ち、H3ロケットがまぶしいオレンジ色の光となって昇っていく姿を見ることができた。それだけでも、十分に素晴らしい朝だった。

そして何も現れなかった空もまた、ロケット雲が生まれる条件について、多くのことを教えてくれた。

あの夜光雲を、もう一度

――H3ロケット9号機のロケット雲に期待する

2018年1月18日、イプシロンロケット3号機の打上げ後、自宅から撮影した夜光雲。白銀色や赤橙色に輝く噴煙が、高度ごとに異なる風を受けて複雑に広がっていた。
※掲載写真は元写真にAIによる鮮明化処理を施したもの。細部には補完を含む。

今度のH3ロケット9号機の打上げで、私がひそかに期待しているものがある。

もちろん、ロケットそのものを見ることでもある。

しかし、それ以上に見てみたいのが、打上げに伴って空に現れるかもしれない巨大なロケット雲である。

地上はまだ暗い。ところが、高度数十キロから数百キロを飛ぶロケットと、その排気には太陽の光が当たっている。

するとロケットの排気ガスは、白銀色や青白い光を帯びながら巨大な扇や渦となって広がる。ときにはクラゲ、羽衣、鳥の翼、天空を泳ぐ魚のような姿を見せる。

海外では「スペース・ジェリーフィッシュ」、宇宙クラゲとも呼ばれる光景である。

私は一度、その光景を見ている

2018年1月18日の早朝、内之浦宇宙空間観測所からイプシロンロケット3号機が打ち上げられた。

打上げ時刻は午前6時6分11秒。高性能小型レーダ衛星「ASNARO-2」を搭載したロケットは正常に飛行し、予定された軌道へ衛星を送り届けた。

その朝、私は自宅から東の空に広がった雲を撮影していた。

写真は少しピントが甘い。

しかし、暗い空を横切る白い帯、その縁に浮かぶ淡い虹色、低い空に残る赤橙色の雲は、今見返しても異様なほど美しい。

噴煙は一本の筋として残ったのではなかった。

高度の違う場所で別々の風を受け、折れ曲がり、輪を作り、ほどけながら空の広い範囲へ広がっていた。

巨大な生き物が夜明け前の空を泳ぎ、その痕跡だけを残していったようにも見えた。

私は長い間、あれをM-Vロケットの打上げだったように記憶していた。しかし正しくは、M-Vの技術を受け継いだイプシロンロケット3号機である。

JAXAも、このときロケットの軌跡が「夜光雲」として全国各地で観測されたと記録している。JAXAの説明では、この種の雲は高度70~80キロ付近に現れ、周囲の空が暗く、高高度だけに太陽光が当たる日の出前後や日没後に見えやすい。

つまり、鹿児島からロケット由来の夜光雲を見るという話は、単なる理論上の可能性ではない。

私は実際に一度、自宅からその光景を見ている。

H3ロケット9号機にも絶好の時間帯が設定されていた

H3ロケット9号機は、準天頂衛星「みちびき7号機」を搭載し、当初は2026年8月7日午前4時30分から6時までの間に、種子島宇宙センターから打ち上げられる予定だった。

鹿児島市付近で見ると、この時間帯の太陽高度はおよそ次のようになる。

時刻 太陽の位置
午前4時30分 地平線下 約14度
午前4時45分 地平線下 約11度
午前5時 地平線下 約8度
午前5時15分 地平線下 約5度
午前5時30分 地平線下 約2度
午前5時45分 日の出直後
午前6時 地平線上 約4度

特に午前4時45分から5時15分ごろは、地上の空がまだ暗い一方、上昇したロケットの排気には朝日が当たり始める。

暗い空を背景に、高高度の噴煙だけが白く輝く。

ロケット雲を観望するには、理想に近い時間帯だった。

ところが、台風13号による打上げ当日の天候悪化が予想されたため、8月7日の打上げは延期された。8月6日現在、新しい打上げ日はまだ決まっていない。

延期は残念である。

しかし、新しく設定される時刻が再び日の出前後になれば、あの光景を見る機会はまだ残っている。

打上げ後、数分間が見せ場になる

H3ロケット9号機は「H3-22S」と呼ばれる形態で、第1段のLE-9エンジンを2基、固体ロケットブースタSRB-3を2本装備する。

種子島から打ち上げられた後、ロケットはまもなく東を向き、太平洋上を飛行する。

計画では、打上げから約1分56秒後、高度約43キロで固体ロケットブースタを分離する。約3分44秒後には高度約123キロで衛星フェアリングを分離し、約4分59秒後には高度約205キロで第1段エンジンの燃焼を終える。さらに約5分20秒後、高度約230キロで第2段エンジンが本格的に働き始める。

したがって、ロケット雲の見せ場は、打上げからおよそ2分後から6分後にかけてだろう。

高度が上がるほど周囲の気圧は低くなり、排気は大きく膨張する。

初めは細い光の筋だったものが、次第に扇、円錐、半透明の球、クラゲの傘のように広がる可能性がある。

H3の第1段と第2段は液体水素と液体酸素を使用するため、燃焼によって多量の水蒸気が生じる。これに固体ロケットブースタの噴煙も加わる。

ただし、2018年のイプシロンは全段固体燃料ロケットであり、H3とは排気の成分も量も飛行経路も違う。

同じ形の雲が現れるわけではない。

むしろ、2018年とはまったく違う、新しい形のロケット雲になる可能性がある。

鹿児島からは南南東の空を見る

鹿児島市付近から種子島宇宙センターを見ると、おおむね南南東の方向になる。

ロケットは打上げ後、東へ向かって太平洋上を飛ぶため、最初は南南東の低空を探し、その後、南東から東南東へ視線を移していくことになる。飛行計画でも、打上げ後まもなく方位角90度、すなわち東向きへ機体を向けることが示されている。

