台湾の歴史学習漫画『認識台灣歴史7日本時代(上):日本資本家的天堂』(2012年)と日本の歴史学習漫画『集英社版・学習漫画 日 本の歴史16日清・日露の戦い』(1998年)を比較してみた。本来なら集英社版より台湾の歴史漫画の同年発行で新しく発行された、学研の『学研まんが NEW日本の歴史十近代国家への歩み 明治時代後期』と比較するのも良いかと思ったが、学研の新板は恐ろしく偏っているので、とりあえず中道(やや左派よ り)の集英社版を選んだ。

 

何か面白いことが出てくるかと期待したが、期待以上に面白かった。

もちろん、日本の視点と台湾都の視点は違っていて当たり前である。

子供たちに時刻の歴史を教える際に当然自国からの視点になるのは当たり前のことだ。

しかし、驚いたことに集英社版の歴史漫画は日清戦争後の台湾の植民地化についてはわずかコラムが1頁の4分の1だけ。しかも、台湾民主国についても全く触れられていないのだ。

対する台湾側の歴史漫画は日清戦争後の日本の植民地支配について首尾一貫して武装抗日が語られている。

 

「そ りゃあ、国が違うんだから学習漫画だってそうなって当然でしょう?」という答えが聞こえてきそうだが、中道でかなりバランスのとれた構成の集英社版でさえ 「台湾」については全く問題にしていない。台湾平定のコラム以後、集英社版の学習漫画は1945年の大東亜戦争終結まで全く触れていないのだ。清と朝鮮、 ロシアのみ比較的具体的に漫画の中で表現されている。因みに2011年に小学館から発行された小・中学生向けの歴史書『Jr.日本の歴史6大日本帝国の時 代』では下関条約の後、台湾民主国の建国と征台戦争について約1頁記述があるが、その後は全く台湾については記載がない。

 

台湾側は。漫画でもかなり日本の植民地化政策とか、武装抗日運動、霧社事件など詳細に記されている。この差は何かと思わずにいられないが、台湾は日本の子供への歴史教育の上では全く範疇外なのだとわかった。

台湾の子供たちがこ自国の歴史漫画を読んでいるとすれば歴史的な視点からは日本はあまり嬉しくない存在に見えるだろう。その事を日本の子供たちは全く知らない訳だ。僕は今回の漫画比較でひとつの印象を持った。

 

 

日本側の歴史漫画を読んで、

植 民地として自分たちのものにしてしまえば、後は特にその部分は気にしない、特に語らないという日本人の何とも脳天気な無頓着ぶりさである。これは日本人の 歴史に対して無頓着で傲慢な過去への態度が無意識に「学習漫画」の中に表れたものだと思う。こうした性質が戦後処理の問題にも影響を与えていると思う。

 

 

台湾側の歴史漫画を読んで、

「台湾人はサブカルとか文化面では親日です。しかし、歴史面では必ずしもそうではないのですよ。」と台湾人の人からよく言われるのだが、なるほど、そういうものだとあらためて認識させられたものだ。

近年、日本では一般販売向けに日韓中合作教科書などを作成して発売されているが、そこにも台湾の視点はない。

 

台湾はやはり、取り残されている。

それが気になるのだ。

1.宝田明という俳優

 

日本統治下の朝鮮で生まれ、「満州」と呼ばれた中国東北部で育って引き上げて来たという少年時 代を送った俳優、宝田明が台湾の映画にも客演している事はあまり知られていない。東宝と香港ショウ・ブラザースとの合作『香港の夜』は有名。米の大物俳優 ジョセフ・コットンと共演した日米合作のSF映画『緯度0大作戦』、または米の小物俳優ニック・アダムスと共演した『怪獣大戦争』等には出演しているもの の日本映画史の中では地味な作品で日本映画史に名を残すインパクトはない。宝田明がこの様な作品に少々、起用されたのは彼の語学力と彼の特異な少年時代の 国際性を育んだ環境があってこそだったと思う。それは彼の自伝の全編から感じ取ることが出来る。「世界のミフネ」が英語を話せなくても国際俳優であり続け たのは身も蓋もない言い方をしてしまうと黒澤明の菊千代や三十郎で欧米のおぼえが良かっただけに過ぎない。宝田明は『ゴジラ』からデビューしているので当 然、欧米でのおぼえも良かったはずだが、菊千代や三十郎並みの俳優としてのゴジラのインパクトには適わなかっただろう。

ブロードウェイ・ミュージカルを逸早く1960年代前半に日本へ翻案して持ち込んだのも宝田明の一つの国際感覚の顕れであり功績であると思う。

彼 が三船敏郎や丹波哲郎の様な国際俳優になれなかったのは何故だろう?彼が英語圏文化よりも中国語に堪能だった、彼の幼少からの経験は中華文化圏に深く根ざ しているからなのかもしれない。いずれにせよ、宝田明が国際俳優に到達しなかった事は、当時の中華文化圏と日本文化圏の映画での交流の希薄さを示している 一つの例であるに過ぎない。

今の時代に彼が現役の二枚目若手スターだったら、確実に中国や台湾の映画に引っ張られていただろうと思う。

そんな彼が台湾映画に客演していた事は興味深い。

 

2.宝田明と乗馬ブーツ

 

宝 田明が出演した台湾映画は『最長的一夜』という作品である。彼の役どころは日中戦争で全滅した日本軍部隊で一人、生き残った従軍記者。彼は冒頭、激戦地の中 で傷を負って気を失っている、意識を取り戻した時、自軍の部隊は全滅していたことに気が付く。彼はさまよい、農村の中国人の民家にたどり着く。彼を最初に 見つけた老人は、彼を自分の息子が帰ってきたと勘違いする。従軍記者は日本軍の軍装をしているにもかかわらず、現実を認知できない老人は息子と生き写しの 日本人を歓喜を持って迎え入れる。老人が勘違いした息子の「母」は盲目である。彼女は記者の顔を触り従軍記者を息子であると確信して喜びの涙をこぼす。し かし、その家の若い娘は「息子」の帰還に驚いて対面するが、顔を見て、次の瞬間、視線は彼が履いている茶色の乗馬ブーツに注がれる。彼女は反射的に彼を日 本兵「侵略者」と認識して、絶叫して逃げ出す。あたかも怪物に遭遇したかのように。


宝田明が逆に乗馬ブーツにギョッとなって逃げだすシーン がある。ゴジラ物の一本である東宝映画『南海の大決闘』だ。宝田明は指名手配中の金庫破りだが、ひょんなことからヨットで海に出る羽目になり、大学生、漁 師の青年たちと南海の孤島、レッチ島に漂着する。島は無人島ではなく世界征服を狙うアジアのある社会主義国家の革命軍事組織「赤い竹」が、先住民を奴隷と して労役させ、原爆製造のための「重水」を製造していたのだ。宝田明たちは警戒厳重なその基地に潜入するが、基地内で匍匐前進しているうちに目の前に黒い 乗馬ブーツが突如、出現してギョッとなる。宝田明が恐る恐るその視線をブーツから上に上げて行くと、乗馬鞭を手ににたりと笑う軍服姿の「赤い竹」警備隊長 の竜大尉(平田昭彦)だった。立場と視線の開始場所が違っているが、宝田明が出演したこの二本の映画では乗馬ブーツが侵略や暴力を認知する道具として効果 的に使われている。『最長之夜』では大日本帝国の侵略主義とその先兵を示すものであったのに対し、『南海の大決闘』ではアジアの某社会主義国の世界支配を 目論む侵略主義の先兵を示すものだ。

双方の思想や政治的な立場は違えど、ブーツが何かを表象しているには違いない。

 

3.乗馬ブーツと帝国主義

 

恐らく実用品として乗馬ブーツを使用している軍隊は現在では在りえない。せいぜい、中華人民共和国の閲兵式など公式な軍事セレモニー位でしかお目にはかかれなくなった。

そ もそも、乗馬ブーツは馬に乗ることを前提としたもので、脹脛を覆い隠す必要があるのは馬の身体と乗る人間の身体との接触を可能な限り排除する必要があった からだ。それは馬に対して効果的な命令を伝えるためでもあり、馬の身体を守るためでもある。ゆえに乗馬ブーツで歩行するのは本来の目的とは違った使用方法 という事になる。あの膝下まである長いブーツを履くことが許された者は同時に馬に乗ることが許されたものという事になる。軍隊では士官から将官クラスであ る。彼らは馬に乗ることで戦場を行き来きするので、馬を下りてもそのまま乗馬ブーツを履いたままでいる。それは、せいぜい第一次世界大戦位までの事であ る。

第二次世界大戦からは戦車、自動車、航空機が発達したために馬による戦場の機動力は失われた。そのために将校が履く乗馬ブーツは本来の意味を失って、イギリス軍やアメリカ軍などは早くからその習慣を捨てたものだ。

米軍でも乗馬ブーツに拘ったのはパットン将軍位のものだろう。思い返せば、モントゴメリ将軍やアイゼンハワー将軍の乗馬ブーツ姿というのはさっぱり記憶にない。ましてやチャーチルやルーズベルトが乗馬ブーツを履いている姿は想像するだけでも滑稽だ。

しかし、ヒトラーやスターリン、東条英機は違う。彼らは乗馬ブーツ姿が他の政治家よりも多かった。むしろ、それを履くことが常であった様な印象を受ける。

実際に戦場では時代遅れとなった乗馬ブーツという存在をその本来の機能を考慮しないで使用し続けたのはナチス・ドイツ、ソ連、大日本帝国陸軍だった。これらの軍隊では前線でも馬が存在しなくとも将官から将校までがひざ下まで覆い隠すあの乗馬ブーツを履いていた。

砂漠の戦場で、あるいはジャングルで、凍てつく雪原で・・・・。

第二次大戦下のアメリカ軍やイギリス軍など連合国側では考えられない時代錯誤だ。

 

特に乗馬ブーツ病が酷かったのはドイツである。一般親衛隊は将官、士官か下級兵士かという上下の例外なく乗馬ブーツを履いていたし、また大日本帝国でも階級が何であろうと憲兵は乗馬ブーツを履くことが常であった。

つまり、本来の機能を失った乗馬ブーツは帝国主義的支配の一つの機構と権力の象徴となった感がある。かつて東側と呼ばれた東欧でも最もファシズム的で保守的だった東ドイツ(ドイツ民主共和国)では統一ドイツに至るまで警察も軍人も少し短いめの乗馬ブーツを履いていた。

