『モンテーニュ通りのカフェ』


モンテーニュ1
パリに憧れ、著名人が訪れることでも知られている
カフェ・ド・テアトルで働くことを夢見てやって
来たジェシカ
男性しか雇えないと最初は断られるもののその熱心さ
もあって、ギャルソンとして働くこととなる。

お金もなく住む部屋もままならないが、憧れのパリ
カフェに訪れる人々との触れ合いを楽しみながら
過ごしていく。

テレビドラマシリーズで人気を博している女優、ソロコンサートを開く有名ピアニスト、
美術収集家として財を成しそのコレクションを処分しようとしている男性、その息子で
父親との確執を抱えたままの大学教授、彼と関係を持つ若く魅力的な女性…。

ジェシカにとっては、十分に裕福で有名であり、見た目には幸せそうに見える人物が
それぞれに現状について様々な悩みを抱えている。

一般の人とは違って見えても、抱えている悩みは根底で共通した部分を持っている。

そして、ジェシカを含め、それぞれの立場で彼等は同じように岐路に立ち、
決断を下す時期を迎える。
それは仕事に対する方向性の転換だったり、共に過ごしたパートナーとの決別、
自分の人生への別れの意思表示、新たな出逢いだったり、多種多様だ。

決断は時に大きな痛みを伴う。
決断への不安、迷い、後悔。一歩先へ踏み出すときの恐れ。

モンテーニュ2
  簡単ではないけれど、ジェシカ役の
  セシル・ドゥ・フランスのキャラクターが
  明るくてみんなを微笑ませ応援したくなる。

  この作品が遺作となったお祖母さん役の
  シュザンヌ・フロン
に心がとても暖かくなる。

 

また同じく監督役で出演していたシドニー・ポラック氏が最近亡くなられた事もとても
残念だ。敬意と共にご冥福をお祈りしたい。
 
いまさらな感じもするハート・ウォーミング(笑)な映画なんだけど、パリの空気と雰囲気と、
主人公のセシル・ドゥ・フランスのキュートさに免じて、軽い感じで見るのには良いのでは。
見終わった後には、何となく人生も人間も「今」も捨てたもんじゃないな、なんて思えそう。


『譜めくりの女』
譜めくりの女

ピアニストを夢見ていた少女が、実技試験で失敗する。
失敗の理由は、著名なピアニストであった審査員の
何気ない行動に少女が動揺したためだった。
不合格となった少女は、ピアニストへの夢を諦める
こととなる。

成長した少女がそのピアニスト、アリアーヌと再会する。
彼女はもちろん少女のことなど覚えていない。
少女だったメラニーが取る行動は…。

復讐」。
まず浮かぶのはこの言葉。
でも、恐ろしい犯罪やサスペンスを思い描くとかなりがっかりするだろう。
何よりメラニーの伏し目がちな視線、時折笑みを浮かべているような口許が
何を企んでいるのか、本当に復讐を望んでいるのか、だとしたらどんな方法で…
想像は膨らむが、初めのうちははっきりと読みとれない。

最初からアリアーヌに近づく目的で働いていたのか、それとも
機会を窺ううちに行動がエスカレートしていったのか。

まず彼女の息子、同僚、と周囲に次第に暗い影が忍び寄る。
それでもアリアーヌの信頼を得たと知ると、それをより深いものに強めようと接近していく。
信頼が、結ばれていると信じている絆が強ければ強いほど、それが断ち切られた時の
ダメージは大きい。

離れていた十数年という歳月は、アリアーヌに十分な罰を与え、償いをさせていたようにも
思える。
交通事故により多大な精神的障害を与え、ピアニスト生命さえも危ういほど弱く脆い一人の
女性になっていた。自信満々にリサイタルや審査に臨んでいた姿とは同一人物に思えない。

個人的にアリアーヌ役のカトリーヌ・フロは『女はみんな生きている』での印象が強く、
明るく逞しい生き生きとした女性を描いてしまう。
また『地上5センチの恋心』でも、一生懸命でキュートな女性を演じていた。
その点で、今回の作品では違う雰囲気の役柄だけに、何となく違和感を感じていた。
とはいえ、やはり自信に満ちたピアニストと、精神的に脆く傷つきやすく変わった
一女性の演じ分けはさすが。

