戦後、東宝映画をリードした名プロデューサー、田中友幸が日本初の怪獣映画の製作を決定した時、そのシノプスを田中自身もファンであっ た推理小説作家、香山滋に依頼した。香山は1946年に『オランペンテグの復讐』で推理小説雑誌『宝石』の懸賞で入選し、次作『海鰻荘奇譚』が日本探偵作 家クラブ賞を受賞し、1949年には職業作家としてデビューした新進気鋭の探偵小説作家だった。香山の作品はプリミティヴな素材、原始博物的なムードに怪 奇と妖艶さを加味した、一言では説明できない小さな奇談が多かった。その香山に壮大なスケールな怪獣映画の原作を依頼したのは田中友幸の嗅覚のなせる業で はあったかもしれないが、これは明らかに幸運なミスマッチな人選であったと考えられる。尤も、戦中、戦後において我が国では空想科学小説、探偵小説、怪奇 小説の境界線は不明瞭であった。『火星兵団』の海野十三といった作家のスタンスの延長線上に香山滋もあったのである。

ともかく、日本で最初の怪獣映画『ゴジラ』の原作を書くのは香山滋になった。香山の視点は彼の作品の主題でもある滅びの種族からのものだった。小説 『妖蝶記』や『ゴジラ』の後に続いた映画原作小説『獣人雪男』も滅びゆく種族の抵抗がその主題だった。時代に取り残され、新しい社会のシステムに適合でき ず孤立して滅亡して行く種族の悲哀が香山の作品の魅力でもあるのだ。原始怪獣という設定が香山とゴジラを田中友幸の構想の中で結びつけられたのだろうが、 このミスマッチは日本における「抵抗としての怪獣映画」という日本特有の特徴を生み出すことになった。

たった一匹だけ生き残った怪獣の種族ゴジラが水爆実験で目覚めて現代社会の都市を破壊するという「抵抗」は香山が創造した人間側のキャラクター芹沢 大介とパラレルな関係となっている。芹沢博士は太平洋戦争で顔面に大きな傷を受け、人目を避け自分の実験室に閉じこもり社会と隔絶された世界で黙々と研究 を続けている。水中酸素破壊剤「オキシジェンデストロイヤー」を発明するが国家が兵器に転用されるのを恐れ隠していたという設定である。これが最終的にゴ ジラを抹殺する最後の切り札として使われるのだが、ゴジラと共に芹沢は命を自ら絶つ。

香山の『ゴジラ』におけるメッセージは原始社会における少数種族と現代社会における少数の非適合者の抵抗と滅亡である。だからこそ、『ゴジラ』は悲 劇として幕を引く。芹沢への哀悼は、また同時にゴジラへの哀悼でもあった。原始と現代のマイノリティーの抵抗と滅亡こそが『ゴジラ』の主題とも考えられ る。これは『ゴジラ』に続く香山の原作による『獣人雪男』で滅亡を余儀なくされている雪男と、東北の高山集落に住む娘チカの関係にも当てはまる。この両者 に共通するのは現代を現在と認識している我々との時間から零れ落ちた者たちという点である。

 

田中友幸のスタッフ人選の幸運なミスマッチはさらに続く。音楽を担当した伊福部昭という人選である。1982年頃、筆者は伊福部昭を訪ね『ゴジラ』 の音楽担当の経緯を尋ねたことがある。伊福部はとにかく大きな音を作れるお化け映画の音楽にはぴったりの作曲家がいるということで選ばれたのだと思うと 語った。しかし、経緯が些細な理由であるにせよ、伊福部の『ゴジラ』への起用は偶然にも香山滋の主題を強化する効果を与えた。

