1998年、PC用ゲームソフトを提供してきたマイクロソフトは画期的な商品を発売した。「フライトシュミレータ98」がその一つでウィンドウズ 98に対応していた。プレイヤーがバーチャルでパイロットとなり旅客機を操縦するというものだ。航空機の操縦はかなり緻密にデータ化されており飛行の特性 を無視すれば墜落もする。燃料も制限がある。離着陸にも十分注意を払わなくてはならない。多くのプレイヤーは離陸してコース通り飛び、目的地に無事着陸す ることを楽しんだ。このソフトの面白さはもう一つあった。ちょっとCGグラフィックの技術のあるものなら自分の好きな航空機のデータを作ってゲームに追加 出来ることだった。さらにはデフォルトのゲームにはない空港や風景も作って加えることができた。旅客機や小型飛行機が主だったがやがて軍用機も登場し始め た。軍用機で飛行は可能でも武装はもちろん付いていないので飛ばすだけである。フライトシュミレータ98にはその様はギミックは想定されていなかったのは 当たり前の事である。

しかし、マイクロソフトは直ぐにユーザーのニーズを理解した。1999年、フライトシュミレータ98をベースに第二次 世界大戦の欧州戦線を再現した「コンバット・フライト・シュミレータ」を発売。「撃ちたい心を大切にしたい」というキャッチフレーズに乗って、これにより 航空機同士の空中戦、オブジェクトの破壊などが出来るようになった。さらには日本とアメリカのソフトメーカーが「太平洋戦争」を再現した追加ソフトを開 発。コンバット・フライト・シュミレータ」はたちまち大ヒットとなった。

 

ファンたちよって作られた数々の軍用機は海外に置かれた巨大なアーカイブのサーバーで公開されダウンロードできた。

2000 年には旅客機シュミレータ「フライトシュミレータ2000」が発売され地球丸ごとの地形が収録された。その一年後にはこれをベースに「コンバット・フライ トシュミレータ2パシフィック」が発売され、太平洋戦線が再現された。デフォルトはガダルカナルからニューギニア方面の飛行基地やシーナリー(風景)と ミッションが再現されているだけだった。元来、アメリカ人に向けて発売されたソフトだから太平洋戦争も米軍機に乗り込むプレーヤーの視点に立って作られて いた。

 

僕自身はこのソフトからデータ作りを始めた。デフォルト以外に離着陸可能なアドオン用の航空基地と風景をCGで次々 と作っていった。最初は難易度が高い作業だった。北千島から初めてアリューシャン、日本本土、沖縄、硫黄島、ビルマ、オーストラリア、フィリッピン、中 国、台湾、タイ、マレーシア、仏印、インドネシア、シンガーポール、オアフ島、ミッドウェイ、トラック島、セイロン島、満州・・・・ほとんどアジア全域、 第二次大戦中存在した航空基地の殆どを再現した。設置した基地だけで300以上は作った。気の遠くなる作業だった。同時に太平洋戦争に参加した日米のパイ ロットの手記、回想録、戦記や記録を集め回って調べ抜いて各戦闘を史実そっくりに再現したミッションを作成した。真珠湾攻撃から終戦の日の房総半島沖航空 戦まで、これも数百を超えるミッション・ファイルを作成した。それらのファイルは自分のサイトと海外サイトでシェアをした。

英語が多少出来たのと国際交流が本職だったのでたちまち海外ファンと仲良くなり、海外のクリエーターたちと共同でいくつものキャンペーンを作成した。世界中のプレーヤーが僕が作った航空基地を使用していた。

こ うした活動をしている人間は日本ではごく僅かで、機体を作る人が二人、機体の色を塗る人が一人、操縦席を作る人が一人、そして航空基地とミッションを作る のが僕という訳である。海外ファンからは「ニッポン5人のサムライ」と呼ばれた。努力が実って僕の航空戦再現ミッションと航空基地はサイトと共に雑誌 『Goods Press』で紹介された。TVでよく見かける高名な軍事評論家の方からも検証に役立ったとメールをもらった。

東宝映画の『ゼロファイター・大空戦』や『太平洋の翼』を再現したミッションも作ったりしてファンからさらに喜んでもらえた。

 

さ らに5人のサムライは共に力を合わせての共同企画として今度は追加アドオンソフトを作成、架空戦記的な企画でついに製品化し小さなソフトメーカーから発売 にまで漕ぎ着けた。ドラマは再現できないのでプレーヤーが感情移入できるように自ら小説を書いて配布した。それほど儲からなかったがみんな満足だった。

 

この時、僕が個人的にミッションを作る際に絶対しない事を決めていた。

 

1.史実にはない架空のミッションを作らないこと

2.日中航空戦のミッションは作らないこと

3.特攻隊のミッションは作らないこと

 

3.はどんなに乞われても作らなかった。

その根拠は特になかったが特攻隊を再現するのは非常識であると漠然と思っていたからだ。

 

そんな時、ある日本人のファンがとんでもないキャンペーンの追加ソフトを作り出し、海外で公開した。

「原爆投下ミッション」である。

プレイヤーは原爆を搭載したB29エノラゲイ号を操縦し、広島上空へ行き目標に原爆を投下して離脱するというものだった。原子爆弾はリアルに閃光やキノコ雲まで再現されていた。

これはたちまち人気アドオンとなった。

他の4人のサムライはこのミッションを解析して技術的にすごいと感心していたが、僕は原爆ミッションを作った者が許せなかった。しかも日本人が作ったのである。

 

すぐさま自分のサイトで原爆、特攻ミッションを許すべきではないという声明を出した。

 

しかし、周辺の目は極めて冷ややかだった。何故なら米軍のドゥーリットル爆撃隊の東京初空襲をミッションで再現して作った人間が原爆にだけ過剰に反応するのはおかしいというわけである。

原爆は許されず他の航空戦や戦闘を再現するのは自ら許している僕の態度はおかしいというのである。

 

ミッドウェイが良くてヒロシマはいけないのか?

 

確かに戦争で遊んでいることにおいてはどちらも同じなのである。

自らを弁護するなら、僕は自分で作った再現戦闘がきちんと機能するかどうかだけ確認するためにプレイするのみで、遊ぶためではなかった。残された航空兵の手記や回想録を使って、どこまで当時の航空戦をシュミレート出来るかが興味の対象だったのだ。

 

爆弾を落としてもゲームの中では人は死なない。それが分かっているから僕たちは爆弾を投下する。

機銃で敵機を撃ってっもパイロットが死んでいるわけではない。だから僕たちは引き金を引く。

しかし、ゲームでも実戦でも戦争である以上は人は死んでいるのである。

一機でも多くの敵機を落とそうとする。敵飛行場を、軍需工場を破壊しようとする。

そこには落ちる飛行機や爆砕する建物しか見えない。

殺人を実感できない。

僕が作った太平洋戦争の戦闘再現で実は数万の人間がゲームの中で死んでいたのである。

二年間も費やしてその事にはっきりと気づくのが何とも遅かったと思ったものだ。

他人が作った原爆ミッションでキノコ雲の下での被爆者の阿鼻叫喚の地獄に初めて結びついた。

折しも作成中だった「沖縄航空戦」を中途で投げ出した。

その後、サイトを閉鎖しコンバット・フライト・シュミレータをやめることにした。

まるで歴史を再現する探究心のみで、僕にとっての戦争は人間不在だった。

 

その年の冬、サイパンへ出かけ今も残る戦跡を巡った。

以後、海外旅行は戦跡巡りとなった。

 

マ イクロソフトの「コンバット・フライト・シュミレータ」から戦争シュミレーションのPCゲームはたくさん発売された。兵士同士の銃撃戦、部隊を動かす指揮 戦、戦車戦、海戦・・・。ある程度リアルでシュミレーションができる内容だったが今日ではポケットに入るサイズで更に戦争ゲームは単純化され、誰にでも大 量殺戮が容易になった。

 

結局、戦争ゲームから学んだことは単純だった。

人間が死ぬという視点を失えば人間は簡単に引き金を引けるかもしれないという可能性だった。

以来、戦争ゲームには痛みと罪を感じて出来なくなってしまった。

 

ゲームは映像である。

米軍が空からナパーム弾でベトナムのジャングルを焼き払う映像を観る感覚に似ている。

そこでベトナム人たちが火に焼かれる姿が再現されればそれはゲームではなくなる。それは間違いなく戦争である。

 

逆に言えば戦争とは人間の死に様を自ら見なければ絶えずゲームでしか有り得ないということなのだ。

 

原爆資料館も人間の死に様について1970年代に比べて資料は極端に減った。盧溝橋近くにある中国抗日戦争記念館も然りである。

 

惨殺され吊り下げられたムッソリーニの死体の映像に恐怖しても、原爆のキノコ雲にそれほどの恐怖を感じるだろうか?