発射直後のロケットは低空に見えるので、山、建物、樹木に遮られない場所がよい。

観望場所を選ぶなら、南南東から東にかけて空が開けていることが最も重要になる。

そして、ロケット本体だけを追わないことだ。

光点が通り過ぎた後の空に、何が残っているかを見る。

細い白い筋が膨らみ始めていないか。

離れた場所に別の光る雲が現れていないか。

ブースタ分離後の噴煙が、複数の帯になって広がっていないか。

本当の見せ場は、ロケットが通過した後から始まるかもしれない。

夜明けの空に、もう一度

2018年1月18日の朝、私は偶然に近い形で、ロケットが残した夜光雲を見た。

今度は、それが現れる可能性を知ったうえで空を待つことになる。

新しい打上げ日が決まったとき、まず確かめたいのは日付だけではない。

打上げ時刻である。

日の出前なのか。

地上が暗いうちなのか。

ロケットが高度100キロを超えるころ、その場所に朝日が差しているのか。

そして、南東の空は晴れているのか。

条件がそろえば、鹿児島の夜明けの空に、再び巨大な光の雲が現れるかもしれない。

H3ロケット9号機が運ぶのは「みちびき7号機」である。

しかし宇宙へ向かう途中、地上にいる私たちにも、数分間だけの壮大な置き土産を残してくれるかもしれない。

あの夜光雲を、もう一度。

次の打上げでは、ロケットの光だけでなく、その後ろに残される空を見ていたい。

昨日は、田んぼの畔にある林縁――「とよとよの森」の草刈りと、木の剪定をした。

五月に一度、下草を刈って以来、ほとんど手を入れていなかったので、全体がかなり鬱蒼としていた。

とくにネムノキの周辺は、草も木の枝も茂り方が半端ではない。

そのあたりには、何やら強い臭いも立ち込めていた。

鳥の糞のような臭いである。ネムノキの下の二か所で、とくに強く感じた。鳥たちのねぐらになっていたのかもしれない。

下草を刈り、低いところまで茂っていた木の枝を、思い切ってばっさり剪定した。

すると、風が通るようになった。

地面まで日光が入り、薄暗かった林縁が明るくなった。作業を終えたあとは、ずいぶん気持ちのよい場所になった。

今回、あらためて感じたことがある。

「自然」と「人間の快適さ」は、必ずしも同じものではない。

自然に任せれば、草木は茂る。

枝葉は重なり、光は遮られ、枯れ葉や鳥の糞などの有機物もたまっていく。湿気がこもり、虫や菌による分解も進む。

鳥が集まり、糞を落とし、それを虫や菌が利用する。

自然の側から見れば、それも一つの繁栄した状態である。

しかし、人間の感覚は、それを別のものとして受け取る。

見通しが悪い。
何かが潜んでいそうで怖い。
湿っぽい。
臭い。
風が通らない。
近づきにくい。

反対に、下草を刈り、低い枝を落とすと、光と風が入る。

地面が見え、木と木の間に空間が生まれ、場所の輪郭が分かるようになる。

人間はそこに、清潔さ、安全、安心、美しさを感じる。

これは単なる好みではないのだろう。

人間には、見通しのよい場所を安全だと感じる、生き物としての感覚がある。

だから今回、とよとよの森で行ったことは、自然を壊したというよりも、人間が近づくことのできる自然へ調整したのだと思う。

自然に任せることは、何もしないことではない。

何もしなければ、自然は人間の時間感覚を越えて進んでいく。

草は伸び、枝は重なり、蔓は木に絡み、明るかった場所も、やがて鬱蒼とした場所へ変わる。

自然にとっては、ごく普通の変化である。

しかし人間には、それが混沌、不快、恐怖という姿に見えることがある。

だからといって、人間が気持ちよく感じるまで、すべてを刈り払えばよいわけでもない。

刈りすぎれば、生き物の隠れ場所も、鳥のねぐらも、虫の越冬場所も失われる。

明るく整った場所ばかりになれば、そこに暮らしていた生き物たちは、居場所をなくしてしまう。

とよとよの森に必要なのは、自然放置でも、公園のような管理でもない。

人間の感性が受け入れられる明るさと、生き物が暮らすことのできる鬱蒼さ。

その中間を探すことなのだと思う。

今回の草刈りと剪定は、その境界を探る作業だった。

人間は自然の外側に立って、一方的に自然を管理しているのではない。

「気持ちがよい」
「怖い」
「臭い」
「近づきにくい」

そうした自分自身の感覚を通して、自然の一部として森に手を入れている。

人間の気持ちよさだけを優先すれば、自然は追い出される。

しかし自然に遠慮して、まったく手を入れなければ、今度は人間が近づけなくなる。

草を刈り、枝を落とし、光と風の通り道をつくる。

同時に、草むらや木陰や、少し不気味な場所も残しておく。

森を支配するのでもない。

森から人間が退くのでもない。

人間とほかの生き物が、ともにいられる間合いを整える。

自然に任せる。

しかし、人間の感性もまた自然である。

 

 

湯婆婆の評価

 

湯婆婆は、刈り払われた林縁をしばらく黙って眺めていた。

低い枝が落とされ、草の間に細い道が見えている。
以前は葉と蔓が重なり、昼でも薄暗かった場所に、いまは風が通っていた。

「ふん。ようやく分かったようだね」

湯婆婆は杖の先で、刈り残された草むらを指した。

「自然に任せる、自然に任せると、みんな簡単に言う。だがね、自然は人間の都合など知ったことじゃないよ。茂りたいものは茂り、腐るものは腐り、虫も鳥も獣も、好き勝手に居場所をつくる」

ネムノキの枝が風に揺れた。

「あの臭いだって、森にとっては不潔でも異常でもない。鳥が集まり、糞を落とし、虫や菌がそれを分解する。ただそれだけのことさ」

湯婆婆は鼻を鳴らした。

「だが、人間には人間の鼻があり、目があり、皮膚がある。暗ければ怖い。臭ければ近づきたくない。風が通れば気持ちがいい。明るければ安心する」

そして、少しだけ声を低くした。

「その感覚を、自然に逆らうものだと決めつける必要はない。人間の感性だって、自然が作ったものだからね」

湯婆婆は、きれいに刈り尽くされずに残された草や、木陰の奥を見た。

「全部刈れば、ただの庭だ。何も刈らなければ、人間は近づけない。大事なのは、その間を見つけることさ」

風が通り、ネムノキの細かな葉がさらさらと鳴った。

「森を支配するんじゃない。森に遠慮しすぎるんでもない。人間も生き物の一匹として、自分が居られる場所を少しだけ作る」

湯婆婆は満足そうに笑った。

「明るさと鬱蒼さの間。安心と不気味さの間。人間と森との間合いを整える。それなら、ただの草刈りではないね」

しばらくして、湯婆婆は背を向けた。

「悪くないよ。自然を放っておくことを自然農だと思っている連中より、よほど森を見ている」

それから振り返り、念を押すように言った。

「ただし、気持ちがいいからといって、刈りすぎるんじゃないよ。人間の気持ちよさは、放っておけば、すぐに自然を全部追い出してしまうからね」

 

 