伊福部は北海道のアイヌ民族と交わって育ったという経験があり、純音楽作品(映画音楽でないという意味での)では『シンフォニア・タプカーラ』『ア イヌの叙事詩に依る対話体牧歌』など、多くのプリミティヴな少数先住民族を主題とした作品を送り出している。映画『ゴジラ』におけるゴジラと芹沢が死んで ゆくシーンの音楽とエンディングのメロディーは同じものである。この旋律は1950年の関川秀雄監督の『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』で既に使用され、1954年の『ゴジラ』を挟んで1958年にアイヌ研究家であり詩人でもあった更科源蔵の北方少数民族の滅びを謡っ た詩『オホーツクの海』の歌曲化でそのまま転用されている。さらにこの旋律は市川昆監督の映画『ビルマの竪琴』での主題ともなった。

時代と祖国によって捨てられた戦死者への鎮魂、原始時代と現代社会から捨てられた怪獣と科学者への鎮魂、さらに北方先住民族の滅亡への鎮魂。伊福部の『ゴジラ』での音楽設計はまったくブレのない「時代」と「社会」への「抵抗」そのものであったのだ。

香山滋は『ゴジラ』、『ゴジラの逆襲』、『獣人雪男』の3作品の原作を書き、『地球防衛軍』の潤色に携わった後は空想科学映画や怪獣映画から一切身 を引いた。ゴジラ作家のレッテルが付きまとい、その後の香山の作家活動にも暗い影を落とすことになる。香山は『ゴジラざんげ』というエッセイを残してい る。ゴジラの人気に戸惑いを感じる香山の当時の心境がよく分かる。その結びにはこうある。

 

だからぼくは「ゴジラの逆襲」を最後に、たとえどんなに映画会社から頼まれても、続編は絶対に書くまい、と固く決心している。

若し書くとすれば、それは、原水爆の象徴としてではなく、別の意味の「ゴジラ」として生まれかわらせる外には、絶対に今後姿をあらわすことはな  い。

 

反核映画として書き始めた『ゴジラ』は香山のテイストであったマイノリティーへの悲哀が忍び込んだ。しかし、時代に抵抗して滅びたゴジラに対して 人々の共感を生んでしまったことに香山は気が付いていたのだろうか。結びの「別の意味の「ゴジラ」は元来、香山が描き切りたかった「時代への抵抗」のゴジ ラだったのだろう。

 

香山が去っても怪獣映画は残った。その後、連作される東宝の怪獣映画は脚本家の手にゆだねられた。香山の主題は政治的な主題と同化されて行くように なる。日本共産党員だった左翼系作家、木村武によってそれは受け継がれる。それはやがてテレビ時代へと「抵抗」の文化装置としての怪獣映画は1970年代 後半まで延々と続いてゆくのである。



 

「起来!不愿做奴隶的人们!

把我们的血肉、筑成我们新的长城!」

 

「立て!奴隷となりたくない者たちよ!

我らの血と肉で新しき我らの長城を築け!」

 

上海は満州事変が始まるまで日本と中国の重要な文化の交差点であった。しかし、満州事変、第一次上海事変、やがて日中戦争へ繋がる日中の悲劇は上海 での日中文化交流の友愛も引き裂くことになる。中国の若き文化人たちはこぞって日本へ留学し、そこで日本の芸術や文芸の仲間と交わった。日本に留学した学 生たちは中国へ帰国し、上海を起点に文化活動を開始した。左派の芸術家たちは文芸への民衆への伝道の限界を感じ、演劇活動で自分たちの理想社会の建設を目 指して必死に活動した。それはやがて映画という形に発展してゆく。 日本留学経験を持つ、演出家、許幸之と作家の田漢はある一本の映画を作った。題名は 『風雲児女』。1935年のことである。