 

戦争を知ることはまず生ける者の死に様を見ることにほかならないのではないか。

 

研究にそれをどれほど感じられるのか、取り入れるのかは今後の課題になりそうだ。



昨日、山本薩夫の『真空地帯』を観た。おそらく10回目かそれ以上だろう。今回も考えさせられるところが多くあった。人間についてであった。

 

ま だ、進級と決まったわけではないが、新しい研究段階に進むために僕はここでもう一度戦争と人間についてしっかりと考えておきたい。研究では戦争を学問の範 疇で考えてきた。どんな研究書を読んでもやはり研究は研究なのであってそこに甘いセンチメンタリズムは許されない。学問とは冷徹なものだと最初は思ったも のだ。しかし、その僕自身がいつの間にか戦争のあの忌まわしさや涙を堪えられない苦しみを忘れてしまった。

ふと気がつくと新しい発見に喜々としている自分がいる。

そんな自分に気がつくと随分と自己嫌悪に陥ったものだ。

戦争の史実には幾多の死があり血が流れている。

家族を失った人々の涙が流れている。

何十年と苦しんでいる心優しき人々がいる。

それを僕は時折忘れる事があって自分自身が情けなく思うことがあるのだ。

俯瞰することはとても重要だがそれを続けているといつしか人間の痛みを忘れてしまう。

航空機からの空爆のごとく空からは爆発する爆弾の爆炎雲しか見えない。

その下には阿鼻叫喚の地獄絵図があったはずである。それを忘れてしまう。

センチメンタルになったのでは学問は出来ない。多分そうなのだと思う。

南京大虐殺の犠牲者が4万人だとか30万人だとか言う論争。中をとって20万人くらいでしょうという研究者。

そうした本に幾分かの憤慨を覚えていた僕自身がそれに従順になってしまった気がする。

もちろん、著者たちが冷血漢だなどと言いたいのではない。彼らとて悩んでいるのだろうと思う。

慣れてゆく事の怖さを感じるだけだ。

事実とは何か?

史実とは何か?

戦争とは何か?

歴史学の研究書ばかり読んでいると僕は殆どわからなくなる。岩波ジュニア文庫の戦争体験が綴られた本をいつも繰り返して読んでいたが、いつの間にか軽視している自分に気がつく。

これではいけない。

人間を見なくてはならない。戦争は人間のものだからだ。

 

僕は30万人の死者という数字よりも一人の惨殺死体を見ることの方がより大きいと思う。

東 京の活動家の人々のボランティアに参加した時も南京事件の映画をより多く上映することを目標とされていた。立派な活動だと思って参加したが、右翼に如何に 勝つかという事が問題になっていた。映画の上映のあとの宴会で、彼らは「勝った」という言葉をしきりに使っていた。勝つとはどういうことなのか?僕はそこ に何かしら違和感を感じた。自分がいるべき場所ではないのではないかという気分にさえなった。

戦わなければ理想を勝ち取ることは出来ない。

理想のためにはいかなる方法でも闘いたいと思う。人や動物の命を奪うことなく暴力を否定しながら。

 

しかし、勝つこと自体がが目的になればそれは戦争に他ならない。

勝つためには憎悪が必要になる。

 

以前の恩師から叱咤されたことがあった。

「あなたがこの研究に身を投じたのは歴史修正主義者に対して腹がったったからでしょう?!」

この言葉にもやはり違和感を感じた。確かに最初はそうだったかもしれない。

インターネットではネット右翼からの憎悪に散々晒されてきたから怒っていたかもしれない。

しかし、そうではないのだ。

9歳の時に広島で観た被爆者の写真の数々が僕に「疑問」を投げつけてきた。

僕の闘いの原動力は「何故こんな酷い事が人間が同じ人間に対して出来たのか」という激しい怒りだった。

アメリカを憎むわけでもない。ナチスを憎むわけでもない。この辺は説明が難しい。

ただモヤモヤした怒りだ。

人間に対する怒りだ。

自分自身もその人間であるという怒りだ。

 

修 士論文で一部取り上げたアイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』も最初はそうした怒りから出発したのだろう。ところが著者が取材過程で「功名の野 心」と「戦争に対する憎悪」が判別できないほど入り乱れてしまっている。この著者もそうした戦争に囚われた果ての犠牲者なのだ。その姿勢に対して批判を加 えた自分もまた何をしているのか自分ではよく認識している。新しい物の見方を見つけようとする努力がいつしか勝つことになってやしまいか?それを感じる僕 がどこかにいる。

 

新たな研究に踏み出す前にもう一度、初心にかえって戦争を考えてみたい。

今日からしばらくノートに自分にとっての戦争観を書き綴ってみたいと思う。

答えは出ないだろう。しかし、スタートラインに今一度立って自分を点検したいと思うのだ。





学徒のつぶやき


論文で暇のない最中だが、これは書かずにはおけない。

どエライ本が出たものだとちょっと開いた口が塞がらない。

 

 学習まんがは子供たちに教科書よりも影響を与えるものだと思っている。僕自身も近現代史に興味を持ったのは小学生の頃、学習まんがからだった。視覚 から入ってくるから理解しやすいし感情に訴えてこられる。教科書のような検定もないから自由に表現できる。教科書に書けないことだって学習まんがには掲載 できる利点もある。1970年代から現在に至るまでの各社の学習まんがを集めて満州事変から太平洋戦争終結まで発行された年代と版で付き合わせてどう表現 されているかを去年調べていた。主に全集として12巻から20巻組の詳細な歴史学習まんがを出してきたのは集英社、学研、小学館が三巨塔。大月書店が同程 度の規模で一回発行しているが、あまりにも偏りすぎて逆に歴史が見えない欠点を持っていた。最も良いのが新装版となって、絵や内容がガラリと変わっても偏 らずわかりやすいのは集英社のものだ。学研、小学館は歴史学論争で争点になるところは出来るだけ避けて通ろうとする傾向がある。特に学研版の去年まで出て いたものは「南京大虐殺」すら触れていない。


 小学館版は「南京大虐殺」が松井石根司令官の知らぬところで勝手に行われたという事まで書かれていて、これはこれでスゴイと感心したものだ。

少なくともどの出版社であろうと国民の生活がそこに描かれていた。ブルジョアとプロレタリア、庶民の生活。現行の集英社版『日本の歴史18アジア太 平洋戦争』秀逸で僕は最も良い本だと思っている。世界恐慌によって末端の庶民がどれほど影響を受けたとか、日中戦争で勝利を喜ぶ国民庶民の姿がある。モス リン争議もワンカットだけ登場する。労働運動も軍部も政治も庶民の生活も、また上野動物園の殺処分にされた動物の物語も含まれている。原爆もキノコ雲で各 社がすり抜けた処を被爆者の悲惨な姿も見せる。玉砕する兵隊たち、バンザイクリフから身を投げる婦女子たち。学徒動員・・・。戦争で苦しむのは庶民なのだ ということがその根底に据えてある。