そのためか、我々の感覚として乗馬ブーツが本来の目的で使用されない場合、一種の特異な印象を与える。

権威的でもあり、帝国主義的でもあり、全体主義的もあり、植民地主義的でもある。そういう印象が本来の機能を無視した乗馬ブーツには感じられるのだ。

 

4.映画における乗馬ブーツの帝国主義的表象

 

宝田明が出演した二本の映画『最長的一夜』と『南海の大決闘』だけが特異な例ではない。乗馬ブーツは映画では帝国主義的象徴として描かれる例は無数にあった。

 

レ ニ・リーフェンシュタールの記録映画『意志の勝利』なニュルンベルクのナチ党大会を記録した映像美の傑作だが、印象深いのは一般親衛隊員が横一列になっ て、階段を下りてくる場面である。レニは乗馬ブーツを捉えて離さない。黒光りしたブーツの列が一斉に同じ歩調で階段を下りてくる。ナチズムの美学的な媚薬 がそこに感じ取られるシーンだ。

 

戦後のアメリカ映画『第13捕虜収容所』はナチから亡命したヴィリー・ワイルダー監督の傑 作の一つだが、その中にこんなシーンもある。オットー・プレミンガー(プレミンジャー)演じる収容所所長がサボターシュ(破壊工作)を行った米軍将校を尋 問するときに乗馬ブーツを履かないまま乗馬ズボンで歩き回り、突然、従兵の介助をもって乗馬ブーツを履く。履き終わった彼はベルリンへ報告の電話をかける のだが、報告先の見えない将軍相手に彼は「Jawohl! Mein General!」(かしこまりました閣下!)と受話器を手にして直立不動で乗馬ブーツの踵を合わせて敬礼姿勢を取る。電話が終わると何事もなかったよう に従兵によって乗馬靴をまた脱いでズボン姿になる。これは喜劇的な表現だが、ナチの持っている統率性や全体主義をブーツ一つで見せた見事な演出だった。乗 馬ブーツがなければ権威を発揮できない。あるいは権威に対して服従出来ないのだ。

演じたプレミンガーも演出したワイルダーも共に「ドイツ系 民族」であり、反ナチである点で共通しておりその帝国主義的な表象としての乗馬ブーツが示すものをより的確に理解していたに違いない。それだけに違和感な く観客にブーツとファシズムの関係を伝えてしまう凄味がそこにあった。

 

こうした、映画における乗馬ブーツが放つ帝国主義的 印象は随所に見られる。ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の仏独合作映画『わが青春のマリアンヌ』ではドイツの片田舎、ハイリゲン・シュタットの寄宿学校を 舞台にした幻想的な青春映画だったが、アルゼンチン生まれの転校生ヴィンセント(ホルスト・ブーフホルツ)が嫌う権威主義的な後見人の男が駅に到着する シーンがある。列車から降りてくるこの男の顔は映らない。乗馬ブーツだけが画面を占領し続ける。駅に降り立った乗馬ブーツが立ち止まるや第一声は、 「Gaepecktraeger!Gaepecktraeger!」(ポーター!ポーター!)と高圧的に叫ぶのである。やって来たのはポーターではない。 この男の顔が露わになる。駅に迎えに来たヴィンセントの学友マンフレートだ。男はマンフレートから自己紹介を受けると、「マンフレートとはロマンティック な名前だね。」と言う。ここには裏の意味が隠されている。マンフレートという名前はドイツでは比較的「古い田舎者」の響きがある。あからさまに初対面の人 間に対してこう言ってのける権威主義で階級主義的な男の性質は、顔ではなく乗馬ブーツの突然の出現でよく表現されている。

 

究 極の例は『スター・ウォーズ』シリーズだ。娯楽作品だがこの壮大なSF叙事詩は帝国主義とそれに対する民族種族を超えた民衆の蜂起と抵抗に根ざしている 「レジスタンス映画」だ。遥か未来の世界で、銀河帝国の将校たちは例外なく乗馬ブーツを履いている。乗馬など在りえない宇宙の果ての宇宙船の中で銀河帝国 軍は乗馬ブーツを使っている。しかも、第一作目の『スター・ウォーズ』(エピソード4に当たる)ではその御大将であるデススターの最高指揮官モフ・ターキ ンを演じたのはアメリカ人ではなく、ピーター・カッシングという英国紳士的風格を常に絶やさないイギリス人俳優なのだ。その指揮下のダース・ベーダーを演 じているデヴィッド・プラウズもまたイギリスの俳優だ。その後のシリーズ展開はさておいて、ジョージ・ルーカスが少なくとも第二作目の『帝国の逆襲』ま で、乗馬ブーツに託したものは何か。その帝国主義的権威はよく言われる「ナチ」ではなく大英帝国の植民地支配の歴史に無意識的に働いたのではないか。

 

大 英帝国の植民地支配で語るなら、デヴィッド・リーン監督の映画『ライアンの娘』があげられる。戦場で負傷して足に障害を持った英軍将校ランドルフがアイル ランドに司令官として赴任する。彼は村を歩くとき、植民地支配の権威の象徴である乗馬ブーツの片方を引きずりながら歩く。村の娘に「みじめな足ね」と揶揄 されても彼は抵抗する事無くブーツを引きずって歩く。既にまともな乗馬も行進も彼には出来ない。彼は心の中にもシェルショックという深刻な外傷後心的スト レス症候群を負っている。彼のブーツは権威を失った敗北しかけの大英帝国を象徴している。リーンの反体制的な姿勢がブーツでよく表現されている。(ちなみ にこの表現は台湾の抗日映画『春寒』にそっくりそのまま転用されている。)しかし、足を引きずることで「ぶざまな足ね」と呼ばれる、このランドルフの乗馬 ブーツの威圧性は半減してしまっているのだ。リーンはブーツを引きずることで大英帝国の植民地主義から個人としての将校を切り離す事に成功している。これ は乗馬ブーツを使った一つの表現としてたいへん興味深い。通常、唯でさえ歩行が困難な乗馬ブーツである。リアリティを追求するなら、障害のある足で乗馬 ブーツでは散歩はしないだろう。しかし、ランドルフが革靴で足を引きずって歩いてはこのシーンが示す物がすっぽりと抜け落ちてしまう。あくまでも造られた リアリティを追求する黒澤明ならランドルフに革靴で歩行させたことだろう。リーンの乗馬ブーツと帝国主義に対する関係の視線は的確であったと思う。

 

連 合軍の欧州大陸反攻作戦の端緒である、ノルマンディ上陸作戦を描いた『史上最大の作戦』では、反攻に慌てたドイツ軍将校が乗馬ブーツの左右を逆さまに履い て庭に行き、最後には英空軍パイロット(リチャード・バートン)に射殺される。射殺されるシーンはないが、バートンと米兵が乗馬ブーツを左右逆さに履いた ドイツ軍将校の死体を見ながら、逆さに履いている事に笑うシーンがある。それは乗馬ブーツというファシズムがすでに喜劇的なまでに崩壊していることを示し ている。

 

この様に乗馬ブーツは帝国主義の力と無力、双方を描く道具として使用される。力があっても無くても視覚的には本来の機能を失った乗馬ブーツは帝国主義やファシズムの象徴であり続けるのだ。

 

5.乗馬ブーツはファシズムを語るか?

 

映画のスクリーンやテレビドラマのモニターのフレームから目を逸らすと、我々日本人は本来の機能を失った乗馬ブーツにはファシズムや帝国主義を感ずることは稀になった。

梅雨時の街に出て、若い女性たちの足元を見るといい。

彼女たちは乗馬練習用に開発された「エクイア」と呼ばれるゴム製の乗馬ブーツを雨靴の代わりに使用している。最近では「エクイア」を女性用雨靴として「本来の機能を失った」乗馬ブーツとして製造販売されている。

履いている女性たちはすでに「エクイア」にはファシズムも帝国主義も、軍隊も感じてはいない。

見ている我々も私を除いて、そこにファシズムや帝国主義を嗅ぎ分けることはない。

それは女性用トレンチコートが例え軍事的機能重視だったバーバリー製であっても既に軍服としての機能を失って日常に溶け込んでいるのと大差はない。

 

 

大日本帝国の植民地政策と帝国主義の中で生まれ育った戦後映画界のスター、宝田明と映画における乗馬ブーツの関係を理解される時代は既に終息へと向かっているのだろうか。それとも新しい文化という仮面の下ですでに退化して行っているのだろうか。

 

すでに本来の機能を失った乗馬ブーツは日常ではファシズムを語らなくなった。

その時代に生きている我々にファシズムや帝国主義を語るものは何であるのか?

 

私にはそれが既に見えなくなってしまっている気がしてならない。




僕がある地方自治体の国際交流協会に勤務し始めて、最初に大きな仕事が入ってきた。「○○○まつり」という、市民と在住外国人の交流イ ベントだ。最初の5回目位までは毎回、色々な企画が年変わりで行われた。それらはまた別の機会に書くとして、時期から「○○○まつり」は一定の形態で毎年 同じ事を行う恒例イベントとなった。大きな会場ホールを地球に見立ててて、そこに各国のブースを設置する。各ブースは市内や県内の在住外国人をリーダーに 市民のヴォランティアが参加してチームを編成することになっていた。留学生の数が圧倒的に多かった中国、韓国は日本人ボランティアは必要とせず、自国民が 運営した。参加国は多い時で20カ国を超えていた。

 

会場入口が出国カウンターになっていて、来場する市民はカウンターでパ スポートを受け取る。「地球人パスポートだ。」参加者は韓国ブースから入国し、各国ブースを回ってゆく。ブースでは何かその国の異文化体験をしなければな らない。それは各ブースのスタッフが準備している。受動的ではなく、能動的にそれをこなすと各国の入国スタンプがもらえるという訳だ。一種のスタンプラ リーだが、各ブースで何かを体験しなくてはならないという点が、単にポイントを回るだけではないという趣向が意外にも受けた。

地球一周すると出国カウンターで地球人認定される。

今から考えると「国家」という枠組みの単位で分離することで、多文化共生促進という理念を浸透させようという発想には少し問題があったかもしれない。

 

「万国旗事件」はその「○○○まつり」の初期のころ起こった予想もできない出来事だった。

 

ホールを前にした中庭には殺風景だった。イベントの企画運営、実行を行うのは我々の仕事だが設備、立て看板とか舞台を作るのは設営業者の仕事だ。最初は中庭に万国旗を飾るという話はなかった。