最終的な復讐の到着点は、フランスらしくもありやや意外でもあった。
この「復讐」は、女性らしい復讐であり、何よりダメージがより残るであろう
精神的な部分に対する復讐なのだ。
本人には一切肉体的痛手を与えない。
周りの人間には損傷を与えても、アリアーヌには信頼を与え、絆を結び、
最後にそれをひっくり返す。

それは肉体的な痛みを遥かに超えた傷を残していく。
犯罪とはならない範囲でのより効果的な復讐。
一時的な衝撃よりも後からじわじわと迫ってくる。
最後のメラニーの表情に、深いところからのぞくっとした恐さを感じた。

メラニーが壊したかったのは、家庭や社会的地位ではなく「心」だったのだろう。
過去に壊された自分の夢の代償として。
メラニーが失った未来を、アリアーヌも同じように失うことになるのか…。
復讐」を終えたメラニーは何を思うのだろう。

『愛おしき隣人』


「散歩する惑星」のロイ・アンダーソン監督。
愛おしき隣人
 
舞台は北欧の街。
十人十色、様々な境遇の下にいる住人達が、
口々に自らの不幸や不満、現状について独白する。
語りかける相手は、映画を見てる私達。

内容は、現状への不満だったりロックスターへの思い
だったり仕事のことや生活の不安のことと様々だ。

見ているこちらも身につまされたり同感したり笑えたり、
自分のことを見ているようでもあるが、客観的に見ることで
本人には重大な問題もそんなに大したことではないように
思えてきたりする。

北欧独特の雰囲気はアキ・カウリスマキや「カモメ食堂」を思い起こさせる。
静かで無駄な物がなく、うるさくない。無口な空間。大げさに動くことのない表情。
スッキリしたシンプルなインテリアや装飾の簡素さは、ジャック・タチ監督の
「ぼくの伯父さん」「プレイタイム」辺りとも繋がるだろうか。

色々あるけど、みんながそれぞれ自分のやり方で、自分の人生を生きている。
毎日特に変わった事が起こらなくても、”特別”はない人が”特別”ではない
日常を受けとめて過ごしていく。
普段言えないような思いを抱えていたりするけれど。

北欧の空気の下では、何だかそれが当たり前のように淡々と進んでいく。

それはわかるのだけど、それはそれでいいのだけれど…
それだけで終わってしまった。
もちろん事件や”特別”な出来事を望んでた訳ではないけれど
散文的に人物とその背景を紹介して終わってしまった感が残る。

例えば、相互の関係性を絡めて描くような展開が欲しかった気がした。
直接関わりを持つとか会話するんじゃなくても、すれ違いの関係性の面白さとか
同じ場所で違う時間に起こる出来事…多少はあったと思うが…
その辺りに消化不良が残ってしまった。

雰囲気が心地よく期待してしまっただけに、残念。



靖国

靖国神社。

終戦記念日には毎年こんな事が起きていたなんて…
知らなかった。


戦争は終わってない。

戦時中の映像に、現在も戦争の記憶を抱えて生きる
人達の姿に胸が詰まる。

戦争によって亡くなった人達、殺された人達に対する
思いは今も消えることはない。


戦没者の死は、国の死なのか、個人の死ではないのか…。

人の思いが、強い思いが迫ってきて言葉にならない。



『ヒトラーの贋札』
ヒトラー

ナチスの強制収容所。
そこで贋札作りを課せられる収容者のユダヤ人達。
贋札作りには、ユダヤ人達にとってはその命が、
ナチス側にとっては戦争の勝敗とナチスの存亡とが
かかっていた。

始まりは意外な舞台からだった。
モンテカルロ…カジノに大金を惜しげもなく注ぎ込む
一人の男。
勝敗には全く興味もなく、大金に執着さえない様子。
彼は強制収容所の生存者だった。