 これは重要なことだ。教科書の字面からは見えてこない胸を打ち、誰が被害者なのかが明確になっている。

大小の差はあれど、学習まんがとはそういうものだと思っていた。

2011年には成美堂、朝日学生新聞社から、今までのボリュームの半分にも満たない「毒にも薬のならない」薄っぺらな学習まんがが相次いで発売されたがどうにもコメントのしようがないほどバーチャルでゲームっぽい内容だった。

 

 しかし、先月の2012年11月27日に発売された学研の新版には驚かされた。

 今日、買ってきて読んだが、庶民の暮らしや戦争に巻き込まれる人間の声や姿はそこにはないと言っていいほど描かれていない。

 大正デモクラシーも芥川、夏目、平塚がやたら出てくるが同じ文人でも小林多喜二は出てこない。恐慌に伴う労働争議も治安維持法も特高も出てこない。

大正末期から終戦まで、この漫画の主人公は天皇ヒロヒトなのだ。

 ほとんどのページにスマートで精悍な人間臭いヒロヒト天皇が出てくる。軍部の暴走に激怒し、また憂い、涙し、木戸内大臣を通じて美濃部に言葉伝えたり・・・。焼け跡を視察して暗たんたる気分に陥って終戦を決意する・・・。

今までの学習漫画に天皇が登場するのは太平洋戦争前の御前会議と終戦の御聖断の部分くらいのものだった。


 しかし、この漫画では庶民の苦悩の代わりに議会民主制を破壊する軍部との葛藤に苦しむ天皇の姿しかない。

 別に天皇を英雄視することを問題にしているのではない。

 これを読むのが何万人もの子供達だということを問題にしているのだ。

 これでは戦争の悲惨さは全く通じて来ない。

 天皇は苦しんだ・・・そうだったかもしれない・・・しかしそれもわからないことだ。

 それをこの様なヒロイックに表象してもいいのだろうか?

 天皇は常に政治的な道具だった。

 天皇が良い人だとしても、それを使う政治家がいる。天皇は「非常事態」以外に使い道がない道具として珍重されてきたわけだ。


 考えてみよう・・・この漫画を読んで、天皇はヒーローで正しき人で悪い軍部の独走に苦しんだ気の毒な人だと子供たちが考えたら、そに共感する未来の大人が増えたら、政治家は天皇を再び神輿に祭り上げて独裁を欲しいままにすることさえ可能にあるのではないか?

 小林よしのりのゴーマニズムを読んでにわか右翼になる若者は戦争になっても絶対銃を持って戦わない。大人だから損することがわかっているから。


 でも、子供は違う。

 子供には普通の人間を教えなくてはならない。自分と同じ高さの人間でないと比較できないからだ。

 しかし、間違いなくこの本は子供に影響を与える。

 歴史学習まんがを「こんなものは研究にはならない」と言う人もいる。

 僕は絶対そう思わない。

 子供はまんがを読むのだ。アニメを見るのだ。

 未来は子供為にあるのだ。そのヒントを与えるのは我々なのだ。

 子供は大人の所有物ではないのだ!

 大人の政治的幸福のために子供を巻き込んではならない。

 折しも中国では今年、抗日鉄道員ゲリラ「飛虎隊」に憧れた3人の子供たちが子供飛虎隊を結成して日本軍の鉄道網を破壊する小英雄TVドラマ『小小飛 虎隊』が大人気だ。カンフーで拳銃で、子供たちが日本兵を西部劇のインディアンか戦争映画のドイツ兵のようにバタバタ倒してゆく。

これを見たときは悲しかった。


 過去にも抗日アニメ「抗日小奇兵」とかあったが最近はこの手のものがなくなってホッとしていたのにちっぽけな島一つで日中双方が子供を狂わせようとしている。


 子供には手を出すなと心から叫びたい。

 どの時代にも最も弱いものから犠牲となるのだから。





 

今回の論文執筆に意外や役に立ったCD。ドイツで発売されているニュルンベルク裁判の被告証言の録音CDだ。写真はリッペントロップだが他にゲーリ ングやカイテル、シュトライヒャー、など数々ある。ほぼ全部揃えていたがあらためてこんなものが売ってるドイツはすごいなあと思った。

もちろん、研究者向けではない。これは一般のドイツ国民に向けた書籍の一つなのだ。

 

以前、の職場でドイツのフライブルク市から来た議員や役人の人たちからたびたび尋ねられた事がある。

どうしてこの様な大きな都市ななのに市立劇場、市立音楽堂がないのだ?市立劇団や市立楽団がないのだ?

彼らが語るのは文化は大衆の最も近くに存在していなくてはならないという事だ。

日本の伝統芸能だって大衆の身近にはない。

 

何でも西欧社会がいいと感じるのは明治維新に退行してしまう考えだから決して肯定は出来ない。

しかし、文化については違う。

西欧の文化が日本より優れているというのもでもない。

日本の文化は素晴らしいしそれはこの国の財産だ。

ただ、それを扱う側の問題だと思う。

日本は近代以降、日本は西欧文化を取り入れてそれに肩に並べることをまで出来るようになった。

音楽だったら日本の小唄や端唄といった庶民の音楽とジャズを組み合わせる試みなども発明できたし、素晴らしいことだと思う。市丸の『三味線ブギ』がカーネギーホールで万雷の拍手だったことなどその表れだろう。

 

しかし、問題はそこからだ。

 

書籍を例にとればヨーロッパでは日本では日本では誰も読まないような専門的な昔の名著が150円位で買える。絶やさず出している。しかも安く。

日本では出版されていてもバカ高く、あるいは何十年も絶版のままだったりする。

CDや映画DVDも過去の映画は殆どドイツでもアメリカやでも大概は未だに出ているものが大量にある。日本で発売されていない地味な映画なんかもアメリカ、イギリス、ドイツなどでは発売されていたりする。

市場の大きさも関係するのかもしれない。しかし、日本はこうした文化の保管をあまり意識していないと思えてならない。

文化の奥行きの広さとその物量は国民の質に関係する重大な問題だ。

安いのは受験参考書だけじゃないか!

国民に安く幅広い文化を!

流行のサイクルに翻弄され、なんでも絶版にしちゃう過去の文化遺産を顧みない日本人はどうしたものだろう。

文化人としての日本国民は西洋の文化人には勝てないのは当たり前の様な気がする。

 

ちょっと、そう感じる今日この頃である。

 

 

ドイツにはこんなCDもある!クラウゼヴィッツの『戦争論』朗読CD。

 

むかしむかし かみさまがいいました

おやすみ みんな

やさしい わたしのこどもたちよ

 

むかしむかし かわうそがいいました

おねがい かみさま

くろくまのうでに てつぐさり

おやすみかわうそよ くろくまのうでは

もうはねた

 

むかしむかし くまどもがいいました

おねがい かみさま

かわうそがこざかな あらします

おやすみくまたちよ かわうそたちは

もうひにくべた

 

むかしむかし かみさまがいいました

おやすみ みんな

やさしい わたしのこどもたちよ

 

『ヒルダの子守歌』

深沢一夫作詞 間宮芳生作曲・編曲

増田睦実歌唱

 

