青空帝国~ゴジラの足跡~ -11ページ目

中国の抗日プロパガンダ映画を観ていると一部を除いて殆どが失敗していると思う。

それは日本人の「敵」としての描き方。

日中の問題なら少し想像しにくい。

 

ドイツとアメリカで考えてみよう。

大量に作られた抗独プロパガンダ映画で考えてみればいいと思う。

僕たちは日本人だから特別にドイツ人に思い入れがある訳ではないから。冷静に見て取れる。

 

ドイツ人たちを極悪非道に描けば抵抗する側の陣営が正義であることは際立つ。

敵はあくまでも人間性の欠片さえない悪魔のように描けば観衆は主人公を正義だと認めるだろう。

インディージョーンズのシリーズではナチが二回敵として登場する。彼らはユダヤ人を根絶やしにする世界征服を狙う悪の集団。登場するリーダーは狡猾で野心家、血も涙もない。だからジョーンズがその部下を何人殺そうが観客はなんとも思わない。

ブ ライアン・G・ハットン監督の『荒鷲の要塞』でも血も涙もないドイツ人リーダーの下、ドイツ兵はイーストウッドによって西部劇のインディアンの様に虐殺さ れる。でも、同監督の『戦略大作戦』ではイーストウッドが金塊を膨大に隠した銀行を守備するナチ親衛隊の戦車部隊長と闇取引で銀行の金塊を山分けにすると いうオチで終わる。上記の二つの作品は娯楽作品であって純正なプロパガンダ映画ではない。

しかしながら、観る者から言えば後者の作品の方に好感を覚えるだろう。ドイツ人も金に目がくらむ人間だということに。

 

正邪の極端な二分化は結局、人の心にそれほど強烈な印象は与えないのではないだろうか?

一時的なインパクトや憎悪を呼び醒ませても観る者に深いものを与えることはできない。

すぐに軍刀で人を殺し、熱狂的に中国人を殺しまくる。

司令官はこれみよがしの悪人だ。

しかし、そういう映画で名作は殆ど存在しない。

 

ナチの宣伝相、ゲッベルスはそれを最も理解していた一人。

現 在もドイツでは絶対に視聴してはいけないと法的に指定された十数本の作品はゲッベルスのお墨付きの作品が多い。ゲッベルスはゲットーで撮影されたヒップ ラー監督のドキュメンタリー『永遠なるユダヤ人』を非常に嫌っていた。ユダヤ人を汚らわしい怪物と描いたことに不満だったのだ。

劇映画『ユ ダヤ人ジュース』で監督のファイト・ハーランと主演のフェルディナンド・マリアンが演技でもめたことがあった。マリオンは演劇人で人間の心理描写にこだ わったので、アーリア人からユダヤ人だと差別を受けるシーンに憂いの表情を見せた。ファーランはそこでジュースが狡猾に対応する表情がなければ反ユダヤ主 義宣伝に効果がないとぶつかったのだ。ゲッベルスはマリオンの演技を支持した。「ユダヤ人は人間で怪物ではない」。ファーランには渋々それを受けたのだ が、これは重要なポイントであると思う。有り得ない人物表彰に騙されるほど観客は馬鹿ではない。ジュースのユダヤ人として蔑まれる人間の苦しみがやがて彼 の悪行を際立たせる。人々にユダヤ人は同じ人間だ、しかし悪い奴らだという印象を与える。人はクリプトン星から来たスーパーマンを信じない。

ゲッベルスは映画作家ではないけど映画の意味を最もよく理解した心眼を持っていた。

チープな正邪対立のプロパガンダ映画はすぐに飽きられる。

実際、中国人だって「また鬼子」かという反応しかない。

 

本当に深い憎悪を植え付けるなら、敵側に同じ人間としての公平さをまず与えて徐々に差異を広げてゆくのがより効果的である。

 

2012 年公開の中国抗日映画『1984甲午大海戦』は日清戦争における明治天皇を理想的な強いリーダーとして、その部下である日本人を人格者として描いた。それ は清朝の西太后と官僚の腐敗を対比させる手法なのだが、これで内なる敵を告発する事を認識させるには十分な効果があった。もしも、日本人たちを従来スク リーンに登場した獰猛で陳腐で典型的な小悪党としてこの映画が描いていたなら、この映画は意味のないものになっただろう。

 

優れたプロパガンダ映画は紋切り型の正邪分離を持っていない。

そもそも映画そのものがすべてプロパガンダなのだから。




『ニッポン無責任時代』・・・植木等の主演映画一作目にしてそのベースとなった重要な作品。
この映画は革命的な力を持った作品。単なる喜劇映画では見過ごせない作品。
戦後の抵抗と革命の映画としては恐らく今井正の『青い山脈』と並ぶ大衆娯楽映画の傑作である。
しかし、その革命も次作『ニッポン無責任野郎』の二本で潰えさった。

では何故、サラリーマン映画の革命はこの二本で留まったのだろうか?


【スーダラ節の凡庸さ】


植 木等の無責任男というキャラクターはもちろん、青島幸男と萩原哲晶のタッグで生まれた名曲『スーダラ節』から生まれたものであることは間違いない。しか し、『スーダラ節』、『ドント節』、『ハイそれまでョ』などなど青島流のサラリーマン・ソングのキャラクターと無責任男は決して=ではない。
クレージー・キャッツのコミックソングのどれを聴いても無責任男と=で結べるものはない。
強いて言うなら唯一『無責任数え唄』あたりが無責任男に近い。これは青島の作詞ではない。
クレージー・キャッツのコミックソングは当時のサラリーマン社会での至って当たり前の事をただ歌っているのでヒットしたとも考えられる。当たり前過ぎて誰も思いもつかなかったのだ。
な により、みんなが体験済みで共感できる内容だからだ。普段、当たり前の日常で気づかないこと、それを突然、目の前に引っ張り出されて見せられた。「あ、そ れってあるよね!あるある!」的な共感の仕方だった。こういう提示の仕方は日本のコミックソングでも異色だったのかもしれない。
嘉門達夫の『小市民』シリーズは更にそれをはっきりと先鋭化させた。だから、嘉門が歌ってる最中に観客はどっと笑い出す。
そう考えると青島の才能は大したものだと言える。普段誰もが知っているのに気がついていない事をわざわざ注意深く抽出したのだ。それが共有の笑いになる。
ある意味、クレージーキャッツの歌はその内容は凡庸で前向きでない。
型破りに明るく歌っていても現状を容認するばかりでそこには革命的なものはない。
それだけに大衆の心を掴んだとも言える。みんな同じなんだんね的な共感。
でも、実社会で言えばカッコ悪いなあと思う気持ち。それをクレージーキャッツは歌や映画で代弁してくれる。みんな一緒じゃないか。仕方ないね。そういう諦念すらそこに感じられる。
明るさのオブラードで包み込まれただけの当たり前の歌のかおかしさ。そこに人は惹かれる。
BBCの『空飛ぶモンティパイソン』のテリー・ギリアムもまた映像作家として天才だが、着想やテーマの基底の部分では青島流と大差ない。