何度も何度も映画や実際の映像で描かれているナチスによるユダヤ人強制収容所。
ホロコースト、ガス室、アウシュヴィッツ…。
言葉にするだけで背筋にスッと寒気が走る。

その中で贋札作りに適したエキスパート達を集めた作業所では、通常より優遇された環境が
整えられていた。
確かに他のユダヤ人達より恵まれていたはず。
だが、時に気紛れなドイツ人将校達の前で油断など許されるはずもなかった。
緊迫した空気。ちょっとしたミスや失言から対応は180度転換する。
それは即「死」に繋がることを意味している。

途切れる事のない緊張の中で、どこまで正気を保てるのだろうか。
ドイツ兵に媚びる者、仲間を裏切る者、命を省みず反発しようと試みる者…。
あの状況下で、何が正しくて何が間違いなのか…誰に審判が下せよう。

贋札作りのプロとも言えるサリーは、ただ自分と仲間の命を救おうとだけ考えた。
生きて、共にここから出るのだ、と。

何人もの仲間の命を奪いながらも戦争は終結を迎える。
サリー達数名の仲間は無事救われた。

が…それは単純に喜べるものではないのだ。

仲間を失い、待っている家族も既にこの世にいない。
命は助かり、お金も手にした。自由な暮らしもある。
だが、腕には収容者番号が残り、記憶が消えることはない。
この先の人生を忌まわしい記憶を友として生き続けることは、死ぬより辛いことなのかもしれない。
死んだ者達の分も生きる…言葉にするのは簡単だ。

収容所から生きて解放された人達の中には、戦後自ら死を選んだ人が少なくないと聞いた。
辛い記憶は、身体だけでなく心を蝕み続ける。
ホロコーストそれ自体だけでなく、むしろ「その後」を生き続けるという現実を見つめることを
忘れてはいけないのだ。

戦争は記憶の中で生き続けている。
胸の奥でいつまでも痛みは消えることを知らない。



アイゼンハイム

幻影師アイゼンハイム


面白かった!
文句なしに楽しめました。

簡単なあらすじはわかって見たものの、
「幻影師」
って何?
っていうのが見るまでピンと来なかった。
なるほど、マジックというよりイリュージョンを
操る人なのね。


舞台は19世紀のウィーン。雰囲気も美しく、幻影を更に引き立たせている。
本名を伏せ、出自も不明。
どこか不思議な雰囲気を周囲に漂わせている幻影師アイゼンハイム
心に秘めているのは、少年の頃の思い出なのか。

偶然から再会した愛しい相手は、既に婚約を間近に控えていた。
ヨーロッパの小国であるオーストリアの皇太子は、
国家の存続と権力維持を見据えた上で政略結婚を画策していた。

身分の違い、権力者の圧力、隣接国との外交戦略…。

どれをとっても二人の間を阻むものばかり。良い条件など何もない。
どうなるの…と思っている間に、事態は悪化の一途。
イリュージョンの行く先と共に、先が見えないまま
結末も見えないまま、エンディングへと向かっていく。

皇太子の命令に従う公僕であり、アイゼンハイムを追う警部の複雑な心理が見事だった。
エドワード・ノートンの抑制の利いた演技も謎めいた役柄に合っていたと思う。

気を抜かず、最後までしっかり見ることが何より肝心です!
きっと満足して帰れるはず。
そしてアイゼンハイムのイリュージョンに酔いしれる楽しさにたっぷり浸れるはずです。



アイム・ノット・ゼア

『I'm not there(アイム・ノット・ゼア)』



さて、B・ディランの映画である。

B・ディランについてはとりたてて知ってることはなかった。

数曲の歌と、そのカリスマ性くらい。


で、この映画の前にちょうど夜中に放送してたドキュメンタリー

(確かスコセッシ監督)をチラ見して『ファクトリー・ガール』を見た。


映画では、ディランの持つ多面性を数人の俳優が演じるという趣向になっている。

中でもケイト・ブランシェット(女性ですが)演じるディラン

一番評判が良いしカッコ良い。当時の本人にも似てる。
好みもあるだろうが、リチャード・ギアリチャード・ギアにしか見えない…。


あまり予備知識ないディランの姿は、本人としては一貫しているのに、

周りの環境、政治状況、時代性が勝手に彼を作っていると思えた。

都合良くヒーローに仕立て上げ(アメリカらしい)、プロテスタント、

平和主義者、伝道者…と次々にレッテルを貼りかえていく。

もし、ディランと同じ時代を生きていたら同じようにマスコミに踊らされていたのか。


インタビューに答えるディランのシニカルな程のユーモアがいい。その通り(笑)