1968年公開の東映まんが映画『太陽の王子ホルスの大冒険』にはいつもスタジオ・ジブリの宮崎駿が付きまとう。曰く「ジブリの宮崎アニメの原 典・・・」云々・・・。徳間書店から発売されている、ジブリのアニメ絵本シリーズにも『太陽の王子ホルスの大冒険』が収録されているが、これはおかしい。 ジブリと『太陽の王子ホルスの大冒険』を同系列に置くことには違和感を感じて仕方がない。確かに監督が高畑勲、作画監督が大塚康生、画面設計が宮崎駿なの でアニメーション映画としては後に結成されるジブリの系譜に組み入れられることになるのだろう。しかし、爽快で感動的で、反保守的な顔をした全体主義の文 化装置と何ら変わらない構造を持った『風の谷のナウシカ』と比べても思想的な底流においては『太陽の王子ホルスの大冒険』とは全く違う。

宮崎駿は学生運動を経たマルクス主義的な映像作家であるはずなのに、ファシズム的な表現を好む。何故なら宮崎駿のアニメーション映画を観た後に感じ るのはゲッベルスお抱えのファイト・ハーランやハンス・シュタインホフといった映画監督の作品を鑑賞した後のあの言い知れぬすっきりした高揚感と鑑賞者の 期待に応えてくれる喜びを覚えるからである。作品を楽しんだ、そのさらに後に何か誤魔化されている様な感覚に襲われる。言うまでもなく、『北の谷のナウシ カ』や『天空の城ラピュタ』は東映まんが映画『太陽の王子ホルスの大冒険』の大きな影響を受けている。しかし、それは単なる枠を真似た亜流であり、しかも 『太陽の王子ホルスの大冒険』の思想的主題の優秀さをなんら引き継ぐことなく、まるで逆の方向へ行ってしまった感がある。高畑勲と宮崎駿が常に評価され て、その原点としての『太陽の王子ホルスの大冒険』があるのではなく、そこで分断されるべきである。ジブリ作品は求めるものを大衆に与えるだけでそこに 「抵抗」はない。

宮崎アニメの英雄は常に英雄であって、自己の内なる敵をも持たない。ナウシカたちはシュタインホフが描いた共産主義者の一団と闘う英雄、ヒトラーユーゲントのクヴェックス少年と何ら変わらないからである。

 

『太陽の王子ホルスの大冒険』が傑作である所為は内なる敵の克服と抵抗を描いたからで、これは原作、脚本、挿入歌の歌詞を手がけた殆ど無名に近い作 家深沢一夫の存在が大きい。深沢は中学校を中退して靴職人として修業する労働者という社会階層に属する一方で人形劇団で演劇を学び、シナリオを手がける様 になった労働者演劇人である。どのようにして会得したのか深沢の思想的底流の鋭さは『太陽の王子ホルスの大冒険』で如何なく発揮された。深沢はこの原作と なった人形劇を先に製作しており、それはアイヌの伝承物語から想を得たものであった。映画では海外への輸出を考慮して北欧風の架空の北国に設定を変更して いる。

 

そして、この作品の中核の主題は『ヒルダの子守歌』の存在に尽きるのだ。

 

上に挙げた歌は劇中で悪魔に滅ぼされた村でたった一人生き残った孤独な少女ヒルダが歌うものだ。竪琴を奏でながらソプラノで歌う『ヒルダの子守歌』 は他の村々の人びとを魅了する。しかし、実はヒルダは悪魔グルンワルドが村を攻略するための先兵で、村に入り人々に美しい歌声で労働意欲や危機感を失わせ る役割なのだ。『ヒルダの子守歌』はファシズム、特にナチズムの社会構造を自ら明かしているのだが歌声の美しさのみに心奪われる村人たちにはその意味が読 み取れない。娯楽を与え、求めるものを与え、一方で互いに見えない部分で力を失わせ眠らせる。『ヒルダの子守歌』はファシズムの子守歌に他ならない。この 歌一曲で全体主義の矛盾した支配構造を表現し、それが歌声という娯楽という全体主義の文化装置として挿入されているのである。常に娯楽を与えて眠らせる、 麻痺させるという手法はナチズムの最も得意としたある意味で秀逸な政策だ。しかし、全体主義の文化装置としてのヒルダの中には実は内なる敵がある。それは 人間性という情愛という敵である。ヒルダは誰にも愛を向けないがある日、自分の腕の中で眠りに落ちた小さな女の子を抱きしめるという一体化から、内なる敵 と戦うことになる。

一方のホルスにも内なる敵がある。ヒルダと同じ過去を背負ったホルスは悪魔の存在と来襲を人々に警告するが、村人たちは信じようとはしない。常に集 団で判断し、ホルスを信じたかと思えばまた疑い、村から追い払う。ホルスは絶えず正義で真っ直ぐな少年であるように見えて、実は心の中に内なる敵が潜んで いる。それは権力に固執する村長やその地位を狙うドラーゴ、すぐに態度を変える群衆としての村人たちへの不信感と怒りという敵である。グルンワルドによっ て迷いの森に落とされたホルスは戦うか死ぬかの幻想の中で内なる敵に葛藤する。ヒルダの声がこだまする「ヒルダはみんなをバラバラにする」。この言葉でホ ルスは自分の単独の正義では戦えず、村人をを蜂起へ導くことは出来ないことを悟るのだ。グルンワルドを倒すたった一つの武器、太陽の剣を村人が起こした火 で、すべての村人の力で鍛えなおせばそれが甦ることをことを知るのだ。

 

ヒルダは心がバラバラになった村人の中で、無垢な少女を抱きしめることで内なる敵と戦うことをはじめ、ホルスは単独で闘うのをやめ、悪魔と闘う村人たちという群衆の一人になる。

 

悪魔の来襲にみんなの力で鍛え直した太陽の剣を振りかざし、蜂起した村人たちは村から悪魔を追い出し、さらに追撃して。ついにはその本拠地へ攻め込み悪魔グルンワルドを倒す。

 

ホルスを、ヒルダを、村人たちを「バラバラ」にしたのは何だったのか?

 

劇中の人物はホルスを筆頭として最後まで誰も『ヒルダの子守歌』の意味を解こうとはしない。

この作品が再評価され始めたのは1980年代の宮崎駿作品の再評価とほぼ同時期だった。いわゆるアニメファンたちは「どうしてこんなにエグイ歌詞な のか」とそのアンバランスさを指摘していたものだが、深沢の最も訴えかけたかったものは劇中人物もスクリーンの前にした観客も誰も気づくことのないこの 『ヒルダの子守歌』の恐ろしさであったに違いない。

 

『ヒルダの子守歌』を見抜くには一人一人の内なる敵との葛藤が必要であり、それが同期した時、子守歌の眠りから目覚めやがて大きな抵抗と蜂起にな る。これがこの映画の主題だったのではないだろうか。子守歌は本来残酷な伝承に基づくという通俗的な解釈ではとても説明できない鋭さがある。

 

驚くべきは深沢一夫という、この挿入歌の作詞を手がけた作家の筆の力とその底流にある思想のすごさである。同時に子供たちにこの様な主題をまんが映画で真摯に訴えかけた時代のすごさでもある。

 

実際にこの映画は多大な経費とスタッフ、時間を要したため東映は制作を打ち切らせて制作体制をバラバラにしたがスタッフは再度集結し三年の月日を経 て公開された。キネマ旬報の『日本映画大全集』では「労組的作品」と評された。まさに作品自体も「抵抗」そのものであった訳だ。

 

技術が如何様に進歩しようとも、表現が素晴らしくなっても、銀熊賞を取ろうとも、アニメーション映画はまんが映画より退化し続けている。

それはその本質が『ヒルダの子守歌』と化してしまったからではないだろうか。

 

