戦後、東宝映画をリードした名プロデューサー、田中友幸が日本初の怪獣映画の製作を決定した時、そのシノプスを田中自身もファンであっ た推理小説作家、香山滋に依頼した。香山は1946年に『オランペンテグの復讐』で推理小説雑誌『宝石』の懸賞で入選し、次作『海鰻荘奇譚』が日本探偵作 家クラブ賞を受賞し、1949年には職業作家としてデビューした新進気鋭の探偵小説作家だった。香山の作品はプリミティヴな素材、原始博物的なムードに怪 奇と妖艶さを加味した、一言では説明できない小さな奇談が多かった。その香山に壮大なスケールな怪獣映画の原作を依頼したのは田中友幸の嗅覚のなせる業で はあったかもしれないが、これは明らかに幸運なミスマッチな人選であったと考えられる。尤も、戦中、戦後において我が国では空想科学小説、探偵小説、怪奇 小説の境界線は不明瞭であった。『火星兵団』の海野十三といった作家のスタンスの延長線上に香山滋もあったのである。
ともかく、日本で最初の怪獣映画『ゴジラ』の原作を書くのは香山滋になった。香山の視点は彼の作品の主題でもある滅びの種族からのものだった。小説 『妖蝶記』や『ゴジラ』の後に続いた映画原作小説『獣人雪男』も滅びゆく種族の抵抗がその主題だった。時代に取り残され、新しい社会のシステムに適合でき ず孤立して滅亡して行く種族の悲哀が香山の作品の魅力でもあるのだ。原始怪獣という設定が香山とゴジラを田中友幸の構想の中で結びつけられたのだろうが、 このミスマッチは日本における「抵抗としての怪獣映画」という日本特有の特徴を生み出すことになった。
たった一匹だけ生き残った怪獣の種族ゴジラが水爆実験で目覚めて現代社会の都市を破壊するという「抵抗」は香山が創造した人間側のキャラクター芹沢 大介とパラレルな関係となっている。芹沢博士は太平洋戦争で顔面に大きな傷を受け、人目を避け自分の実験室に閉じこもり社会と隔絶された世界で黙々と研究 を続けている。水中酸素破壊剤「オキシジェンデストロイヤー」を発明するが国家が兵器に転用されるのを恐れ隠していたという設定である。これが最終的にゴ ジラを抹殺する最後の切り札として使われるのだが、ゴジラと共に芹沢は命を自ら絶つ。
香山の『ゴジラ』におけるメッセージは原始社会における少数種族と現代社会における少数の非適合者の抵抗と滅亡である。だからこそ、『ゴジラ』は悲 劇として幕を引く。芹沢への哀悼は、また同時にゴジラへの哀悼でもあった。原始と現代のマイノリティーの抵抗と滅亡こそが『ゴジラ』の主題とも考えられ る。これは『ゴジラ』に続く香山の原作による『獣人雪男』で滅亡を余儀なくされている雪男と、東北の高山集落に住む娘チカの関係にも当てはまる。この両者 に共通するのは現代を現在と認識している我々との時間から零れ落ちた者たちという点である。
田中友幸のスタッフ人選の幸運なミスマッチはさらに続く。音楽を担当した伊福部昭という人選である。1982年頃、筆者は伊福部昭を訪ね『ゴジラ』 の音楽担当の経緯を尋ねたことがある。伊福部はとにかく大きな音を作れるお化け映画の音楽にはぴったりの作曲家がいるということで選ばれたのだと思うと 語った。しかし、経緯が些細な理由であるにせよ、伊福部の『ゴジラ』への起用は偶然にも香山滋の主題を強化する効果を与えた。
伊福部は北海道のアイヌ民族と交わって育ったという経験があり、純音楽作品(映画音楽でないという意味での)では『シンフォニア・タプカーラ』『ア イヌの叙事詩に依る対話体牧歌』など、多くのプリミティヴな少数先住民族を主題とした作品を送り出している。映画『ゴジラ』におけるゴジラと芹沢が死んで ゆくシーンの音楽とエンディングのメロディーは同じものである。この旋律は1950年の関川秀雄監督の『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』で既に使用され、1954年の『ゴジラ』を挟んで1958年にアイヌ研究家であり詩人でもあった更科源蔵の北方少数民族の滅びを謡っ た詩『オホーツクの海』の歌曲化でそのまま転用されている。さらにこの旋律は市川昆監督の映画『ビルマの竪琴』での主題ともなった。
時代と祖国によって捨てられた戦死者への鎮魂、原始時代と現代社会から捨てられた怪獣と科学者への鎮魂、さらに北方先住民族の滅亡への鎮魂。伊福部の『ゴジラ』での音楽設計はまったくブレのない「時代」と「社会」への「抵抗」そのものであったのだ。
香山滋は『ゴジラ』、『ゴジラの逆襲』、『獣人雪男』の3作品の原作を書き、『地球防衛軍』の潤色に携わった後は空想科学映画や怪獣映画から一切身 を引いた。ゴジラ作家のレッテルが付きまとい、その後の香山の作家活動にも暗い影を落とすことになる。香山は『ゴジラざんげ』というエッセイを残してい る。ゴジラの人気に戸惑いを感じる香山の当時の心境がよく分かる。その結びにはこうある。
だからぼくは「ゴジラの逆襲」を最後に、たとえどんなに映画会社から頼まれても、続編は絶対に書くまい、と固く決心している。
若し書くとすれば、それは、原水爆の象徴としてではなく、別の意味の「ゴジラ」として生まれかわらせる外には、絶対に今後姿をあらわすことはな い。
反核映画として書き始めた『ゴジラ』は香山のテイストであったマイノリティーへの悲哀が忍び込んだ。しかし、時代に抵抗して滅びたゴジラに対して 人々の共感を生んでしまったことに香山は気が付いていたのだろうか。結びの「別の意味の「ゴジラ」は元来、香山が描き切りたかった「時代への抵抗」のゴジ ラだったのだろう。
香山が去っても怪獣映画は残った。その後、連作される東宝の怪獣映画は脚本家の手にゆだねられた。香山の主題は政治的な主題と同化されて行くように なる。日本共産党員だった左翼系作家、木村武によってそれは受け継がれる。それはやがてテレビ時代へと「抵抗」の文化装置としての怪獣映画は1970年代 後半まで延々と続いてゆくのである。