言いだしたのはセンターの所長だった。万国旗という発想は運動会や祭りの乗りだったのだろう。

私 と相棒の同僚は、どちらかというと国旗という布切れ一枚で共生が妨げられているのではないかと考 えている方だった。畏敬の念など全く持ち合わせていない。私達はセンター長の万国旗を吊るすという如何にも「古風」な発想と「万国旗」に少々嫌悪感を感じたが、そのままその案は通過した。

 

前 日から「○○○まつり」各国のブースの準備が始まった。当日、万国旗は中庭をそれ程目立つものでもなく、単なる飾りであった。人間には他の動物と違って不思 議な習性がある。それは自分の視界の上部にはほとんど関心を示さないことだ。試しにショッピングモールの二階からゆく人々を観察してみればいい。誰ひと り、私から見下ろされているとは意識しない。万国旗もその程度のものだった。

 

イベントが開催される直前にその事件は起こった。

「大 韓民国」ブースの留学生の一人が万国旗の中に「日の丸」があるにも関わらず「大韓民国旗」がないと言うのだ。万国旗といっても万国の旗が揃っているわけで はない。単なる装飾品であるから、企画によって何カ国かの旗をひとつのユニットにして、それが連続して繋がっているだけのものである。

万国旗の規格や金額によって5カ国一ユニット、10カ国一ユニット、という具合に製品が作られている。

業 者が持ってきた万国旗には日本、ブラジル、ネパール、イギリスなどの旗はあったが確かに「大韓民国」の旗は含まれていなかった。これを発見した韓国人留学 生は地元では長のような存在の人だった。その事が事態を悪化させた。彼は私にこれは祖国に対する侮辱であるとはっきり伝えてきた。その態度、語調は不思議 と今でも、はっきり印象に残っている。毅然とした態度だった。

設営業者に直ぐに連絡した。設営会社の担当者が直ぐにカタログを持参して会場 に駆けつけた、その業者には韓国の国旗を含んだ万国旗は常備していないということだった。他社に依頼しても設営には間に合わない。撤去するにも撤去のため のスタッフが業者にはその時間割けなかったのだ。

万国旗担当の上司はこの騒ぎを知るや蒼白して何処へか姿をくらました。

 

「大 韓民国ブース」のリーダーでもあった、この留学生の長は万国旗の中に「日の丸があって、大韓民国の国旗がないのなら、このイベントへの参加は辞退しま す。」と告げ、開催寸前に後輩や仲間に指示してブースを片付け、早々に立ち去ってしまった。チームの中には不参加に反対する声もあったようだが、上下関係 がかなり厳正だったこのチームはリーダーに従った。残されたのは「大韓民国」のブースに建てられた国を示すパネルだけとなった。私たちはこの無人となった ブースを撤去するかどうか決断に迫られたが、同僚と話し合って放棄はそのブースの意思だからそれを尊重すべきだと判断し、そのまま無人状態で放置した。 1000名に及ぶ市民が押し寄せるイベントの開催直前にそのブースに急遽、朝鮮文化圏の人員とスタッフを補充する余裕はとてもなかったのだ。

 

イベントが開幕すると直ぐに、他大学の韓国人留学生が私に話しかけてきた。

「韓国のブースに誰もいないじゃないですか!どうなっていますか!」

私は手短に事情を説明した。

この韓国人留学生の意見は真逆でブースを無人にする方が国の恥だと言う。

彼は直ぐに携帯電話を取り出すと何人かに連絡をした様だった。

驚いたことに30程で韓国人、在日コレアンの人々が会場に駆けつけた。

幼い娘にチョゴリを着せて連れてきたご婦人もいた。

ブースではヴォランティア即興で韓国の子供たちの遊び教室を始めた。

我々が何の手を貸すことなく、自然発生したかのように「大韓民国」ブースは機能を始めた。

終盤に近づくと、元のスタッフもブースに入って来場者と交流していた。

元リーダーはブースへ入らず、少しバツ悪そうに中庭で子供達と韓国の蹴り玉のゲームを教えていた。

 

私と公民館のスタッフによって自力で、その間万国旗を取り外した。

 

イベントが終了すると「万国旗事件」は終わっていた。

 

私はこの事件で幾つかの事を学んだ。

日本人の国際化という謳い文句の影に無意識の無神経さを感じたこと。

そして、国家という枠が消えても民族の共同体が政治から離れて自然発生的に活動をするものなのだと。

 

万国旗には必ず「日の丸」が入っている。

逆に考えれば「日の丸」が無かっても我々にはそれ程の重大事ではない。

実際、中国人留学生は笑って「私たちの国の旗もないですよ、気にしませんよ。韓国の人、細かいですよ。」

しかし、そうだろうか?

 

リーダーの毅然とした態度を見たとき、私はその背景に朝鮮半島を明治維新以来、常に蹂躙してきた日本という国家の歴史的責任を我々は完全に喪失していることに気がついたのだ。

 

彼の毅然とした態度は我々だけに向けたものではない。

我々日本人全体に向けたものであったと思う。

国旗、私はそれを容易に認めることが出来ない。

常に戦争と略奪の正に「旗印」であったからだ。

 

国家主義的な彼の態度に少々、嫌悪感を感じずにいられない。

それは我々が被害者ではないからだ。

 

反日・・・日本人にとって聞きたくない忌まわしい言葉・・・

 

そうではない。彼らは一人相撲を取って憤慨しているのではない。

それ以上にその憤慨に無関心に呑気に眺めている我々が許せないのだ。

 

イベント責任者であった私は彼に少々怒りを覚えた記憶がある。

当時、私はまだ分かっていなかったのだ。

 

そして、今も私たち日本人は「万国旗事件」を分かってはいないのだ。

あるいは分かろうとする意味すら知らないままでいるのだ。




 

1.陳腐な悪は陳腐な英雄を作るという映画的法則

 

ア リステア・マクリーン原作の映画『ナバロンの要塞』で主人公のマロリー大尉(グレゴリー・ペック)らコマンド部隊がドイツ軍に捕らえられるシーンがある。 取り調べを行うドイツ陸軍の将校(ヴァルター・ゴッテル)は彼らにナバロン島への潜入の目的など尋問に正直に答えるならば平服を装ったスパイではなく正規 軍人として取り扱うことを条件に譲歩しようとする。将校は彼らの身柄をSS親衛隊が欲していることもマロリー達に告げる。その瞬間、尋問の部屋に現れるの がSS親衛隊のゼスラー大尉である。ゼスラーは残虐そのものの金髪碧眼のステレオタイプの親衛隊員で、コマンド部隊が白状しない限り足に重症を追っている コマンド部隊の隊長(アンソニー・クェール)の傷口を拳銃で強く殴打するという拷問と脅迫を行なうとする。ドイツ陸軍将校は抗議するがSSには立場では歯 が立たないらしい。このゼスラーSS大尉の登場によって『ナバロンの要塞』におけるこのシーンは見事にリアリティの色を褪せさせる。同じアリステア・マク リーン原作の映画化作品『荒鷲の要塞』における黒ずくめの一般親衛隊の制服に身を包んだ金髪碧眼のゲシュタポ、フォン・ハッペン少佐の存在も同様である。

 

実 際の戦時下にこういうエキセントリックで非人道的な人間の心の一片も持ち合わせないような軍人は存在したことは否定できない。そういう話は日中戦争でも太 平洋戦争でも実話として書物に記録され、証言として耳にしたことが誰でもあるだろう。ところが最初から創作物として造られた映画の場合はこうした人物は逆 に「違和感」を感じさせることの方が多い。私が今までの観続けて来た戦争映画で良質な作品にはこうした陳腐な残虐性や非人道性のみを有する人物は存在しな いものが多い。

 

戦争という究極の巨大な暴力が悪である以上、戦争映画はどう足掻こうが全ては平和への希求が主題と成らざる を得ない宿命を帯びている。戦意高揚の国策映画であっても、戦争を描けば必ず「反戦」とならざるを得ない。だから、ことさら悪人らしい悪人はここでは必要 とされず、それは主人公たち英雄の非道な行為(敵兵を殺す)といった行為を正当化させる道具でしか機能しない。

 

2・映画『南京!南京!』の外れた狙い

 

2009 年に公開された陸川監督の中国映画『南京!南京!』はそうした過去の戦争映画の手法を逆手に取ったものだった。意地悪くいえば実に巧妙に仕掛けられた抗日 映画だった。この映画はそれまでの中国における抗日映画と違い、日本軍側の軍人をかなり人間味溢れる人物像として配置した。特に南京事件の一部始終を目撃 する角川軍曹はキリスト教徒で稚拙な片言の英語が話せる普通の市民から徴兵された軍人である。彼は陸川監督の目となって、驚きを持って南京大虐殺を目撃す る狂言回し的な役割なのだが、その直属上官の伊田中尉は狡猾で自信家、捉えた捕虜を不法虐殺する指揮を取ったり、軍事的圧力で南京国際安全区から慰安婦を 供出させたり、自分が抱いた中国人慰安婦が発狂したために拳銃で頭を撃ち抜いて殺害したりと、日常では考えられない様な行為を行うが、必ずそうした行為の 一つ一つの後に憂いの片鱗を見せるのである。そこには過去の中国抗日映画の極悪非道の鬼畜のような悪役然とした姿はない。

 

従 来の抗日映画で繰り返して描かれてきた残虐非道で野獣の様な「日本鬼子」たちを銀幕で散々目にして来た中国の観客からはこうした人間的感情を持った日本軍 兵士の表現に対して憤激させ、たいへん不評だった。一時期は監督に批判だけでなく脅迫状が送付したり、殺人予告まであったという。この混乱の中で、中国政 府はこの映画の上映を一時、沈静化するまで中断させるという一幕もあった。 完成試写での舞台挨拶では観客席から日本人俳優への罵倒もあった。 そんな影 響もあって、この映画は中国映画としては興行成績の記録を書き換えた力作であったにも関わらず映画賞では無冠に終わった。恐らく中国人民の反日感情を考慮 してのものだろう。陸川監督は親日的(あるいは中立的)な描き方で南京大虐殺の映画を造った映画監督となった。人民からは「叛徒」扱いである部分は確かに あった。しかし、陸川監督は決して親日的あるいは中立公正な立場として南京事件を捉えた映画として『南京!南京!』を造った訳ではない。