【無責任男の革命性】

数 多く連作された植木等を中心にしたクレージーキャッツの映画もある意味凡庸である。『ニッポン無責任時代』とその続編『ニッポン無責任野郎』の後を継いだ 『日本一の男』シリーズも『クレージー作戦』シリーズもその登場人物は典型的な戦後昭和の高度経済成長的な真面目な、努力すれば出世が出来る幻想を持った 優良サラリーマンだ。それが明るくバンバンやってくれるだけ。閉塞感と自信のなさ、解放される喜びそれを実現させてくれる。突飛に見えてもクレージー映画 のサラリーマンは現実社会で黙々と努力している観客とやっていること自体は大差はないのだ。
『ニッポン無責任時代』以前に大映が『スーダラ節』と『ドント節』という二本の映画を公開している。
ク レージーの面々は脇をちょろっと固めるだけで主演の川崎敬三や川口浩は凡庸なサラリーマンであって、何ら世界を破壊することもない。既に諦念という意味で は主題歌『スーダラ節』と『ドント節』にぴったりハマった映画でそこに閉塞感を打ち破る何ものもない。抵抗よりも現状をざっくり割って見せて、現状を容認 して置かれた社会や組織に順応し、努力せよと言っているだけの映画である。その意味では余りにも保守だった。

この視点は実は東宝のクレージー喜劇映画も同じであって、『ニッポン無責任野郎』以後は保守化したと言ってもいいだろう。植木等のサラリーマンはスーパーサラリーマンだが「努力実現型」へ転身している。

『ニッポン無責任時代』、『日本無責任野郎』の平等も源等もその後の『日本一の男』シリーズの「等」とは際立って違う。

無 責任男は社会常識的には詐欺師の様なワルで全くダメなやつで、社会や組織に全く順応性がない。社会のために努力もしない。周囲からはその順応しない行動力 に対して何故か愛される。女性にもモテる。それで出生して社長にまでなってしまう。実のところは本当は観客からは疎ましい存在だ。観客は無責任男になりた いと思っただろうか?あるいは憧れただろうか?

脚本を書いた田波靖男は「社長シリーズ」のメインライターだったがその保守的会社組織に順応するサラリーマン像に自ら反発し無責任男を創造したという。
反体制、抵抗、反保守・・・無責任男は革命的人物として生まれた。
しかし、実のところ歌が先行してヒットした保守的な青島流『スーダラ節』と組み合わされたとき、観客は無意識に無責任男をスーダラ社員と勘違いして拍手を贈ったのだろう。そのまた向こうのより深い無意識に革命に拍手を贈ったという二重構造もここにはあるのかもしれない。
『ニッポン無責任時代』、『ニッポン無責任野郎』以後、無責任男は現在から切り離された江戸時代や戦国時代でしか描かれることが許されられなくなった。(先述の『無責任数え唄』は『花のお江戸の無責任』の主題歌でもある事がそれを物語っている)。
無責任男がその抵抗を止めずにシリーズ化が進んだとしてもやがて観客は恐らく離れていっただろう。
人びとが望んだのは無責任革命ではなく青島流保守なのだから。
田波の抵抗は青島の『スーダラ節』に呑み込まれてしまったのだ。


『ニッポン無責任時代』、『ニッポン無責任野郎』は抵抗と革命の映画である。僕はそう信じている。その意味からも僕はこの二本しか認めることができない。

僕 にのとって愛すべき植木等とクレージーキャッツのすべての映画も「無責任男」以外は閉塞感と凡庸さを感じさせられるばかりである。そこには現状を容認する 保守的な枠から実のところ、はみ出すことがないから。はみ出そうとギリギリ努力している苦渋しか見えてこないからだ。クレージーキャッツ総出演の第二作、 『ニッポン無責任野郎』と同年の映画『クレージー作戦・くたばれ!無責任』ですでに無責任男には死刑判決が下されている。皮肉にもその脚本を担当したのは 無責任男という革命を生んだ田端靖男だった。

それは保守的で反体制を嫌う「明るく楽しい東宝映画」のキャッチフレーズを持った戦後黄金期の東宝という映画会社の体質そのものが無責任という抵抗と革命を封じた事実もまたここにある。

谷 啓が唯一主演した『クレージーだよ奇想天外』(1966年)が唯一、無責任男とは違った宇宙人の視点という形で現代社会への反体制をどうにか保っていた。 脚本は無責任男を作った田端靖男。植木はここではゲスト出演でインチキ国会議員を演じている。ここまでが無責任男という革命の現代へのギリギリの抵抗だっ たのかもしれない。


付記:今回、入手したこのDVDは講談社版の『昭和の爆笑喜劇DVDマガジン』だが、冊子では無責任男の本 質、革命性を全く語っていなかった。期待するのはダメなのかもしれないが『日本一の男』シリーズととの乖離について、田波の視点は語って欲しかったと思 う。このマガジンも「明るく楽しい東宝映画」を踏襲するのみなのか。







あとがきにオタク評論家の唐沢俊一氏が次のように書いている。

「僕など、こういう国粋的な思想とは最も遠いところにいる人間のはずなのだが、読んでいるうちに知らず知らずケンペーくんの活躍に拍手をおくり、痛快な気分に浸っている自分に気がつき、ハッとするのである。たぶん、他の読者も同様だろう。