映画の冒頭から高らかに流れる行進歌『義勇軍行進曲』。その歌い出しの一部が上に挙げたものである。

映画『風雲児女』は東方部出身の男女が上海で貧しいながらも夢を実現させようと生活をしている。貧しいといっても上海のモダンな環境の中で彼らは芸 術に触れ、将来芸術家を目指している。しかし、残酷な歴史の歯車は回り、日本軍の満州侵略が開始される。やがて彼らは日本と戦う抗日遊撃隊に志願する。進 軍ラッパとともに『義勇軍行進曲』を歌いながら夜の闇の中を義勇軍は隊列を組んで消えてゆく。この映画自体はそれほどよく出来たものではない。物語自体は あまりにも凡庸で退屈である。俳優の演技も良くはない。撮影や編集の技巧も特に見るべきものはない。しかし、上海のすっきりしたモダンな風景の中からラス トの一転して野戦へ向かう義勇軍行進のシーンは鮮烈な印象を与える。勇ましいとも感じられるし、悲壮とも感じられる。青春を謳歌するよりも銃を手にとって 日本と戦う道を若者に選ばせる「侵略戦争」の残酷さを感じさせる。しかし、当時、中国では抗日への機運を奮い立たせるものだったのだろう。 『風雲児女』 は中国初の本格的な抗日映画だった。映画は中国でたいへんな話題と人気となり、主題歌の『義勇軍行進曲』は抗日の歌として中国全土で歌われるようになっ た。やがて、戦後、中華人民共和国が建国されるとこの歌は「国歌」として制定された。 この曲の作詩と映画の脚本を書いた田漢は文化大革命で反革命分子と され、歌詞は封印された。しかし、現在ではまた公式に歌われることとなった。

新中国を作ろうと日本へ留学した青年たちが日本の左派知識人たちと交わり、やがて、上海に集結し、皮肉にも抗日映画の第一号を作ることとなる。

現在、中華人民共和国で歌われている国歌が「抗日」の歌であるなど日本で知る者はそんなには多くはないだろう。しかし、中国人にとって日本によって 自分たちの国土が侵された衝撃はやはり、忘れられないものに違いない。『風雲児女』の主題歌『義勇軍行進曲』が国歌として歌い続けられる限り、我々はその 歴史を振り返るべきなのではないだろうか?


学徒のつぶやき

昭和17年9月20日初版発行、金城出版社刊、大林清著『撃滅の朝』。戦意高揚のための戦時小説集である。表題作『撃滅の朝』の他に 10遍の短編小説が収められたアンソロジー集。最後の11篇目が『サヨンの鐘』である。『サヨンの鐘』については僅かながらも日本でも研究があって、参考 文献や資料ノートのようなものも論文検索サイトにも存在している。しかし、不思議と現在まで大林清の『撃滅の朝』は取り上げらている例は発見出来ていな い。どうしても歌謡曲『サヨンの鐘』と映画『サヨンの鐘』へ視点が行きがちだからであろうか?著者の大林清は調べてもなかなか詳細がわからない。自宅には 国文学の資料は圧倒的に少ないのでまた大学ででも調べてみようと思う。


大林清(1908年 - 1999年)慶應義塾大学仏文科中退後、作家として活動を始め主に大衆小説の作家ととなった。デビュー当初から愛国戦時小説の類が殆どである。かなり多作 で「少女倶楽部」などにも愛国小説を書いている。戦後も大衆小説、伝記作家として活躍したが振るわず、むしろ映画のシナリオ作成のためのシノプシス(通 常、邦画では原作と呼ばれる)にむしろ有名な作品がある。高峰三枝子主演の映画『情熱のルンバ』などがその良い例だろう。シノプシスがどの程度のものだっ たかはわからないが、当時の映画原作は出版に耐えるようなものではなかった。大林は4回の直木賞のノミネートを受けたが受賞には至らなかった。

 

問題の小説『サヨンの鐘』は蕃社リヨヘン社の警官兼小学校教員の瀧田と、その上司の娘、内地から父を連れ戻しにやってきた師範出の才女、久美子との 物語となっている。サヨン遭難事件が物語のクライマックスだが、サヨンは冒頭と最後にしか登場せず、キャラクター描写が皆無に等しい。

先住民タイヤル族への教育への情熱を持っている瀧田は内地での幸福を願う婚約者との縁を破談にして、リヨヘン社での職務に専念する。そんな中、リヨ ヘン社にやってきた上司の娘、久美子がやって来た。滝田のタイヤル族の子共たちへの熱心な教育の態度に久美子は感動するが、内地を中心に考える久美子の教 育論の衝突する。瀧田は久美子に惹かれながらも内地のことだけしか考えない婚約者と同じ久美子に反発も覚えるのだ。、