陸 川監督の狙いはあくまでも「南京事件」における「中国人民」の勝利を描くことであったのだ。陳腐な悪人に勝利する正義はやはり崇高には見えないものだ。強 大な暴力を持って襲いかかってくる「野蛮人」を相手に「理性」で戦って勝利しても、それは強い勝利ではない。相手が同等の「理性」を持ちながらも「野蛮」 な行為を仕掛けてくる。それに対して勝利することの方がより英雄的で崇高な勝利である。しかし、監督のその狙いは中国国内では見事に外れてしまった感が強 い。

 

3.日本での反応

 

日本公開にはサトウ・ハチロー作 詞の『二人は若い』が挿入歌として使われていたことに関する著作権問題を使った「小技」など、あらゆる妨害が入り、この映画の日本上映は不可能かと思われ た。全国公開や単館上映という形での公開は実現しなかったものの、市民団体である「南京史実を守る会」主催で2012年8月に、東京は中野で、たった一日 で二回だけ上映が行われた。当日は筆者も会場整理などボランティア・スタッフとして参加したが、上映会場の周辺は警官や機動隊によってガッチリと警備され た物々しい中での上映会であった。陸川監督がゲストとして招かれ、舞台上でのインタビューや観客の質疑応答も行われた。

 

私 が見たところ、観客は純然たる映画ファンよりも社会運動系の人々が遥かに多かった。監督は舞台上で南京事件に関するあらゆる資料、例えば皇軍兵士の日記や 証言なども検証して南京の真実を明らかにするのに努めたと語った。それは事実であったろう。日本人を「鬼畜」として描かず理性も持ち合わせた「人間」とし て描いた点や日本人俳優を起用した点などで日本人からの反応もそう悪いものではなかった。被害者が30万人という中国側の絶対主張以外では保守派の中から も公正に描かれている映画だと思われた。 しかし、『南京!南京!』はあらゆる点で「南京大虐殺事件」の真実を全て語ったとは言い難い。1937年12 月、日本軍の南京入城から起こった大量の戦時捕虜の不法な処刑、南京国際安全区への不法な乱入や暴行、強姦、それに対する慰安所の設置などは史実通りであ る。しかし、監督はここで二つの手法で実は中国人民の勝利を謳おうと試みたのである。日本軍兵士の中に理性を持ち込むことは、実のところ。親日でも公正に 描く狙いでもなく中国人民の崇高な勝利を導き出す一つの手法であったのだ。

 

4.南京国際安全区の無力化

 

と ころが、陸川監督は人物の史実をかなり書き換えた。この映画に登場する人物は南京国際安全区委員長だったドイツ人ジョン・ラーベ唯ひとりが実名で登場する 歴史上の実在人物だ。同じ安全区のスタッフだった金凌女子大学の宣教師ミニー・ヴォートリンや金凌大学病院の外科医だったロバート・ウィルソン医師らしき 人物が登場するが名前は語られない。南京国際安全区のメンバーはドイツ、アメリカ、イギリスなど人道的な見地から危険な南京にとどまった20余名の欧米人 によって組織された。彼らは絶えず安全区の中国人市民を護り、日本大使館や軍を相手に交渉し、食料を供給し、区内をパトロールしては区内での日本軍兵士の 暴行などを書面にして日本政府機関に対し講義室続けた。日本軍による軍政が敷かれ治安が正常化するまであらゆる努力をした人々である。最も活躍したのはナ チス党員であったジーメンス南京支社の責任者だったジョン・ラーベであり、彼の紳士的でありながらもエキセントリックな行動力によって25万人の無辜の中 国市民を守った無名の英雄である。ラ

 

ラーベだけでなく、日中間で中立の立場にあったこれら欧米人の活躍と南京国際安全区が なかったら、恐らく日本軍による略奪暴行は更に大規模なものとなっていた事は明らかである。ところが、陸川監督はジョン・ラーベでさえ全く無力な老人とし て描き、ヒトラー総統の命令によりドイツへ帰国しなければならないため安全区を置き去りにして去るという物語に作りかえてしまったのだ。実際のラーベは南 京国際安全区がラーベの手から軍政と自治員会の手に渡るまで退かなかった。ラーベに限らず映画『南京!南京!』に登場する国際安全区の他の欧米人メンバー は絶えず無力である。代わって南京国際安全区のスタッフの一人という架空の中国人女性、姜淑雲という人物にその英雄的行動を担わせた。

 

こ の映画のハイライトの一つとして、日本軍が慰安所を作るために国際安全区から女性を供出せよとラーベが恐喝され、涙ながらに協会に集まった女性たちに 100人、慰安婦として日本軍の慰安所へ行って欲しいと訴えるシーンがある。中国人女性の中から安全区を守るため、慰安婦として志願する手が決然と上が る。中国の観客たちがが最も涙した崇高なシーンである。しかし、ラーベやヴォートリンが残した日記の記載では全く逆で欧米人たちは慰安所造りというとんで もない日本軍の実行と女性の供出の圧力に身を挺して対抗した事が記されているのである。恐らく陸川監督はエドガー・スノーが1941年に記した『アジアの 戦争』の中に数行書かれたカトリック教徒の女性たち数名が一般女性を守るため慰安婦として志願したという記述に着目したか、あるいは後にチャン・イーモウ 監督によって、映画化もされた中編小説『金陵十三钗』(厳歌苓著)からこのシーンを想起したのではないだろうか。

 

志願した女性たちは性奴隷として慰安所で酷使され死体となって全裸で荷車に積まれて、『二人は若い』をオルガン伴奏に合わせて合唱して興じる日本兵たちの横を通り過ぎて行く。角川軍曹はその光景を驚愕の眼差しで見送るのだ。

 

ラー ベが去ったあと、南京国際安全区の中国人スタッフ、姜淑雲は連行されようとする元中国軍兵士を救おうとして逮捕され、自ら角川軍曹に「撃ち殺してくれ」と 頼み命を落とす。 初めて愛した女性、日本人慰安婦の百合子の病死を知った角川軍曹は絶望と南京の地獄に耐え切れず、元中国軍兵士と子供を刑場に護送する 際に彼らを解放し、部下の一兵卒に「生きることは死ぬことよりも難しいことだな。」と言い残し、野辺で落涙しながら拳銃で自殺する。ここで日本人の暴力を 背後に背負った理性は敗北するのだ。

 

5.被侵略国の歴史修正とその神話創造

 

こ の映画に勝利者はいないかのように見える。いや勝利者は映画でははっきりしている。 単純に考えれば日本軍が南京を制圧し、それに抵抗したものは全てが死 をもって敗北する。しかし、陸川監督は中国人の自立性と抵抗が南京で精神的に勝利したと訴えたのだ。 角川軍曹の拳銃自殺は日本軍の敗北であり、ラーベの ヒトラーの圧力に屈して安全区を去ったのは欧米人の敗北である。 勝者は最後に解放された子供。小豆(彼は最後のクレジットで現在も存命とされる)であ る。欧米人の無力化と日本軍人への理性の付加という二つの手法で陸川監督は勝者が中国人であると謳うために歴史を修正することで一つの神話を創造してし まったのだ。

 

少数の映画評論家やカルチャラル・スタディーズの研究者、映画ファンたちがこの映画の評論や分析を行って高い 評価を与えているが、私にはどうもスッキリしない。小手先のテクニックで表層を舐めたに過ぎないように思えてならない。私が見た限りでは陸川監督が仕掛け た神話創造の仕組みを完全には見抜いてはいないように思えてならない。

 

『南京!南京!』は日中双方から正当な真意を読み取られないまま終わった、それまでの常套な抗日映画をより先鋭化した純然たる国粋主義的作品である。その点では不遇であり、歴史的事実から見れば同じ年、2009年に製作されたドイツ・中国・フランス合作の"JOHN RABE"のハリウッド式の正邪対決の方が余程、南京の真実を語っている。

 

『南京!南京!』は良くできた優れた抗日映画だと私は思う。私が愛する抗日映画の一つでもある。しかし、侵略者、被侵略者の立場は違えど私は『南京!南京!』に日本の保守による歴史修正派の映画作品と同じ闇を感じてならない。

 

しかしながら、残念だが、私には他者によるどのような優れた詳細な分析を見せられたところでこの映画には感情移入は出来ても、心から拍手を贈ることはどうしてもできないのだ。

 

付記:これは一つの映画に関する私の雑感である。よって念のため、私自身が暴力による中国への侵略行為を是とする意図はさらさらないことを付け加えてておきたい。

 

 

1954年から延々と続いた『ゴジラ』を初めとする東宝SF怪獣映画の中でも未だに熱狂的なファンが少なくない作品。それは海底軍艦と呼ばれる超兵器、轟天号というメカニックな存在に因るところが大きい。

今更、この映画について語る必要なないかもしれない。映画ファンや評論家から語り尽くされた感があるが、ここではちょっと違った視点から『海底軍艦』を見てみることにしたい。

 

この映画の原作は明治33年に出版された小説家、押川春浪の筆による少年向け海洋冒険軍事小説『海島冒険奇譚・海底軍艦』である。原作についての詳細を語るのは別の機会にゆずるとして、内容を簡単に説明しておこう・

イ タリアに外遊中だった主人公の「私」とひょんなことから知り合った日出男少年とが、日本へ帰る船旅の途中、「海賊船」の襲撃を受けて船は沈没、漂流の後に 絶海の孤島へ流れ着く。そこには密命をおびて7人の部下を引き連れ密かに日本を脱出した帝国海軍の桜木大佐たちがいた。桜木大佐はこの島で世界最強の水中 戦闘艇、海底軍艦ともいうべき潜水艦「電光号」を建造していた。桜木たちに保護された「私」と日出男少年は、この世界最強の潜水艦「電光号」を見ることに なる。島内での冒険などがあって、最後には主人公たちは帝国海軍の戦艦「日の出丸」に乗船、日本へ向かう。

その途上インド洋で、7隻の「海 賊船」の待ち伏せにあう。「海賊船」は大日本帝国海軍の桜木大佐が秘密裏に開発した新型潜水艦「海底軍艦・電光号」の存在を察知しており、それを引き渡せ と要求する。その時、桜木大佐が艦長として電光号が到着、電光号と日の出丸は海賊船7隻と真っ向戦い、海賊船を全て撃退するのだ。

ここに表されている「海賊船」とは大英帝国の海軍だと考えられる。この小説が書かれた1900年はまだ日英同盟は結ばれていなかった。

いずれにしてもたいへん国粋主義的な軍事冒険小説である。

 