作者のならやたかし氏は漫画家志望だったが志を断念し官能小説の作家になった人。その道では知られたミリタリー・オタクだそうだ。漫画への情熱が断ち切れずこの作品を描いた。それがカルト化して現在でもファンがいるらしい。
作者には失礼だが漫画というには恐ろしく絵がマズイ。しかし、異様なテンションがあって引き込まれる。
内 容は日本の腐敗を憂う下曽根内閣総理大臣が右翼の長老に相談して、やはり憲兵や特高が必要だろうというアドバイスを受ける。下曽根は過去の記録を調べ上 げ、戦後占領軍に家族を殺され抵抗して射殺された超エリート憲兵、東京憲兵隊の南部十四郎憲兵大尉の資料を見つけ出し、降霊術によって南部憲兵大尉を蘇ら せる。
南部大尉は現代の世相を調べ上げ単身、世直しを決意する。
暴走族、銀行強盗、酒とセックスに溺れる大学生、暴力教師、アメリカの不良外人らを相手に軍刀、拳銃、機関銃、果ては戦闘機や爆撃機まで使って殺しまくるというグロテスクな物語。斬殺シーンや射殺シーンは残酷な描写でちょっと僕にはキツイ。

なぜ、どちらかといえば革新の立場である唐沢氏があとがきに上記の言葉を残したのか不思議であった。
考 えるに憲兵や特高と庶民の立場がここでは逆転している(様に見える)のであって、一人でテンパって日本の秩序を取り戻そうとしている南部憲兵大尉がユーモ ラスでエキセントリックだからだろう。ここでは彼は孤立したマイノリティだからだ。その妙が人に面白さを感じさせるのかもしれない。
社会から捨てられた「クズ」たちが国家権力に乗っかりながらも、自ら死刑執行人となって巨悪に立ち向かう望月三起也の『ワイルド7』のメンバーたちとはまた違う。
南部大尉の活動はヴォランティアであり、彼は最初から時代に遅れたファシズムの化石となったエリートなのだ。
この漫画を読む人が爽快感を覚えるとしたらそれは単なる自分が抑えることができない日常の不満や憎悪へのハケ口でしかない。
何故なら我々は南部大尉を必要としないほどに周辺には「ケンペーくん」が存在しているはずだから。
唐沢氏はあとがきの最後を下記のように結んでいる。

「人 間は自由を欲する生き物である。しかし、制限のない自由というのは人を不安にすることもまた事実なのだ。われわれは潜在意識のどこかで、密かに自分たちの 暴走を規制してくれる人物を求めている。ケンペーくんが熱烈なファンを獲得しているのはそのためではないかと考えるのである。」

一見、成程と思わせるが「制限のない自由というのは人を不安にする」そんな「自由からの逃走」を必要とするほど我々は決して自由ではない。
南部憲兵大尉が存在した時代と現在の自由はほとんど差はないのかもしれない。
われわれは生きている限り籠の鳥であることにはなんら変わらない。


緩やかな弾圧は抵抗を呼ばない。
ナチのラインハルト・ハイドリッヒにチェコの被支配国民の多数が抵抗しなかった様に。

むしろ、われわれが『ケンペーくん』に爽快感や拍手を贈りたくなるのだとすれば、それは他者の立場を認めない排他的で歪んだ「不寛容さ」といったものに起因しているのではないか?

昨今のネット右翼や排外主義者の心理も恐らくこれと同様のものなのではないか思えてならない。
そう感じさせる一冊だった。





学徒のつぶやき


大阪ABCホールで開催された大阪アジアン映画祭のオープニングプレミア上映会へ行ってきました。
上映作品は台湾映画『セデック・バレ第1部大陽旗』。僕の今後の研究課題の台湾レジスタンスの一つ抗日霧社事件をテーマにした映画。この映画、DVDで10回は観ました。日本公開は4月から5月。クチコミで広がりなんと全国40館公開決定したそうです。

監督の著作、手記『導演巴萊』を研究のため台湾から取り寄せてましたのでカバンに忍ばせて行きました。会場に入ってダメ元で映画祭スタッフの方に「研究の励みしたいので監督のサインが欲しいです。お会いしたいだなんて大それたことは言いません、お願いします。」とアポなしなのに頼んでみた。スタッフさんは僕の持ってきた本を控え室の監督に写メしてくれた。
なんと!監督は控え室に来てOKとの返事。案内されて楽屋へ。ドキドキ!舞台挨拶前で5分ほどだけど監督と話ししてサインももらった。思わず自分の研究と映画についても図々しく話しちゃった。好きだということは恐ろしい勇気がわくね。

感動しました。ウェイ・ダーション監督はとても温厚でシャイな方でした。思っていた通りの人で嬉しかったです。監督、スタッフの皆さんありがとうございました!
いやあ、人生って本当にいいもんですねえ!


学徒のつぶやき

本にサインをいただきました!研究の励みになりますよ~

学徒のつぶやき

僕は昔、サバイバルゲームに参加していた。

屋内や野外でエアガンを使って「戦争ごっこ」あるいは「銃撃戦」を楽しむゲームだ。

屋外で屋内で時折、ゴキブリが出てくることがある。ジメジメしたトタンをひっくり返すと出てきたりする。

もしも、ゴキブリがゲーマーたちに見つかれば運命は決定したも同然だ。

彼らは自慢のエアガンの銃口をゴキブリに向ける。一斉に射撃して、逃げ回るゴキブリを逃さない。

もちろん、ゴキブリが絶命するまで彼らは周到に狙って引き金を引く。

 

ところが、野外でゲームをやっていてもトンボや蝶を撃つことはない。

野良猫や鼠も絶対に撃たない。

信じられない人も多いかもしれないが、サバイバルゲーマーは平和主義の人が多い。

街中で無防備な通行人に車中からエアガンで撃ったりするのはサバイバルゲーマーでもミリタリーオタクでもない。

 