煙に巻くくらいしか答えようがないのが今だからわかる。周りは真剣だったとしても。


歌に常にメッセージを求め、その答を彼に問いかける必要があるだろうか、特にディランの場合。

天から降りてきた言葉をそのままメロディに乗せたような歌。
見たまま感じたままが歌になる。独特の声と語りかけるような歌い方。

でもイーディへの思いを歌った歌には確かに彼の心がある。
それもまた意外なようであり印象的だった。


クールな外面に熱い心。

無造作に並べられた言葉が人の琴線に響く。胸を打つ。

彼のように生きたいと憧れてしまう気持ちがわかる。


 「私は弱いので、

  悲しみに出遇ふごとに自分が支へきれずに、

  生活を言葉に換へてしまひます。」(中原中也)


ディランも自分の思いをやはり歌に託したのだろうか。

誰に宛てるメッセージでもなく。



ダメだ…
見てる間中、涙が止まりませんでした。
映画館でなく家でDVDで見れば良かったか…
にしても、泣きすぎだよ、私…。

共産主義支配下の東欧ハンガリー
自由を求め、声を上げる学生達。
ソ連軍による民衆の鎮圧、秩序の回復の名の下に
行われる殺戮。

共産主義体制の下での思想統制の弾圧は、暴力によるものに留まらない。
例えばそれはチェコから亡命したミラン・クンデラの小説にも度々
描かれているのだけれど。

密告、脅し、家族への波及、職場での減給、降格、失業、投獄、拷問…

一度レッテルを貼られたら剥がすことはほぼ不可能と言える。
家族、友人、仕事、収入…生活のほとんど全てを奪うことが可能なのだ。

それをわかった上で、蜂起することは命を懸けること。
国の存続のために、自由を勝ち取るために。
失敗すれば命はないと言っていい。


迷いもなく真っ直ぐに運動に参加する学生のヴィキ
オリンピックのため水球に励むカルチ

政治に関わりのないような人々が容赦なく争いに巻き込まれていく。
銃を持ったこともない学生が銃を取り、子供達がデモに参加する。
皆殺しと言える程に徹底したソ連軍の攻撃は、都市の全てを破壊し
無防備な一般市民に装甲車から容赦なく銃を放つ。

ソ連軍の卑怯な戦略からオリンピックに行くことになったカルチ達
選手団は、平和な他国で祖国の惨状を見る。
競技には不正な審判もなく、大国の脅威も存在しない。
同時に起きている出来事の落差に愕然とする。

やり方は異なるが祖国のために闘う人々。
以前、ポーランドから亡命してきた人と会った事がある。
あまりに無知である私には亡命の持つ重みがわかっていなかった。

東欧で起きた事は過去のものとは言えない。
今また起きている現実を、これから開かれるオリンピックを通して
少しは理解できるようになるだろうか。

東欧諸国の歴史的側面を少しでも知りたいと思ったら
大国から独立を勝ち得るための道のりをこの映画で見てほしい。


ファクトリー・ガール

ブログの書き方も忘れてるらしい…(汗

さてちょこっとずつまた更新してみたいなーと思っております。
今まで何してたのか、何ゆえの心境の変化なのかはともかくとして…。

とりあえずは『ファクトリー・ガール』!
もちろんB・ディラン役のヘイデン・クリステンセンが観たかったのは確かですが…(笑)
A・ウォーホルのミューズ、イーディ・セジウィック役のシエナ・ミラーにも
興味ありでした。

中世貴族のサロンのようでもあったウォーホルの「Factory」は、
自由な雰囲気の下、様々な才能が集まり、アートを生み出し流行を発信することで、
資本を取り込み、マーケットを巻き込んでいく。

美味しい所を戴いてうまくその場を利用しのし上がっていった者もいた。
が、そこに蔓延していたのは言うまでもなく麻薬と退廃の媚薬。
巻き込まれて己を見失い酒にドラッグに溺れてしまう者もいた。