映 画化は50年も前の作品だが、ここにも「戦後の国防」と「戦前および戦時下の国防」との深い結び付きを見て取れる。私が参加しているフリー・ペーパー同人 誌『ほるもん人』でも連載させていただいている『ゴジラの沈黙~東宝SF怪獣映画における戦後国防史』の第一回目で、怪獣映画における国防体制が如何に大 日本帝国のそれと結びついているかを書いた。1963年の時点でもその路線は全く崩れてはいなかった。

本編監督:本多猪四郎 特撮監督:円谷英二という陣容も『ゴジラ』(1954年)以来、同じ陣容である。

当 時、東宝SF特撮怪獣映画の脚本に当たっていたのは関沢新一と木村武(後の馬淵薫)である。木村武は共産党出身の思想運動家から映画の脚本家に転身した人 物で、彼が書いた作品には怪獣や宇宙人への眼差しは支配や抑圧に曝さられるマイノリティとしていつも向けられていた。良く、木村脚本がペシミスティックで あると評されるのは彼にはそうした社会思想が根底にあったのだ。(この当たりはノートの『ガス人間第一号』の項で書いた覚えがある)。対する関沢新一は関 西生まれで映画のセリフは「掛け合い漫才である」と自ら語る社会問題や政治思想とは程遠い娯楽映画作品の作家だった。安保体制を鋭く批判した中村真一郎、 福永武彦、堀田善衛共著の 野心作『発光妖精とモスラ』を原作にした映画『モスラ』の脚色に当たっても関沢新一はそうした政治的な要素をさらりと交わして良い意味で「観客に考えさせ ない」ものに仕上げた。もちろんそれは、製作者田中友幸の意向も汲んでのことだっただろう。『海底軍艦』を脚色したのは関沢新一である。だから、まず、木 村武の様に政治社会性はここには存在しない。怪獣や宇宙人にはそれなりの「論理」があるとは捉えない。そこが関沢脚本の東宝のキャッツフレーズ「明るく楽 しい東宝映画」とズレのない特徴だ。

 

しかし、『海底軍艦』の映画化は原作通りではなく、現代を舞台に置き換えるのだからそ の改編は少々困難だったろう。原作と違い、現代では大日本帝国海軍は存在しない。そこで、原作の桜木大佐に当たる神宮寺大佐(田崎潤)が終戦の日、イ号 403大型潜水艦で日本を脱出し、南海の孤島で大日本帝国海軍の再建のために超兵器『海底軍艦・轟天号』を建造しているという設定に変えられている。原作 の敵、「海賊船団」は何万年も前に海底に没したムー大陸の生き残りたちが地熱を利用して築いた地下帝国、ムー帝国を設定している。海賊船団が大英帝国の艦 隊だとすればそれは植民地政策によって拡張する帝国の尖兵だ。ムー帝国も劇中の人類への声明で「地上は偉大なるムー帝国の植民地となるのだ!」と言ってい るので大英帝国とすり変えるには相応しいと言えるだろう。

 

しかし、ここに問題が発生する。

軽妙に展開するストーリーに観客は見過ごしてしまうかもしれないが、『海底軍艦』はそれまでの東宝SF特撮怪獣映画とは全く違った特徴を持っていた。それは人類に敵対する者が怪獣でも宇宙人でもなく、「人間」だということである。

ムー帝国人は人類なのだ。

彼らは劇中でまるで古代エジプト文明の人の様に描かれている。

超 文明を持っているが、我々の文明に比べればかなり未開の人びとの様だ。巨大な海竜マンダを守護神として崇めるアミニズムに支配され、卑弥呼やクレオパトラ を思わせるような女王を戴いている。未開の伝統と超文明を併せ持った「野蛮人」ムー帝国人。地上の人類とは乖離が激しいがムー帝国人とて人類の一員、人間 なのである。

 

『ゴジラの沈黙~東宝SF怪獣映画における戦後国防史』でも触れたが、日本の特撮映画は戦時中の国策戦意高揚 映画『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年)を起点としている。特技監督はもちろん、特撮の神様と謳われた円谷英二である。本編監督は山本嘉次郎(この人 の愛弟子は本多猪四郎である。)だった。戦後、この二人の国策戦争スペクタクル映画路線は当然消滅して、本多・円谷のタッグで『太平洋の鷲』(1953 年)と『ゴジラ』(1954年)で再出発することになる。以降、特撮映画上では、過去の戦争に対しての国防武力行使は否定、現在と未来の対怪獣、宇宙人へ の戦争では武力行使は肯定という二本の路線で作品は作り続けられた。

 

問題は本作『海底軍艦』である。

この作品は現時点で過去の大日本帝国海軍の武力行使を肯定し、しかも敵は怪獣でも宇宙人でもない人間であったという点である。

図らずも分断化されていた過去と現代の映画上での国防原則による二つの路線はここで矛盾した交差をしてしまったことになる。進めて言うなら禁じ手を見事に「娯楽」の二文字で破ってしまったのだ。

その点を考えれば映画『海底軍艦』は見過ごしてはならない映画であると筆者は思う。

ムー帝国に海底軍艦が最終的な打撃を与える前に降伏勧告をするがムー帝国の女王は拒否する。

ここで、神宮寺大佐の決断はそのまま国連で結ばれた地上人類の決断となる。

 

海底軍艦はムー帝国の心臓部を攻撃し、ついにはその帝国と民族そのものもまで滅亡させてしまうのだ。

あたかも大東亜戦争の意趣返しであるかの様に・・・。

 

よく観れば観るほどにこの映画の不気味さは拭えない。娯楽性というオブラートに包まれていようとも神宮寺大佐の信念は「海底軍艦」を使って別の形(敵)で大日本帝国を再建してしまったことには変わりはないのではないのだろうかと思えてならないのである。

 

 

明治33年刊行の押川春浪の『海島冒険奇譚・海底軍艦』の原作本。

 先日、ゼミの飲み会があってその時、僕 の母方の祖父の話が出た。ここに少し祖父から得たものを書き記しておきたいと思う。僕が9歳か10歳の頃、祖父の家でテレビの洋画劇場放映された黒澤章の 『椿三十郎』を見ていた時の事だ。ビデオもDVDもない当時、僕にとっては滅多に観る機会がない黒澤の名作一本。夢中になって観ていた。三十郎が室戸半兵 衛の配下の侍を数十人斬りに斬る場面を見ていて「サムライはすごいなあ」と言った途端、滅多に口を挟まない祖父は「テレビを消し。おじいちゃんがその映画 よりもっと面白い話をしてあげるから。」と言った。本当は『椿三十郎』を観たかったが、僕はTVを切った。祖父が亡くなってかれこれ9年になる。家庭の事 情で僕が19歳の時から祖父には会うことはなかった。99歳の大往生だった。母方の家系は奈良の橿原を源としている。千年以上も一族はこの地を拠点として きた。母方の家は藤原家から分家し、江戸時代には紀州德川家に仕えていた武士だった。仕事熱心だった様で登城の折にはよる遅くまで藩政の為に働いていたそ うで、感服した城主が深夜邸宅に帰る際に賊に襲われぬよう、城主の提灯を拝領したという逸話が残っており、家宝としてその提灯は代々受け継がれてきたそう である。成る程、母方の家の者たちが揃って「宮使い」的な人間であることは千年の歴史の結果なのだろう。その家宝の提灯を母は子ども時代に見たことがある そうだが、祖父は躊躇する事なく破棄したという。その訳は分からない。祖父の祖父は山に篭り山伏のような生活を送った人物で神官を務め、刀鍛冶を営みとし ていた。祖父の父もまたその後を継いだ刀鍛冶であった。明治時代になると刀の需要が減少したためか、祖父の父は刀鍛冶の技術を使って自動車の開発を私財を 投げ打って行った。完成した国産乗用車はハンドルが桜の木で作られ、シートは西陣織だったというから相当な高級車両だったのだろう。この自動車が宮内庁の 目に止まり、御用車としての試験が行われた。しかし、結果は不合格となり、祖父の父はすべてを失って世を去った。家族の危機に中学を退学した祖父は新聞社 に務め、夜は「英語学校」で学ぶ毎日だったという。祖父は英語がその後の日本で重要な言語になるとその時、思っていたと僕にも語っていた思い出がある。

 

 英 語力を身につけた祖父は貿易会社に転職して営業で働いた。取引先はドイツの機械会社だったそうだ。その間、残された弟二人、妹一人をそれぞれ陸軍士官学 校、大学、女学校まで進ませた。曽祖父の弔い合戦か、祖父は起業し、大阪の生野区で自転車工場を創業した。当時は松下幸之助が祖父の家によく来ていたとい う。彼は自転車に車載する電灯の開発を行っていて、自転車技術に関する祖父の知識と助言を求めて来ていたのだ。戦時に至って祖父の会社は軍需工場に指定さ れた。祖母から聞いた話だが、祖父は「日本が英米と戦争をすれば世界中を敵にした戦争になって確実に負ける。牛の尾っぽに蝿が止まるようなものだ。」とよ く家族に言っていたそうだ。自転車工場は成功を収め、邸宅も洋室和室を含めて20もある屋敷だったという。政治が嫌いだったのだろうか、幾度も市会議員へ の出馬を勧められたが固辞し続けたという。大阪生野区という場所柄もあって、祖父の工場には「朝鮮人」労働者が多くいた。祖父は彼らに他の日本人労働者と 同じ賃金と待遇を与えた。そのことで他の同業者や商工会からかなり風当たりが強かったというが、祖父はその方針を頑として曲げなかったという。大阪が空襲 に曝さられる様になると空襲警報発令と共に祖父は防空鉄帽を被り、夜中でも飛び出して行って従業員の家を回ったという。焼け出された従業員一家を「朝鮮 人」「日本人」を問わず、邸宅に住まわせて保護した。運良く、祖父の邸宅は焼けなかったが、焼け出された人が押しかけて来ても祖母の制止を聞かず祖父は門 を開かせて空襲難民の人々を邸宅や庭に入れて避難させていたと母から聞いたことがある。空襲で工場は焼け、祖父には邸宅だけが残った。戦後は食糧難に苦し められるはずだったが、元従業員だった、また空襲下で救われた生野の「朝鮮人」の人たちが連日、祖父の家に白米や野菜を届け続けてくれたために母たちは食 べる事には不自由しなかったという。呆れたことに「朝鮮人」の人たちが届けてくれたありがたい食料を自分たちは最低限食べるのみで、食糧難に苦しむ近所の 日本人達にも祖父は分け与えたという。母に話によるとある日、進駐軍のジープが家に来たそうだ。母は祖父が何か悪いことをして捕まえに来たと思ったそうだ が、祖父は米兵と英語で玄関先で何やら話していたという。僕はよく知らないのだが、米軍が来たのは曽祖父から伝わる日本刀の件だったらしい。殆ど戦時下で 軍にほとんど全ての刀を供出したが、名刀は床下に保管してあったそうだ。祖父と米兵は仲良くなったそうで、度々、米兵達が祖父の家に訪れては酒宴が行われ たと母が言っていた。

