第二次世界大戦はいつ起こったか?その起点問題の定説は1939年9月1日のドイツのポーランド侵攻からである。その終結は日本のポツダム宣言受諾による1945年8月15日である。
しかし、中華人民共和国での研究者の一部では異なった見解が示されている。
日本で「満州事変」と呼称される1931年9月18日に勃発した柳条湖事件を、あるいは1937年の盧溝橋事件を端に発する「支那事変」の発端 となった盧溝橋事件のいずれかを第二次世界大戦の起点とする説である。1985年に「中国・国際戦略研究基金会」が発刊した『中国版 対日戦争史録』によ れば1980年代に中国では柳条湖事件を第二次世界大戦の起点とする説を提起する一部の学者が存在するも、国際的な見解では1939年9月1日のドイツに よるポーランド侵攻をその起点としているのが大勢であると記している(同書34頁)。
中国の歴史学者、张培义は1980年の『山东师范大学学报』でこの問題を取り上げており、1979年7月7日に開催された初の中国全国規模の「第二次世界大戦史学術討論会」でのそれぞれの見解を紹介している。
中国の一部の学者の解釈は次の点である。
日中戦争は1935年のイタリアのエチオピア侵攻や1936年のスペイン内乱の様に比較的期間が短く解決した。対する日中戦争は1937年から大戦集結まで続いた。
日中戦争は第二次世界大戦が反ファシズムの戦いであるとするならば、その圏外に置くことはできない。
1939年のドイツのポーランド侵攻に至るまで、日中戦争に列強が何らかの形で加わっていた。
以上の理由から第二次世界大戦の起点は1937年の「盧溝橋事件」だとする説が妥当であるとしている。
確かに第二次世界大戦終結まで「日中戦争」は継続しており、早くからアメリカやイギリスが経済制裁などで介入していた。軍事への人的援助などを見て も中華民国空軍に送られたアメリカ陸軍パイロット志願兵(軍から離籍)と米国製戦闘機によるAVG(アメリカ義勇団・フライングタイガース)などは非公式 な米国の日中戦争への軍事介入だった。しかし、日中戦争は当時、日本が「支那事変」とか「日華事変」と呼んでいたように「戦争」ではなかった。盧溝橋事件 という地域紛争が上海に飛び火し、さらに第二次上海事変となり、支那事変となった。日中双方とも互いに宣戦布告を行っていない。地域紛争の限りない拡大し たものが日中戦争であり、蒋介石が日独伊に宣戦布告したのは太平洋戦争勃発の翌日、1941年12月9日となる。奇妙な話だが中国が第二次世界大戦に参加 した起点はここからと考えられる。しかし、実質、欧州と中国では1939年以来、血みどろの戦闘が行われていた。仮に宣戦布告がなかったとしても1939 年の時点で日中戦争が第二次世界大戦の範疇に入らないというのも不自然ではある。
いずれにしても、これは紙の上の論議でしかない。しかし、日中戦争を取り扱う場合この起点問題は見逃せない問題である。南京事件についての書『ザ・ レイプ・オブ・南京』(アイリス・チャン著)の記述の様に揚子江における米砲艦「パネー号」を日本海軍航空隊が誤爆沈した「パナイ号事件」を計画的な対米 抗撃と匂わすような表現は読者に誤解を与える可能性がある。第二次世界大戦起点問題は区分の問題でなく、各事件の性質の違いを明確にするためにも重要な事 項であるかと思う。