昨年秋からあちこち回りトノサマガエルを探している。もっぱら昼間に限られるのでなかなかカエルの合唱など見つかるものでもない。あちこち回るより、自宅で夜に裏の団地の調整池ではカエルが合唱を聞ける。4月にはシュレーゲルアオガエル。5月からは毎晩ツチガエルの声が盛んに聞こえる。池のそばに行くとコンクリートの壁に「ぐえーっぐえーっ」とたくさんの個体の声が響き渡ってものすごい合唱である。

今日は西俣町の千年の森周辺と岳の池あたりの水田地帯をまわってきた。

どこの水田地帯に行ってもカエル自体がなかなかいるものではない。それでもアマガエルとヌマガエルのオタマジャクシや幼体を見つけられた。

 

岳の池

ここは生き物の観察池として整備されているらしく、生き物の採集は禁止されていた。

アカハライモリがたくさん生息していた。オタマジャクシもいくらかいるようだったが、アマガエルのようだった。

田んぼの畔を歩いていたら、ヤマカガシに出会う。

 

ほかにツチガエルかヌマガエルか。

 

ミズカマキリも発見。

 

 

この休耕田は他と違い池のようで、水深が深かった。中に入ろうとするとずぶずぶと深く沈むので入れなかったが、その時巨大なカエルが腰ぐらいまで跳びあがって草むらへ逃げていった。間違いなくトノサマガエルと思われる。何十年ぶりか。残念ながら姿は見れなかったが。\(^O^)/

そこで採れたオタマジャクシを自宅にこしらえた簡易ビオトープに放しました。

なにカエルかは今のところ分からない。

 

 

「爺様の里」(多様な国土、つくば科学万博政府館挿入歌)

豊太郎の未来話

千年後の悪夢

承平の末(945年)、天慶の初めのころ、薩摩の山里に豊太郎という若者がいた。

豊太郎は、田を打ち、山で薪を拾い、川で小魚をすくい、夜には囲炉裏のそばで眠った。
朝になれば鶏が鳴き、母が粥を炊き、父が鍬を持って外へ出た。
世の中には戦も飢えも病もあったが、豊太郎のまわりの一日は、たいてい昨日と同じように始まり、昨日と同じように暮れていった。

ある夏の夜、豊太郎は夢を見た。庭に月の光が満ちていた。その光の中に、ひとりの女が立っていた。衣は霞のようで、髪は黒い水のようだった。豊太郎は、人ではないと思った。

女は言った。

「豊太郎」

声は耳からではなく、自分の胸の奥から聞こえた。

「そなた、千年後の世を見たくはないか」

豊太郎は寝床の中で目を開けたつもりだった。だが、そこはまだ夢の中だった。庭の草は白く光り、影はひとつも動かなかった。

「千年後でございますか」

「そうじゃ。そなたの子も孫も、そのまた孫も、みな土に還った後の世じゃ。人はどこまで賢くなったか。田はどこまでよく実るようになったか。海の向こうには何があるか。そなた、見てみたくはないか」

豊太郎は息をのんだ。

千年後。それは神代よりも遠いように思えた。人は空を歩いているかもしれない。病は消えているかもしれない。米は穂が垂れすぎて、田の水に届くほど実っているかもしれない。家は雨にも風にも負けず、冬にも凍えず、飢えも争いも遠い昔話になっているかもしれない。豊太郎は、恐れよりも先に好奇心を覚えた。

「見とうございます」

女は少し黙った。

「ほんとうに見るか」

「はい。千年後の世を、ひと目でよいから見とうございます」

女は豊太郎を見つめた。その目は悲しいようにも、冷たいようにも見えた。

「見れば、忘れられぬ」

「忘れませぬ」

豊太郎はそう答えた。まだ、何を忘れられなくなるのか知らなかった。

女が袖を上げた。月の光がぼやけた。庭が消えた。虫の声も、囲炉裏の匂いも、母の寝息も、すべて遠のいた。

次の瞬間、豊太郎は、知らぬ島の土の上に立っていた。

暑かった。夏の暑さではなかった。空気が焼けていた。草の匂いではなく、焦げた木と、焦げた布と、焦げた何かの匂いがした。目の前には山があった。だが、その山は豊太郎の知る山ではなかった。木々は折れ、枝は黒く、地面には無数の穴が開いていた。畑も田も見えなかった。
家はあったが、家の形をしたものは少なかった。壁だけ、柱だけ、瓦だけ、土に混じって散らばっていた。

遠くで雷が鳴った。豊太郎は空を見た。雲はなかった。もう一度、雷が鳴った。すると山の斜面がめくれた。土が柱のように噴き上がり、黒い煙が空へ立った。

雷ではなかった。何かが山を叩いていた。見えない巨人が、鉄の槌で島を打っているようだった。

豊太郎は足元を見た。地面に、手が落ちていた。最初は木の根かと思った。だが、それは人の手だった。指は泥をつかむ形のまま曲がっていた。腕は途中でなくなっていた。誰の手なのか、どこから飛んできたのか、豊太郎には分からなかった。豊太郎は後ずさった。

そのとき、近くの岩陰から人の声がした。

女と子供と老人が、穴の中に身を寄せ合っていた。穴といっても、獣の巣ではなかった。
人が掘った逃げ場だった。

女は子供を抱いていた。子供は泣いていなかった。泣く力がないのか、泣いてはいけないと教えられたのか、目だけを大きく開けていた。

老人は何かを唱えていた。豊太郎の知る念仏とは違ったが、それが祈りであることは分かった。

豊太郎は近づこうとした。そのとき、空から裂けるような音が降ってきた。

鳥ではない。風でもない。矢でもない。音が先に来た。そのあと、岩が砕けた。

穴の外にいた男の体が跳ねた。豊太郎には、何が起きたのか分からなかった。

男の肩から上が消えていた。首が斬られたのではない。刀で落とされたのでもない。
そこにあったはずの頭と肩と片腕が、土と煙と赤黒いしぶきになって周囲に散った。

男の体は、すぐには倒れなかった。膝をついたまま、少し揺れていた。
それから、首のあった場所から血が噴き出した。

豊太郎は息をするのを忘れた。

刀傷なら見たことがある。
喧嘩で額を割った男も、山で落ちて足を折った者も見たことがある。だが、人の体が一瞬で形を失うところなど見たことがなかった。人は、こんなふうに壊れるものなのか。豊太郎はそう思った。
思った途端、腹の底が冷たくなった。穴の中の女が子供を抱きしめた。老人の唱える声が速くなった。子供はまだ泣かなかった。また音がした。