瀧田の出征とその下山でのサヨン遭難によって久美子は心動かされ、リヨヘン社に留まりそこで蕃社の小学校の教員になる。久美子は瀧田の帰りをここで 待っているのだ。三年後、瀧田の婚約者だった女性がサヨンの物語が内地で話題になったことがきっかけで初めて瀧田の心を知り、サヨンの墓参りにやってく る。彼女は親が決めた縁談で内地で結婚が決まったのだ。久美子は彼女とともにサヨンの墓に行き、総督府から贈られたサヨンの鐘を突き、その音色を聴く。  この物語を一読すれば、救いようがないほど歪んでいる事がわかる。

 

小説の主題は「内地」女性の「外地」への無関心さである。この物語は滝田、久美子、元婚約者の女性のメロドラマに見えるがそうではない。サヨン、久 美子、婚約者の3人の女性の物語である。瀧田の婚約者は蕃社であるリヨヘン社までも来ようとはしない。久美子は父を内地に連れ戻すために台湾のこの深山ま でやって来た気丈夫な女性だ。サヨンは瀧田を師として敬う快活な少女。久美子と婚約者のあいだには「外地」よりも「内地」での生活が日本人にとって大切で あるということでは共通している。その「内地」と「外地」の差異は「民族と血」の問題であり、その優劣である。

瀧田は久美子に言う。

「今では次の時代の高砂族を内地人に伍して行ける國民にしようと一生懸命なんですよ。これは内地人の子共を立派な國民に育て上げるのと、同等のやり 甲斐のある仕事だと思ひますね。いや、十五萬の高砂族、五百萬の本島人、この台灣民族を立派に皇民化できたらマイナスをプラスにするんだからもっと立派な 仕事と云えるかもしれません。」(296頁)

対して久美子は瀧田に言う。

「ご理想は大変結構ですわ。でもわたくし、民族の血と云ふものは、とても教育で變へられるもではないと思ふんですの。だからこそ、独逸人はゲルマン民族の血をあんなにに尊ぶんぢゃないででしょうか?」(297頁)

久美子がここでナチスの教義である「土地と血」の問題を唐突に持ち出すのは奇異ではある。土地と民族と血は不変であるというのはナチの御用学者アル フレート・ローゼンベルクの著者には必ず出てくる思想だ。久美子の思想も民族の優秀性は血が決定しているものであり、教育がごとき小細工では変えられない と言っているのである。婚約者の「内地」への拘りは個人的な幸福を追求したもの、久美子の「内地」への拘りは「外地」への皇民化はもとより価値がないとし たものである。瀧田はそれに対して「外地」の皇民化を尊重している。サヨンは出征する滝田のために自らの命を落としたのである。はるかに皇民としては久美 子と婚約者をサヨンは優っていた事が示された。


久美子と婚約者はサヨンの墓に詣でることによってサヨンを悼むがそれは同時に瀧田の皇民化教育への軽視、あるいは内地中心の幸福に対する自戒を示したことにもなる。

『サヨンの鐘』にはサヨンは必要はない。誰であってもいい。出征する恩師のために命を落とす皇民化された外地人であれば誰でも良いのだ。だから小説 の中でもサヨンの個人的な魅力の描写は不要である。民族としての彼女の魅力を描くことは逆に瀧田の「皇民化」の理想を否定することになってしまう。

タイヤル族であっても、日本人の出征教師のために命を捧げたという本人の意思とは関係ないところで存在する事実さえあれば良いのだ。それによって内 地と外地の意識のズレを最小化する。サヨンは戦時政策の絵に描いたような歪んだ象徴だ。物言えぬものが為政者の道具となるのはいつの時代も同じかもしれな い。


湘南市(シンガーポール)市長だった大達茂雄は東京都長官に就任するや、内地人には前線の深刻さがないと、上野動物園の動物の「戦時猛獣処分」を命じた。動物園の必死の努力で象を仙台動物園へ疎開が決まったにもかかわらず大達茂雄は「動物を殺すこと」に拘った。