その彼らがゴキブリには容赦がない。

その行為を僕はいつも恐ろしく見つめていた。

止めさせることもできない。相手はゴキブリだからだ。

もしも、蝶やトンボなら怒ってやめさせたかもしれない。

或いは野良猫や鼠なら取っ組み合いの喧嘩になっただろう。

僕にもゴキブリなら仕方がないという「普通」の感覚が備わっている様だ。

 

この感覚の麻痺を僕は自分自身で何度か考えたことがある。

ゴキブリは日常的に殺されるのが当たり前になっている。

殺したところで「ひどいことをするな」とは誰も思わないだろう。

以 前住んでいたマンションであまりにもベランダにゴキブリが出没するので、ホウサンの毒餌を買ってきて仕掛けたことがあった。たまたま窓からベランダを見る と一匹のゴキブリがそれを食べていた。ちょうど後ろ姿から見た格好になったが、プラスチック製のホルダーの中に頭を突っ込んで無心にそれを食べていた。こ のゴキブリは数時間後には毒によって死ぬのである。ただ生きるために食べただけで。その運命を知っていながら僕は食べている彼を見ている。僕は無性に悲し くなって次の日、毒餌を全て撤去した。殺すことは熟考すれば堪らなく悲しいことだ。自分も生きていたいからなのだろうか。

 

我々には害虫であるゴキブリを殺すことが許されていて、見た瞬間殺すという発想に結びつくようにインプットされている様だ。あるいは蟻の大群だとか、ハエであるとか殺してもよいとされている昆虫には殺害するための道具や薬品が必ず売っているし、それにも疑問は感じない。

 

そもそも、何故、僕たちはゴキブリを殺すのだろう。

いて欲しくない存在だ。自分のテリトリーを犯す存在だ。不潔で原始的で見た目も良くない甲虫だ。しかも我々より生命力が強く俊敏で優秀な生物だ。

希少性のあるカブトムシは子供たちから愛されて、その辺にゴロゴロしているゴキブリは大量に殺されることが認められている。カブトムシを殺しまくる人がいれば多分、非難されるだろう。でも、ゴキブリを1万匹殺しても非難されるとは思えない。

 

この感覚は何故か戦争と似ている。

殺すことが許可されていて、殺すことが当たり前なら殺すことが出来る。

相手から殺されるかもしれないなら、なおさら積極的に相手を殺すだろう。

 

もし、僕の家にゴキブリが出てきたらどうするだろうか?

殺したくなくても殺すかもしれない。あるいは他者が殺してくれることを望むかもしれない。

その場にならなければ分からない。

 

不必要に殺しているということを意識した時、僕たちは殺虫剤や毒餌が売られている現実に驚くに違いない。

しかもそれは産業として我々の生活に普通に組み入れられている。

 

殺しても良いと許可されれば、さらに大量に殺してこいと命令されれば、それがさらに賞賛されれば、それが当たり前になれば、僕たちは簡単に人間を殺すかもしれない。殺人が最も重い罪であることを十分意識していながら・・・。

しかも、それを許可する人々は殺し殺される人よりも圧倒的に少ないひと握りの人間である。

 

ゴキブリを殺してはいけないと言うつもりはない。

生活に支障が出るのに共生しようなどということは不可能だと思う。

害虫と人間を一緒にするのもオカシイかもしれない。

しかし、誰が害虫だと決めたのか?

我々はよく知らない。

 

少なくともエアガンでゲーム中にゴキブリを殺す感覚は無用な殺生だ。殺すことの意味を考えてはいない。

相手を殺す対象として認識して自動的に引き金を引くだけのことだ。

 

簡単にそれが出来てしまう事にすでに恐怖を感じなくなればそれは一つの戦争であると僕は思う。



 

ジョン・フランケンハイマー監督作品を語るとき少し厄介だ。

初期の作品はドキュメンタリータッチの社会派っぽいものだったが、後半は男性活劇的性格が強くなった。

バート・ランカスターを好んで起用したけれども、その頃の作品は社会派作品だった。『大列車作戦』はその後のフランケンハイマーの作風の分岐点になった過渡期的作品のように思う。

この映画のあと、両人とも活劇へと転身してゆくのだ。

 

ノ ルマンディー上陸に始まる連合軍の欧州大陸反攻作戦にフランスのドイツ軍は大混乱となり躍起になって軍事物資を鉄道によって前線に送ろうとしている。その 最中フォン・ヴァルトハイム大佐(ポール・スコフィールド)はパリの美術館からデカダン絵画を列車でドイツへ移送しようと企てる。それは上部の命令ではな くヴァルトハイムの意思だった。ドイツ軍のフランス占領以来、美術館の現代絵画を保護してきたヴァルトハイムに感謝していた館長のヴィラ女史(スザンネ・ フロン)はその決定に驚き鉄道レジスタンスのラビッシュ(バート・ランカスター)たちに絵画を積載した列車をドイツに行かせない様にして欲しいと頼む。ラ ビッシュは絵に命を賭けることは出来ないと拒否する。ヴァルトハイム大佐は軍事物資優先のために列車使用を許可されず、パリのドイツ軍司令部に単身ねじ込 み列車をドイツへ向けて発車させる。

無学で頑固者で抵抗の理想など理解も出来きない老機関車運転手のパパ・ブール(ミシェル・シモン)は駅 員から積荷は「フランスの栄光」だと聞かされ、機関車に細工して故障させる。しかし、それはすぐに鉄道管理将校ヘーレン少佐(ヴォルフガング・プライス) に見抜かれてしまう。ラビッシュはヴァルトハイムに必死の助命嘆願するが、パパ・ブールはそんなラビッシュを罵る。パパ・ブールは銃殺刑に処せられる。後 任機関手を命じられたラビッシュはいつの間にか列車をドイツへ行かせまいと執念を燃やすようになり抵抗活動を始める。

 

ル ネ・クレマンの『鉄路の闘い』とほぼ時代や舞台設定は同じなのだが、『大列車作戦』は集団群像劇ではなく二人の男の闘いが貫かれているのが決定的な違い。 同じくフランス国鉄の全面的な支援によって制作されたアメリカ映画(イタリア・フランスとの合作)だがフランケンハイマーは『鉄路の闘い』の影響を色濃く 受けている。手法は違うがドキュメンタリー風の演出である。