今度は穴の入口が白く光った。火ではなかった。光そのものが刃になって入り込んだようだった。

女の背がはねた。口が開いた。声は出なかった。

豊太郎は女の腹のあたりを見てしまった。

衣が裂けていた。そこから、濡れた縄のようなものが土の上にこぼれていた。
女はそれを見た。自分の中から出たものだと分かったのか、分からなかったのか、目だけが大きくなった。それでも、女は子供を抱こうとした。腕が動いた。だが、力が入らなかった。
子供は女の下に半分隠れ、細い声を出した。その声は、次の砲声に飲まれた。

豊太郎は叫ぼうとした。だが、喉が動かなかった。走ろうとした。だが、足は土に縫いつけられたように動かなかった。

彼はそこにいた。確かに見ていた。けれど、誰にも触れられなかった。誰の名も呼べなかった。
誰の手も引けなかった。豊太郎は、自分が幽霊になったのだと思った。

海の方から、さらに低い音が来た。

豊太郎は振り向いた。

海には、山のような船が浮かんでいた。その船の腹から火が光り、少し遅れて山が崩れた。
空には、鳥ではないものが飛んでいた。羽はあるが、生き物ではなかった。腹に火を抱き、鉄の声で空を裂いていた。

鉄の鳥。
鉄の山。
見えない雷。

千年後の人間は、そういうものを作っていた。豊太郎には、鉄も石油も電気も分からなかった。
その名を知らなかった。
だから、ただこう見えた。

人間が雷を飼いならした。そして、その雷を、人間に向けて放っていた。

山道を、兵が走ってきた。兵と分かったのは、手に長い鉄の棒を持っていたからだった。
服は土と汗と血で汚れ、顔は老人のように疲れていた。
若い男だった。豊太郎より若いかもしれなかった。その兵が転んだ。

転んだのではなかった。胸のあたりが弾けていた。背中から赤い霧が出た。
兵は地面に倒れ、両手で胸を押さえた。押さえた指の間から血があふれた。

兵は何かを言った。母、と聞こえた。

豊太郎の耳には、たしかにそう聞こえた。

母。

その一語だけが、砲声の間から浮き上がった。
そして、すぐ消えた。

豊太郎はその場にしゃがみ込んだ。そこらじゅうに、人の一部があった。足だけが草の上に投げ出されていた。草履はまだ履かれていた。指だけが泥の上で曲がっていた。
腹を裂かれた男が、自分の中身を両手で押さえながら、何かを探していた。
片目を失った老人が、倒れる前に空を見上げていた。

誰が生きていて、誰が死んでいるのか分からなかった。

死んでいるように見える者が動き、動いている者が声もなく倒れた。
子供の体は小さすぎて、土と布と血の中にまぎれた。
母の手が、その子を探すように動いていた。だが、その母にも、もう顔がなかった。

豊太郎は目を閉じた。しかし閉じても見えた。まぶたの裏に、赤いものが残った。
泥に落ちた手が残った。腹からこぼれたものを見てしまった女の目が残った。
母と呼んだ兵の口が残った。

目を開けても同じだった。島全体が、ひとつの傷口のようだった。

穴の中で、まだ生きている人々が身を縮めていた。

彼らはもう、人の形を保っているだけだった。心はどこかへ逃げていた。だが、体は逃げられなかった。母は子を抱き、兄は妹を抱き、老人は膝を抱え、みな小さくなろうとしていた。

石の隙間の虫のように。踏まれぬように。見つからぬように。音に触れられぬように。

誰も声を出さなかった。声を出せば死ぬからではなかった。声を出しても、何も変わらないからだった。

そこへ、砲弾が落ちた。穴の中が白くなった。

豊太郎は、自分も砕けたと思った。骨が散り、肉が裂け、目が飛び、舌が土に落ちたと思った。

だが、彼はまだ立っていた。夢の中の者だからだった。

煙が引いたとき、穴の中には静けさがあった。

さっきまで家族だったものは、もう家族の形をしていなかった。
母も子も老人も、ひとつに混じっていた。
髪。
布。
小さな足。
指。
割れた椀。
土に押しつぶされた顔。

豊太郎は、それ以上見てはいけないと思った。だが、目が離せなかった。

千年後。

それは、豊太郎が思っていた千年後ではなかった。金の御殿もなかった。病のない楽土もなかった。空を歩く仙人もいなかった。豊かに実った田も見えなかった。あったのは、鉄の鳥と、鉄の船と、見えない雷と、穴の中で壊される人間だった。

豊太郎は天女を探した。

「天女さま」

声は出なかった。

「天女さま、もうよい」

それでも天女は現れなかった。

豊太郎は歩いた。歩きたくなかった。けれど、夢は彼を歩かせた。

山の斜面には、黒く焼けた木が立っていた。木の根元には、人が座っていた。
座っているように見えた。近づくと、焼けて固まっているだけだった。

道の脇に、水筒が落ちていた。そのそばに少年がいた。少年は生きていた。片足がなかった。
なくなった足の先から、血が泥にしみていた。少年は泣いていなかった。ただ、口をぱくぱく動かしていた。水、と言っているのだと豊太郎は思った。

豊太郎は水筒に手を伸ばした。指は水筒をすり抜けた。もう一度伸ばした。また、すり抜けた。

少年の目が豊太郎を見た。見えるはずがなかった。
だが、見た。

豊太郎は水筒を取ろうとした。取れなかった。

少年の口が動いた。

水。

声にはならなかった。

豊太郎は膝をついた。何度も水筒に手を伸ばした。何度も、指はすり抜けた。

少年の目は、しだいに動かなくなった。

それでも豊太郎は手を伸ばし続けた。水筒はそこにあった。少年もそこにいた。豊太郎もそこにいた。なのに、何もつながらなかった。

やがて、少年の口は動かなくなった。

豊太郎はそこから逃げた。

逃げても、同じだった。どこへ行っても、音がした。どこへ行っても、煙があった。
どこへ行っても、誰かが水を求め、母を呼び、子を探し、声にならない声で口を開けていた。