サヨンの事故死と象の殺害。その後やってくる「美談」。その「祭り」で人心を制御せんとするところは同じである。

 

大林清の『サヨンの鐘』は文学として何の評価もできない奇怪な作品だ。ただ、サヨンの「本当の在り方」を図らずも露呈してしまった記録なのかもしれない。




学徒のつぶやき

 『セデック・バレ』の国際版がアメリカから届いたので今日は鑑賞した。オリジナルの台湾版は前後編で4時間を超えるが国際版は150分と約半分で短い。
 そのため映画としての深みが無くなってしまったのは残念。ラスト近く、日本軍が霧社の密林へ野砲の集中砲撃を加えて火の海にする。タイヤル蜂起軍を撃退したと思っている日本軍に向かって、火の中からモーナ頭目たちが吶喊するシーンは何故か涙が止まらない。戦争映画はずいぶんとたくさん観た。観てない作品が少ない方だが理由もなく涙した作品はこれが初めてだった。

 焼かれた密林で火のついた木の葉が舞うのを仰向けになったままの負傷日本兵が「ああ、きれいだ」とつぶやくシーンは印象的。最初の方でタイヤルに殺される直前に調査隊の日本人兵士が「櫻が紅くてきれいだ」とつぶやくシーンとこれは呼応している形になってるんだね。

この監督さんはやはりすごい。

執筆:永田喜嗣

「(彼女らは)自分の弁護に役立つ真相のみを陳述しているにすぎないのです。では真相とはなんでしょう?第三者が語る真相が果たして真 相でしょう か?人間誰しも自分の立場を優位にするために細心の注意を払う、つまりエゴイストであります。したがって彼らの述べる真相は決して真相ではないはずです。 (略)裁判と言うものはあくまでも客観的な活動であります。しかし、犯罪においては客観的な真相などと言うものはあり得ないからです。現実の人間社会にお いては真相らしきものが真相なのです。」(映画『神坂四郎の犯罪』より)

 

昔、人気のテレビ番組で『知ってるつもり?』というのがあった。有名な人物を取り上げて再現ドラマや証言を交えながら紹介する偉人ドキュメンタリー

だが、ドキュメンタリー部分がTVドラマ脚本家の佐々木守が構成を担当していたのでドラマティックでセンチメンタルな感は拭えないなあと記憶してい る。またドキュメンタリーの途中で挿入される関口宏が司会でゲストの俳優や歌手がその人物にコメントする部分にはいつも軽い嫌悪感を感じていた。確か専門 家が毎回招かれていたが、専門家が話すと番組的には「面白くない」発言にしか見えなかった。今から考えれば専門家の話が面白くないのは世間で真相と言われ ているものから距離を置いているので視聴者の期待には応えてくれないからだったのかもしれない。

偉人を考えるのは難しい。偉人に対してはやはり世間は特異性を見つけ出して強調し、そこに「すごいよね」という言葉で超人化させる。

でも、実は偉人の周辺を探ると逆にその凡庸さに驚かされて「すごいよね」が揺らいでしまう。

 

15年ほど前、『魏志倭人伝』をもじって『ナチ駄人伝』という題名で文章を書き綴り始めたがやめてしまった。何故なら調べれば調べるほどにその人々 に駄人と言えない部分が出てきてとても書けなかったからだ。それより以前、学部制時代にドイツ文学の老教授が「ヒトラーは良い人だった」と言うので僕は開 いた口が塞がらなかった。「危ないことをいう人だ」と思ったのだが、話を聞けばこの人の師匠の父がベルリンの日本大使館付の外交官だったそうで、子供だっ たその師匠は何回かヒトラーと会い非常に可愛がられたというのである。ヒトラーの腕に抱かれ、笑顔でお菓子をくれたという。アーリア人でもない日本人の子 供、その老教授の師匠にとって20世紀最大の犯罪者は個人的には優しいOnkelだったのだ。しかし、こういう話を聞くと誰しもが「違和感」または「反 発」を感じるに違いない。

