アイム・ノット・ゼア

『I'm not there(アイム・ノット・ゼア)』



さて、B・ディランの映画である。

B・ディランについてはとりたてて知ってることはなかった。

数曲の歌と、そのカリスマ性くらい。


で、この映画の前にちょうど夜中に放送してたドキュメンタリー

(確かスコセッシ監督)をチラ見して『ファクトリー・ガール』を見た。


映画では、ディランの持つ多面性を数人の俳優が演じるという趣向になっている。

中でもケイト・ブランシェット(女性ですが)演じるディラン

一番評判が良いしカッコ良い。当時の本人にも似てる。
好みもあるだろうが、リチャード・ギアリチャード・ギアにしか見えない…。


あまり予備知識ないディランの姿は、本人としては一貫しているのに、

周りの環境、政治状況、時代性が勝手に彼を作っていると思えた。

都合良くヒーローに仕立て上げ(アメリカらしい)、プロテスタント、

平和主義者、伝道者…と次々にレッテルを貼りかえていく。

もし、ディランと同じ時代を生きていたら同じようにマスコミに踊らされていたのか。


インタビューに答えるディランのシニカルな程のユーモアがいい。その通り(笑)

煙に巻くくらいしか答えようがないのが今だからわかる。周りは真剣だったとしても。


歌に常にメッセージを求め、その答を彼に問いかける必要があるだろうか、特にディランの場合。

天から降りてきた言葉をそのままメロディに乗せたような歌。
見たまま感じたままが歌になる。独特の声と語りかけるような歌い方。

でもイーディへの思いを歌った歌には確かに彼の心がある。
それもまた意外なようであり印象的だった。


クールな外面に熱い心。

無造作に並べられた言葉が人の琴線に響く。胸を打つ。

彼のように生きたいと憧れてしまう気持ちがわかる。


 「私は弱いので、

  悲しみに出遇ふごとに自分が支へきれずに、

  生活を言葉に換へてしまひます。」(中原中也)


ディランも自分の思いをやはり歌に託したのだろうか。

誰に宛てるメッセージでもなく。