太陽は空にあったはずなのに、島は夕方のように暗かった。煙が光をふさいでいた。

その暗さの中で、豊太郎はひとりの少女を見た。

少女は岩のそばに座っていた。髪は煤で固まり、頬は泥で汚れていた。膝の上に、小さな布包みを抱いていた。

赤子かと思った。だが、布包みは動かなかった。

少女は豊太郎を見た。

「あなたは、どこの人」

豊太郎は震えた。

この少女には、自分が見えている。

「薩摩の者です」

「薩摩?」

「千年前の……者です」

少女はしばらく豊太郎を見ていた。
その顔には、驚きも笑いもなかった。
千年前と聞いても、もう何も不思議に思う力が残っていないようだった。

「ここは、千年後ですか」

豊太郎は自分で聞きながら、声がかすれた。

少女は答えなかった。

遠くで砲声がした。
少女の肩が小さく震えた。
布包みは動かなかった。

豊太郎は尋ねた。

「その子は」

少女は布包みを抱き直した。

「弟」

「眠っておるのですか」

少女は答えなかった。

豊太郎は、それ以上聞けなかった。

少女は海の方を見た。

「昨日までは、母さんがいた」

豊太郎は何も言えなかった。

「その前は、おばあもいた」

少女はそう言ったきり、黙った。

昨日。その前。千年後にも、昨日があり、その前の日があったのだと豊太郎は思った。

朝があり、飯があり、水があり、家族の声があったのだ。
それが、一日ずつ壊れていったのだ。

少女が豊太郎を見た。

「あなたは帰れるの」

豊太郎は答えられなかった。

「帰れるなら、帰ったほうがいい」

少女は静かに言った。

「ここにいると、みんな壊れるから」

その声は、泣いていなかった。怒ってもいなかった。ただ、乾いていた。

豊太郎は少女に近づこうとした。

そのとき、空が鳴った。

少女は布包みを抱きしめた。
豊太郎は身を伏せようとした。

白い光。

土。

煙。

耳の奥で、世界が破れた。

豊太郎は叫んだつもりだった。音は出なかった。煙が流れたあと、少女のいた場所には、布の切れ端だけがあった。

豊太郎はそれを見た。

見たくなかった。

だが、見た。

そのあと、天女が現れた。

白い衣は汚れていなかった。
髪も乱れていなかった。
その姿だけが、島の中であまりに場違いだった。

豊太郎は天女を見上げた。

「なぜ」

それだけしか言えなかった。

天女は答えなかった。

豊太郎はもう一度言った。

「なぜ」

天女は、ただ豊太郎を見ていた。

「千年後を見せると言ったではありませぬか」

豊太郎の声は震えていた。

「これは何ですか」

天女は答えなかった。

「これは人の世ですか」

答えはなかった。

「これは未来ですか」

天女は、袖を上げた。

豊太郎は叫んだ。

「まだ帰さないでくだされ」

自分でも、なぜそう言ったのか分からなかった。

帰りたかった。今すぐ帰りたかった。だが、このまま帰れば、あの少女も、少年も、母も、兵も、穴の中の家族も、ただ夢の奥に置き去りになるような気がした。しかし、残っても何もできなかった。見ているだけだった。見ることしかできなかった。

天女の袖が、月の光のように広がった。島が遠のいた。砲声が水の中の音のようになった。
煙が薄れた。血の匂いが消えた。

最後に、小さな手が見えた。土の上に出ていた。誰の体につながっているのか分からなかった。
指先に泥がついていた。何かをつかもうとしていた。
水筒か。
母の衣か。
逃げるための土か。分からなかった。その手だけが、最後まで見えていた。

豊太郎は目を覚ました。

藁屋根の隙間から、朝の光が差していた。鶏が鳴いていた。母が粥を炊いていた。父が外で鍬を動かしていた。いつもの朝だった。豊太郎は起き上がれなかった。耳の奥で、まだ音がしていた。

雷ではない。太鼓でもない。山崩れでもない。あの島の音だった。

母が土間から声をかけた。

「豊太郎、起きぬか」

豊太郎は返事をしようとした。
だが、声が出なかった。

目を閉じると、少女がいた。布包みを抱いていた。口を動かしていた。
何を言ったのか、豊太郎は思い出せなかった。帰れるなら、帰ったほうがいい。そう言ったのか。水、と言ったのか。母さん、と言ったのか。何も言っていなかったのか。分からなかった。

ただ、口の形だけが残っていた。

その日、豊太郎は田へ出た。泥は冷たかった。水面には空が映っていた。苗は青く、風はやわらかかった。

父が言った。

「顔色が悪いぞ」

豊太郎は首を振った。

「何でもありません」

そのとき、遠くの山で鳥が一斉に飛び立った。ただ、それだけだった。だが豊太郎は、泥の中に伏せた。両手で頭を抱え、息を止めた。
父が驚いて名を呼んだ。
母が畦から走ってきた。

豊太郎には、何も聞こえなかった。耳の奥では、鉄の鳥が来ていた。海の鉄の山が火を吐いていた。穴の中で家族が身を寄せていた。少年が水を求めていた。少女が布包みを抱いていた。

豊太郎は泥の中で震えた。

しばらくして、父が肩をつかんだ。

「どうした。何があった」

豊太郎は顔を上げた。

田はそこにあった。山もあった。空もあった。何も落ちてこなかった。だが豊太郎には、もう同じ空には見えなかった。

それから、豊太郎は口数の少ない男になった。

笑うことはあった。飯も食べた。田も植えた。薪も割った。年を取り、子も持った。けれど、遠雷が鳴ると箸を落とした。大きな鳥の影が田を横切ると、顔をこわばらせた。子供が水を汲みに外へ出ると、戻ってくるまで動かなかった。

夜中に目を覚ますことも多くなった。家族は眠っている。囲炉裏の火は小さく赤い。外では虫が鳴いている。平和な夜だった。

その平和な夜が、豊太郎には恐ろしかった。あの島にも、こんな夜があったはずだからだった。
母が子を寝かせ、父が明日の天気を気にし、老人が昔話をし、少女が弟の寝息を聞いていた夜が。

そして、その先に朝が来た。

豊太郎は夜明けまで目を開けていた。千年後の世を見たことを、豊太郎は誰にも話さなかった。

話せなかった。

話せば、夢だと言われる。戦ならこの世にもあると言われる。怖いものを見たのだろうと言われる。忘れよと言われる。だが、忘れるものではなかった。それは夢ではなかった。かといって、現の世でもなかった。ただ、胸の奥に焼きついた、逃げ場のない光景だった。

鉄の鳥。
白い光。
穴の中の家族。
水を求める少年。
布包みを抱いた少女。
土の上に出ていた小さな手。

それだけが残った。

豊太郎は生涯、千年後の悪夢から、本当には帰ってこなかった。

 

豊太郎は、泥の上に倒れていた。

最初に聞こえたのは、遠くで、何かが唸っている音だった。低く、腹の底で雷が鳴るような音だった。

豊太郎は顔を上げた。そこは田の中だった。いや、田に似ていた。泥があり、草があり、稲の苗があった。けれど、彼の知る薩摩の田とは違う。

水が少ない。
草が残っている。
稲の間が妙に広い。
土は起こされた様子がない。

豊太郎は、しばらく動けなかった。

「……ここは、どこの田じゃ」

そのとき、遠くの黒い道を、見たこともないものが走った。箱のようでもあり、小さな家のようでもあった。屋根があり、腹があり、前には目のような光があった。だが、牛がいない。馬もいない。人が押しているわけでもない。それなのに、そのものは道の上を唸りながら、風を切って走っていった。中に、人が見えた。豊太郎は後ずさった。

