「日本人は美しい花を造る手を持ちながら、いったんその手に刃を握るとどんな残酷極まりない行為をすることか。」

 

怪獣映画における「抵抗」の主題は木村武脚本による東宝映画『マタンゴ』(1963年本多猪四郎監督)で頂点を極めたが、その後1965年以降は TVドラマの普及によって、同じ東宝系の流れをくむ円谷プロダクションのTV番組にそれは引き継がられる。沖縄出身の金城哲夫、上原正三、革新派の佐々木 守という三人の異色の作家によって次々と傑作が生まれた。

 

恐らくウルトラマンのシリーズで未だ最高傑作と呼べる作品は『帰ってきたウルトラマン』の第33話『怪獣使いと少年』だろう。在日コリアン問題を病 に倒れた宇宙人とそれを守る孤児の少年を絡めた物語。沖縄人というアイデンティティを持つ上原正三の脚本だが、彼の少数派の抵抗という主題は東條昭平とい う若手の監督によってさらに先鋭化された。当時、これでは放送出来ないと撮り直しまで迫られたのは有名な逸話だ。

すでに語りつくされた感のある、本作品だが冒頭に挙げたセリフについては言及されたことがない。

セリフが示す通り「日本人」がこの作品のテーマなのだが、その部分については評論する者は意識しないのか底流にある「差別問題」のみに目を奪われが ちだ。沖縄人への差別を在日コリアン差別に写し、さらに宇宙人差別あるいは敵視へ持って行った上原正三の発想は誰もが恐らく簡単に読み取れることだろう。 しかし、東條昭平はそれでは許さなかった。地球人と宇宙人という二極化した敵対関係ではなく日本人と宇宙人という二極化によって日本人を批判することに執 着したのだろう。これは「抗日」以外の何物でもない。

 

セリフは宇宙人だと噂されて差別と迫害にあっている佐久間良少年を救う様に郷秀樹隊員(団次郎)が伊吹隊長(根上淳)から命じられるシーンの伊吹も のだ。ところが上原の脚本『キミがめざす遠い星』にはこのセリフはない。恐らく撮影段階で東條監督が付け加えたものだろう。脚本のでは他の隊員やレギュ ラー出演陣がすべて登場するが、映像化された作品は郷秀樹、伊吹隊長以外は中学生から少年への虐めを強要される傍観者として次郎君が登場するだけで、すべ て排除された。ストーリーはそのままだだが、登場人物が減少している。

MAT(モンスター・アタック・チーム)で事件に絡むのは郷隊員と伊吹隊長だけである。

 

なぜ、脚本にあったレギュラー陣が排除されたのか?そこからは単純な回答が導き出せる。

偽善的日本人は必要ないのだ。

上原正三の脚本中、レギュラー登場人物の一人、坂田建(岸田森)が郷秀樹に語る次のようなセリフががある。

 

「おれが小学校の頃、おれはアメリカ人との合いの子にされたことがある。おれがアメリカ兵に道を教えているのを目撃したやつがいいふらしたんだ。坂田は英語がペラペラだ。そういや鼻が高く日本人離れしている。目もどことなく青い・・・(苦笑)」

 

これは坂田建という日本人の体験の言葉だ。しかし、日本人にこうした差別体験を語らせることは許されない。差別や排除を普遍化することは日本人批判 をむしろ単純に薄めてしまうだけなのだから。何故ならこの作品が抵抗すべき敵は地球人ではなく日本人なのだから。『怪獣使いと少年』には物わかりのいい立 派で優しい日本人は必要とされない。むしろそれはこの作品の主題を曖昧にしてしまうのだから。

伊吹隊長と郷秀樹はもちろん、劇中では日本人である。しかし、伊吹隊長を演じる根上淳はオーストリア人を祖父に持ち、郷秀樹を演じる団次郎はドイツ 人を持つという「非日本人」的要素をもった俳優だ。坂田のセリフの様な「合いの子された」のではなく、「合いの子である」視点からしかこの迫害は語れな い。

上原の潜在的な願いである沖縄人と日本人の共生の希望的主題は東條が叩き壊して再構築してしまったのだ。

 

「日本人は美しい花を造る手を持ちながら、いったんその手に刃を握るとどんな残酷極まりない行為をすることか。」

 

このセリフの着想は単純に考えればベネディクトの『菊と刀』だ。しかし、映像作家、東條昭平が意識したのは恐らく柴田錬三郎の時代小説『剣鬼』の中 のエピソード『人斬り斑平』さらにはその映画化作品、1965年の三隅研次監督、星川清司脚本、市川雷蔵主演の『剣鬼』ではないだろうか?

出生のいわくから犬っ子と蔑まれた斑平が、人から蔑まれぬように一芸に秀でる技を身に着けよと養父の遺言によって花造りの技を会得し、その腕を見込 まれ登城を許される身となる。やがて、斑平は見知らぬ浪人から居合の技を伝授され、その腕前を見込まれて藩内に潜入する公儀隠密を切る人斬り役に抜擢され る。花と刃。どちらも斑平という一人の男なのだ。それが矛盾していないことがむしろ驚きなのではなく、日本人は本質的にそうなのである。抑圧を受けるも の、花を造るもの、人を斬るものが一人に集約された『剣鬼』は基本的に日本人を批判するものではない。斑平が併せ持った三つの存在から迫害される者を切り 離すことによって『怪獣使いと少年』は『剣鬼』より強い意味合いを持ってくる。本来、差別され敵視されリンチされるべきは宇宙人だが町の人々は佐久間良少 年を宇宙人と噂して迫害する。抑圧の外に宇宙人は枠外に置かれている。これは日本人の本質的な問題であると『怪獣使いと少年』は問いかけてくるのである。 差別という事柄から見るのではなく、日本人という自分たちの内面に目を向けることが最も最優先事項であるという主題なのである。

最終的に少年をかばうために病をおして群衆の前に「宇宙人は私だ」と名乗り出たメイツ星人、金山は警官に射殺される。

「日本人は美しい花を造る手を持ちながら、いったんその手に刃を握るとどんな残酷極まりない行為をすることか。」

斑平が持ち合わせた三つの「差別」「花造り」「人斬り」が融和しながら均衡を保っている日本人がその融和の葛藤から枠外へはみ出したとき、「残酷極 まりない行為」にいたる。それは明治維新以来の歴史を辿るべくもなく今も我々日本人が見つめなおさなくてはならない忘れられた課題なのだ。

日本人である少年は宇宙人の疑惑は晴れた。しかし、父とも慕うメイツ星人、「おじさん、金山」が殺されたことで、メイツ星人が地中に埋めて隠した宇宙船を探してシャベルで土を黙々と掘っているシーンでこのドラマは終わる。

宇宙船に乗ってメイツ星へ行くために・・・それは日本人でなくなるために・・・。

 

東條昭平はこの作品で干され、その後の作品でこの様な主題の作品は一切作らなかった。

 

私事だが、以前仕事で「子供たちのための国際理解講座」を行うため中学校を回っていた時、『怪獣使いと少年』を教材として使っていた。世代は違うと 言えど彼ら中学生はよく理解してくれていたと思う。内なるものへの批判はシステムにすっかり取り込まれる諦念の前に素直に受け取れるという事だろうか。

ウルトラマンというオブラードに包んだところで「それ」は変わらず動かない。

今の時代の作品にオブラードもなければ「それ」すらない。

 

今だからこそ、この作品はもう一度、見直さなければならないと思う。