「日本人は美しい花を造る手を持ちながら、いったんその手に刃を握るとどんな残酷極まりない行為をすることか。」

 

怪獣映画における「抵抗」の主題は木村武脚本による東宝映画『マタンゴ』(1963年本多猪四郎監督)で頂点を極めたが、その後1965年以降は TVドラマの普及によって、同じ東宝系の流れをくむ円谷プロダクションのTV番組にそれは引き継がられる。沖縄出身の金城哲夫、上原正三、革新派の佐々木 守という三人の異色の作家によって次々と傑作が生まれた。

 

恐らくウルトラマンのシリーズで未だ最高傑作と呼べる作品は『帰ってきたウルトラマン』の第33話『怪獣使いと少年』だろう。在日コリアン問題を病 に倒れた宇宙人とそれを守る孤児の少年を絡めた物語。沖縄人というアイデンティティを持つ上原正三の脚本だが、彼の少数派の抵抗という主題は東條昭平とい う若手の監督によってさらに先鋭化された。当時、これでは放送出来ないと撮り直しまで迫られたのは有名な逸話だ。

すでに語りつくされた感のある、本作品だが冒頭に挙げたセリフについては言及されたことがない。

セリフが示す通り「日本人」がこの作品のテーマなのだが、その部分については評論する者は意識しないのか底流にある「差別問題」のみに目を奪われが ちだ。沖縄人への差別を在日コリアン差別に写し、さらに宇宙人差別あるいは敵視へ持って行った上原正三の発想は誰もが恐らく簡単に読み取れることだろう。 しかし、東條昭平はそれでは許さなかった。地球人と宇宙人という二極化した敵対関係ではなく日本人と宇宙人という二極化によって日本人を批判することに執 着したのだろう。これは「抗日」以外の何物でもない。

 

セリフは宇宙人だと噂されて差別と迫害にあっている佐久間良少年を救う様に郷秀樹隊員(団次郎)が伊吹隊長(根上淳)から命じられるシーンの伊吹も のだ。ところが上原の脚本『キミがめざす遠い星』にはこのセリフはない。恐らく撮影段階で東條監督が付け加えたものだろう。脚本のでは他の隊員やレギュ ラー出演陣がすべて登場するが、映像化された作品は郷秀樹、伊吹隊長以外は中学生から少年への虐めを強要される傍観者として次郎君が登場するだけで、すべ て排除された。ストーリーはそのままだだが、登場人物が減少している。

MAT(モンスター・アタック・チーム)で事件に絡むのは郷隊員と伊吹隊長だけである。

 

なぜ、脚本にあったレギュラー陣が排除されたのか?そこからは単純な回答が導き出せる。

偽善的日本人は必要ないのだ。

上原正三の脚本中、レギュラー登場人物の一人、坂田建(岸田森)が郷秀樹に語る次のようなセリフががある。

 

「おれが小学校の頃、おれはアメリカ人との合いの子にされたことがある。おれがアメリカ兵に道を教えているのを目撃したやつがいいふらしたんだ。坂田は英語がペラペラだ。そういや鼻が高く日本人離れしている。目もどことなく青い・・・(苦笑)」

 

これは坂田建という日本人の体験の言葉だ。しかし、日本人にこうした差別体験を語らせることは許されない。差別や排除を普遍化することは日本人批判 をむしろ単純に薄めてしまうだけなのだから。何故ならこの作品が抵抗すべき敵は地球人ではなく日本人なのだから。『怪獣使いと少年』には物わかりのいい立 派で優しい日本人は必要とされない。むしろそれはこの作品の主題を曖昧にしてしまうのだから。

伊吹隊長と郷秀樹はもちろん、劇中では日本人である。しかし、伊吹隊長を演じる根上淳はオーストリア人を祖父に持ち、郷秀樹を演じる団次郎はドイツ 人を持つという「非日本人」的要素をもった俳優だ。坂田のセリフの様な「合いの子された」のではなく、「合いの子である」視点からしかこの迫害は語れな い。

上原の潜在的な願いである沖縄人と日本人の共生の希望的主題は東條が叩き壊して再構築してしまったのだ。

 

「日本人は美しい花を造る手を持ちながら、いったんその手に刃を握るとどんな残酷極まりない行為をすることか。」

 

このセリフの着想は単純に考えればベネディクトの『菊と刀』だ。しかし、映像作家、東條昭平が意識したのは恐らく柴田錬三郎の時代小説『剣鬼』の中 のエピソード『人斬り斑平』さらにはその映画化作品、1965年の三隅研次監督、星川清司脚本、市川雷蔵主演の『剣鬼』ではないだろうか?

出生のいわくから犬っ子と蔑まれた斑平が、人から蔑まれぬように一芸に秀でる技を身に着けよと養父の遺言によって花造りの技を会得し、その腕を見込 まれ登城を許される身となる。やがて、斑平は見知らぬ浪人から居合の技を伝授され、その腕前を見込まれて藩内に潜入する公儀隠密を切る人斬り役に抜擢され る。花と刃。どちらも斑平という一人の男なのだ。それが矛盾していないことがむしろ驚きなのではなく、日本人は本質的にそうなのである。抑圧を受けるも の、花を造るもの、人を斬るものが一人に集約された『剣鬼』は基本的に日本人を批判するものではない。斑平が併せ持った三つの存在から迫害される者を切り 離すことによって『怪獣使いと少年』は『剣鬼』より強い意味合いを持ってくる。本来、差別され敵視されリンチされるべきは宇宙人だが町の人々は佐久間良少 年を宇宙人と噂して迫害する。抑圧の外に宇宙人は枠外に置かれている。これは日本人の本質的な問題であると『怪獣使いと少年』は問いかけてくるのである。 差別という事柄から見るのではなく、日本人という自分たちの内面に目を向けることが最も最優先事項であるという主題なのである。

最終的に少年をかばうために病をおして群衆の前に「宇宙人は私だ」と名乗り出たメイツ星人、金山は警官に射殺される。

「日本人は美しい花を造る手を持ちながら、いったんその手に刃を握るとどんな残酷極まりない行為をすることか。」

斑平が持ち合わせた三つの「差別」「花造り」「人斬り」が融和しながら均衡を保っている日本人がその融和の葛藤から枠外へはみ出したとき、「残酷極 まりない行為」にいたる。それは明治維新以来の歴史を辿るべくもなく今も我々日本人が見つめなおさなくてはならない忘れられた課題なのだ。

日本人である少年は宇宙人の疑惑は晴れた。しかし、父とも慕うメイツ星人、「おじさん、金山」が殺されたことで、メイツ星人が地中に埋めて隠した宇宙船を探してシャベルで土を黙々と掘っているシーンでこのドラマは終わる。

宇宙船に乗ってメイツ星へ行くために・・・それは日本人でなくなるために・・・。

 

東條昭平はこの作品で干され、その後の作品でこの様な主題の作品は一切作らなかった。

 

私事だが、以前仕事で「子供たちのための国際理解講座」を行うため中学校を回っていた時、『怪獣使いと少年』を教材として使っていた。世代は違うと 言えど彼ら中学生はよく理解してくれていたと思う。内なるものへの批判はシステムにすっかり取り込まれる諦念の前に素直に受け取れるという事だろうか。

ウルトラマンというオブラードに包んだところで「それ」は変わらず動かない。

今の時代の作品にオブラードもなければ「それ」すらない。

 

今だからこそ、この作品はもう一度、見直さなければならないと思う。



 