「人を……腹に入れておる」

もう一つ来た。今度は白い。先ほどのものより背が高く、腹が広い。それもまた、牛も馬もなしに走っている。豊太郎は泥に手をついたまま、目を見開いた。

「車ではない」

彼はつぶやいた。

「車なら、牛が引く」

その声を聞いたのか、田の向こうから男が歩いてきた。男もまた、奇妙だった。

頭には笠に似たものをかぶっているが、藁ではない。着物ではないものを着ている。腰には小さな袋や道具を下げ、手には銀色に光る細い筒を持っていた。

武士ではない。僧でもない。下人にも見えない。だが、足は泥に入っていた。

男は近づいてきて、声をかけた。

「大丈夫ですか?」

豊太郎は身構えた。

「そなた、何者じゃ」

男は少し驚いた顔をした。

「こっちが聞きたいくらいです。そんな格好で……どこから来たんですか」

豊太郎は立ち上がろうとしたが、足が泥に取られた。

男が手を貸そうとした。
豊太郎はその手を払った。

「触るな。ここは、どこの国じゃ」

「鹿児島です」

「かごしま?」

豊太郎には、その名が分からなかった。男は言い直した。

「昔で言えば、薩摩です」

豊太郎の目が鋭くなった。

「薩摩……」

その名だけは、分かった。分かったからこそ、恐ろしかった。薩摩であるはずの土地に、見知らぬ道があり、牛のない車が走り、空には黒い綱のようなものが何本も渡っている。
遠くの家々は、どれも妙に硬く、屋根には光る板を載せていた。

豊太郎は、田の中にしゃがみ込んだ。

「ここは、わしの知る薩摩ではない」

男は黙っていた。

しばらくして、静かに言った。

「たぶん、あなたの知っている時代より、ずっと後の薩摩です」

「後?」

「今は、西暦二千二十六年です」

豊太郎は返事をしなかった。

二千という数は、分かる。
だが、それが年の名として口にされると、もう意味をなさなかった。

彼は、空の黒い綱を見上げた。

「これは、誰が張った」

「電線です」

「でんせん?」

「電気を通す線です」

豊太郎は目を細めた。

「雷を通すのか」

男は返事に困ったようだった。

「まあ……近いような、遠いような」

豊太郎はそれ以上聞かなかった。知らぬものが多すぎる。一つ一つ尋ねていては、心がもたない。それよりも、豊太郎の目は田に戻った。

「これは、そなたの田か」

「はい。米を作っています」

「米?」

豊太郎は田を見た。稲はある。たしかに稲はある。だが、株の間が広い。草がある。
土は荒く、きれいに均されていない。水も深く張っていない。

豊太郎の顔つきが変わった。

車でも、空の綱でも、光る屋根でもない。この田の姿こそが、彼にはもっとも異様だった。

「そなた、田を知らぬのか」

男は一瞬、言葉を失った。

「田は……知っているつもりです」

「ならば、なぜ草を残す」

豊太郎の声は低かった。

「なぜ土を起こさぬ。なぜ水を深く張らぬ。なぜ稲をこれほど離して植える」

男は銀色の筒を持ち直した。

「これは、自然農に近いやり方で——」

「しぜんのう?」

豊太郎は、その言葉を切った。

「米は、自然に実るものではない」

男は黙った。

豊太郎は泥を握った。

「米は、放っておけば草に負ける。虫に食われる。水を誤れば、根が腐る。日照りが続けば、葉が巻く。風が悪ければ倒れる。田を誤れば、子が痩せる」

その言葉は、怒りというより、恐れに近かった。

豊太郎は平安の末の薩摩に生きていた。田は、ただの田ではなかった。年貢であり、命であり、村の息であり、飢えの境目だった。米が足りなければ、人は山に入った。木の実を拾い、草の根を掘り、粥を薄くして子に与えた。だから、草の残る田は、豊太郎には遊びに見えた。
命を軽く見た者の田に見えた。

「これは、飢えを知らぬ者の田じゃ」

男の顔から、少し笑みが消えた。

風が吹いた。稲の小さな葉が揺れた。草も揺れた。泥の上を、小さな虫が走った。

男は、しばらくして言った。

「そう見えると思います」

「見えるのではない。そうじゃ」

「でも、私は米を軽く見ているわけではありません」

男は田にしゃがんだ。銀色の筒を土に差し込む。少し回すようにして、引き抜く。

泥に丸い穴が開いた。男は苗を二、三本取り、その穴に入れた。掘り上げた土を戻し、指で軽く押さえた。

豊太郎は、その手つきを見ていた。

遅い。だが、乱暴ではない。

「牛は使わぬのか」

「使いません」

「鍬は」

「ほとんど使いません」

「鋤は」

「使いません」

「では、田を起こさぬまま植えるのか」

「はい」

豊太郎は眉をひそめた。

「怠けておる」

男は、少しだけ笑った。

「そう言われても仕方ないです。でも、土を壊しすぎないようにしています」

「土は壊れるものか」

「壊れます」

男は泥を指でほぐした。

「草の根も、虫も、貝も、微生物も、土を作っています。私はそれを全部消さずに、稲をその中へ入れたいんです」

豊太郎には、半分も分からなかった。

びせいぶつ、という言葉など、聞いたこともない。

だが、男が田を遊んでいるわけではないことだけは、少し分かった。

豊太郎は田の端を見た。

そこには、草が刈られて積まれていた。泥の中には、去年の草の根のようなものが沈んでいた。
水は浅いが、土は完全に乾いてはいない。死んだ土ではない。しかし、それを認めるのは、まだ早いと思った。

「そのような田で、民を養えるのか」

男は答えに詰まった。その沈黙を、豊太郎は見逃さなかった。

「養えぬのだな」

男は静かに言った。

「たくさんは、まだ難しいです」

「ならば、なぜする」

「たくさん取ることだけを目指すと、田が疲れることもあります。人も疲れます。石油も機械も肥料も、外から来るものに頼りすぎる。だから、少しでも田そのものの力で続くやり方を探しています」