 

  戦後はプリンス自動車の大阪販売店を経営し、自動車修理工場も持っていた。こんな逸話もある。近所で も札付きの不良青年がいた。彼の父は大阪の大きな高級中華料理店を経営していたが、息子のチンピラ振りにはお手上げだったそうだ。この店の常連だった祖父 は彼を自分の会社に雇い、彼に付きっきりで機械と接する愉しみを教えたそうだ。彼は自動車整備に夢中になり、自動車整備士の資格を取得、会社でもいちばん の腕自慢になり、やがて自分の自動車整備工場を持ったという。祖父は僕が生まれた頃、事業に失敗し、他者の反対を押し切って社屋や邸宅を手放してその土地 の借地収入で東大阪の小さな借家に移った。邸宅跡は現在の大阪日産自動車だ。「女中」さんが5人もいたという生活から小さな借家住まいにショックを受けた のは祖母だったが、祖父は動揺もしなかったそうだ。そんな境遇からも祖父は奈良に再び小さないながらも家を建てた。法事の際には例のチンピラだった息子の 中国人父君が店を臨時休業にして料理人を従えて食材や酒を満載した車で駆けつけ、祖父の家の台所を占領し、料理を振舞った。子供の僕には不思議で仕方ない 光景だった。

 

  祖父はまた財を成したが、潰れかけの中小企業主の相談に乗り、祖母の反対を聞かずに金銭で応援したりしてい た。蟻が群がるように集まってくる苦境に喘ぐ人びとを助ける祖父を僕は理解出来なかった。祖母や母が言っていたように「おじいちゃんは、ええように騙され たはるんや。」僕もそう思っていた。最終的な祖父の余生に打撃を与えたのは悲しくも母の再婚相手だった義父その人である。無責任ににも一家夜逃げという方 法で散々投資させた祖父に更に負債を押し付けた。僕はその一族の皮肉なことに今も一員であるのだ。観世流の謡をこよなく愛し、名取りとなっても、お弟子か らこれまた全く対価を求めない祖父。お弟子は8歳の僕も含まれていたが、雰囲気しか覚えていない。思えば僕が内股なのは絶えず正座を教え込まれていたから だ。さて、話が長くなったが、『椿三十郎』を途中で観るのをやめて聞かされた祖父の話は代々明治維新まで続いた武家としての家風の話。そして、刀の話だっ た。印象的だったのは三十郎の様な侍はいけないという。武士は刀を抜いてはいけないし、人を斬ってもいけないという。刀を持っていれば、簡単に人を殺せ る。相手が無力ならば余計に簡単なことだ。その様な危険な武器を持っていて、なお、怒ったり、ムカついた時、刀を抜かない。自分の精神を制御するために侍 は刀を持つのだという。刀を抜くのは弱いものが強いものに殺されそうになっている様な状況を見た時、見て見ぬ振りをせず、敢然と武士は黙って刀を抜いて強 者から弱者を守るのだ。その結果の責任はまた自分の刀で自分の命をもって責任を果たす。だから、明治維新以来の軍隊の刀の使われ方は間違いであり、あんな ものは武士でも武士道ではない。そういう話だった。「喜嗣よ、おじいちゃんは今でも武士の子供や。侍なんやで。」子供だった僕は祖父に言った。「そやけ ど、おじいちゃんは、もう刀なんか持ってへんやん。」祖父はニコニコと笑って、胸を指した。「おじいちゃんはなあ、ここに刀を持ってるんや。」それで話は 終わった。祖父は缶ピースの一本をくわえてまた煙草の煙を燻らせた。急いでテレビを付けたら『椿三十郎』は終わっていた。思い返せば、祖父が怒鳴ったり暴 力を振るうところを僕は見たことがなかった。いつも黙して煙草の煙を燻らせるか、謡の古文書みたいな書や碁盤に向かっていた。武士道と言えば直ぐに帝国主 義に直結してしまう危うさはあるし、嫌う人も多い。しかし、僕は祖父の武士道の心得が今も忘れられない。祖父の思想とはなんだったのだろうか?それは僕に も分からない。


 それが武士道だったのかも・・・。心に刀を持つと言った祖父、全てを暴力で支配し抑圧をする義父。この両極端な二人の男を見た僕はやはり、心に刀を持った祖父の孫としての侍でありたい。

義 父が「被害一族への戦争責任」をとっていない現在、僕は祖父の墓に参る事は出来ない。東大阪の小さな町の小さな神社に祖父の名が刻まれた献納碑がある。近 く、修士号の学位記を持ってそこへ行き、祖父に会って来ようと思う。研究内容を含め、祖父はきっと喜んでくれるだろう。そして、非暴力を知らず知らずに教 えてくれた祖父にお礼を捧げたいと思う。



ロシアの雪原を走る機関車。客車からトロツキがモスクワのレーニン宛に電文を送る。「白軍を撃滅した今、ポーランドのプロレタリアートを支援し世界革命に発展させることが必要である・・・。」
レー ニンはスターリンらを招集しトロツキの電文を伝える。スターリンは「ポーランドはヨーロッパとロシア革命を分断している邪魔者です。」と助言する。レーニ ンは決議を求める。全員賛成だが、なぜかスターリンは渋々といった様子である。トロツキのプランだからだろうか?レーニンは決然と立ち上がり「同志諸君! 手始めはポーランドだ!次はドイツ、フランス、イタリア、イギリス、そして全世界だ!」と拳を振るう。
イェジ・ホフマン監督のポーランド映画『1920 ワルシャワの戦い』はこうして幕を開ける。

こういう映画を鑑賞する場合少々注意が必要だ。
そ の国の現在の過去への言説や状況をよく知っていなければ見誤る可能性がある。ましてや東欧のポーランドの世界史でもあまり注目されることのない「ポーラン ド・ソビエト戦争」について我々はまるで知識がない。この映画がポーランド、あるいはヨーロッパでどの様な立ち位置にあるかを知る必要がある。そうでなけ れば歴史を誤って認識してしまう可能性もある。
国粋主義の映画はどこにでもあるものだ。例えば日本映画で歴史修正派からの視点で東京裁判を描いた 『プライド・運命の瞬間』(伊藤俊也監督、東映1998年)を日本人が観たとしてもそれが正当な歴史的評価に基づくものかどうかを観客は見分けるのが難し かっただろう。勿論アメリカに持ってゆけば必ず反発を喰らうだろうし、中国や韓国ならなおさらだろう。しかし、ヨーロッパに持ってゆけば東アジアの近現代 史全く無関心な観客は『プライド・運命の瞬間』を「歴史的事実」として捉えるかもしれない。

今回、鑑賞した『1920 ワルシャワの戦い』はそうした危ないものを感じさせる作品だったというのが僕の感想だ。日本未公開だがもしも、日本人の観客が観たらこの物語を鵜呑みにしてしまうかもしれない。

物 語はポーランド騎馬隊の将校がワルシャワのカバレットの人気歌手と結婚、間もなくソビエトのポーランド侵攻に妻に再会を約束して出征する。前線で赤軍の捕 虜となった彼はそこで赤軍兵士による略奪、強姦などの非道な行為を目撃する。赤軍の将校も自軍の部下を塵芥の様に処刑する。赤軍は野蛮な侵略者だ。
敵側に飼われていたポーランド女性に救われ脱走に成功した主人公は再び赤軍に捕まるが絶対絶命のピンチをソビエトに反感を持つコサック兵の部隊によって救われる。
ワルシャワでは迫り来る赤軍に少年から学生、女性までもが祖国防衛のために義勇軍に志願。主人公の妻も歌手を辞して夫がいる戦地へ従軍看護婦として赴く。
インターナショナルを奏でながら膨大な兵力でワルシャワへ迫る赤軍。
モスクワではレーニンがコミンテルンの記者会見に臨み数日以内にワルシャワを陥落させ、ポーランドを制圧した後、ドイツ社会民主同盟を支援し、フランス、イタリア、イギリスのプロレタリア革命を支援して世界革命を成就すると豪語する。
しかし、ポーランド正規軍と義勇軍の抵抗は激しかった。カトリック親父は十字架を掲げ兵を率いて突撃に参加し、ボーイスカウトの少年たちも銃を手に敵に向かう。激しい白兵戦。
ワルシャワを目の前にして赤軍は敗走を余儀なくされる。
モスクワでは戦況地図を前に佇むスターリンのもとへ、レーニンとトロツキがやって来る。激昂したレーニンは地図上の赤軍の赤旗をなぎ倒し、スターリンを睨むやトロツキと共に部屋を後にする。残されたスターリンはわずかに苦渋の顔色を見せる。
戦傷を負った主人公は野戦病院で妻と再会の約束を果たし映画は終わる。

さっと、こんな物語だ。抵抗の映画ではあるが愛国主義的な匂いがプンプンして何とも居心地が悪い。
スケールは大きく、戦闘シーンも激しい。
しかし、心を震わせるような映像なり演出は全くないのが僕の感想だ。単純明快で勧善懲悪的ハリウッド風。
しかも凡庸な戦争映画。

「何とも居心地が悪い」歴史戦争映画には何か隠された裏がある。
「ポー ランド・ソビエト戦争」は第一次世界大戦後自由を勝ち取ったポーランドがロシア革命で赤軍と白軍の内戦状態を突いて失地回復を目指しロシア国内に侵攻、キ エフまで占領したという経緯がある。ソビエトは白軍との決戦を終えて侵攻したポーランドを押し返し、ワルシャワまで侵攻したのである。
理由はともあれポーランドが最初にロシアとの国境を侵したという歴史的事実はこの映画にはない。
「手始めにポーランドだ!」と拳を振るうレーニンから始まるこの映画を見れば誰しも赤軍が突然ポーランドへ侵攻を開始したように思うだろう。
こうした自国には都合の悪い要素を排除、あるいは都合よく捏造して付け加える歴史戦争映画には良い作品があったためしがない。鑑賞者に与える「居心地の悪さ」は「後ろめたさ」から来るもので、それはどうやら覆い隠せないもののようだ。
メ ル・ブルックス監督のコメディ戦争映画『生きるべきか死ぬべきか』(邦題は『メル・ブルックスの大脱走』で戦前のエルンスト・ルビッチ作品のリメイク)で 「ポーランドはヨーロッパの玄関マットだ。いつも外国に踏まれる。」というセリフが出てきたのが印象的だった。それほどに強国に挟まれたポーランドの悲劇 的な国家だった。例えるなら日本と中国に挟まれた朝鮮半島の様に常に受難の国家だった。
しかし、この様な映画はやはりいただけない気がしてならない。

