一昨日の所属ゼミでの現代思想研究は魯迅の『阿Q正伝』が主題だった。
中国と台湾の留学生の共同発表で、大へん興味深いものだった。
魯迅。この中国近代の偉大な作家であり思想家の代表作に触れ、魯迅とある不思議な文芸倶楽部のことについて書きたくなった次第だ。
①内山完造と内山書店
中 華人民共和国の上海、虹口地区の北四川路にある中国人民銀行には「内山書店跡地」の碑文がある。この場所が1920年代、第一次世界大戦後、日中文化交流 の花を開かさせる「内山書店」があった場所である。筆者はこの碑文を探して二度、上海に行ったことがあったが、二度とも現地の友人の協力を頼りにしたにも かかわらず、ついに見ることができなかった。3年前、偶然に中国団体旅行で上海に一泊した際、諦めきれず再び碑文を探したが人民銀行の場所がどうしても分 からず、夜間に道行く現地の人に尋ねれば親切にも案内してはくれたが、全く違う銀行へと導かれてしまった。翌朝、団体旅行のバスが出発したとき、驚いたこ とにその場所は宿泊先のホテルから僅か100mほどの距離だったことを知って随分悔しい思いをしたものだった。
虹口の北四 川路は当時は上海共同租界の日本人居住区だった。現在でも建物など特に近代化されたわけでもなく、雑多で長屋風の古びた建物が並び、当時の風情を残してい る。ここを訪れたとき、しゃがみこんで古い石畳のプラスターの一つ一つを指先で触れては見たが、この地で二度に渡る日中の激戦「第一次上海事変」と「第二 次上海」の舞台であったことを感じ取るにはあまりにも平和的であった。道行く人、観光客や住民の平和な風景に目をやると、とてもここに魯迅が、田漢が、そ して尾崎秀実たちが行き来していた歴史はとうの昔に風化してしまっていた様に感じたものだ。
上海共同疎開、北四川路。
ここには不思議な歴史がある。
こ こに居を構えた日本人、内山完造は1912年に目薬の会社の海外出張員となって中国へ渡ってきた人物である。当時27歳だった内山完造は熱心なクリスチャ ンで、この海外出張員の仕事もキリスト教京都協会の牧師による推薦によるものだった。1915年、日本が第1次世界大戦に参戦してから以後、中国各地を営 業に回った内山は度々、抗日運動を目にしたという。
その内山完造は自宅で妻の副業として主に聖書を取り扱う「貸本屋」を始めたのがきっかけ で、1924年には本格的な書店を開店した。これが「内山書店」である。この書店にはいつしか北四川路で上海に住む日中の知識人と文芸愛好家が集まる場所 になり、やがて交流の場となった。自然発生的にこの愛好家のたまり場は「文芸漫談会」と呼ばれるようになった。「文芸漫談会」にはさらに上海YMCAの 「中国劇研究会」のメンバーが合流した。
②「文芸漫談会」と魯迅
この文芸愛好家たちの集ま りは単なる書店の常連客の集まりであった。「会」と言っても規則も会費も必要とされない愛好家の集まりだった。メンバーの中には多くの知日知識人がいた。 日本への留学経験を持つ中国人の若者である。現在、中華人民共和国の国歌となっている『義勇軍行進曲』の作詞を行った田漢や中国文壇の旗手となった郁逹夫 もいた。
1927年に中山大学で教鞭をとっていた魯迅が上海に逃れて来て以来、魯迅も内山書店の常連となり中国人の客も増えたのだという。魯迅は内山の店から多くの日本語書籍を購入し、上海の内山書店が彼にとっての第二の日本留学先ともなった。
「文 芸漫談会」は日中の文芸人、演劇人、画家などによって『万華鏡』という同人誌を発行するまでに至り、魯迅と内山の交流も店主と客に留まらず、やがて友情の それと変わっていった。二人は日本の中国侵略に関しても批判し合っていたという。1930年、中国左翼作家連盟が結成され。その代表者となった魯迅は国民 党政府から狙われる身となったtが、魯迅の身を守っていたのも内山完造であったという。
やがて内山書店は中国だけでなく日本にまでその名を 知られるようになり、魯迅は内山を介して多くの日本人作家とも知遇を得た。しかし、内山の紹介で魯迅が交わった文化人には横光利一、金子光晴、林芙美子な どなど、当時既に著名な人物が多かった。中国大陸への野心を持つ大日本帝国という主体側文芸人たちと魯迅の意見は決して合致するものではなかった。
魯迅と詩人の野口米次郎との対談では波紋を呼んだという。