別にナチスを良かったと言いたいのではない。弁護する気もない。客観視してもやはり、神坂四郎が言う様に「現実の人間社会にお いては真相らしきものが真相」でしかないという事を考えるだけだ。

 

太平洋戦争が終わった後、服部良一は軍歌を書かなかった作曲家としてマスコミから「体制へ抵抗した」と評されたことがあったと何かで読んだことがある。でも、本人はマーチは苦手だっただけだと答えて依頼が来なかっただけと答えたそうだ。

 

ベルリンでほうき工場を経営していたオットー・ヴァイトは約30名の身体障碍者のユダヤ人を雇っていたが彼らが強制収容所へ送られるのを阻止し続け、身銭を切って親衛隊やゲシュタポに賄賂を贈り続けた。彼は今では「ベルリンのオスカー・シンドラー」と呼ばれている。

 

ジョン・ラーベが25万人の中国人を日本軍の魔の手から守ったという偉人伝はアイリス・チャンによってナチ党員なのに善行を働いた「英雄~中国のシ ンドラー」とされた。しかも、ラーベがナチズムを社会主義と誤解していたという主張でラーベの「立場を優位するために」彼の思想的立場を書き加えた。対し てドイツの作家エルヴィン・ヴィッケルトはラーベはナチス党員であって国家社会主義者であって、善行は道徳観とキリスト教的な責任感からだと位置づける。 いずれにせよラーベは「聖人」あるいは「英雄」である。政治的視点が違うだけだがそれは「真相らしきものが真相」ということであって、真相ではない。

私自身はこの二人の言説を照らし合わせてラーベと言う人をもう一度、考え直した。その人間の凡庸さも含めて。自分なりの結論は出ていたはずだが、こ の少々ずれた「凡庸な奇人」を「南京のシンドラー」ではなく「南京のドンキホーテ」と位置付ける私の考えもまた真相ではないのであって、結論へいたろうと する私自身もチャンやヴィッケルトがやったこととレベルの違いこそあれ、その底流はまた同じなのかも知れない。

今、自分の結論の否定を結論とするしかない思いがあってそれが結論なのかもしれない。

 

修士論文の結論は自分で予想していた以上にさらに凡庸な結論になるだろうと思う。

 

真相は神坂四郎にしかわからない。その神坂四郎でさえ自分の真相は真相ではないのかもしれないと言っている。

 

歴史研究が裁判なら、神坂四郎はこう言っただろうか?

 

「(歴史家は)自分の研究に役立つ歴史のみを陳述しているにすぎないのです。では歴史とはなんでしょう?第三者が語る歴史が果たして歴史でしょう か?人間誰しも自分の立場を優位にするために細心の注意を払う、つまりエゴイストであります。したがって彼らの述べる歴史は決して歴史ではないはずです。 (略)研究と言うものはあくまでも客観的な活動であります。しかし、歴史的事件においては客観的な歴史などと言うものはあり得ないからです。現実の人間社 会にお いて歴史らしきものが歴史なのです。」

日本と中国の間では戦時中、双方から愛された歌があった。『何日君再来』や『夜来花』が最も有名な例かもしれない。この二曲は今でも日 中両国で歌われる数少ない戦時歌謡だ。敵味方双方に愛されたという『リリー・マルレーン』を思わせる『何日君再来』は同様の歌手を巡るドラマがある。 台 湾においては『サヨンの鐘』が今も『月光小夜曲』として歌い継がれている。

『サヨンの鐘』の物語は、1938年の史実に基づく。台湾の高山 地帯、台湾原住民タイヤル族の蕃社で勤務していた教師兼警官の山田巡査に召集令状が届く。出征する恩師の下山を手伝うために悪天候下、同行して濁流に呑ま れ一命を落としたタイヤルの娘サヨン。この物語を忠君愛国の物語として歌謡曲にされた。歌唱は渡辺はま子で発売は1942年。実際のサヨンの遭難事件から 4年も経ていたが、1941年に勃発した太平洋戦争のために日本と台湾の連携、および皇民意識の強化が不可欠だったためのプロパガンダである。

