1998年、PC用ゲームソフトを提供してきたマイクロソフトは画期的な商品を発売した。「フライトシュミレータ98」がその一つでウィンドウズ 98に対応していた。プレイヤーがバーチャルでパイロットとなり旅客機を操縦するというものだ。航空機の操縦はかなり緻密にデータ化されており飛行の特性 を無視すれば墜落もする。燃料も制限がある。離着陸にも十分注意を払わなくてはならない。多くのプレイヤーは離陸してコース通り飛び、目的地に無事着陸す ることを楽しんだ。このソフトの面白さはもう一つあった。ちょっとCGグラフィックの技術のあるものなら自分の好きな航空機のデータを作ってゲームに追加 出来ることだった。さらにはデフォルトのゲームにはない空港や風景も作って加えることができた。旅客機や小型飛行機が主だったがやがて軍用機も登場し始め た。軍用機で飛行は可能でも武装はもちろん付いていないので飛ばすだけである。フライトシュミレータ98にはその様はギミックは想定されていなかったのは 当たり前の事である。
しかし、マイクロソフトは直ぐにユーザーのニーズを理解した。1999年、フライトシュミレータ98をベースに第二次 世界大戦の欧州戦線を再現した「コンバット・フライト・シュミレータ」を発売。「撃ちたい心を大切にしたい」というキャッチフレーズに乗って、これにより 航空機同士の空中戦、オブジェクトの破壊などが出来るようになった。さらには日本とアメリカのソフトメーカーが「太平洋戦争」を再現した追加ソフトを開 発。コンバット・フライト・シュミレータ」はたちまち大ヒットとなった。
ファンたちよって作られた数々の軍用機は海外に置かれた巨大なアーカイブのサーバーで公開されダウンロードできた。
2000 年には旅客機シュミレータ「フライトシュミレータ2000」が発売され地球丸ごとの地形が収録された。その一年後にはこれをベースに「コンバット・フライ トシュミレータ2パシフィック」が発売され、太平洋戦線が再現された。デフォルトはガダルカナルからニューギニア方面の飛行基地やシーナリー(風景)と ミッションが再現されているだけだった。元来、アメリカ人に向けて発売されたソフトだから太平洋戦争も米軍機に乗り込むプレーヤーの視点に立って作られて いた。
僕自身はこのソフトからデータ作りを始めた。デフォルト以外に離着陸可能なアドオン用の航空基地と風景をCGで次々 と作っていった。最初は難易度が高い作業だった。北千島から初めてアリューシャン、日本本土、沖縄、硫黄島、ビルマ、オーストラリア、フィリッピン、中 国、台湾、タイ、マレーシア、仏印、インドネシア、シンガーポール、オアフ島、ミッドウェイ、トラック島、セイロン島、満州・・・・ほとんどアジア全域、 第二次大戦中存在した航空基地の殆どを再現した。設置した基地だけで300以上は作った。気の遠くなる作業だった。同時に太平洋戦争に参加した日米のパイ ロットの手記、回想録、戦記や記録を集め回って調べ抜いて各戦闘を史実そっくりに再現したミッションを作成した。真珠湾攻撃から終戦の日の房総半島沖航空 戦まで、これも数百を超えるミッション・ファイルを作成した。それらのファイルは自分のサイトと海外サイトでシェアをした。
英語が多少出来たのと国際交流が本職だったのでたちまち海外ファンと仲良くなり、海外のクリエーターたちと共同でいくつものキャンペーンを作成した。世界中のプレーヤーが僕が作った航空基地を使用していた。
こ うした活動をしている人間は日本ではごく僅かで、機体を作る人が二人、機体の色を塗る人が一人、操縦席を作る人が一人、そして航空基地とミッションを作る のが僕という訳である。海外ファンからは「ニッポン5人のサムライ」と呼ばれた。努力が実って僕の航空戦再現ミッションと航空基地はサイトと共に雑誌 『Goods Press』で紹介された。TVでよく見かける高名な軍事評論家の方からも検証に役立ったとメールをもらった。
東宝映画の『ゼロファイター・大空戦』や『太平洋の翼』を再現したミッションも作ったりしてファンからさらに喜んでもらえた。
さ らに5人のサムライは共に力を合わせての共同企画として今度は追加アドオンソフトを作成、架空戦記的な企画でついに製品化し小さなソフトメーカーから発売 にまで漕ぎ着けた。ドラマは再現できないのでプレーヤーが感情移入できるように自ら小説を書いて配布した。それほど儲からなかったがみんな満足だった。