その会見は、一九三五年十一月十二日付の「東京朝日新聞」に「魯迅と語るー梅の老木といった感じー」と 題して掲載された。 「私は魯迅に言った。『インドにおけるイギリス人のように、どこかの国を家政婦のように雇って国を治めて もらったら一般民衆はもっと幸福かもしれない』 すると彼は答えた。 『どうせ搾取されるなら外国人より自国人にされたい。つまり他人に財産を取られるより自分の倅に使われた ほうがいいようにーつまり感情問題になってきます』
私と魯迅との会談は、ここで打ち切った」 (NHK"ドキュメント昭和取材班.『ドキュメント昭和2上海共同租界』.角川書店.1986. P107ー108)
魯迅が没する1年前の魯迅の日本知識人への言葉である。
政府や国家という枠組みから外れたところで育まれた「文芸漫談会」。そのアナキズム的な中日の文芸交流もやがて時代の潮流の中に流されてゆく。
「文 芸漫談会」の参加者だった智日人劇作家、田漢も中国左翼演劇活動を通じて1935年には初の本格的な抗日映画『风云儿女』の脚本を担当し、主題歌『義勇軍 行進曲』を作詞した。その主題歌は単なる映画の主題歌だけではなく抗日運動の歌として、やがては中華人民共和国の国歌へと歌い継がれていった。
魯迅が上海に来て9年目、魯迅は日本と中国の関係に憂慮して上海脱出を決意する。ここで魯迅は内山との友情にも終止符を打つ覚悟であったと後に彼の妻。しかし、脱出するまでもなく、1936年、魯迅はこの世を去った。その翌年、盧溝橋事件が勃発したのである。
国家や官僚組織に拘束されることなく自然発生的に生まれた上海共同租界で生まれた「文芸漫談会」の理想は消えた。
それは私の中では阿Qの悲劇とも重なる部分がある。
先に挙げた引用文で魯迅が語った「自分の倅」とは何だったのだろうか?
蒋介石を筆頭とする国民政府なのか、あるいは阿Qの公開処刑を「面白くない」と見捨てた中国の民衆だったのだろうか?この言葉はあたかも魯迅が残した遺言的命題の様にも感じられる。
そこに答えを見つけることは難しい。
戦後、内山完造は中日友好協会の代表者として活躍した。
しかし、そこには恐らく「文芸漫談会」は存在しなかっただろう。
③ 「文芸漫談会」の今日的課題
国際交流という「行政」の現場で理念もなく都合良く無責任に使われてた「草の根交流」という言葉を私は常日頃、忌み嫌っていた。それは国家行政が「紐付き」で準備するものではない。
それはアナキズム的な文化交流としての「文芸漫談会」であらねばならないと私自身は思っていた。
「草 の根交流」イベントにしても「○○市教育員会後援」であるとか「○○国大使館後援」とかいう文字をポスターや宣伝ビラに見つける事に私は何かしらの失望を 覚えた。常に監視された「草の根交流」。 国家と民族。その枠組みの牢獄に閉じ込められた市民の手による「草の根交流」。
奇跡の桃源郷としての「文芸漫談会」という希望でさえもやがては国家と民族を抱えた絶望へと変わっていった。
今、私たちの社会に求められるのは「内山書店」と「文芸漫談会」の奇跡だと思う。
やがては絶望へと変化してゆくにしても、今の瞬間、我々にはそれが必要であると思う。
私たちは阿Qなのか?そうではないのか?
それすら、私は答えを出せないままでいる。
『阿Q正伝』は永久に答えが出せない魯迅が残した我々への問いかけなのかもしれない。
今回のゼミで感じたことは以上のようなことだった。
絶望に変わろうとも私は「文芸漫談会」が今、必要なのだと思えてならない。
付記:私ごとになるが私は一度、あまりにも小さいが「文芸漫談会」の様なアナキズム的な結束を目の当たりにしたことがある。
国際交流の仕事に携わる中でのある国際イベントで行政側は「台湾」ブースと「朝鮮民主主義人民共和国」ブースの設置に対して拒否反応が見せた。その論拠は日本の外務省が国家としてのその存在を明確にしていないというものだった。
し かし、我々現場スタッフはそれを黙殺して横紙破りでこれを決行した。その後、我々の力でなく、朝鮮民主主義人民共和国ブースと大韓民国ブースは朝鮮学校の 教員たちと韓国からの留学生の交わりから自然発生的にブースが「統一コレア」となった。これには感涙した思い出がある。「モンゴル共和国ブース」と「内モ ンゴル自治区」もまた、そのブースを作る人々によって自然と統一ブースとなった。これには深い感銘があった。行政主催のイベントという囲い込みの中、さら には各国家の囲い込みという、アナキズムとはかけ離れたものであったっとしても、この隠し箱状態の中の小さな奇跡に、私は「文芸漫談会」の理想と希望を記 憶の中で未だに抱き続けている。