冒頭のシーンは美術館を守備する機関銃座の二人のドイツ兵。

カメラは二人を捉えたまま、美術館の前にやってくる自動車を捉える。二人はその様子を振り返ってみるが、また前に向き直る。

ヴァ ルトハイムがパリのドイツ軍司令部に掛け合うシーンでは一階のから二階の司令部まで数十人のドイツ将兵や事務員が慌ただしく動き回る中をカメラはワンカッ トで進みその騒がしさの中に立ちすくむヴァルトハイムを捉える。こうした長回しとドラマに関係のない端役やエキストラを捉えるシーンが随所に見られドキュ メンタリー効果を上げている。『鉄路の闘い』では暗闇のなかで客席に縛られている観客たちが運動神経を必要とするほどに激しいカットの連続であったが『大 列車作戦』はそれとは対照的だ。

 

映画は終幕でラビッシュとヴァルトハイムの直接対決を通じて戦争と抵抗の意味を問う。ヴァ ルトハイムは自らを芸術の理解者と自認している。文化を征することが敵を征することを理解している。現代芸術の傑作をフランスから引き離し我が物(個人の ものではなくドイツ帝国の物)とすることに囚われている。一方のラビッシュはヴァルトハイムの理想など想像もつかず、絵画のために抵抗しているのではな い。あくまでも制服者の列車をドイツに行かせまいと抵抗しているのである。

ヴァルトハイムはラビッシュに言う。

「お前が守った物の価値さえお前には理解できないだろう」と、またヴァルトハイムはこうも言う。「美を征する者は美を理解できる者だけなのだ。お前などただの無価値な肉体に過ぎないのだ。何故、お前は列車を止めようとしたのだ?それすら答えられまい。」

ラビッシュには絵画の価値よりもその為に殺された人たちの命の価値の方が高いということしかわからない。観客もラビッシュと同じ感想を持つに違いない。

ラビッシュの答えはマシンガンの引き金を引くことだった。

 

ヴァルトハイムはナチズムもしくは圧制者の象徴だがその言葉は深く理解が難しい。

その国の文化を征する者がその国を征することができる。文化とその所有者である人間の精神が同期していることをヴァルトハイムは知っていたのだろうか。古今東西、征服とはそういうものなのかもしれない。

ラビッシュには最後までその考えは具体的に理解はできない。

対抗することは奪われた何かを取り戻すことなのだろう。しかし、それは何なんだろうか?

ここではヴァルトハイムが勝ったのか、ラビッシュが勝ったのか観ている私たちはよくわからなくなる。『鉄路の闘い』とは根本から違った視点である。

 

銃 を捨て、ブラックの絵画が収められた木箱の前にラビッシュの血まみれの右足がアップになる。絵画のために流された血の意味。何のための抵抗だったのか?転 がるドガ、ルノワール、ピカソなどの絵画が入った木箱と銃殺された一般市民、機関車の車輪・・・・ラビッシュは取り戻したものを置き去りにして一人、延々 と続く道を歩いて去ってゆく。ヴァルトハイムの問いかけに対して答えが出せないままに。

フランケンハイマーは抵抗にすらノーと言ってしまう。

絵画の価値と人間の価値を比較した途端に抵抗は価値を失う。

圧制者の中にもそれに圧せられる弱者の視点を見出したルネ・クレマンの視点とも全く違っている。

 

これは単にこの映画に対する私の解釈に過ぎない。

ヴァルトハイムの問いかけには無数の答えがあるのかもしれない。

 

少なくともこれは反戦映画なのだから根本は『鉄路の闘い』とはそもそも違っていて当たり前なのだが。

 

この映画のオリジナルは前編英語だが、フランス版はフランス語、ドイツ語に吹き替えられていた。ヴァルトハイム大佐やヘーレン少佐はドイツ人だがフランス語も話す。美術館長はドイツ語は話さないが聞いて理解できている。鉄道員たちはフランス語しか話さない。

フランス版は征服者と非征服者という関係以外にインテリ(軍人と美術館長)とレジスタンス(労働者階級)という「階級」も垣間見れて興味深かった。フォン・ヴァルトハイムは名前が示している通り恐らくプロイセンのドイツ貴族だ。

驚くのはヘーレン少佐役のドイツ人俳優ヴォルフガング・プライスで、彼は英語版では全て英語を、ドイツ版ではもちろんドイツ語で、フランス版ではフランス語とドイツ語で自身の声で吹き替えている。

『イングロリアス・バスターズ』のランダ大佐役のクリストフ・ヴァルツも英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語を流暢に操っていたが、中央ヨーロッパの俳優(特にベネルクス三国とドイツ、オーストリア)の映画での言語能力の発揮のされ方にはいつもながら驚かされる。

 

★ 『大列車作戦』のドイツ版DVDジャケット。オリジナルのジャケットと違って機関車に付いていた鉤十字が消されている。ドイツでは映画の中での鉤十字を表 すことは芸術的観点から認められているがポスター、チラシ、こうしたジャケットでの表示は法によって禁止されている。このDVDには本文に書いたフランス 語音声版が収録されている。★




 

ルネ・クレマンの映画って言われれば『太陽がいっぱい』が思い出される。

『太陽がいっぱい』は傑作である。しかし、その原点は『鉄路の闘い』だ。

この二つの映画は形こそ違えど抵抗の映画なのだから。

 

僕がルネ・クレマンの作品で一本選べと言われれば何の迷いもなく『鉄路の闘い』を挙げる。

映画ファンから絶えず忘れられがちなこの作品の力強さは今も全く色あせていない。

アンジェイ・ワイダの『地下水道』も捨てがたいし、ロベルト・ロッセリーニの『無防備都市』も忘れられない。しかし数多く存在するレジスタンス映画の中でも僕はこの作品が最高傑作だと信じている。

 