イェ ジ・ホフマン監督は歴史スペクタクルを得意としたポーランドの中堅古株の娯楽映画作家だ。日本では殆ど知られていない。嬉しかったことは『ローザ・ルクセ ンブルク』『ブリキの太鼓』『愛と哀しみのボレロ』などに出演していたポーランドの国際スター、ダニエル・オルブリツキが老体ながらも健在ぶりを見せてく れていたことか。

映画は慎重に観なくてはならないし考証しなければならない。
それも映画評論家の大切な仕事の一つだと僕は信じている。
しかし、昨今その様な気骨のある映画評論はキネ旬でさえ読めなくなってしまった。

今もこういう国粋主義的な映画は絶えない。
ハリウッドとナチが花開かせたプロパガンダ映画文化の仇花として、未だ世界のあちらこちらで芽吹いているということか。

ゲッベルスやセルズニックは正しかったと思う。映画は暴力であり兵器になると言う事を見抜いていた。

この映画の価値はそれほど高くはない。しかし、僕は改めて過去のプロパガンダ映画や今日の我が国にも関係の深い抗日映画の存在に注目すべきだと教えられたような気がする。
そう言う意味でやはりどんな映画でも観るべきなのだと思った次第だ。

一昨日の所属ゼミでの現代思想研究は魯迅の『阿Q正伝』が主題だった。

中国と台湾の留学生の共同発表で、大へん興味深いものだった。

魯迅。この中国近代の偉大な作家であり思想家の代表作に触れ、魯迅とある不思議な文芸倶楽部のことについて書きたくなった次第だ。

 

①内山完造と内山書店

 

中 華人民共和国の上海、虹口地区の北四川路にある中国人民銀行には「内山書店跡地」の碑文がある。この場所が1920年代、第一次世界大戦後、日中文化交流 の花を開かさせる「内山書店」があった場所である。筆者はこの碑文を探して二度、上海に行ったことがあったが、二度とも現地の友人の協力を頼りにしたにも かかわらず、ついに見ることができなかった。3年前、偶然に中国団体旅行で上海に一泊した際、諦めきれず再び碑文を探したが人民銀行の場所がどうしても分 からず、夜間に道行く現地の人に尋ねれば親切にも案内してはくれたが、全く違う銀行へと導かれてしまった。翌朝、団体旅行のバスが出発したとき、驚いたこ とにその場所は宿泊先のホテルから僅か100mほどの距離だったことを知って随分悔しい思いをしたものだった。

 

虹口の北四 川路は当時は上海共同租界の日本人居住区だった。現在でも建物など特に近代化されたわけでもなく、雑多で長屋風の古びた建物が並び、当時の風情を残してい る。ここを訪れたとき、しゃがみこんで古い石畳のプラスターの一つ一つを指先で触れては見たが、この地で二度に渡る日中の激戦「第一次上海事変」と「第二 次上海」の舞台であったことを感じ取るにはあまりにも平和的であった。道行く人、観光客や住民の平和な風景に目をやると、とてもここに魯迅が、田漢が、そ して尾崎秀実たちが行き来していた歴史はとうの昔に風化してしまっていた様に感じたものだ。

 

上海共同疎開、北四川路。

ここには不思議な歴史がある。

 

こ こに居を構えた日本人、内山完造は1912年に目薬の会社の海外出張員となって中国へ渡ってきた人物である。当時27歳だった内山完造は熱心なクリスチャ ンで、この海外出張員の仕事もキリスト教京都協会の牧師による推薦によるものだった。1915年、日本が第1次世界大戦に参戦してから以後、中国各地を営 業に回った内山は度々、抗日運動を目にしたという。

その内山完造は自宅で妻の副業として主に聖書を取り扱う「貸本屋」を始めたのがきっかけ で、1924年には本格的な書店を開店した。これが「内山書店」である。この書店にはいつしか北四川路で上海に住む日中の知識人と文芸愛好家が集まる場所 になり、やがて交流の場となった。自然発生的にこの愛好家のたまり場は「文芸漫談会」と呼ばれるようになった。「文芸漫談会」にはさらに上海YMCAの 「中国劇研究会」のメンバーが合流した。

 

②「文芸漫談会」と魯迅

 

この文芸愛好家たちの集ま りは単なる書店の常連客の集まりであった。「会」と言っても規則も会費も必要とされない愛好家の集まりだった。メンバーの中には多くの知日知識人がいた。 日本への留学経験を持つ中国人の若者である。現在、中華人民共和国の国歌となっている『義勇軍行進曲』の作詞を行った田漢や中国文壇の旗手となった郁逹夫 もいた。

1927年に中山大学で教鞭をとっていた魯迅が上海に逃れて来て以来、魯迅も内山書店の常連となり中国人の客も増えたのだという。魯迅は内山の店から多くの日本語書籍を購入し、上海の内山書店が彼にとっての第二の日本留学先ともなった。

「文 芸漫談会」は日中の文芸人、演劇人、画家などによって『万華鏡』という同人誌を発行するまでに至り、魯迅と内山の交流も店主と客に留まらず、やがて友情の それと変わっていった。二人は日本の中国侵略に関しても批判し合っていたという。1930年、中国左翼作家連盟が結成され。その代表者となった魯迅は国民 党政府から狙われる身となったtが、魯迅の身を守っていたのも内山完造であったという。

やがて内山書店は中国だけでなく日本にまでその名を 知られるようになり、魯迅は内山を介して多くの日本人作家とも知遇を得た。しかし、内山の紹介で魯迅が交わった文化人には横光利一、金子光晴、林芙美子な どなど、当時既に著名な人物が多かった。中国大陸への野心を持つ大日本帝国という主体側文芸人たちと魯迅の意見は決して合致するものではなかった。

 

魯迅と詩人の野口米次郎との対談では波紋を呼んだという。

 

 

その会見は、一九三五年十一月十二日付の「東京朝日新聞」に「魯迅と語るー梅の老木といった感じー」と 題して掲載された。 「私は魯迅に言った。『インドにおけるイギリス人のように、どこかの国を家政婦のように雇って国を治めて もらったら一般民衆はもっと幸福かもしれない』 すると彼は答えた。 『どうせ搾取されるなら外国人より自国人にされたい。つまり他人に財産を取られるより自分の倅に使われた ほうがいいようにーつまり感情問題になってきます』

私と魯迅との会談は、ここで打ち切った」 (NHK"ドキュメント昭和取材班.『ドキュメント昭和2上海共同租界』.角川書店.1986. P107ー108)

 

 

魯迅が没する1年前の魯迅の日本知識人への言葉である。

政府や国家という枠組みから外れたところで育まれた「文芸漫談会」。そのアナキズム的な中日の文芸交流もやがて時代の潮流の中に流されてゆく。

 

「文 芸漫談会」の参加者だった智日人劇作家、田漢も中国左翼演劇活動を通じて1935年には初の本格的な抗日映画『风云儿女』の脚本を担当し、主題歌『義勇軍 行進曲』を作詞した。その主題歌は単なる映画の主題歌だけではなく抗日運動の歌として、やがては中華人民共和国の国歌へと歌い継がれていった。

 

魯迅が上海に来て9年目、魯迅は日本と中国の関係に憂慮して上海脱出を決意する。ここで魯迅は内山との友情にも終止符を打つ覚悟であったと後に彼の妻。しかし、脱出するまでもなく、1936年、魯迅はこの世を去った。その翌年、盧溝橋事件が勃発したのである。

 

国家や官僚組織に拘束されることなく自然発生的に生まれた上海共同租界で生まれた「文芸漫談会」の理想は消えた。

 

それは私の中では阿Qの悲劇とも重なる部分がある。

先に挙げた引用文で魯迅が語った「自分の倅」とは何だったのだろうか?

蒋介石を筆頭とする国民政府なのか、あるいは阿Qの公開処刑を「面白くない」と見捨てた中国の民衆だったのだろうか?この言葉はあたかも魯迅が残した遺言的命題の様にも感じられる。

そこに答えを見つけることは難しい。

 

戦後、内山完造は中日友好協会の代表者として活躍した。

しかし、そこには恐らく「文芸漫談会」は存在しなかっただろう。

 

③ 「文芸漫談会」の今日的課題

 

国際交流という「行政」の現場で理念もなく都合良く無責任に使われてた「草の根交流」という言葉を私は常日頃、忌み嫌っていた。それは国家行政が「紐付き」で準備するものではない。

それはアナキズム的な文化交流としての「文芸漫談会」であらねばならないと私自身は思っていた。

「草 の根交流」イベントにしても「○○市教育員会後援」であるとか「○○国大使館後援」とかいう文字をポスターや宣伝ビラに見つける事に私は何かしらの失望を 覚えた。常に監視された「草の根交流」。 国家と民族。その枠組みの牢獄に閉じ込められた市民の手による「草の根交流」。

 

奇跡の桃源郷としての「文芸漫談会」という希望でさえもやがては国家と民族を抱えた絶望へと変わっていった。

今、私たちの社会に求められるのは「内山書店」と「文芸漫談会」の奇跡だと思う。

やがては絶望へと変化してゆくにしても、今の瞬間、我々にはそれが必要であると思う。

 

私たちは阿Qなのか?そうではないのか?