ネオンサインが街の夜を彩る様になったのは1920年代からだそうだ。今では珍しくなくなったネオンサインを最初に見た人々は驚きをもって眺めただろう。

ネオンサインは夜の都会の顔となったが、ネオンサインは広告として、あるいは看板として機能するもので暗闇に光を与える実用性は持たない。派手で目 立つことが要求される誘いの光である。だから、それはガス灯や水銀灯の光とはまた違った妖しい光を放つ。誘蛾灯の様に人々を誘う夜の街の享楽の道しるべで もある。そのネオンサインの数だけ都会は消費の発展の象徴としてのバロメータにもなるかもしれない。ともかく、目立つこと、人を引き寄せることを要求され るネオンサインは人々を誘惑しなければならない。派手であれば派手であるほどその効果は増大し、そのネオンサインの重なりがサイケディックで猥雑な姿を街 に与えている。「ネオン街」という言葉が時折り「色町」を指すこともネオンサインの猥雑さを示している様に思う。ネオンサインの下には豊かな食糧があり、 人を酔わせる美酒があり、女たちの淫靡な誘惑が溢れている。そこに誘われて集まる雑多な人間の種は一つの無統制な集団を形成する。食欲と性欲を満たしてく れる快楽と共に、それを補う美酒。ネオンサインは享楽と猥雑の象徴なのかもしれない。またネオンサインは消費社会の乱雑さが人間を飲み込む「誘蛾灯」とし ての象徴なのかもしれない。こういうゴミゴミした人間交差点の上に輝くネオンサインの下に長くとどまれる訳もない。しかし、ネオンサインが灯る一夜の快楽 は女性の誘惑にも等しく甘美で魅惑的だ。

山本薩夫監督の映画『不毛地帯』で道頓堀のグリコのネオンサイン、官能的な女性を描いた看板を重ね合わせたカットに、壱岐正の疲れた表情のオー ヴァーラップは壱岐が抑留されていたシベリアの荒漠たる真っ白い雪原と対照をなしていて秀逸な場面だった。そんな雰囲気を漂わせる怪獣映画が存在した。

 

時代と社会に抵抗し葬られる日本舞踊の家元とガス人間を描いた映画『ガス人間第一号』の脚本を手がけた木村武の最後の傑作が1963年8月に公開さ れた東宝映画『マタンゴ』だ。以後、木村武は馬淵薫というペンネームに改名し、5本の東宝怪獣映画の脚本を手がけたが、本来の反社会的抵抗のメッセージは すっかり失われたようだ。ペンネームの改名には何か方針の転換があったのかもしれない。

 

映画『マタンゴ』は無人島の新種のキノコ「マタンゴ」を食べると、食べた人間の体にキノコが生え、最後にはキノコ人間になってしまうという設定。怪 獣映画というよりも恐怖映画の趣が強い。テレビで初めて放映された時は『マタンゴ』では怪獣好きの子供にはアピールできないためか新聞欄には『恐怖の毒キ ノコ怪獣・マタンゴ』というタイトルで掲載された。第二次怪獣ブームで日本中の子供たちが怪獣に夢中になっていた1970年頃だ。当時、これを観た子供た ちは相当なトラウマを持ったようで「大人になっても椎茸が食べられない」なんて話はよく耳にしたものだった。

さて、この『マタンゴ』はウイリアム・ホープ・ホジスンの古典的幻想小説『闇の声』を原作(原案)にし、SF作家の福島正美が潤色した原作小説を書いた。オブザーバーとして星新一も名を連ねている。

物語は都会のゴミゴミした世界から抜け出そうと、一人を除いて社会では比較的高い階層に属する男女七人が休日にヨットで海に出る。ヨットは嵐に遭遇 し漂流を余儀なくされる。幾日も流されたのちに無人島に漂着する。そこには原爆実験の調査のためらしき船の残骸があり、七人はここで生活を始める。島には ほとんど食べるものがない。難破船にあったわずかな缶詰を分け合いながら生き延びようとするも、やがて彼らの間には飢えと情欲が支配し始め、食料と女を奪 い合うようになる。秩序は崩壊し、一人また一人とジャングルに姿を消してゆく。ジャングルの中にはキノコが群生している。毒キノコであると難破船の航海日 誌に書かれていたにも関わらず、彼らの中にこのキノコを口にするものが増えて行く。キノコを食べると体にキノコが生え、やがて怪物マタンゴになってしま う。キノコを食べると麻薬の様な効果があり快楽と幻想に捉われる。一度口にしたらやめることができない。メンバーの一人、大学で心理学を教えている村井は 最後まで自制心を持ってキノコを食べないが、最愛の恋人までもがキノコの虜になり、救い出すこともできず怪物たちから逃れ出て、再びヨットで脱出を試み る。

 

映画はたった一人の生存者である村井の独白で始まり、独白で終わる。村井は精神病院に収監されていて、その体験談を医師たちが聞くという設定であ る。ロベルト・ヴィーネの古典表現主義映画『カリガリ博士』の影響が感じられる。福島が書いた原作小説も精神病院で始まり精神病院で終わるが、小説では白 壁の病室であり、医師たちはのぞき窓から患者を観察している。医師は村井が壁に向かって話している独白を聞いているということになっている。病室の窓の外 には濃い霧が立ち込めていて、その霧の様子は小説の最後にも描写される。福島の精神病院のイメージは山間部の社会から隔絶された場所であったに違いない。 しかし、映画は違っていて、都内の「東京医療センター」の精神科病棟となっている。巻頭で精神病棟の窓から見た街の風景が映し出され、それに都会の無機質 な雑音が被さる。そこにはネオンサインが毒々しく輝いている。病室は陰気な深緑の部屋で監獄の様に鉄格子に守られているのだ。そこで村井は囚人服の様なグ レーの患者衣を着せられて、一人窓の外のネオンサインを観ながら医師たちに背を向けたままで回想するのだ。

村井の信じられないような奇談の独白が終わるとカメラはゆっくりと窓の外の毒々しいネオンサインを捉えたまま終幕となる。都会の騒音を被せながら。

『マタンゴ』は社会の秩序と規範に縛られた、村井の言葉を借りれば「みんな人間らしさを失って」いる世界にちょっとした抵抗を試みた若い男女の顛末 を描いた物語である。昼間は社会の構成部品として働き、夜はネオンサインに惹かれて彷徨う。その繰り返しに対して抵抗を試みた・・・しかも休日という社会 が決めた規範の一部の枠の中で・・・その方法はヨットによる脱出であり、嵐というアクシデントから無人島へ漂着する。たった一人生き残った村井はまたネオ ンサインが取り囲む精神病院に閉じ込められてしまう。自由と享楽を求めた冒険の船出は結局はまた管理された社会に戻らざるを得ない残酷な運命が待ってい る。無人島には管理も秩序も無かった。そこにあったものは生きるための闘いであった。あれほど逃げ出したかった社会からやっと脱出できたのに、管理された 秩序に再び戻りたいと願う七人の矛盾した抵抗がそこにある。しかし、村井は最後に言っている。帰ってきて狂人にされるよりもあの島でキノコになって暮らせ ばよかったと。東京もあの島も同じではないかと・・・。

「郷に入らば郷に従え」とばかりに無人島ではキノコを食べて人間でなくなることがマタンゴの社会への参加であったということである。村井はキノコを 食べずに無人島の秩序と管理にも背を向けた。キノコを食べれば快楽も得られる。そこにもネオンサインが存在したのだ。人間社会にもマタンゴの社会にも抵抗 した村井が最後に収監されたのは鉄格子の精神病棟なのだ。毒々しいネオンサインの東京にも毒キノコの無人島にも属することはもはや村井には出来ない。この 社会秩序の抵抗の結果としての牢獄は『ガス人間第一号』で藤千代が収監された留置所、終幕で藤千代とガス人間水野二人だけが閉じこめられたホールと同じも のである。