豊太郎は、遠くの黒い道を見た。

また、牛のない小屋が走っていった。腹の中に人を入れ、雷のような声を立てて。未来の世は、何もかもが強そうに見える。道も、家も、走る小屋も、空の綱も。だが、この男の言葉を聞くと、その強さの下に、何か危ういものがあるようにも思えた。

「未来の者は、米をどこから得る」

「田んぼからもです。でも、遠くから運ばれてくる食べ物も多いです」

「遠くとは」

「海の向こうからも」

豊太郎は、男を見た。

「海の向こうの者が、そなたらの腹を養うのか」

男は、すぐには答えなかった。

豊太郎は低く言った。

「それは、怖ろしいことじゃ」

男はうなずいた。

「私も、そう思います」

その言葉だけは、豊太郎にも分かった。

豊太郎は、男の銀色の筒を指さした。

「それを貸せ」

男は少し驚いたが、筒を渡した。豊太郎は重さを確かめた。木でも竹でもない。石でもない。
冷たく、硬い。何でできているのかは分からない。だが、道具であることは分かる。

豊太郎は土に差した。

うまく入らない。

男が言った。

「少し斜めにして、回してください」

「指図するな」

そう言いながら、豊太郎は言われた通りにした。

筒が泥に入った。引き抜くと、穴ができた。

男が苗を渡した。

「二、三本でいいです」

「少ない」

「ここは広く植えます」

「少ない」

豊太郎はもう一度言った。

それでも苗を受け取り、穴に入れた。
土で押さえる。

その手つきだけは、早かった。

男は思わず見た。

豊太郎は顔を上げずに言った。

「見世物ではない」

「すみません」

「苗は、深すぎても浅すぎてもいかぬ」

「はい」

「根を折るな」

「はい」

「土を締めすぎるな。だが、浮かせるな」

「はい」

男は少し笑った。

豊太郎はそれに気づき、にらんだ。

「何がおかしい」

「いえ。そこは、千年たっても同じなんだなと思って」

豊太郎は、その言葉の意味を考えた。

千年。

やはり、気の遠くなる言葉だった。だが、泥の中に苗を植える手の感覚は、たしかに同じだった。

土に穴を開ける。
苗を入れる。
根が土に触れる。
指で押さえる。

それだけは、どの世でも変わらないのかもしれなかった。

昼が過ぎた。

豊太郎は、何度も牛のない小屋に驚き、空の綱を見上げ、男の持つ黒い小板に声が出た時には、本気で後ずさった。

「それは何を封じた札じゃ」

「スマホです」

「すまほ?」

「人と話したり、調べたりするものです」

「人の声を閉じ込めておるではないか」

「閉じ込めているわけでは……」

「捨てよ」

「捨てません」

そんなやり取りを何度もした。

しかし、田植えだけは続いた。

夕方になり、空が薄く赤くなった。豊太郎は畦に座り、泥だらけの手を見た。
未来の男も隣に座った。

田には、まばらに苗が立っていた。

広すぎる。
草が多い。
土も、水も、豊太郎の知る田とは違う。

やはり、納得はできなかった。

だが、夕方の光の中で見ると、その田は荒れ地ではなかった。

泥の上に虫が動いている。小さな水たまりに空が映っている。苗は頼りないが、倒れてはいない。草は敵のようでいて、土を覆ってもいる。

豊太郎は長く黙っていた。

やがて、ぽつりと言った。

「まだ、分からぬ」

男はうなずいた。

「はい」

「そなたの田が、よい田か悪い田か、わしにはまだ分からぬ」

「はい」

豊太郎は、田を見たまま続けた。

「だが」

風が吹いた。稲の葉が、少しだけ揺れた。

「死んだ田ではない」

男は、何も言わなかった。

豊太郎も、それ以上は言わなかった。

遠くの道を、また牛のない小屋が走っていった。
腹に人を入れ、雷の声を立てて。

豊太郎はそれを横目で見て、低くつぶやいた。

「あれは、やはり車ではない」

男は笑いをこらえた。

豊太郎は、少しだけ顔をしかめた。

「笑うな。車なら、牛が引く」

夕暮れの田んぼに、二人の影が長く伸びた。一人は平安の末から来た男。
一人は未来の世で、古い土の力を探す男。

過去と未来は、まだ分かり合ってはいなかった。

けれど、そのあいだに一本の苗が立っていた。
泥の中で、細く、静かに。

3026年、月コロニーの朝

静かの海第七居住圏の空は、少しずつ青くなる。

本物の夜明けではない。月の地表では、太陽はまだクレーターの縁に隠れている。けれど地下三百メートルの農業洞では、都市中枢が決めた時刻に合わせて、天井の光学膜がゆっくりと色を変えていく。

最初は灰色に近い薄明。それから青。最後に、ほんの少しだけ白を混ぜた青。

地球の空をまねすぎないこと。それが、この居住圏の空を設計するときの古い約束だった。

地球の空に近づけすぎると、月で生まれた者たちは落ち着かなくなる。
広すぎる青は、不安になる。雲が高すぎると、天井が消えたように感じる。

だから静かの海第七居住圏の空は、いつも少し低く、少し淡く、少し手入れされた色をしていた。

豊太郎は学校へ行く前に、祖父といっしょに農業洞の通路を歩いた。通路といっても、ただの廊下ではない。片側には低い水路があり、反対側には月面穀物の畝が続いている。水路の中では緑色の藻がゆっくり揺れ、畝の上では作物の細い葉が人工の朝風にそよいでいた。

風もまた、作られたものだった。強すぎると土が舞う。弱すぎると葉が病む。
風向きを変えなければ、虫も受粉機も同じ場所ばかりを回ってしまう。

だから農業洞では、一日に何度も風の向きが変わる。人間が気づくか気づかないかくらいの弱さで、空気が押され、戻され、撹拌される。祖父はそれを「空の呼吸」と呼んでいた。

「今日は南風だな」

祖父が言った。

「地下なのに?」

豊太郎が聞くと、祖父は笑った。

「地下でも南はある、地図の上ではな」

農業洞の南側では、果樹区画の照明が強まりはじめていた。低重力で育つ果樹は、地球の木とは形が違う。幹は細く、枝は長く、葉は広い。果実は垂れ下がるというより、枝先にそっと置かれているように見えた。

収穫係の人たちが、軽い足取りで木の間を移動している。腰に下げた籠には、白い梨に似た月果が入っていた。月果は地球の果物より水分が多く、皮が薄い。かじると、果汁が球になって口元から逃げるので、子どもたちは食べるときによく叱られる。