地方出身のイーディもその一人。
「愛されたい」という思いが依存となったのか。

ストーリーは若干ありがちなドラッグに溺れるスターの末路…といったところ。
ただその主役がイーディであり、周りを取り囲む面々も名が知られた人物ばかり。

「愛されたい」という思いは素晴らしい芸術に昇華されていくと常々思うところだけど
ー不遇な時期の方が往々にして傑作が生まれているー彼女の場合、うまく作用しなかった。
その前にウォーホルの評価(愛情とは言えないだろう)に依存し、ドラッグに依存していった。

B・ディランの声ももう届かなかった。あー、勿体ない、と誰しも思うだろう。
何であの時、なんて事がしばしば起こってしまうのが現実なのだ。
『ファクトリー・ガール』を観てから『アイム・ノット・ゼア』を観るか、
逆がいいのか悩むところ。ちなみに私はこちらが先だったけど。
どっちを観てもB・ディランのイーディに対する思いに変わりはなかった。

イーディが救われていたら…それでも同じ結末だったのかもしれない。
栄光と挫折。トップからの転落。マーケットはイーディを商品として扱い使い捨てた。
亡くなる前にもう一度幸せを感じることがあったのだろうか…。
あったのだと信じたい。


イノセント・ボイス 12歳の戦場』★★★★★
(2004年・メキシコ)

イノセント・ボイス

監督=ルイス・マンドーキ
出演=カルロス・パディジャ、レオノア・バレラ
   ホセ・マリア・ヤズピック 



絶対、絶対、絶対、見て欲しい。
これは映画、というよりも「事実」なのだ。
見て、たくさんの人に知って欲しいと願う。
これは中米の『ホテル・ルワンダ』だ。ただ、救われる話じゃない。
思い入れのある私は、涙が止まらなかった。
顔が隠れる帽子を被っていって良かった(笑)

1980年!!そんなに昔の話じゃない。
内戦が続く中米エルサルバドルの小村。
”北”へ旅立った父親の帰りを待ちながら、3人の子供を育てる母親。
田舎の村でも、戦闘は遠い話じゃない。夜間外出禁止令が布かれ、突然
銃撃戦が始まる事も度々ある。政府軍ゲリラ軍”北”の大国の軍事
援助、派兵。

内戦は、他国との戦いのように住民を巻き込まないという名目もなく、
一般住民の間での戦いなのだ。母親の弟は、ゲリラ軍に参加している。
働き盛りの男達もみな戦闘にかり出され、村にはいない。子供達も例外
ではない。母親も子供も、12歳の誕生日を恐れている。12歳(!)に
なると、強制的に政府軍徴兵されるのだ。

戦闘の中でも、子供達は生き生きとしている。友達との遊び、ガール
フレンドとのデート初恋。戦争すら遊びのひとつかのように、無邪気
に過ごす。母親が真剣な顔で怒るのも、生命の危険があるからだという
危機感は感じていない。

それでも戦闘は、現実は、子供達を巻き込んでいく。学校に乗り込んで
12歳になった子供を連れて行く政府軍。徴兵されたアントニオは、軍服
を着て、チャバ達が遊ぶ前で、銃を撃ち自慢してみせる。わずか12歳
子供が機関銃を操るのだ。そして、学校さえもが戦場となる。

子供達が闘い殺し合う戦争。そして、最後の川辺でのシーンには、思わず
目を覆いたくさえなる。やっぱり同年代の子供を持つ母親にはすすめない。
あまりに辛すぎる。

チャバの瞳は、柳楽くんに劣らず印象的だ。その瞳には、嬉しさ、楽しさ、
怒り、悲しみが素直に映し出される。雄弁に語る。

内戦が終結したのは1992年!ついこの前のことだ。そして、未だ国内には
戦禍が残る。貧困と民族解放問題。2001年に起きた地震と、洪水の災禍。
中米各地には、同様の先住民と政府との対立の火種はくすぶっている。

チャバが生きて、この事実を語れた事を喜びつつ、今も、チャバのような
子供達がいる事を、絶対に忘れてはいけない。この映画の2時間は、決して
長くない。見て退屈なんてする暇もない。都内では3月10日までらしいが、
もっともっとたくさんの人に見て欲しい映画だ。