「僕は食べなかったんです、一握りも」と言って振り返った村井の顔はどす黒いキノコの起伏によって顔が歪んでいるというオチが最後についている。

村井は結局、都会の人間社会にも無人島のマタンゴ社会にもその抵抗を貫徹できなかったのだというアイロニーが観るものに衝撃を与える。

福島正美の原作小説通りに、霧で始まって霧に終わっては『マタンゴ』は凡庸な幻想怪奇映画で終わっただろう。しかし、ネオンサインに始まりネオンサ インに終わる映画では管理社会への抵抗という主題を明確にしている。人は管理とネオンサインの中で蠢き、その閉塞した空間に抵抗してもそこからは脱出でき ない。『マタンゴ』は『ガス人間第一号』と同じ抵抗へのペシミスティックな視点に立っている。

ガス人間水野の「僕たちは絶対負けるものか」という最後のセリフには官憲たちが取り巻くホールを焼き尽くす紅蓮の炎を。村井の「東京だって同じじゃ ないですか。みんな人間らしさを失って」という最後のセリフにはネオンサインを。悲観的で絶望的だが木村武の抵抗の対象ははっきりしていた。

 

東宝怪獣映画における二大脚本家、関沢新一と木村武を特撮ライター諸氏はよく陽と陰で語るが、木村武の作品を考えるとき、「抵抗」あるいは「蜂起」というキーワードを用いれば決してそんな単純な図式では語れないと思えてならない。

 

付記:木村武脚本の最初の怪獣映画『空の大怪獣ラドン』では筑豊の炭鉱労働者とその生活が描かれている。その炭鉱から飛び出した原始怪獣ラドンが博 多の街を蹂躙し最後には阿蘇山で自衛隊の攻撃によって死んでゆく。ここにも「抵抗」の主題がどうやらありそうに思うが、怪獣映画のヨタ話はこの辺でやめて おこう。

 

蔵書整理をしているとポカンと頭の上に落ちてきたこの真っ赤な本。「おい、お前は俺の本を読んでないだろ」と言われたような気がした。

読みだすと止まらなくなった。これは今まで読んだ中国大陸における蛮行に関する本の中でも最も衝撃的だった。この本が書かれた時代の雰囲気を汲み取りつつ、不謹慎な表現をお許しいただけるなら、「アッと驚く為五郎~なに?」という感想である。

たいへん、内容は真摯で真面目だがその表現手法のユニークさはどうしたことだろう?四角四面の大真面目な人なら「不謹慎である!」と烈火のごとく怒るか、あるいはゴミ箱行きだ。

膨大な知識量を吸収して軽く吹っ飛ばして書き殴ってるかのようでそうではない。膨大な情報を絞りに絞った結果、交通整理してものすごく凝縮してアウトプットしているという印象である。真面目に読ませておいて急に著者の嫌味なツッコミが一言入る。

「南京事件」の件ではアイリス・チャンがあんなにシャチホコばって、必死の形相で講談師になったかの如く表現した懸命なあの何とも「疲れる」インパクトに対してこの本はわずか数ページで読者にスルッと伝えてしまう。

ジョン・ラーベらしき人物も登場するがその表現がわずか一行。しかし、これがすごい。

 

(略)南京十万の中国守備隊の抵抗を撃破して十二月十三日市内に乱入するや、殺しまくり、盗みまくり、火をつけまわり、女は十歳から七十歳まで手当りしだ いに犯しまくり、いやよといわなくてもあきれば殺し、中国軍、捕虜、一般市民と一週間ほど殺しまくることその数四十余万、同盟国のドイツ人まで、そのあま りのものすごさにアレーッと叫んだほどの蛮行であった。

 

平岡正明はこうした日中戦争の残酷行為や戦闘行為を筒井康隆的戦争であると書いている。この見解には僕もたいへん共感をおぼえるものがある。平岡正 明の考えるところとズレはあると思う。しかし、南京事件の文献を読み漁っているといつも筒井康隆の短編『問題外科』を思い出すのだ。素っ裸で寝ていた看護 婦を患者と間違えて手術してしまい、散々弄んだ上で殺してしまう。その後で昼飯はどうしようかとか手術する予定だった患者は誰がやったんだろうというオチ だったように記憶しているが、戦争における残酷行為の証言には異常な環境における「狂気」では説明できない理由のない日常がある。

 

この本はいたって真面目な本である。研究者からは批判の的になるだろうが、この本は折り目正しい研究書に決して負けたりはしない。筆の力と研究者に 引けを取らない圧倒的な知識量と、柔軟な政治、歴史、文化を取り込んで練りこんだコンクリートで作った土台にどっしり建てられている。

 

特に感銘を受けたのは補論の『日本映画人による上海戦の記録』だ。戦時記録映画として作られながら今も評価が高い亀井文夫の『上海』を中心に論じたものだったが、素晴らしいの一言だった。

 

思想系には至って知識量のない僕だがこの本の知的情熱には右派、左派を超えた奇妙な力を感じて仕方ない。



 

劇場には観客が客席を埋め、劇のカーテンが下がるや万雷の拍手が贈られる。

スポットライトを当てられた役者たちは高揚感と疲労感が入り混じった汗と笑顔で挨拶を観客に送る。

ホールはこの役者と観客との間に共感という奇妙な相互関係で一体となる。

シェイクスピアの喜劇は結婚で終わり、悲劇は死で終わる。

いずれにせよ、ホールは変わらない。ホールを取り囲む世界も変わらない。

それが何ら抵抗を感じさせない有り触れた光景なのである。

しかし、「抵抗」という名のホールではそれは通用しないのかもしれない。

それはお金もなく、未来もなく、やつれ、傲慢化した戦後社会に若い男女が二人が聞いた風音の「未完成交響曲」が流れた日比谷公会堂の様な場所なのかもしれない。

 

香山滋の手によって滅びゆく少数派の「抵抗」の一つの象徴となって、1954年に映画館に姿を現した怪獣ゴジラが権力の象徴である国会議事堂をなぎ 倒した後もその後を継ぐ者は続々と現れた。木村武(後に馬淵薫とペンネームを改名した)の脚本による東宝怪獣映画には常にその主題が根底にあった。しか し、松竹の『宇宙大怪獣ギララ』、大映の『大怪獣ガメラ』、日活の『大巨獣ガッパ』、さらには海を越えて韓国の『大怪獣ヨンガリ』やイギリスの『怪獣ゴル ゴ』などゴジラの亜流映画にはそのスピリッツはなかった。20世紀の二つの大戦争を経て性懲りもなく21世紀という未来の開発への科学への過信と自信に支 えられた作品が殆どだった。『大巨獣ガッパ』と『怪獣ゴルゴ』を除けば、ほとんどの作品が科学と人類の英知が勝利する。ゴジラと芹沢博士の「抵抗」と「滅 亡」のペシミスティックな視点はどこにもない。唯一、香山滋が撒いた種に花を咲かせたのが木村武だった。脚本家になる以前は日本共産党に所属し、「運動」 を実践していた左派の作家だった。もちろん、彼は留置所という名の牢獄にぶち込まれた経験すら持っている人物である。

 

