ロシアの雪原を走る機関車。客車からトロツキがモスクワのレーニン宛に電文を送る。「白軍を撃滅した今、ポーランドのプロレタリアートを支援し世界革命に発展させることが必要である・・・。」
レー ニンはスターリンらを招集しトロツキの電文を伝える。スターリンは「ポーランドはヨーロッパとロシア革命を分断している邪魔者です。」と助言する。レーニ ンは決議を求める。全員賛成だが、なぜかスターリンは渋々といった様子である。トロツキのプランだからだろうか?レーニンは決然と立ち上がり「同志諸君! 手始めはポーランドだ!次はドイツ、フランス、イタリア、イギリス、そして全世界だ!」と拳を振るう。
イェジ・ホフマン監督のポーランド映画『1920 ワルシャワの戦い』はこうして幕を開ける。

こういう映画を鑑賞する場合少々注意が必要だ。
そ の国の現在の過去への言説や状況をよく知っていなければ見誤る可能性がある。ましてや東欧のポーランドの世界史でもあまり注目されることのない「ポーラン ド・ソビエト戦争」について我々はまるで知識がない。この映画がポーランド、あるいはヨーロッパでどの様な立ち位置にあるかを知る必要がある。そうでなけ れば歴史を誤って認識してしまう可能性もある。
国粋主義の映画はどこにでもあるものだ。例えば日本映画で歴史修正派からの視点で東京裁判を描いた 『プライド・運命の瞬間』(伊藤俊也監督、東映1998年)を日本人が観たとしてもそれが正当な歴史的評価に基づくものかどうかを観客は見分けるのが難し かっただろう。勿論アメリカに持ってゆけば必ず反発を喰らうだろうし、中国や韓国ならなおさらだろう。しかし、ヨーロッパに持ってゆけば東アジアの近現代 史全く無関心な観客は『プライド・運命の瞬間』を「歴史的事実」として捉えるかもしれない。

今回、鑑賞した『1920 ワルシャワの戦い』はそうした危ないものを感じさせる作品だったというのが僕の感想だ。日本未公開だがもしも、日本人の観客が観たらこの物語を鵜呑みにしてしまうかもしれない。

物 語はポーランド騎馬隊の将校がワルシャワのカバレットの人気歌手と結婚、間もなくソビエトのポーランド侵攻に妻に再会を約束して出征する。前線で赤軍の捕 虜となった彼はそこで赤軍兵士による略奪、強姦などの非道な行為を目撃する。赤軍の将校も自軍の部下を塵芥の様に処刑する。赤軍は野蛮な侵略者だ。
敵側に飼われていたポーランド女性に救われ脱走に成功した主人公は再び赤軍に捕まるが絶対絶命のピンチをソビエトに反感を持つコサック兵の部隊によって救われる。
ワルシャワでは迫り来る赤軍に少年から学生、女性までもが祖国防衛のために義勇軍に志願。主人公の妻も歌手を辞して夫がいる戦地へ従軍看護婦として赴く。
インターナショナルを奏でながら膨大な兵力でワルシャワへ迫る赤軍。
モスクワではレーニンがコミンテルンの記者会見に臨み数日以内にワルシャワを陥落させ、ポーランドを制圧した後、ドイツ社会民主同盟を支援し、フランス、イタリア、イギリスのプロレタリア革命を支援して世界革命を成就すると豪語する。
しかし、ポーランド正規軍と義勇軍の抵抗は激しかった。カトリック親父は十字架を掲げ兵を率いて突撃に参加し、ボーイスカウトの少年たちも銃を手に敵に向かう。激しい白兵戦。
ワルシャワを目の前にして赤軍は敗走を余儀なくされる。
モスクワでは戦況地図を前に佇むスターリンのもとへ、レーニンとトロツキがやって来る。激昂したレーニンは地図上の赤軍の赤旗をなぎ倒し、スターリンを睨むやトロツキと共に部屋を後にする。残されたスターリンはわずかに苦渋の顔色を見せる。
戦傷を負った主人公は野戦病院で妻と再会の約束を果たし映画は終わる。

さっと、こんな物語だ。抵抗の映画ではあるが愛国主義的な匂いがプンプンして何とも居心地が悪い。
スケールは大きく、戦闘シーンも激しい。
しかし、心を震わせるような映像なり演出は全くないのが僕の感想だ。単純明快で勧善懲悪的ハリウッド風。
しかも凡庸な戦争映画。

「何とも居心地が悪い」歴史戦争映画には何か隠された裏がある。
「ポー ランド・ソビエト戦争」は第一次世界大戦後自由を勝ち取ったポーランドがロシア革命で赤軍と白軍の内戦状態を突いて失地回復を目指しロシア国内に侵攻、キ エフまで占領したという経緯がある。ソビエトは白軍との決戦を終えて侵攻したポーランドを押し返し、ワルシャワまで侵攻したのである。
理由はともあれポーランドが最初にロシアとの国境を侵したという歴史的事実はこの映画にはない。
「手始めにポーランドだ!」と拳を振るうレーニンから始まるこの映画を見れば誰しも赤軍が突然ポーランドへ侵攻を開始したように思うだろう。
こうした自国には都合の悪い要素を排除、あるいは都合よく捏造して付け加える歴史戦争映画には良い作品があったためしがない。鑑賞者に与える「居心地の悪さ」は「後ろめたさ」から来るもので、それはどうやら覆い隠せないもののようだ。
メ ル・ブルックス監督のコメディ戦争映画『生きるべきか死ぬべきか』(邦題は『メル・ブルックスの大脱走』で戦前のエルンスト・ルビッチ作品のリメイク)で 「ポーランドはヨーロッパの玄関マットだ。いつも外国に踏まれる。」というセリフが出てきたのが印象的だった。それほどに強国に挟まれたポーランドの悲劇 的な国家だった。例えるなら日本と中国に挟まれた朝鮮半島の様に常に受難の国家だった。
しかし、この様な映画はやはりいただけない気がしてならない。

イェ ジ・ホフマン監督は歴史スペクタクルを得意としたポーランドの中堅古株の娯楽映画作家だ。日本では殆ど知られていない。嬉しかったことは『ローザ・ルクセ ンブルク』『ブリキの太鼓』『愛と哀しみのボレロ』などに出演していたポーランドの国際スター、ダニエル・オルブリツキが老体ながらも健在ぶりを見せてく れていたことか。

映画は慎重に観なくてはならないし考証しなければならない。
それも映画評論家の大切な仕事の一つだと僕は信じている。
しかし、昨今その様な気骨のある映画評論はキネ旬でさえ読めなくなってしまった。

今もこういう国粋主義的な映画は絶えない。
ハリウッドとナチが花開かせたプロパガンダ映画文化の仇花として、未だ世界のあちらこちらで芽吹いているということか。

ゲッベルスやセルズニックは正しかったと思う。映画は暴力であり兵器になると言う事を見抜いていた。

この映画の価値はそれほど高くはない。しかし、僕は改めて過去のプロパガンダ映画や今日の我が国にも関係の深い抗日映画の存在に注目すべきだと教えられたような気がする。
そう言う意味でやはりどんな映画でも観るべきなのだと思った次第だ。