この時、僕が個人的にミッションを作る際に絶対しない事を決めていた。
1.史実にはない架空のミッションを作らないこと
2.日中航空戦のミッションは作らないこと
3.特攻隊のミッションは作らないこと
3.はどんなに乞われても作らなかった。
その根拠は特になかったが特攻隊を再現するのは非常識であると漠然と思っていたからだ。
そんな時、ある日本人のファンがとんでもないキャンペーンの追加ソフトを作り出し、海外で公開した。
「原爆投下ミッション」である。
プレイヤーは原爆を搭載したB29エノラゲイ号を操縦し、広島上空へ行き目標に原爆を投下して離脱するというものだった。原子爆弾はリアルに閃光やキノコ雲まで再現されていた。
これはたちまち人気アドオンとなった。
他の4人のサムライはこのミッションを解析して技術的にすごいと感心していたが、僕は原爆ミッションを作った者が許せなかった。しかも日本人が作ったのである。
すぐさま自分のサイトで原爆、特攻ミッションを許すべきではないという声明を出した。
しかし、周辺の目は極めて冷ややかだった。何故なら米軍のドゥーリットル爆撃隊の東京初空襲をミッションで再現して作った人間が原爆にだけ過剰に反応するのはおかしいというわけである。
原爆は許されず他の航空戦や戦闘を再現するのは自ら許している僕の態度はおかしいというのである。
ミッドウェイが良くてヒロシマはいけないのか?
確かに戦争で遊んでいることにおいてはどちらも同じなのである。
自らを弁護するなら、僕は自分で作った再現戦闘がきちんと機能するかどうかだけ確認するためにプレイするのみで、遊ぶためではなかった。残された航空兵の手記や回想録を使って、どこまで当時の航空戦をシュミレート出来るかが興味の対象だったのだ。
爆弾を落としてもゲームの中では人は死なない。それが分かっているから僕たちは爆弾を投下する。
機銃で敵機を撃ってっもパイロットが死んでいるわけではない。だから僕たちは引き金を引く。
しかし、ゲームでも実戦でも戦争である以上は人は死んでいるのである。
一機でも多くの敵機を落とそうとする。敵飛行場を、軍需工場を破壊しようとする。
そこには落ちる飛行機や爆砕する建物しか見えない。
殺人を実感できない。
僕が作った太平洋戦争の戦闘再現で実は数万の人間がゲームの中で死んでいたのである。
二年間も費やしてその事にはっきりと気づくのが何とも遅かったと思ったものだ。
他人が作った原爆ミッションでキノコ雲の下での被爆者の阿鼻叫喚の地獄に初めて結びついた。
折しも作成中だった「沖縄航空戦」を中途で投げ出した。
その後、サイトを閉鎖しコンバット・フライト・シュミレータをやめることにした。
まるで歴史を再現する探究心のみで、僕にとっての戦争は人間不在だった。
その年の冬、サイパンへ出かけ今も残る戦跡を巡った。
以後、海外旅行は戦跡巡りとなった。
マ イクロソフトの「コンバット・フライト・シュミレータ」から戦争シュミレーションのPCゲームはたくさん発売された。兵士同士の銃撃戦、部隊を動かす指揮 戦、戦車戦、海戦・・・。ある程度リアルでシュミレーションができる内容だったが今日ではポケットに入るサイズで更に戦争ゲームは単純化され、誰にでも大 量殺戮が容易になった。
結局、戦争ゲームから学んだことは単純だった。
人間が死ぬという視点を失えば人間は簡単に引き金を引けるかもしれないという可能性だった。
以来、戦争ゲームには痛みと罪を感じて出来なくなってしまった。
ゲームは映像である。
米軍が空からナパーム弾でベトナムのジャングルを焼き払う映像を観る感覚に似ている。
そこでベトナム人たちが火に焼かれる姿が再現されればそれはゲームではなくなる。それは間違いなく戦争である。
逆に言えば戦争とは人間の死に様を自ら見なければ絶えずゲームでしか有り得ないということなのだ。
原爆資料館も人間の死に様について1970年代に比べて資料は極端に減った。盧溝橋近くにある中国抗日戦争記念館も然りである。
惨殺され吊り下げられたムッソリーニの死体の映像に恐怖しても、原爆のキノコ雲にそれほどの恐怖を感じるだろうか?
戦争を知ることはまず生ける者の死に様を見ることにほかならないのではないか。
研究にそれをどれほど感じられるのか、取り入れるのかは今後の課題になりそうだ。