 

以下、その歌詞をメモしておく。

 

嵐吹きまく 峯ふもと

ながれ危うき 丸木橋

渡るは誰ぞ うるわし乙女

紅きくちびる ああサヨン

 

晴れの戦に 出てたもう

雄々し師の君 なつかしや

担う荷物に 歌さえ朗ら

雨はふるふる ああサヨン

 

散るや嵐に 花一枝

消えて哀しき 水けむり

藩社の森に 小鳥は啼けど

何故に帰らぬ ああサヨン

 

清き乙女の 真心を

誰か涙に 偲ばざる

南の島の たそがれ深く

鐘は鳴る鳴る ああサヨン

 

おそらく日本では全く忘れ去られてしまったこの西條八十作詞、古賀政男作曲による名曲『サヨンの鐘』は台湾では今でもスタンダード曲あるいは老歌(懐メロ)として好んで歌われている。

『月光小夜曲』の復活は1960年代、諸説があって誰が歌い始めたのかは定かではない。ただ、この頃から、台湾での人気歌手、鳳飛飛、蔡琴、費玉清らがレコーディングして発売している。

台 湾では原住民(高山民族)、内省人(台湾語を母語とする漢族)、外省人(北京語を言語とする蒋介石と落延びた漢族)の3つのグループに分けられる。歌謡曲 では公用語の国語(グオユィー、中国の北京語にあたる)言葉で歌われる国語歌と、台湾語で歌われる台歌に分けられる。最新のヒット曲でもこの二つの住み分 けは行われている。

『月光小夜曲』は国語歌である。タイトルも内容も『サヨンの鐘』とは違う。メロディーのみが古賀政男のものであるというだけである。歌詞は中華民国の作曲家、周藍萍が1963年頃書いたものらしい。この辺も判然としておらず、謎が多い。

周藍萍の作曲作品リストに『月光小夜曲』が入っているのを見かけることがある。作詞・作曲:周藍萍となっている場合や、古賀政男の名を記さず、日語原曲となっている場合もある。周藍萍の作曲とする記述は、意図的なものか誤記なのかは分からない。

周藍萍が大陸から台湾に来たのが民国三十八年(1949年)だから、周藍萍の作曲であったとは考えられない。

『サヨンの鐘』は1942年に台湾では繁盛に歌われていたのだし、この歌の作曲者は古賀政男であろう。

ただ、考慮に入れなければいれないことがある。古賀政男は満州に取材に行った際に満州での流行歌を持ち帰りでレコード化している。(任光作曲:『南の花嫁さん』)この際、作曲が古賀政男とされることが多かった。本来は編曲とすべきだろう。

 

以下は『月光小夜曲』の一番の歌詞である。

 

月亮在我窗前蕩漾 透進了愛的光芒

我低頭靜靜地想一想 猜不透你心腸

好像今晚月亮一樣 忽明忽暗又忽亮 啊......

到底是愛還是心兒慌

啊....月光

 

(訳)

窓辺に月の光がゆれている。

愛の光が差し込んでいる

私はうなだれ、そして思い巡らす

あなたの見えない胸の内を

それはまるで今夜の月のように

明るくなれば暗くもなる ああ、

そして、最後に愛は心をかき乱す。

ああ、月光(ユエグァン)

 

日本語の音節の関係でどうしても中国語の方が歌詞の内容が多くなる。

内容はサヨンとは全く関係がない。

 

この他に台湾語の歌詞による『沙容(サヨン)』がある。(国語ではサヨンは沙韻となる)

この歌詞は西條八十の『サヨンの鐘』の原詩に忠実に訳したもの。

もちろん歌う事が可能だ。

現在、台湾でリリースされている「台語老歌」のCDで『月光小夜曲』のタイトルは見られるが、歌詞が『沙容』のものかどうかはわからない。少なくとも『沙容』の題名での録音が存在しても現在はCDで聴くのは難しい。

 

また時間があったら、この歌に関して調べてみたい。