それすら、私は答えを出せないままでいる。

 

『阿Q正伝』は永久に答えが出せない魯迅が残した我々への問いかけなのかもしれない。

 

今回のゼミで感じたことは以上のようなことだった。

 

絶望に変わろうとも私は「文芸漫談会」が今、必要なのだと思えてならない。

 

 

付記:私ごとになるが私は一度、あまりにも小さいが「文芸漫談会」の様なアナキズム的な結束を目の当たりにしたことがある。

国際交流の仕事に携わる中でのある国際イベントで行政側は「台湾」ブースと「朝鮮民主主義人民共和国」ブースの設置に対して拒否反応が見せた。その論拠は日本の外務省が国家としてのその存在を明確にしていないというものだった。

し かし、我々現場スタッフはそれを黙殺して横紙破りでこれを決行した。その後、我々の力でなく、朝鮮民主主義人民共和国ブースと大韓民国ブースは朝鮮学校の 教員たちと韓国からの留学生の交わりから自然発生的にブースが「統一コレア」となった。これには感涙した思い出がある。「モンゴル共和国ブース」と「内モ ンゴル自治区」もまた、そのブースを作る人々によって自然と統一ブースとなった。これには深い感銘があった。行政主催のイベントという囲い込みの中、さら には各国家の囲い込みという、アナキズムとはかけ離れたものであったっとしても、この隠し箱状態の中の小さな奇跡に、私は「文芸漫談会」の理想と希望を記 憶の中で未だに抱き続けている。




学徒のつぶやき

昨日、大阪は九条のミニシアター「シネヌーヴォ」で開催された『セデック・バレ』公開記念講演会「霧社事件を語る」に参加してきた。参加者は中高年者を中心に約30名程だった。
講 演者は国際交流基金の職員で翻訳家でもある魚住允子氏。氏は「霧社事件」に関する台湾の研究家、鐙相場氏の著作三冊の日本語への共訳を努めた人。その関連 から霧社へも出向き、実際の事件を知るセデック族の老人、郭明正氏とも旧交を温めているという。郭明正氏は映画『セデック・バレ』の監修にも参加してお り、映画公開当時『真相・巴萊』という著作も出版されている。

講演会では霧社事件の実相を魚住氏が語るもので、タイヤル族とセデック族の混同の問題など貴重な話が散りばめられていて大変参考になった。
僕自身も数回、質疑応答で疑問点を質問したが大変有益なヒントが得られた。

ただ、気になったことが二点あった。
一点は映画と史実の相違についてである。
講演の途中からは映画と史実の相違の問題に講演の話題が中心的テーマとなり始めた。
ウェ イ・ダージョン監督はたいへん真面目な映画作家である。『セデック・バレ』でもあからさまな抗日プロパガンダ映画としては制作しなかった。この研究に着手 してまだ間がない僕だけれども史実と映画にはそれ程の大きな差異はないと感じている。修士論文の際に取り上げた南京事件をテーマにしたドイツと中国の合作 映画『ジョン・ラーベ』はその映画の内容の虚の部分が殆どで原作となった「ラーベ日記」は全く素材とされていない程史実からは離れたものだった。これは殆 ど論外だ。しかし、中国でこの映画を観た人々は映画を史実だと受け取っている。

『セデック・バレ』の場合はどうか?

映画 のラスト辺りで蜂起したセデック人たちが日本軍を押し戻し境界線である峡谷に架かる日本人が架けた近代的な吊り橋まで迫るシーンがある。最後の突撃に蜂起 指導者のモーナ・ルダオを先頭に橋の中央まで来たとき、対岸には火砲と兵士を待機させた鎮圧軍の司令官鎌田少将が待ち構えている。
鎌田は「お前が モーナ・ルダオか?しっかりその顔を見たぞ。」と言い待ち構える。モーナの前に進み出た若いセデック人が吶喊し、モーナたち蜂起軍は鎌田の待ち構える陣地 へ橋を渡って突撃する。鎌田の命令一下、火砲が火を吹きモーナたちが橋を渡り切るまでに橋は木っ端微塵に砕け谷底へと蜂起軍もろとも落下する。

魚住氏はこの様な事実はないと語る。最後の反撃の際にはモーナ自身は山奥へ入って若い指導者に戦闘を任せていたというのである。それは事実だろう。僕自身も映画を見たときこれが映画の嘘であると最初から認識していた。
しかし、僕はこのシーンが「虚」だとは思えない。
実 際にモーナが蜂起の指導者で鎌田少将が鎮圧側の指導者であったことは事実であり、セデックと日本人を分ける境界線に架けられた橋(それは日本が人と人を結 ぶ目的で建設しながらもセデック人の尊厳を奪い続けた文明という象徴なのだが。)で対峙するということが歴史的事実としてなかったとしても、これは両者の 文明と尊厳の対立の構造として全てを語る象徴としての明らかな史実なのだと僕は思う。
また、映画では百人単位で殺傷される日本軍側の実際の戦死者は28名だったことや、先述の郭明正氏のアドバイスによるセデック人のメンタリティーの小さな捉え方の誤りなどを監督は映画構成上、退けたなどを詳細に語られた。
途中からは映画の「虚」と「実」の指摘が主な内容になり、それはこの映画に対する批判とも受け取れるものだと響いてきた。
講演会の最後で映画館主は少々狼狽気味に「映画の冒頭にあるようにこの映画は史実を基に改編した作品ですと出てきますから、今日の先生の話と合わせてその辺を含んでご鑑賞ください。」と結んだ。
映画芸術がなんたるかを知り尽くしているであろうこのミニシアターの館主にとって咄嗟に出たこれは本音だったろう。
事実を重んじる歴史家的な視点と文化としての映画表現への視点の乖離が見事に露わになった瞬間だった。
も ちろん、歴史映画を全う史実と鵜呑みにしてしまう事は危険である。そこに観衆は陥入りやすい。フィクションであると分かりながらも『タイタニック』にディ カプリオが乗船していたかのような錯覚は拭えなくなるものだ。それが映画の力であり、それをゲッベルスやセルズニックは知り尽くしていたのだから。

僕の感想はこうだ。
映画は事実ではない。史実との乖離は当然あるのが当たり前なのだ。
歴 史家は文化としての映画に触れたとき、それが「虚」であっても「虚」では済まさず、映画が何故その「虚」に出たかをまで読み取って欲しいということだ。映 画という大衆文化の「虚」を突いただけに終わわせるならそこで終わってしまう。昨日の講演会でも史実がこうなのにどうして、「虚」のシーンを敢えて監督は 創造したのか?それは史実と些かもズレないのだという部分まで是非とも踏み込んで欲しかった。

第二の点は魚住氏の講演内容と、氏が訳した鐙相場氏の著作の言説とに大きな隔たりがあるという点だった。
其の辺を訳者自身がどの様に捉えているのか批評なり意見が聞きたかったという点だが、このことには一切触れられなかった。


第二の点は別として、第一の点は重要であると思った。
事実と文化の視点というか、その乖離というか、その対立を目の当たりにしたとき、自ずと自分の研究の方針がはっきり明確化したことに気づいた。

文化による歴史と表象。
その関係。そこから何か読み取ることの大切さ。
そして「虚」と「実」のそれをなんたるかを読み取り融和させてゆくこと。

漠然と感じたことだが熱烈な歴史狂としても映画狂としても、双方の視点は失わず研究に取り組まなけれなならないのかと改めて感じさせられた。

それだけにたいへん有益な講演会だったと感謝している。

(プロの研究者に対しての不尊な我が雑文、研究者諸先輩の皆様に平にお許し下さい・・・)




僕は子供がいないし、今後、子供も持つこともないだろうから、僕にとっては無用の長物なのだが、何故かコンビニでタイトルに惹かれて買って読んだ。
著者は研究者ではなくて幼稚園で長年働いて来た育児コンサルタントらしい。心理学者や教育学者というわけでもない。
しかし、ここには面白い情報がいろいろある。
子育ての本だが子供とのコミュニケーションで何が悪くて何が良いか、その叱り方、褒め方のパターンで説明している。

例えば悪い言葉を10個挙げてみよう。

「片付けなさい!」
「どうして、ちゃんとできないの?」
「わがまま言う子は嫌いよ!」
「どうして、すぐにやらないの?」
「お母さんはもう知りません!」
「お兄ちゃんなんだから!」
「バカじゃない?」
「お兄ちゃんは成績がいいのに・・・」
「集中力がないわねえ!」
「あなたのことは、あきらめたわ」


今度はいい言葉


「訳を話してごらん」

「自分で出来たね!」

「60点なら半分以上ね!」

「いっしょに考えてみようか」

「どうやればいいのかな?」

「成果が出やすいところから始めてみれば?」

「学校の授業、どんな調子なの?」

「何があってもあなたの味方よ」

「時計をまもってえらいね!」

「あなたは大切な子なのよ」


著者が選出した言葉がバラバラで相対関係になっていないのでわかりにくい点は少しすっきりしないが、ピックアップしてみると悪い言葉は親の方に支配権と主権がある。対していい言葉には子供の方に主権を持たせる、あるいは与えているということが分かる。

悪い言葉では子供は完全にバインドに掛けられて逃げようがない。

いい言葉では自らを解放できる自由と自ら判断する主権を認めている傾向がある。


著者は学術的研究ではなく実践的にこの法則を得たのだろうが、これは一つの例として面白い。

親子問題に限らず、学校、会社、団体、社会など全てに通用する法則だ。

親子や家族が最小単位の社会の縮図だとすれば弱者の主権を認めることがお互いの幸福を生み出す。

機 能不全家族で虐待を受けた子供たちが大人になった時、自分が辛酸を舐めたのに、自分の子供や動物、また部下などに肉体的、あるいは精神的暴力を繰り返すと いう例はいくつもある。主権が奪われていたからかもしれない。主権を与えられたことがないから主権がいつも自分の側にあって与えることは思いもつかない。

この連鎖は社会の問題にも巣食っているのかもしれない。

大日本帝国の植民地支配における東京裁判での戦犯被告、木村平太郎少将の陳述にそれがよく表れている。

「日本は中国の兄であり、言う事を聞かない乱暴な弟を兄として少し叱りつけたようなもので・・・」云々・・・。

家族関係の主権の関係が侵略戦争の例え話となったことは興味深い。


もちろんこれは家族という単位での精神的な問題の一部にしか過ぎない。

経済的な功利の問題は入ってないから社会の問題に直接は結びつかない。


少なくとも主権の存在がどこに位置するかで支配と抑圧の関係をどのようにでも制御できるのだということが、家族単位では出来るかもしれないという可能性を僕は感じる。


しかし、ただマニュアル通りに「いい言葉」を使ったっところで根本は変え様がない。

親自らが自分の支配権と主権を見直さない限り、「いい言葉」を使ってもそれは呪文でしか過ぎない危険性もある。


権威主義者の父親アロイスから常に言動と暴力で主権を奪われたアドルフ・ヒトラーは権力を握った時、600万人のユダヤ人の主権を奪った。その主権を奪われたイスラエル人はまた他者の主権を奪う。
僕はどこか育児と国家と何やら深い関連性を感じる。


これは単なる僕の勝手な感想なのだが・・・・。