鉄道と戦争の関係は切っても切り離せない。

侵 略戦争では占領地への軍事物資の物資補給には欠かせないし、占領し統治した場合、征服者はインフラ整備のために鉄道を敷設しようと試みる。すでに鉄道が完 備されている国を占領したならその機構を征服者は利用する。管理者は変わっても鉄道を運営するのは征服された国の人々だ。蜘蛛の巣の様に広がる鉄道網の完 備が領土を確実なものとする。

1871年のドイツ統一も鉄道網の急速な発展によってもたらされたし、日本の大東亜戦争も元はと言えば満州に おける鉄道の利権が遠因だった。張作霖爆殺事件、柳条湖事件、そのいずれもが鉄道が関係している。征服者にとって20世紀初頭の戦争では鉄道が大きな鍵を 握っていたことは確かだ。

戦争を遂行する側にとって鉄道が重要であるのと同時に、それに抵抗する側にとっても同じである。

 

1945 年のルネ・クレマン監督による初の長編映画『鉄路の闘い』はフランスの鉄道レジスタンスの活動を描いた作品だ。実際に闘ったフランスの国鉄抵抗委員会のメ ンバーを俳優として起用し、実際に行われた活動を再現した記録映画的劇映画である。しかも終戦と同時に製作され公開された。

出演者は全員が素人だがルネ・クレマンは素人の国鉄レジスタンスから並の映画俳優以上の演技を引き出して延々と淡々とその活動と表情を捉える。

 

1944 年、連合軍のノルマンディー上陸によってドイツ軍は鉄道で最前線となったフランス北部へ軍事物資を輸送しとするのだが、フランス国鉄レジシタンスたちがこ れを妨害してゆく物語。アプフェルケルンと呼ばれる戦闘車両輸送作戦を知った鉄道レジスタンス「国鉄抵抗委員会」のメンバーたちは組織的にこれを徹底的に 妨害する抵抗活動を開始する。集中管理室で妨害工作を行う者、機関車を破壊する者、線路を破壊する者、無人列車を走らせる者、自ら銃を持って装甲列車と戦 う者。様々な方法でドイツ軍側が疲れ果ててしまうほどに妨害を繰り返す。主人公らしき人物はなく、集団群像劇でレジスタンスという集団が主人公なのだ。そ して抵抗の絶え間無い継続、これがこの映画のリズムだった。

ルネ・クレマンは後に仏英独のスターを散りばめたレジスタンス映画『パリは燃え ているか』(1966年)を撮った。この作品も集団群像劇になっていたが、如何にも劇映画的だった『パリは燃えているか』に対して『鉄路の闘い』は全く異 色だ。『パリは燃えているか』で音楽を担当したモールス・ジャールは「レジスタンス活動とは絶え間なき継続である」と語り、ショスタコーヴィッチの「第七 交響曲・レニングラード」風の延々と同じ旋律が繰り返される劇伴音楽を付した。『鉄路の闘い』はまさにその抵抗継続のリズムが映像で貫かれている。抵抗活 動以外にドラマらしいドラマも全くないのだ。絶え間無い抵抗がこの映画のドラマなのである。

 

破壊活動のためにドイツ軍に逮 捕された6人のレジスタンスが壁に向かわされて銃殺される。一人の男の表情をカメラは捉え続ける、男の視界に入る壁を這う蜘蛛、機関車のギイギイと軋む 音、機関車の煙、銃殺のドイツ語の号令、銃声、倒れてゆく同志、銃殺に抗議する機関車たちの汽笛の音・・・モンタージュと効果音が死に向かわされた名も無 き一人の男を焦点にして恐ろしい緊迫感を描き出す。

 

サボタージュで停止してしまったアプフェルケルンの車両。護衛のドイツ兵たちは軍服をだらしなく脱ぎ捨てたりして暇を持て余し日向ぼっこをしたり、昼寝をし、つかの間の食事を楽しむ。ドイツ兵が弾くアコーディオンのドイツ民謡のメロディー。戦争とは無縁の牧歌的風景。

圧制者としてのドイツ軍を表象するのは劇伴音楽。重いホルンの演奏でナチスの闘争歌であり党歌だった『ホルスト・ヴェッセルの歌』の旋律。ホルスト・ヴェッセルのメロディーは今でこそ誰も気づかないだろうが当時のフランス人や占領下にあった人々には忌まわしい音楽だった。

線路が修復し、武装レジスタンスを撃退したドイツ軍はアプフェルケルンを発進させる。

しかし、再びレジスタンス闘士の不屈の破壊活動で列車は転覆させられ、戦車を満載した11両の車両は崖から次々に転落する。

アコーディオンが無意味な音を発しながら崖から転げ落ち、やがて音は消える。

ドイツ兵たちの死を暗示したシーンだが妙に哀れさを感じさせるシーンだ。

 

ルネ・クレマンは圧制者とそれに圧迫されている人々を区別している。アコーディオンを弾いいていたドイツ兵にクレマンの敵への憎悪は感じられない。この辺りが抵抗映画として他の作品とは決定的に違う視点だ。

僕 たちは『太陽がいっぱい』のアラン・ドロンを何故か憎めない。同時に『パリは燃えているか』のドイツ軍パリ防衛司令官フォン・コルティッツ将軍(ゲルト・ フレーベ)にも同様の感情を抱かさせる。連合軍に連行される彼の荷物のトランクがパリ民衆に奪われて無茶苦茶にされるシーンにも哀れさを感じさせる。

そこには圧せられる弱者への視点がある。(フォン・コルッツ将軍はヒトラーのパリ全市破壊命令の圧力に反して命令を無視して連合軍に投降した。)

 

壁を這う蜘蛛、アコーディオン・・・。

『鉄路の闘い』には映像作家ルネ・クレマンの基本となる思想が全てあるのではないだろうか。

それは弱者への視点であり、憎むべきは圧するシステムであるということなのかもしれない。

圧政のシステムと圧制者を唯一の敵として闘う弱者の絶え間無い継続という抵抗。

その中に敵の中にも圧せられた者がいるということをクレマンは忘れない。

 

 