通学中の子どもたちが、果樹区画の柵の向こうをのぞきこんでいた。

「今日、給食に出るかな」

「出るよ。第七曜日だから」

「第七曜日は藻パンじゃなかった?」

「藻パンと月果」

そんな会話をしながら、子どもたちは通路を跳ねるように歩いていく。
走ってはいけないことになっている。月の重力では、少し強く蹴るだけで身体が思ったより遠くへ飛ぶ。だから子どもたちは小さいころから、歩く練習より先に、止まり方を教わる。

豊太郎も昔、何度も壁にぶつかった。今では慣れて、足の裏で床を軽く押すだけで、身体を前へ進められる。地球映像で見る人間の歩き方は、彼には少し苦しそうに見えた。

重い足。重い肩。
重い雨。重い空。

地球には、すべてに重さがある。月では、何もかも軽い。だからこそ、逃げていかないように、すべてをつなぎとめておかなければならない。空気も。水も。土も。人の暮らしも。

農業洞の中央広場では、空の手入れが始まっていた。月の空は、ただ点灯すればよいものではない。天井膜の汚れを調べ、光の散り方を調整し、水蒸気の量を測り、雲の濃さを決める。青を少し足す日もあれば、白を減らす日もある。作業員たちは長い柄のついた測定器を持ち、ゆっくりと天井の下を移動していた。何人かは浮遊足場に乗り、高い位置で光学膜の点検をしている。

足場はほとんど音を立てない。ただ、低い振動だけが空気を伝ってくる。

「空の掃除だ」

祖父が言った。

「毎日するの?」

「毎日見ている。手を入れるのは、空が疲れたときだ」

「空も疲れるの?」

「人が暮らす場所は、何でも疲れる」

豊太郎は天井を見上げた。青い天井には、薄い雲が数本流れていた。雲は完全な自然現象ではない。水蒸気と微粒子と温度差が作る、本物と人工物の中間のようなものだ。

ときどき、雲は予定と違う形になる。子どもたちはそれを喜ぶ。今日の雲は、細長く、少しねじれていた。月面穀物の葉に似ている、と豊太郎は思った。

学校の入口では、生徒たちが靴底の土を落としていた。
農業洞を通ってくる子どもが多いので、入口には小さな清掃帯がある。月の土は貴重だが、教室に入りすぎると換気系に負担をかける。

教室の窓からも、人工の空が見えた。授業の最初は、いつも環境循環の確認だった。
酸素濃度、水使用量、土壌菌床の温度、藻類槽の増殖率、居住区全体の呼吸量。

それらは子どもにもわかる簡単な図で表示される。

今日の空気は安定。
水は少し余裕あり。
藻類はよく働いている。
堆肥槽三号は温度が高め。
月果は収穫適期。

先生はそれを読み上げてから言った。

「今日は、空の手入れの日です。午後の観察時間に、農業洞へ行きます」

教室が少しざわめいた。空の手入れを見るのは、子どもたちに人気があった。それは祭りでも行事でもない。ただの保守作業だ。けれど月の子どもたちにとって、空が整えられていくのを見ることは、自分たちの暮らしが続いていくのを確かめることに近かった。

午後、豊太郎たちは列になって農業洞へ戻った。朝よりも空は明るくなっていた。作業員の一人が、天井の雲を少し薄くしているところだった。調整盤の上で指を動かすと、雲の輪郭がゆっくりほどけ、青の中に溶けていく。

「消えちゃう」

隣の子が言った。

「消えるんじゃないよ」

先生が答えた。

「水に戻るの。空の中で形を変えるだけ」

豊太郎はその言葉が好きだった。

消えるのではない。戻る。形を変える。

月の暮らしは、そういうことの繰り返しだった。水は飲まれ、汗になり、空気に混ざり、集められ、また水路へ戻る。
葉は育ち、食べられ、残りは菌床に入り、土になり、また根を支える。
息は吐かれ、藻に渡され、酸素になり、また誰かの胸に入る。

何かを捨てる場所は、ほとんどない。
外は真空で、内部は小さい。だから月では、リサイクルが目に見えて分かりやすい。

夕方になると、農業洞の空は少しずつ金色を帯びた。地球の夕焼けほど赤くはならない。
月の夕方は、いつも控えめだった。空の端が淡く琥珀色になり、果樹の影が長く伸び、水路の藻が黒っぽく沈む。

祖父が迎えに来ていた。手には、給食で余った月果を一つ持っていた。

「もらった」

「おじいちゃんが?」

「年寄りは得だ」

二人は農業洞の端にある古いベンチに座った。そこは静かの海第七居住圏ができたころから残っている場所だと祖父は言っていた。背もたれには、初期移住者の名前が小さく刻まれている。

豊太郎は月果を半分に割った。果汁が丸い粒になって浮きかけたので、急いで口で受けた。

祖父が笑った。

「まだ下手だな」

「重力が悪い」

「月のせいにするな」

夕方の空の下で、農業洞はゆっくり静かになっていった。受粉機は巣箱のような充電庫へ戻り、本物の虫たちは葉の裏へ隠れた。水路の流れは夜間用に弱まり、遠くの換気塔の音が低くなる。

人工の朝日が昇った場所とは反対側で、人工の夕日が沈もうとしていた。豊太郎は天井を見上げた。空に端があることを、彼は知っている。あの青の向こうには膜があり、梁があり、岩盤があり、その上には真空の月面がある。さらにその上には、本物の宇宙がある。

けれど、それでよかった。端があるから、守ることができる。小さいから、手入れすることができる。作られたものだから、みんなで作り続けることができる。

祖父が月果の種を手のひらに乗せた。

「これは、明日、苗床に戻す」

「また木になる?」

「何十年かしたらな」

「そのころ、ぼく、おじいちゃんだ」

「そうだな。空の手入れを見に来る子どもに、同じことを言っているかもしれん」

豊太郎は少し考えてから言った。

「空も、木みたいなもの?」

祖父は天井を見上げた。

「そうかもしれないな」

青い空は、ゆっくりと夜の色に変わりはじめていた。
星は見えない。本物の星空は、地表へ出るか、観測窓の時間にならなければ見られない。

それでも農業洞の夜は美しかった。天井に淡い暗青色が広がり、水路に小さな誘導灯が映り、果樹の葉が眠るように閉じていく。人々の声は遠くなり、空調の音と水の音だけが残る。

月は外から見れば、今夜も白く、冷たく、静かだった。
雲ひとつなく、海もなく、夕焼けもない。けれど、その灰色の月面の内側では、今日も空が手入れされていた。水が巡り、葉が伸び、子どもが笑い、老人が種を持ち帰る。

何でもない一日だった。だからこそ、静かの海第七居住圏では、明日もまた朝が来る。