木村武の東宝SF怪獣映画路線で最もその傾向が顕著に表れたのは1960年の東宝作品『ガス人間第一号』(監督:本多猪四郎監督)だった。

大学に行けず憧れの航空自衛隊にも入隊できなかった図書館で働く青年、水野(土屋嘉男)が科学者に騙されて人体実験を受け、体が気体状になってしま う。人間にもガスにも自由に変身できるようになった水野は科学者を殺し、落ちぶれた日本舞踊の家元、藤千代(八千草薫)と出会う。ガス人間水野は彼女をも う一度、日本舞踊の世界に押し上げようと考える。そのための発表会を開くための資金作りに水野が取った方法は犯罪。特異な体質を十分に利用しての銀行強盗 だった。しかし、札の番号から藤千代が銀行強盗の共犯容疑で岡本警備補(三橋達也)ら警視庁の捜査班に逮捕される。藤千代を釈放する様に水野は自らガス人 間であることや犯罪のテクニックを明し、発表会は絶対に行うと宣言する。ガス人間の正体という特ダネとりに躍起になる新聞社、ガス人間を面子にかけても逮 捕したい警視庁、水野と藤千代を保護して研究をしたい科学者たち、例え不法であっても藤千代を世間に押し出そうとする水野。こうして、それぞれの利害がぶ つかり合いながら物語はガス人間水野と社会の対決と展開して行く。藤千代は元の直弟子たちから流派の再興を手伝うことを条件にガス人間水野と手を切ること を勧めるが藤千代は「わかっているの」と答え、申し出を断る。女性新聞記者の「愛しているんですか」という問いにも藤千代は「どうしようもないんです」と 答えるだけである。

発表会当日、警察がチケットを買占め、ホールに爆発性のガスを充満させ藤千代を救いだした上でガス人間水野を爆殺しようと試みるが、配線が切断され て失敗する。藤千代と水野だけの発表会は終わり二人はがらんとしたホールでしっかり抱き合う。「僕たちは絶対負けるものか。」という水野の背中で藤千代は ライターを点火させ、ホールは爆発、紅蓮の炎に包まれる。黒こげになった背広を引きずりながらガス人間が這い出してやがて水野の姿に帰る。消防車の放水の 水にずぶ濡れになった水野の遺骸に花輪がバッサリと倒れかけ映画は終わる。

花輪が覆いかぶさる幕切れは本多猪四郎監督があまりにも悲惨なので付け加えた演出であるがこれは少々疑問を感じる。

 

藤千代の「わかっているの」「どうしようもないんです」という曖昧な答えには慎重な意味が隠されている。藤千代は水野を愛していたのかというとこの セリフからはそうは思えない。藤千代と水野を結びつけているのは時代や社会の階級から転落したという立場の共感でしかない。これは悲劇的な結末を迎える愛 情劇ではないのだ。警察の刑事や機動隊、新聞記者や野次馬、科学者たちが遠巻きに取り囲んだホールの中で時代と社会から転落した二人が閉じ込められてい る。「僕たちは絶対負けるものか」と言いながら藤千代を抱きしめる水野は「勝った」と思っていただろうか?否、二人は社会の「普通」と思われている社会の システムに抵抗しながらも最初から滅びることを、あるいは敗北することをもちろん予期していたのだろう。周囲をぐるりと包囲されたホールには出口はない。 ホールは時代と社会に拒絶された二人を隔離し、滅亡を促す空間でしかない。観客の万雷の拍手もない本来の機能を失ったホールは負け犬の牢獄なのだ。しか し、二人が本当の負け犬であったのかどうかは誰にもわからない。「ガス人間は死んだでしょうか?」という岡本警部補の問いに科学者の田宮博士(伊藤久哉) は「どうして爆発したのかもわからないんです」と答える。

もちろん、爆発は藤千代が点火したライターの火が引き起こしたのだが、この爆発こそ負け犬の牢獄の最後の抵抗なのだ。取り囲む人々にはそのことすら 理解できない。時代や社会に抵抗する者たちは絶えず藤千代や水野が閉じ込められた同じホールに押し込められている。それは死をもって爆死するほどの力でな いと抗しきれない閉塞感と圧迫感に満ちている。その中で何が起こっているかさえ遠巻きに見る普通の人々には理解できない。

藤千代とガス人間は敗北したのだろうか?少なくとも社会を少しでも震わせる抵抗を行ったことは事実だ。共産党を脱退し、脚本家に転身し、戦中戦後を 通じて保守的な映画会社であった東宝の文芸部でこの作品を書いた木村武の想いが「諦念」であったのか、あるいは「革命」であったのかはこの映画を観るそれ ぞれの人々の立場でしか理解はできないのかもしれない。

 

木村の抵抗と滅亡のテーマの回答を得るには、科学礼賛のSF大作映画『幼星ゴラス』(監督:本多猪四郎)を経て、さらに3年後の1963年の『マタンゴ』(監督:本多猪四郎)まで待たねばならない。

第二次世界大戦はいつ起こったか?その起点問題の定説は1939年9月1日のドイツのポーランド侵攻からである。その終結は日本のポツダム宣言受諾による1945年8月15日である。

 

しかし、中華人民共和国での研究者の一部では異なった見解が示されている。

 日本で「満州事変」と呼称される1931年9月18日に勃発した柳条湖事件を、あるいは1937年の盧溝橋事件を端に発する「支那事変」の発端 となった盧溝橋事件のいずれかを第二次世界大戦の起点とする説である。1985年に「中国・国際戦略研究基金会」が発刊した『中国版 対日戦争史録』によ れば1980年代に中国では柳条湖事件を第二次世界大戦の起点とする説を提起する一部の学者が存在するも、国際的な見解では1939年9月1日のドイツに よるポーランド侵攻をその起点としているのが大勢であると記している(同書34頁)。

中国の歴史学者、张培义は1980年の『山东师范大学学报』でこの問題を取り上げており、1979年7月7日に開催された初の中国全国規模の「第二次世界大戦史学術討論会」でのそれぞれの見解を紹介している。

中国の一部の学者の解釈は次の点である。

 

日中戦争は1935年のイタリアのエチオピア侵攻や1936年のスペイン内乱の様に比較的期間が短く解決した。対する日中戦争は1937年から大戦集結まで続いた。

 

日中戦争は第二次世界大戦が反ファシズムの戦いであるとするならば、その圏外に置くことはできない。

 

1939年のドイツのポーランド侵攻に至るまで、日中戦争に列強が何らかの形で加わっていた。

 

以上の理由から第二次世界大戦の起点は1937年の「盧溝橋事件」だとする説が妥当であるとしている。

 

確かに第二次世界大戦終結まで「日中戦争」は継続しており、早くからアメリカやイギリスが経済制裁などで介入していた。軍事への人的援助などを見て も中華民国空軍に送られたアメリカ陸軍パイロット志願兵(軍から離籍)と米国製戦闘機によるAVG(アメリカ義勇団・フライングタイガース)などは非公式 な米国の日中戦争への軍事介入だった。しかし、日中戦争は当時、日本が「支那事変」とか「日華事変」と呼んでいたように「戦争」ではなかった。盧溝橋事件 という地域紛争が上海に飛び火し、さらに第二次上海事変となり、支那事変となった。日中双方とも互いに宣戦布告を行っていない。地域紛争の限りない拡大し たものが日中戦争であり、蒋介石が日独伊に宣戦布告したのは太平洋戦争勃発の翌日、1941年12月9日となる。奇妙な話だが中国が第二次世界大戦に参加 した起点はここからと考えられる。しかし、実質、欧州と中国では1939年以来、血みどろの戦闘が行われていた。仮に宣戦布告がなかったとしても1939 年の時点で日中戦争が第二次世界大戦の範疇に入らないというのも不自然ではある。


いずれにしても、これは紙の上の論議でしかない。しかし、日中戦争を取り扱う場合この起点問題は見逃せない問題である。南京事件についての書『ザ・ レイプ・オブ・南京』(アイリス・チャン著)の記述の様に揚子江における米砲艦「パネー号」を日本海軍航空隊が誤爆沈した「パナイ号事件」を計画的な対米 抗撃と匂わすような表現は読者に誤解を与える可能性がある。第二次世界大戦起点問題は区分の問題でなく、各事件の性質の違いを明確にするためにも重要な事 項であるかと思う。