中古DVD屋で100円で買った。2008年のビデオ用映画。

僕は上島竜兵という芸人を知らなかった。

ある地方の村で村長選に立候補した芸人上島竜兵をアメリカのTV局が密着取材して日本の政治や選挙を痛烈に批判したドキュメンタリー作品というキャッチにすっかり本気になっしまった。

DVD を鑑賞する前に上島竜兵について予備知識を得ようとインターネットで検索したが選挙戦出馬の記録が全くない。ダチョウ倶楽部というお笑いグループのメン バーである以外には何も出てこなかった。DVDを回し始めてようやくこれがヤラセのドキュメンタリーだとわかった。ちょっとレベルは違えど今村昌平の『人 間蒸発』の様な手法の作品だ。こういう手法は別に珍しくもない。しかし、何か違うものを感じて二回鑑賞した。

お笑いなのだけれど、笑えるところは極端に少ない。終始陰鬱でそれが余計にリアルだ。

 

こ の作品を作った映画作家を僕は知らない。しかし、ここで描かれている無軌道な選挙戦は誇張でも何でもなく、地方行政におけるリーダーとそのスタッフの支配 と被支配の構造が驚くほどよく描かれている。リーダー(ここでは村長候補の上島竜兵)の思いつきの決断や独裁的態度に従わざるを得ない竜兵会のスタッフ。 彼らの中にその責任の擦り付け合いや半目が生まれる。その選挙戦の裏で行われる「いやらしい」権力と階級の対立と呆れるほどバカバカしく思いつき以外の何 ものでもない無軌道な政策の表側には柔かに村民と接する上島候補とスタッフの姿がある。

 

無茶苦茶な裏側を覆い隠すリーダーと取り巻きの表の顔の欺瞞。簡単に騙されてしまう村民。同じく無茶苦茶な裏側を持っている現職候補。上島を取材する日本の空気が読めない狂言回しのアメリカ人レポーター。

レポーターが馬鹿の一つ覚えのように繰り返す日本語「スベってる」がこの地方行政の支配構造のバカバカしさをを言い表している。誰ひとりとして責任を取らない議会制民主主義とマスコミ。

終始、スタッフ竜兵会に高圧的で感情的な独裁者、上島竜兵候補が権力の座についたとき無軌道な選挙戦のツケが回って破局する。

しかし、繰り上げ当選するであろう現職村長の下でこの村は何も変わらず、上島候補と同じ支配構造で無起動ぶりをしかも巧妙に裏で発揮し続けるのであることは明らかで村民は再び欺かれ続ける。

 

レ ポーターも選挙事務所も消えてしまったラストシーンは場末の旅館の宴会場で竜兵会メンバーの笑いを買いながら局部をウイスキーのボトルで隠しながら全裸で 踊る上島竜兵の姿がある。裸の王様の喩えで済ませてしまえるオチかもしれないが、上島のブヨブヨした腹の出た身体が丸出しになった時に独裁者や支配の本質 が結局はこんなものかと思わされる。恐るに足りない一個の醜い肢体である。ロシアの映画監督アレクサンドル・ソクーロフの『モレク神』でドイツの大衆を強 姦し続けたあのヒトラーが丸裸になってエヴァ・ブラウンとのベッドを共にする際にあまりにも無力なダメ男になった。あのインパクトに限りなく近いものがあ る。

最近のお笑いは意味がない。しかしこの映画には僕たちが気づいていない地方行政の真実の姿がある。権力や支配の陳腐さがある。この映画自身が陳腐であればあるほど、さらに権力と支配は陳腐に思えてくる。

上島を笑っている僕たちの方こそ笑われているのではないかという錯覚にも陥る。

映画として賞を取るような立派な作品ではないと誰もが認めるし、中古屋で100円で売られても仕方がないのもわかる。

でも、100円で終わらせるには惜しい作品だと感じた。

最近の中国との緊張関係を見ていると本当に危険だと思う。

日本の軍事行動がここまで緊迫しているのはミグ25が北海道に亡命目的で飛来したベレンコ中尉の事件以来じゃないかと思う。

尖閣諸島周辺では艦隊が睨み合いをしている。

この渦中においても我々は戦争なんか起こらないだろうと思っている。

いや、そう信じたいと思っている。

 

誰も戦争なんか欲してはいないから起こるはずもないと思っている。

でも、戦争というものは僕たちが予想もしていない小さなことで爆発するものの様だ。

サラエボでハプスブルク家の皇太子に向けられた数発の弾丸がヨーロッパをあの戦争に巻き込んだのだ。

盧溝橋の数発の銃弾が8年に渡るあの恐ろしい戦争を起こしたのだ。

銃弾が放たれた後でもみんなが戦争は起こるまでに解決されるだろうと思ったに違いない。

人間は本能的に死に近づきたくないから。

でも、戦争は起こった。我々の意思とは別のところで目に見えないままそれは始まっている。

戦争をするかどうかを決める権利も自由も僕たちにはない。

天災の様に戦争が起これば我々は運がよければ生き残り、運が悪ければ死ぬ。

天災は止めることはできない。戦争もまた止めることができない。

特に日本の場合は世間という目に見えない掟に縛られているから戦争をすると言われれば、みんながするのだからしなくてはならないと考えてしまうだろう。

戦争に行かなければ死刑だと言われれば戦争に行くしかない。

そこにも我々の選択肢はない。

普段我々に奉仕しているはずのすべての機関がたちまち僕たちを死地へ追いやる機構に変貌する。

囲い込まれた僕たちが逃げる場所がない。

戦争が近づいていることを知っているのは誰もが感じている。

でも起こらないだろうと思っている。

それは罪なのか?

そうではない。我々があまりにも無力だからだ。

ではどうすれば強くなれるのだろうか?

戦争に坑する力はどこに隠されているのだろうか?

どの道を通っても戦争を起こせば集結した時に「戦争さえなければ・・・」と誰もが思う。

逃げ場のない台風や地震や洪水の様にあの時に災害がなければと誰もが思う。

少なくとも戦争は自然現象じゃない。人間が作ったものだ。

それならば破壊する事が出来るかもしれない。

しかし、どうやって?

 

子供たちへ十分な教育が必要だと思って来た。

しかし、それが間に合わないうちに戦争は起こるかもしれない。

 

今、僕たちは本当に危ないのだと子供たちに伝えなくてはならない。



「あんたらには恐らく想像もできないだろうが、戦争では人は簡単に死ぬんだ。タバコ吸ってて話していた戦友が次の瞬間飛んできた弾に当たって直ぐに 死体になる。隣にいた奴の頭が無くなっている。そんなもんだ。でもなあ、人間は不思議となかなか死なんもんだよ。南の島の海岸で僕らは敵の直撃弾を受け た。僕は大した怪我をしなかったが、煙が消えたら戦友の一人が泣いている。何か腹に抱えてさ。見ると奴の腹が裂けて飛び出した腸を拾って抱えたまま泣いて いるんだ。もうひとりの兵隊は下顎が吹っ飛ばされたが意外に気丈夫で日本手ぬぐいで頭に向かって縛って血を止めた。僕たちは無我夢中で腸を抱えた戦友を寝 かせて、砂だらけの腸を腹の中へ押し込んだ。ほんで、持っているものを全部使って腹を縛って塞いだんだ。僕が奴を背負って。前進しなくちゃいけない。放っ てもおけない。みんな大怪我で生きているのが不思議なくらいだったわ。一日か二日も経って奴を野戦病院に預けた。今でも生きてるよ。戦友会で会ったが酒飲 んで布袋さんみたいな笑顔で『俺の腹の中にはあの海岸の砂がジャリジャリ詰まってるんだ。』なんて言ってたよ。あのことは忘れられんね。戦争では人間は簡 単に死ぬけど、反対に簡単には死なないもんなんだなあ、人間ってものはね。」

 

小学生の時、1970年頃、太平洋戦争に従軍した経験を持つ人から聞いた話である。淡々と語る生と死の話が僕に鮮烈な印象を残した。この話は今でも思い出すことがある。その光景を連想してしまう。生々しい話だった。

 

戦場の死に様は映画の戦死の様な形式的なものではないだろう。僕たちが戦争報道で見るものは破壊された建物や難民、敗残兵、爆撃される街の遠景。そんなところだろう。

第 二次大戦中のフィルムを編集したドキュメンタリーには撃たれた兵士が倒れたり、崖を転げ落ちてきたりといったショッキングなシーンを目にすることがある。 しかし、それ以上のものはない。バラバラに四散したかつて兵士だった人間の肉塊をわざわざ見せようとも記録しようとも思わないないものらしい。

南京大虐殺や三光作戦の写真も残っていないと言って良いほどない。そんなものは撮影が禁止されていただろうし、撮影されても公開はされない。戦争はそういったものだ。

だから、『西部戦線異状なし』のパウル達の様に戦場に来たとき初めて「死に様」を見る。しまったと思ったときはすでに遅い。それまではそんな残酷な結末が待ち受けているとは思いもしなかっただろう。分かっていたらまさか志願などしないのだから。

漠然と戦争が恐ろしいと我々は思っているだけで真の恐ろしさを戦争を体験していない者にはわからない。海岸で砂だらけになった腸を抱えたまま呆然と泣く兵士の姿を知っているなら威勢の良い軍歌を歌ったり、提灯行列をしたりは出来ない。

 

たった一人の人間が鉄道自殺しただけでその現場を見た人は酷いトラウマを抱える。

僕の友人もそうだった。

なのに戦場ではそんな死に様がゴロゴロしているのだ。そのリアリティから我々は逃れ続けている、いや逃れさせられ続けている。

 

ベトナム戦争では過酷な人間の死に様が報道写真やフィルムで明らかになった。その事から一気に反戦行動が銃後のアメリカ本土で燃え上がった。以後、この経験を活かしてアメリカは戦時報道規制を強化して行く。

国家にとっては戦争の死に様は是非とも覆い隠さなければならないことなのだ。

実際に戦場で戦争の死に様を見てきた人達が積極的に語れば良いではないかという人もいるだろう。

事はそう単純なものではない。

実際に見た人たちの口は重い。

鉄道自殺の死に様でさえ人は語りたがらないものだろう。

僕自身も原爆資料館で小学生の胸で受け止めたショックを消化して他人に伝えることなど今でも難しい。

戦争の死に様は語ることも見ることも難しい。

恐怖を植え付けるのは簡単である。見せれば良い。

しかし、戦後の日本は衛生展覧会で梅毒の恐怖を喧伝出来ても平和イベントで戦争の恐怖は喧伝できないままで来た。

 

そうなると我々は真に戦争を知ることが出来ないということになる。

 

僕たちは人間だ。だから戦争は嫌いだ。戦争の死に様なんか見たくない。

しかし、それを見るまではわからない。

 

延々 と続いてきた戦争の歴史の中でも近代に我々が経験した「戦争の死に様」はすでに人間の運動神経を超えている。手足を動かす数万倍の速さと、拳や剣を振るう 数万倍の力で1秒間を切り刻んだ隙間を突いて人間は粉々に吹っ飛ぶ。しかも、その切り刻まれた時間がその何億倍の時間を費やして生きてきた者をバラバラの 無意味な有機体の塊にしてしまう。チャーチルが語ったように大量殺戮戦争以前のアレクサンダー大王やシーザーの戦争には栄光やロマンを幾らか見出すことは 出来たかもしれない。少なくとも戦争は人間のものであり、人間の死を持っていたから。しかし、人間の時間と力を超えた今の戦争では死に様でさえすっかり変 わってしまった。

それはもう我々の生理的限界を超えている。

なのに我々は戦争は人間のものだと思っている。

人間が制御できるという幻想を抱き続けている。

国家と国旗を守るために銃を取れと若者をアジる評論家や漫画家は「戦争の死に様」を見たとき平然としていられるだろうか?

そこへ行った時には既に遅いのだ。

嫌でも見なくてはならないのだ。

 

「きれいな戦争」しか知らない我々が「汚い戦争」の「戦争の死に様」を知るにはどうすればよいのだろうか。

その答えを見つけることは難しい。

 

しかし、少なくともそれを体験してからでは何もかもが遅すぎるのだから。

何かを考えなくてはならないのだ。